039 京介「桐乃…お前は昔は素直でいい子だったのよな…」

受験戦争から解放され、早めの春休みが幕を開けた二月の下旬。
緩みきった気分を締め直そうと部屋の模様替えをしていた折に、それは見つかった。

「うわっ、懐かしいなオイ」

タンスの奥の方で眠っていたそれ――派手な柄の玩具箱――を引きずり出す。
ガキの頃は、これに玩具やカードを詰め込んで持ち歩いたもんだ。
とっくの昔に処分されたとばかり思っていたが、運良くこいつだけ、お袋の目から逃れたらしい。


31:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/08/14(日) 07:31:59.84:shp1AWvn0

さてと、作業は一時中断して、追憶に耽るとしますかね。
ついつい脇道に逸れちまうのは、模様替えのお約束だよな……と箱の留め具に手をかけたそのとき、

「朝からゴソゴソ何してんの?」

桐乃がひょこっと顔を出した。
起き抜けなのか、長い髪はくしゃくしゃで、眠そうに目を擦っている。

「わり、起こしちまったか?」
「ううん、ちょうど目が覚めたトコ……」

桐乃は覚束ない足取りで部屋を横断し、ぽすっと俺のベッドに腰掛けた。
そしてグルリと辺りを見渡し、

「ふぅん……部屋の片付けなんかしてたんだ」

微かに不機嫌オーラを漂わせて、そう言った。
さっきの言葉は嘘で、本当は物音がうるさくて目を覚ましたのかもしれねえな。

それか、単純に寝起きで機嫌が悪いだけか。
なぜか居座る様子の桐乃に、俺は発掘品を見せてやることにした。

「そういや、タンスの中を整理してる最中に、珍しいモンが見つかったんだ」

玩具箱を手渡す。
が、色好い反応は梨の礫、桐乃は眉をひそめて、

「何これ?」
「俺がガキの頃に、いつも持ち歩いてた玩具箱だよ。見覚えねえか?」
「忘れた」

と桐乃はあっさり否定し、

「てゆーか、あんたって、そういうのいつまでも捨てられない性格だったんだ?」

見下すような半眼でこっちを見てくる。
べ、別にいいじゃねーか!たまに童心に還れるアイテム残しといてもさぁ!
もっとも、当時の俺が何を思って、この玩具箱を残しておいたのかは、俺自身、よく分かんねーんだけどな……。

小馬鹿にして部屋を去って行くかと思いきや、桐乃は俺のベッドにうつぶせになり、

「さっさと開ければ?」

なんだかんだ言って興味はあるのな、お前。
俺は溜息を一つ、改めて玩具箱の留め具に手をかけた。
錆びた金属同士が擦れる音が響き、上蓋が持ち上がる。
果たして箱の中に保存されていたのは、
十年近く前に流行ったカードや玩具でもなく――色取り取りの紙束だった。

「なんだこりゃ……」

俺は何気なくそのうちの一片を取り上げ、

「ダ、ダメッ!絶対読んじゃダメッ!」

猫のような敏捷さで飛びかかってきた桐乃に、紙片を奪い取られてしまった。
こいつのこの慌てようは何だ?尋常じゃねえぞ。

「読んじゃダメってことは、その紙には、何か書いてあるのか?」
「ど、どーでもいいじゃん!とにかく、この箱もあたしが預かるからっ……!」

おっと、そうはいかねえ。
玩具箱に伸びた手を払いのけ、がっちりと脇に抱え込む。

「こいつは俺の物だ。お前にどうこうする権利はねえよ」

その一枚はくれてやる。
が、この箱の中には、少なく見積もっても数十枚の紙片が残されている。
後で一枚一枚ゆっくりと検めてやるさ。

「………じゃない」

ん、今なんて言った?
桐乃は右手の紙片を握りつぶし、肩を戦慄かせながら叫んだ。

「その中に入ってるのは、兄貴の物じゃないっ!全部……全部あたしの物なのっ!」

間髪入れず、桐乃の手が箱に伸び、もの凄い力で引っ張ってくる。
おいおい、陸上部で鍛えてるのは脚力だけじゃなかったのかよ。
それかアレか、火事場の馬鹿力的な何かが発動してるのか?
が、年下の妹に綱引きで負けるほど、俺はひ弱な兄貴でもねえ。

