Ⅶ たからもの
亡者の箱まで もがき上るは15匹/いっちょうグイッと ヨー。ホホー!
Fifteen men on a dead man’s chest
Yo ho ho and a bottle of rum
Drink and the devil be done for the rest
Yo ho ho and a bottle of rum『宝島』
他の連中は酒と悪魔が片付けた。ヨー。ホホー!もいっちょグイッと!
「宝島」に登場する海賊の歌「樽を転がせ」。
「亡者の箱(dead man's chest)」のモデルは西インド諸島かブエルトリコの南方にある島と言われている。前者は小さい島で、水もなけりゃ木もないので居住は不可能。後者は一応木も生物もいるが、何も無しで生きていくのはつらいだろう。スティーブンソン自身はCharles Kingsleyの『At Last: A Christmas in the West Indies』から着想を得たみたい。
「亡者の箱(dead man's chest)」のモデルは西インド諸島かブエルトリコの南方にある島と言われている。前者は小さい島で、水もなけりゃ木もないので居住は不可能。後者は一応木も生物もいるが、何も無しで生きていくのはつらいだろう。スティーブンソン自身はCharles Kingsleyの『At Last: A Christmas in the West Indies』から着想を得たみたい。
ジム・ホーキンズ
「宝島」に登場する主人公の少年。
ノンセンス
リドルの終わり
アケルが終わりはまだ先だと言ったのは、まだ10月だからだろう。
はじまりの物語・Ⅰ(1/1-1/7)を起点として、リドルが1年続くと考えれば、あと2ヶ月あることになる。
はじまりの物語・Ⅰ(1/1-1/7)を起点として、リドルが1年続くと考えれば、あと2ヶ月あることになる。
黒丸
本物
「あたし、本物よ!」
「それが本物の涙だと
思ってるわけじゃないだろうね?」伽子と都知事 『Forest』
自分は森に創られたキャラクターなどではない、リアルな存在である、とうったえる伽子の慟哭は、はからずも『鏡の国のアリス』のセリフと一致し、都知事けーこの応じるトウィードルダムとトウィードルディのセリフの引用を許してしまう。森の掌で踊らされていることを、証明してしまったわけだ。
この章では、『不思議の国のアリス』終盤の裁判劇を思わせながらも、実際には『鏡の国のアリス』で忘却の“森”に迷い込み、名前を失ってしまうアリス、というのが隠されたモチーフ。
この章では、『不思議の国のアリス』終盤の裁判劇を思わせながらも、実際には『鏡の国のアリス』で忘却の“森”に迷い込み、名前を失ってしまうアリス、というのが隠されたモチーフ。
可能無限、実無限
元々はアリストテレスによる無限の分類。
- 可能無限 (potential infinity)
「完結しない」無限。アリストテレス以来の伝統的概念で、直感的に無限といえば概ね可能無限を指す。書架から本を取り出しつづけても常に次の一冊があり、その数は確定されない。
- 実無限 (real infinity)
確定的な無限。アリストテレスは否定したが、集合論で復活した。このとき書架の本は全部でアレフゼロ冊と定義される。
もし永遠が存在するなら!
無限も認めなければならないんだ!
それは終わりを意味するんだ!
