〜二重公儀体制について〜 Political dispensation by two political powers
戦国時代、戦国大名の多くは、天皇家の下に、自らを頂点とする武家政権(公儀のひとつ)を打ち立てることを目標に戦っていた。
織田信長が畿内を中心に38ヵ国を統一、
それを事実上継いだ羽柴秀吉が、武家関白型公儀(中央集権国家へ)を成立させ、惣無事令とその実行によって天下統一を成し遂げた。
しかし羽柴秀吉の死去と二度の朝鮮出兵の失敗により未完成の中央集権の仕組みは破綻、
幼年の豊臣秀頼(政権継承者であり、既に官位は従二位)が公儀であることを前提としつつ、家臣である大名達は権力闘争を始めた。
中央集権を押し進めてきた石田三成(羽柴家譜代家臣)ら吏僚派と、徳川家康(羽柴に対して外様家臣)に結び付いた地方分権派(反石田派)が各地で衝突、
それを事実上継いだ羽柴秀吉が、武家関白型公儀(中央集権国家へ)を成立させ、惣無事令とその実行によって天下統一を成し遂げた。
しかし羽柴秀吉の死去と二度の朝鮮出兵の失敗により未完成の中央集権の仕組みは破綻、
幼年の豊臣秀頼(政権継承者であり、既に官位は従二位)が公儀であることを前提としつつ、家臣である大名達は権力闘争を始めた。
中央集権を押し進めてきた石田三成(羽柴家譜代家臣)ら吏僚派と、徳川家康(羽柴に対して外様家臣)に結び付いた地方分権派(反石田派)が各地で衝突、
関ヶ原の合戦(*1)に至った。
合戦で勝利した家康(事実上の軍事的頂点へ)は、大坂へ入り、豊臣政権筆頭大老として政務を執っている。共に戦った福島正則(羽柴家譜代家臣)らに配慮し、
大名の監視や、中央集権体制を構築するための資金確保に使われてきた羽柴家直轄領(蔵入地)を接収して東軍大名に再配分する等、地方分権政策を進めている(*2)。
大名の監視や、中央集権体制を構築するための資金確保に使われてきた羽柴家直轄領(蔵入地)を接収して東軍大名に再配分する等、地方分権政策を進めている(*2)。
1603年(慶長八年)、家康が征夷大将軍・従一位右大臣・源氏長者に就任。
同時期に、秀頼が内大臣に就任。
同時期に、秀頼が内大臣に就任。
征夷大将軍は朝廷内の軍事関連の最高職(鎌倉時代以後)であり、征夷大将軍が首長を努める幕府は軍事的政府であって、(国政を担う)政権ではない。
しかし家康は、四姓(*3)のひとつである源氏の氏長者に就任したことにより、事実上豊臣政権大老から外れ、豊臣政権から独立した新たな政権(公儀)を打ち立てることに成功した。
以前の幕府(*4)も同様の方法をとっている。
しかし家康は、四姓(*3)のひとつである源氏の氏長者に就任したことにより、事実上豊臣政権大老から外れ、豊臣政権から独立した新たな政権(公儀)を打ち立てることに成功した。
以前の幕府(*4)も同様の方法をとっている。
但し、これによって豊臣政権が消滅したわけではない。
豊臣氏(*5)を創る前の秀吉は、藤原氏を使用しており、関白であると同時に藤氏長者(国王の一人)であった。
従って、関白の上に位置する太政大臣となった秀吉が就任した豊臣氏の氏長者は藤氏長者と同格以上であり、国王でなければならない。
そのことから、豊氏長者を継承した(*6)秀頼は国王であり、公儀の主宰者であると考えられる。
豊臣氏(*5)を創る前の秀吉は、藤原氏を使用しており、関白であると同時に藤氏長者(国王の一人)であった。
従って、関白の上に位置する太政大臣となった秀吉が就任した豊臣氏の氏長者は藤氏長者と同格以上であり、国王でなければならない。
そのことから、豊氏長者を継承した(*6)秀頼は国王であり、公儀の主宰者であると考えられる。
また秀頼は、幼年にも拘わらず内大臣に就任しており、成人と同時に関白や太政大臣に就任する予定であった可能性が高い。
以上から、1603年に、各大名家に対する二重公儀体制が成立したと言える。
軍事的には徳川幕府に従い、政治的には豊臣秀頼と徳川家康の双方に従うことが原則、ということである。
軍事的には徳川幕府に従い、政治的には豊臣秀頼と徳川家康の双方に従うことが原則、ということである。
そしてこの体制は1614年まで続き、二度の大坂の役で豊臣氏宗家が滅亡したことによって、公儀の統一が為されることになる。
Integration of two political powers
隅立庄屋 (=Asscicule)
Integration of two political powers
隅立庄屋 (=Asscicule)
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『二重公儀の統合』シナリオ背景
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