「ワケわかんねーこと言ってんじゃねえ!
  なんでお前のモンが、俺の玩具箱の中に入って、しかも俺のタンスの奥に仕舞われてんだよ!」
「うるさいっ!離せ、このバカ兄貴っ!」

突き出された右足を、同じく右足で辛くもガードする。
躊躇なく股間を狙ってくるあたりに、桐乃の本気度がうかがえる。
罵倒と足蹴りを浴びながらの引っ張り合いがしばらく続き、
果たして先に折れたのは、俺でも、ましてや桐乃でもなく――箱の掛け金だった。
バキン、と嫌な音が鳴り、上蓋がはじけ飛ぶ。

「あっ」

と俺と桐乃の声が重なり、次の瞬間には、箱の中に入っていた大量の紙片が、ひらひらと部屋中に舞っていた。

必死の形相で舞い散る紙を追う桐乃を余所に、
俺は妙に醒めた頭を働かせ、箱の底に残っていた紙片を手に取った。
どれどれ……。

『だいすきなおにいちゃんへ』

一瞬、脳裏を過ぎったのは『おにいちゃん』って誰のことだ、というなんとも間抜けた思考だった。
理解が追いついて、目眩がしたね。
お兄ちゃんって、俺のことじゃねーか!
しかも俺のことを兄貴呼ばわりできるヤツは、世界中で一人だけ、
今まさに目の前で、烈火のごとく怒り狂っている俺の妹、桐乃だけだ。

「……見た?」
「お、おう」
「……………」
「……なあ、これ全部……その……お前から俺に……」

スン、と洟を啜る音が、俺の言葉を遮った。
ちょ、なんでお前が泣きそうになってんの!?

オロオロする俺に向かって、桐乃は集めた紙束を投げつけてきた。
どう足掻いても無駄だと観念したのだろうか。
確かめるまでもなく……これらは幼い桐乃がしたためた、俺宛の手紙に違いない。
「箱の中身はあたしの物!」という意味不明だった理屈も、今なら合点がいく。

「ハァ……」

俺は散らばった手紙を集めて、上蓋の無くなった玩具箱に詰め直し、
今やすっかり威勢を失った桐乃の目の前に置いてやった。

「持ってけよ」
「…………なんで?」
「ガキの頃の手紙をネタにして、お前をいびる趣味はねえよ」

こいつはお前が預かるなり、焼いて捨てるなり、好きにしろ。

それに正直な話、俺としちゃあ『だいすきなおにいちゃんへ』の一文だけでお腹いっぱいなんだよな。
あれ以上の甘味は、きっと毒になる。
全部に目を通した暁には、今の桐乃にも、あの頃のような可愛げを求めてしまいかねん。
桐乃は箱を小脇に抱え、脱兎のごとく部屋を飛び出す――かと思いきや、上目遣いに俺を見つめ、

「………気にならないんだ?」
「あん?」

そりゃ手紙の内容が気になるかならないか、と尋ねられたら、

「気になるに決まってるだろーが」
「あ、兄貴がどうしても読みたいって言うなら……読ませてあげないこともない……ケド?」

やれやれ、こちらが押せば全力で引き、こちらが引けばおずおずと押してくる。
天の邪鬼と呼ぶべきか?
にわかに現れた選択肢に、俺は混乱していた。
去年の春、桐乃がアメリカにスポーツ留学する前夜にも、似たような状況があった。
桐乃のアルバムを、見るか、見ないか。
あのときの俺は後者を選択し、果たしてそれが正解だったかどうかは、未だもって分からない。