ゲーデルなんか地獄に堕ちたわ! 無限は実在するのよ!灰流と雨森『Forest』
「すべての物語が含まれる世界」は実無限の立場を取らなければありえない。「無限の物語ぜんぶ」という扱いにはそれが必要だ。有限でこそないが、終わりの実在も同時に定義されていることになる。
ただ灰流はどちらの無限も信じないように見えるので、正直なところこじつけだ。
ただ灰流はどちらの無限も信じないように見えるので、正直なところこじつけだ。
ゲーデルの名が出てくることについても無理やり小説に元ネタを探すと――CANNON BALLを前例と考えるなら――ルーディ・ラッカー 『ホワイトライト』 がある。SF作家かつアメリカ人なので今回の縛りにはそぐわないが。
c.f: Rudy Rucker fan site より ヒルベルト空間便り
c.f: Rudy Rucker fan site より ヒルベルト空間便り
黛生存の場合「古典的な数学観で記述できる実無限肯定派の世界観、といったところ? 古いなぁ」
と切り捨てられます。ただ、実のところ現代数学には両者が混在していて、「古典的」が何を指すのかよくわかりませんが、別に古かったりはせず、むしろ実無限の概念を一切導入していない数学観こそが古典的だといえるでしょう。要するに黛に異議あり。そして黛は作中唯一の理系頭脳。
『ホワイトライト』はやっぱり違うかも_| ̄|○|||
と切り捨てられます。ただ、実のところ現代数学には両者が混在していて、「古典的」が何を指すのかよくわかりませんが、別に古かったりはせず、むしろ実無限の概念を一切導入していない数学観こそが古典的だといえるでしょう。要するに黛に異議あり。そして黛は作中唯一の理系頭脳。
『ホワイトライト』はやっぱり違うかも_| ̄|○|||
上記解説への異論。
黛のセリフに排中律の単語が現れることから、「灰流と雨森」の対立を、まず「数理論理学(古典論理)と、それらを内包可能な数学的直観主義」になぞらえて、ひいては「近代文学とポストモダン文学」に置き換えた文脈として語っているとすると、より簡潔に捉えられるのではないかと思うがどうだろう。この場面での雨森自身は直観主義に届いてはいないが、灰流の絶望し硬直してしまった思考に比べると、無謀ながらも発展成長する萌芽を秘めているとは言えないだろうか。直後の場面の「古いわね」「あたし、まだ新鮮かな――」という雨森のつぶやきにもつながってくる。
黛のセリフに排中律の単語が現れることから、「灰流と雨森」の対立を、まず「数理論理学(古典論理)と、それらを内包可能な数学的直観主義」になぞらえて、ひいては「近代文学とポストモダン文学」に置き換えた文脈として語っているとすると、より簡潔に捉えられるのではないかと思うがどうだろう。この場面での雨森自身は直観主義に届いてはいないが、灰流の絶望し硬直してしまった思考に比べると、無謀ながらも発展成長する萌芽を秘めているとは言えないだろうか。直後の場面の「古いわね」「あたし、まだ新鮮かな――」という雨森のつぶやきにもつながってくる。
補記。
古典的な数学観ということで言えば、雨森のように素朴な無限の概念をそのまま導入すると、体系に矛盾が生じることが分かっている(自己言及のパラドックスの一種である「ラッセルのパラドックス」はその一例。この矛盾はゲーデルの有名な定理にも通じる)。いまいち意味がはっきりしないが、黛が「古い」と切って捨てた意図はそこにあるのではないか。
古典的な数学観ということで言えば、雨森のように素朴な無限の概念をそのまま導入すると、体系に矛盾が生じることが分かっている(自己言及のパラドックスの一種である「ラッセルのパラドックス」はその一例。この矛盾はゲーデルの有名な定理にも通じる)。いまいち意味がはっきりしないが、黛が「古い」と切って捨てた意図はそこにあるのではないか。
無限の書架から引き出す未知の本
きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。
どの六角形からも、それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる。
(中略)
五つの書棚が六角の各壁に振りあてられ、書棚のひとつひとつに同じ体裁の32冊の本がおさまっている。鼓直訳 ボルヘス『バベルの図書館』
直接言及はされてないが、ボルヘス「バベルの図書館」のイメージに近い。
確率論の申し子
あたしは確率論の申し子なんだって。
よく知らないけどね。チェシャ猫『Forest』
ここで言われてるのは、量子跳躍の概念と思われる。
量子力学においては、粒子の位置は、確固として決まったものではなく、ぼんやりとした確率の広がりで現される。また、その確率の広がりは観測によって収束する。