が、しかし、あの日以来、後悔というほど強くもなく、未練というほど弱くもない、
妙な不完全燃焼感が胸中に渦巻いていたのは確かで、轍を踏むのは躊躇われた。
俺は……。

1.嫌な予感がする。やめておこう。
2.手紙を読もう。忘れていた思い出が蘇るかもしれない。


手紙を読もう。忘れていた思い出が蘇るかもしれない。

「本当にいいんだな?」

と念を押すと、

「うん……ただし、読めるの一回限りだから。読み終わった手紙は没収だかんね」
「後で何度も読み返したりしねーよ」

親父じゃあるまいし。
桐乃は丸顔をぷくっと膨らませて言った。

「ほら、さっさと読む!」

なんでぇ、さっきまではあんなに読まれるのを嫌がってた癖によ。
俺はついさっき読みかけた手紙を手に取り、チラと桐乃の様子をうかがった。
うっすらと顔を赤らめ、そわそわと身じろぎしている。
やはり手紙を読まれることへの、抵抗や羞恥心がなくなった、というワケではないらしい。

まあ、桐乃の真意なんざ、俺の知っちゃこっちゃねえけどさ。
俺は「コホン」と空咳を一つ、

「えー、だいすきなおにいちゃんへ。きょうはいっしょにあそんでくれてありが――ぶはっ」
「何勝手に口に出して読んでんの!?殴るよ!?」

もう殴ってるよ!
いい右ストレートもらっちゃったよ!

「あ、ごめ……じゃなくて!読むのは心の中で!あとニヤニヤするのも禁止!分かった?」
「分かりました」

さすがに音読はNGだったか。
俺は気を取り直し、左頬をさすりさすり、一枚目に目を通す。
ひらがなだらけの文章をそのまま再現しても分かりにくいだけなので、適度に変換すると、以下のようになる。

『大好きなおにいちゃんへ。
  今日はいっしょにあそんでくれてありがとう。
  はじめてブランコにのれてうれしかった。またせなかをおしてね。キリノ』

―――
――


『あっ、お兄ちゃん、どこ行くの?』
『公園』
『お家の外にでるときはねぇ、お母さんかお父さんと一緒じゃなきゃダメなんだよぉ』
『俺もう小学生だぜ。母さんも一人で行ってきていいってさ』
『………ずるい。お兄ちゃんだけなんて、ずるい。桐乃も行くっ!』
『しかたねーなー。母さん、桐乃も連れてっていい?』

リビングの方から、若かりし頃のお袋の声が聞こえた。

『目を離さないようにしなさいよー。桐乃まだ小さいんだから』
『分かってるって。じゃあ、行くか』
『うんっ』

俺は桐乃の手を引いて歩き出す。
寂れた公園に人影はなく、蝉の合唱が逆に虚しかった。

『お兄ちゃん、桐乃ねぇ、ブランコで遊びたい!』

言うや否や、桐乃は風に揺れる台座を捕まえ、腰掛ける。

『こうやるんだよ。見てな』

俺は隣の台座に腰掛け、お手本を見せてやった。

『わ……すごいっ!上手いねえ、お兄ちゃん』
『さ、桐乃もやってみ』
『うん……』

よいしょ、よいしょと足を交互にぶらつかせるが、
桐乃の体は小刻みに前後に揺れるばかりで、悲しいほどに加速がつかない。

『下手だなあ』
『……ふぇ……』

泣き出しそうな気配を察知して、俺はブランコを降り、桐乃の背後に回った。

『押してやるから、じっとしてな』
『うんっ』

一回、二回と背中を押すごとに、桐乃の体の振れは大きく、桐乃の表情は笑顔に変わっていった。

『お兄ちゃん、桐乃ねえ、空を飛んでるみたい』

その言葉を聞いて、俺は疲れて腕が動かなくなるまで、桐乃の背中を押してやろうと思った。

―――
――

「お前も昔は素直でいい子だったんだよな……」

ポツリと漏らした一言に、"現在"の桐乃が敏感に反応する。

「どういう意味?今は捻くれてて憎たらしい子だって言いたいワケ?」
「誰もそこまでは言ってねえよ!」

でもお前も自覚はあるんだろ?
今のお前と昔のお前の性格には、天と地ほどの差があるってことには。
まったく、何がどう間違って、こんな風になっちまったんだか……。

「ハイ、その手紙は没収ね」

ピッと桐乃が俺の手元から、一枚目の手紙をかすめ取る。

『ごめんなさい、お兄ちゃん。
  お兄ちゃんが学校にいっているあいだに、
  キリノはお兄ちゃんのぶんのプリンをたべてしまいました。
  そのかわりに、つぎのおやつはキリノのぶんをお兄ちゃんにあげます。ゆるしてね』

―――
――


小学校から帰ってくると、桐乃の様子がおかしかった。

『おっ、おかえりなさい、お兄ちゃん』
『ただいま。あれ、母さんは?』
『お母さんは、お家のうらで、隣のひととお話してる』
『ふぅん。あー、お腹すいた。
  そういや、今日のおやつ何だった?』
『…………』
『どうして黙るんだよ?桐乃はもう食べたんだろ?』
『……あ、あのね……キリノ……キリノ、お兄ちゃんのぶん……』
『はぁ?ハッキリ喋れよ』
『………ふぇ……ひくっ……ごめ……っ……ごめんなさい……』

そのとき、タイミングよく裏口のドアが開き、お袋が帰ってきた。

『ちょっと京介!あんたまた桐乃のこと泣かせたの!?』
『ち、違うって、俺にも何がなんだか……』
『うわあぁぁあぁぁん!!』

―――
――


「あの時は参ったな。
  お前は大泣きして訳を話さねーし、お袋は端からお前の味方だったし」

落ち着いた頃に、桐乃が俺にこの手紙を渡してきて、
やっと桐乃が泣いていた理由が分かった覚えがある。

「なんで初めから正直に話さなかったんだ?」

そりゃ俺も小言の一つや二つは言っただろうが……。

「そんなにあの頃の俺は怖かったのか?」

桐乃はジト目で俺を睨み付け、

「"怖かった"のは間違ってないケド……あたしは別に、あんたに怒られるのが怖かったワケじゃないしィ」
「じゃあ、何が怖かったんだよ?」
「じ、自分で考えれば?」

プイ、とそっぽを向く桐乃。少し自信を無くすぜ。
あの頃の俺は桐乃にとって、必ずしも『優しくて頼れるお兄ちゃん』じゃなかったということか?
手紙は抜け目なく没収され、俺は考えるのを諦めて、三枚目を手に取った。

三枚目は手紙……というよりは絵日記の体裁で、
拙い文字の羅列の下に、色鉛筆で酷く抽象的な絵が描かれていた。
緑一色の大自然(?)を背景に、肌色で描かれているのは俺と桐乃……だろうか?
とにかく、文章を読んでみないことには始まらない。

『今日はお兄ちゃんといっしょに虫をとりにいきました。
  お兄ちゃんは虫をつかまえるのがとても上手です。
  でも、遊ぶのにむちゅうになっていると、帰りみちがわからなくなりました。
  キリノはこわくなって、ころんでしまいました。
  お兄ちゃんはキリノをおんぶしてくれました。
  『だいじょうぶ、だいじょうぶ』とお兄ちゃんはなんどもキリノに言ってくれました。
  夜になるまえに、お兄ちゃんとキリノはお家に帰ることができました。
  こわかったけど、たのしかったです』

―――
――


親父に急な仕事が入るのは、昔から珍しいことじゃなかった。
その日も早朝から親父は仕事場に呼び出されていたらしく、
虫取りを楽しみにしていた俺と桐乃は、朝起きて初めて、お袋からそのことを聞かされた。