それによって、一個の粒子が、壁の向こう側に転移したりすることがある。チェシャ猫が消えて現れるのも同じこと、というわけだ。
量子力学においては、粒子の位置は、確固として決まったものではなく、ぼんやりとした確率の広がりで現される。また、その確率の広がりは観測によって収束する。
それによって、一個の粒子が、壁の向こう側に転移したりすることがある。チェシャ猫が消えて現れるのも同じこと、というわけだ。
王様の狩りの馬
飛んでるんじゃない。走ってる。
まるで王様の狩りの馬みたいだ。
そいつは幽霊だろう。
あいつらは生きている。チェシャ猫と灰流 『Forest』
二人が言っているのは、「ワイルドハント」の伝承と思われる。
嵐の夜、幽霊馬にまたがった王(もしくは神)が狩りのために空を翔るという伝承。
嵐の夜、幽霊馬にまたがった王(もしくは神)が狩りのために空を翔るという伝承。
シュレディンガーの猫
……おまえシュレディンガーって
もちろん知ってるよな。
そ。だから、ぜーんぜん平気。灰流とチェシャ猫 『Forest』
量子力学上の思考実験。
猫を箱に閉じ込め、核分裂をトリガーに毒ガスが発生される装置を作る。箱の遮断が完全なら、外から猫の状態を知ることができない。この時、量子力学的には、猫は「生きてるか死んでるかわからない」のではなく、「生きても死んでもいない、確率的重ね合わせの状態」と解釈される。
猫を箱に閉じ込め、核分裂をトリガーに毒ガスが発生される装置を作る。箱の遮断が完全なら、外から猫の状態を知ることができない。この時、量子力学的には、猫は「生きてるか死んでるかわからない」のではなく、「生きても死んでもいない、確率的重ね合わせの状態」と解釈される。
作中では、チェシャ猫が、黒丸を食べても死なない言い訳として登場。
観測が状態を決定する、という意味では、さっきの量子跳躍と同じ(といえないこともない)。
この実験以降、量子力学と猫は相性がいい。
観測が状態を決定する、という意味では、さっきの量子跳躍と同じ(といえないこともない)。
この実験以降、量子力学と猫は相性がいい。
おおいなる蛇足かつお約束のシュレディンガー音頭のページ
ライオンとユニコーン
あんたのライバルは、外で暴れてるぜ。
休戦協定は結んだのか?
俗世間の論理かね、賢者よ?灰流とユニコーン『Forest』
ライオンの名前
「……あなたのお名前を、私、存じ上げているかもしれません。 」
「君が思っている大きな名前は
君が親しかった、ちっぽけな勇者にこそ
ふさわしかったのではないのかね」刈谷とライオン 『Forest』
「大きな名前」というのはアスランのことだろう。
ユニコーン
さよなら、ユニコーン。
いいえ、もう会うことはないでしょう。
この世でも、この夢でも。伽子 『Forest』
ユニコーンは処女の前にしか姿を現さないとう伝説からと、この後の伽子の死を暗示しているであろうことと考えていいだろう。
故に「(死ぬから)この世でも、(処女でなくなるから)この夢でも」と。
故に「(死ぬから)この世でも、(処女でなくなるから)この夢でも」と。
アリス、チェスのナイト、ハンプティダンプティ
アリスと、チェスのナイトと、それにハンプティ・ダンプティ。
なあ、まるで俺たちみたいだな?
そう思わないか?灰流 『Forest』
灰流が伽子に贈った、アンティークのルイス・キャロル公認「アリス」グッズの缶の蓋の絵柄。
登場キャラからして「不思議の国」ではなく「鏡の国」出典。
最初に販売された時にはその中にビスケットが詰まっていたはずの缶に、灰流は適当な少女趣味の小物を詰めて伽子に贈った。
が、蓋を開けた伽子は「おいしそうなクッキー!」と言い、灰流も「そうさ。中身はうまそうだったよ。」と言ったことから、伽子が蓋を開けたときには中身がクッキーに代わっていたものと思われる。森が帰ってきた証拠だろうか?
(下世話な話だが、この台詞は恐らくダブルミーニングだと思われる。森の立場で言えばそこで缶の小物をクッキーに変えてやる理由はない。むしろ灰流がヘタれて逃げる可能性すらある。――さて、仮に、小物は本当は小物のままだったとしたら?「キャロル公認のグッズ缶」に詰まっているものは「美味しそうなお菓子」に決まっている。…つまりこれは灰流なりの「自白」というわけだ)
登場キャラからして「不思議の国」ではなく「鏡の国」出典。
最初に販売された時にはその中にビスケットが詰まっていたはずの缶に、灰流は適当な少女趣味の小物を詰めて伽子に贈った。
が、蓋を開けた伽子は「おいしそうなクッキー!」と言い、灰流も「そうさ。中身はうまそうだったよ。」と言ったことから、伽子が蓋を開けたときには中身がクッキーに代わっていたものと思われる。森が帰ってきた証拠だろうか?