『俺たちだけで行ってくる』
『ダメに決まってるでしょ、あんたたちだけで行くなんて』
『じゃあ母さんがついてきてよ』
『あたしは家事仕事があるから無理よ。それに虫は苦手なの』 
『やだぁ、桐乃、虫取り行きたいー!』
『わがまま言わないの、二人とも。
  また今度、お父さんが休みの日に連れて行ってもらいなさい』
俺たちは渋々引き下がるそぶりを見せ、しかし腹心では一計を案じていた。
公園に行ってくる、と昼過ぎに家を出て、向かった先は未開発の雑木林だった。
一歩踏み入れば、そこは虫の宝庫だった。

『あっ、カブトムシ!大っきいねぇ!』
『こっちにはクワガタがいるぜ』
『ねぇお兄ちゃん、このクワガタはなんていう名前なのぉ?』
『ノコギリクワガタだよ。ほら、ここがノコギリみたいにギザギザになってるだろ?』

俺たちは虫取りに夢中になるあまり、日の届きにくい、鬱蒼とした奥地にまで迷い込んでいた。
しかも間の悪いことに、桐乃が転び、膝をすりむいた。
俺は桐乃を負ぶってやらなければならなかった。

『お兄ちゃん、ここ……どこ?』

『知っている場所だ』と嘘も言えず、『迷った』と打ち明けて不安がらせることもできず、
俺はただただ『大丈夫だ』と、自分と桐乃に言い聞かせていた。
そうして、当て所なく歩き続けること十数分、
奇跡的に方角は元来た道に向いていたようで、俺たちは再び、夕暮れの町並みを拝むことができた。
ちょっとした冒険の記憶だ。

―――
――

「結局、黙って虫取りに行ったことは、親父やお袋にはバレたんだっけ」
「ううん。あんたが言ったんじゃん、このことは二人の秘密にしようって。
  虫は全部逃がして、あたしの膝の擦り傷も、公園で転んだことにしてさ」

さっきから思ってたが、やけに物覚えいいな、こいつ。
俺なんか手紙を見てやっと思い出してるくらいなのに……単純に年の差が原因か?

「あの雑木林、今も残ってんのかな」
「なワケないじゃん。今はすっかり住宅地になってるよ」
「そっか。じゃあもうお前と虫取りに行けねーな」
「残ってても行かないし!虫を手づかみするとか、死んでもゴメンだから!」

言うと思ったよ。
でも、不思議だよな、なんであの頃は大好きだった虫が、今見ると気持ち悪く見えたりするのかね?

「あたしに聞かれても分かるワケないでしょ。ヤなものはヤなの」

桐乃は唇を尖らせてそう言い、手紙を奪い取る。
次の手紙を読もうとしたところで、ぐきゅるる、と情けない音が鳴った。
断っておくが、音の出所は俺じゃない。

「小休止にして、昼飯食べに行こうぜ。お前、朝も何も食ってねえんだろ?」

桐乃は顔を赤くして頷くと、次に自分がパジャマ姿で、
しかも顔も洗っていないことに気づいたのか、大慌てで部屋を出て行った。

昼飯を終え、ぼんやりワイドショーを眺めてから自室に戻ると、
シャワーを浴びて衣装替えし、淡いメイクを決めた妹が、またしても俺のベッドを席巻していた。
勝手に読み始めたら怒られるだろうから、部屋に呼びに行こうと思ってたのに。

「遅いっ!」
「おめーの準備が良すぎるんだよ」

そんなにガキの頃の手紙を俺に読んで欲しいのか?あん?

「キモ。あたしはただ単に、早く終わらせたいだけだし」

さいですか。
俺は妹の刺すような視線をを頬に感じながら、四枚目の手紙を手に取った。
どーでもいいが、今の部屋の惨状をお袋に見られたら、説明するのが面倒だな……閑話休題。

『大好きなまなちゃんへ。
  きのうはあそんでくれてありがとう。
  おかし、とってもおいしかったです。
  まなちゃんはキリノのお姉ちゃんみたい。
  これからもなかよくしてね』

―――
――


夜、寝ようと思っていたところに、ノックの音がした。
ドアを開けてやると、眠そうな桐乃が立っていた。

『これ、この手紙ね……』
『俺にか?』
『ううん……明日ね、学校でねぇ、まなちゃんにわたしてほしいの』
『どんな手紙なんだ?』

桐乃は手紙を挟んだ両手を、もじもじと体の前で擦り合わせつつ、

『今日、お兄ちゃんとキリノ、まなちゃんのお家に遊びに行ったでしょ?』
『ああ』
『でもねえ、キリノ、まなちゃんにちゃんとお礼言えなかったから……』

小さい頃の桐乃は人見知りが激しく、
田村家の一家総出の歓待に目を回していた。
麻奈実の部屋で、俺、麻奈実、桐乃の三人で話す時は普段通りなのだが、
帰りがけ、田村一家の面子を前にすると、俺の背中に隠れて、
小さな声で『あっ……ありがとう、ございました』と言うのがやっとだった。
真奈美に直接礼を言えなかったことを、桐乃は心のどこかで、悔やんでいたに違いない。

『桐乃の気持ちは分かったよ。手紙、麻奈実に渡しとく』

俺は手紙を預かり、桐乃の頭をなでてやった。

『ありがとう、お兄ちゃん。おやすみなさい』
『おやすみ、桐乃』

俺は階段を下りる小さな妹の背中を見送り、手紙をランドセルの中に仕舞った。

―――
――


「懐かしいなー。
  確かあの頃、桐乃はまだ親父やお袋と一緒に寝てたんだよな」

さりげなく話題を反らそうとしてみたものの、

「なに誤魔化そうとしてるわけ?」

あっさり軌道修正される。桐乃は冷えた声音で訊いてきた。

「ね、なんでこの手紙が、今もあんたの手元にあんの?」

「これには深いワケがだな……」
「へぇー?聞かせてもらおうじゃん。
  言っとくケド、あたしが納得できるような理由じゃなきゃ、怒るよ?」

既に怒ってるじゃねーか!怖ぇよ顔が!

「小学生っつったら、アレだ……くっだらねーことで、誰かのことをからかったりするもんだろ?」

心当たりがないでもないのか、「それは言えてるカモ」と桐乃は頷く。

「お前から手紙の配達を安請け合いしたはいいが、
  学校で麻奈実に手紙を渡すとなると、周りの視線が気になってよ」

小学生の狭い世界である。
高坂が田村にラブレターを送った!と上から下への大騒ぎが数日続くことは目に見えていた。
今でこそ「俺と麻奈実は幼なじみだ、色眼鏡で見るんじゃねえ」と淡泊にあしらえる自信があるが、
当時の俺は、そういった噂を立てられることが気恥ずかしかったのさ。

「分かってくれたか?」
「はぁ?全然分かんない!
  学校で渡すのが恥ずかしいなら、帰り道とか、誰も見てないところで渡してくれれば良かったじゃん!」

正直に言おう。

「帰る頃には忘れてた」
「バカじゃん!?」

ベシ、と頭頂部を叩かれた。
いやマジで悪いことしたと思ってるって。
あの頃の俺も深く反省しながら、ランドセルの奥の方でぐしゃぐしゃになった手紙を、この玩具箱に仕舞ったんだ……と思う。

「にしても、あの頃のお前って、麻奈美にホントよく懐いてたよな。まなちゃん、まなちゃん、ってさ」
「昔の話でしょ」
「麻奈美のことが嫌いになったのはいつからだ?」
「憶えてない……ってゆーか、別にあたしは地味子のこと、嫌ってるワケじゃないし!
  あんたと地味子がいつまで経っても小学生のノリで、
  ベタベタくっついてるのがキモくて、見てたらイライラさせられるってだけ」