(下世話な話だが、この台詞は恐らくダブルミーニングだと思われる。森の立場で言えばそこで缶の小物をクッキーに変えてやる理由はない。むしろ灰流がヘタれて逃げる可能性すらある。――さて、仮に、小物は本当は小物のままだったとしたら?「キャロル公認のグッズ缶」に詰まっているものは「美味しそうなお菓子」に決まっている。…つまりこれは灰流なりの「自白」というわけだ)
「アリス=伽子」:そのまま、「オリジナル」のふたりによって生み出され、物語に巻き込まれた「キャラ」として。
「チェスのナイト=灰流」:チェスのナイトというのは「鏡の国のアリス」第八章に出てくる白のナイトだと思われる。鏡の国で一番アリスに優しく接して、アリスに詩を歌ったりもしたりするなど、ルイス・キャロルが自身を投影しているという見方の多いキャラで、灰流の「キャラ」に合う。
「ハンプティ・ダンプティ=雨森」:自分勝手で頭でっかちで解説好きで知ったかぶりで―ーな「キャラ」からか。
「チェスのナイト=灰流」:チェスのナイトというのは「鏡の国のアリス」第八章に出てくる白のナイトだと思われる。鏡の国で一番アリスに優しく接して、アリスに詩を歌ったりもしたりするなど、ルイス・キャロルが自身を投影しているという見方の多いキャラで、灰流の「キャラ」に合う。
「ハンプティ・ダンプティ=雨森」:自分勝手で頭でっかちで解説好きで知ったかぶりで―ーな「キャラ」からか。
時計台
言わずと知れたビッグベン。
→九月
→九月
ドコモタワー
「森」のビッグベンのリアルでの姿。
NTTDoCoMoの所有ビルで正式名称は「NTTドコモ代々木ビル」。
2000年9月完成、地上240メートル、地上50階建て。FOMAの通信基地局の制御拠点。
NTTDoCoMoの所有ビルで正式名称は「NTTドコモ代々木ビル」。
2000年9月完成、地上240メートル、地上50階建て。FOMAの通信基地局の制御拠点。
アマモリがどんだけがんばってたかの参考までに。
部屋があるのは下半分、25階まで。26F以上は支柱とケーブルが走る空洞になっている。屋根もなく、「雨が降ったら傘を持参」とのこと。てっぺんの50階まで上るには階段を使う。「570段あります。10分弱でつきますよ」。
更についでに新宿トリビア。
ビル高層部のライティングは、実は「傘が必要かどうか」を示している。オレンジ色だったら「傘の手放せない一日になるでしょう」、白色だったら「傘のいらない一日になるでしょう」という意味。
ビル高層部のライティングは、実は「傘が必要かどうか」を示している。オレンジ色だったら「傘の手放せない一日になるでしょう」、白色だったら「傘のいらない一日になるでしょう」という意味。
私、死んだわ
伽子の最期のセリフ。
シェイクスピア「ハムレット」。剣の毒で死に瀕したハムレットが、友人ホレイショーに告げるいまわの言葉、「Horatio,I am dead.(ホレイショー、俺は死んだ)」のパロディ。
ふつう「もうだめだ」とか「最後だ」と訳す。
シェイクスピア「ハムレット」。剣の毒で死に瀕したハムレットが、友人ホレイショーに告げるいまわの言葉、「Horatio,I am dead.(ホレイショー、俺は死んだ)」のパロディ。
ふつう「もうだめだ」とか「最後だ」と訳す。
4千人の兵隊でも あたし、まだ新鮮かな
マザーグース「ハンプティ・ダンプティ」のイメージ
Humpty Dumpty sat on a wall
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses,
And all the king's men,
Couldn't put Humpty together again.
ハンプティ・ダンプティ 塀の上
ハンプティ・ダンプティ 落っこちた
王様の馬が全部でも
王様の家来みんなでも
ハンプティを元には戻せないマザーグース
「4千人の兵隊」は鏡の国のアリスから。
「四千二百とんで七。それが正確な数じゃ」山形浩生訳『鏡の国のアリス』第七章』