それを世間では嫌ってるって言うんじゃねえの?俺とセットで。
が、これ以上追求しても喧嘩の種になるだけだと思った俺は、手紙を桐乃に渡し、五枚目の手紙を手に取った。
そのときだった。
ピンポーン。

「誰か来たみたいだな」

俺たちは無言で顔を見合わせ、いったん右手を背後に隠してから、つきだした。
こっちはチョキで、桐乃はグー。
しかたねーなー。俺は重い腰を上げて、一階に下りていった。
今更だが、現在、親父とお袋は連休を利用し、一泊二日の小旅行に出かけている。
玄関を開けると、そこにいたのは――。

あやせだった。
天使と形容すべき美貌がほんのり朱に染まっているのは、
道中、俺への想いが募ってきたせいで、あとはほんの少し、木枯らしにも理由があるかもしれない。

「こんにちは、お兄さん」
「おう、いらっしゃい、あやせ」

勝手知ったる、という風にあやせは門を開け、ととと、と俺の目の前に歩み寄る。
挨拶代わりのキスをしてくれるのかと思いきや、
そのまま隣を素通りし、玄関の扉を開けて親父やお袋の気配がないことを確認すると、

「今日と明日、お家にお兄さんと桐乃が二人きり、というのは本当だったんですね」

と背を向けたまま聞いてきた。
よく知ってるじゃねーか。桐乃が言ったのか?
あやせは無言でハンドバッグをあさり、振り返りざまに素早く手を動かした。
カシャシャン、と小気味よい金属音が鳴り響き、気づけば、俺の手には罪人の証がはめられていた。

「なんて不用心な……お兄さんのような変態を、桐乃と一つ屋根の下に置いておくだなんて」

慨嘆に堪えません、と親父やお袋に苦言を呈すあやせ。
俺はお前の施錠スピードの速さに驚嘆だよ。
家に上がり、階段を駆け上るあやせの後を、拘束具の取り付けられた手でやっとこさ靴を脱ぎ、追いかける。
案の定桐乃の姿を見つけたあやせは、

「大丈夫?お兄さんに何も変なことされてない?」

と桐乃の安否を確かめていた。
あやせと知り合って早二年、一度失った信頼の回復は難しいことを思い知らされる光景だ。

「もうっ、大丈夫だってば。わざわざ家に押しかけてくるなんて、大げさすぎィ」
「だってわたし、桐乃のことが心配で……」

もはや説明不要だろうが、あやせの中での俺の認識は、
近親相姦上等の変態鬼畜兄貴である(自分で言ってて泣きたくなってきた)。

俺が部屋に入ると、あやせは敵愾心剥き出しの視線を俺に向け、

「出て行ってください」

いやここ俺の部屋だからな?
出て行くのはむしろお前と桐乃の方だっつーの。

「お兄さんの部屋に桐乃を監禁して、何をしていたんですか?
  ご両親がいないのをいいことに、い、いかがわしいことを強要していたんじゃないですか?」
「脳内妄想はそこまでにしとけよ。あと桐乃、おめーも少しは否定しろ」

すると桐乃はにわかに愉快げな表情を作り、しかし声音は恥ずかしげに、

「だってさァ……さっきまであんたが、あたしにしてたことって……一種の羞恥プレイと言えなくもないじゃん」
「詳しく聞かせてもらいましょうか?」

あやせは撮影用の華やかな笑みを顔に貼り付け、

「返答の如何によっては――しますよ?」

桐乃からは見えない角度で、ライターの炎をちらつかせた。
手錠炙りの刑を一度体験している身としては、なんとしても誤解を晴らさなければならないところである。

「――というワケで、俺たちは桐乃が書いた手紙をきっかけに、昔のことを思い出してたんだよ。分かったか?」
「それは分かりましたけど……ねぇ桐乃、読まれたくない手紙まで、見せなくてもいいんだよ?
  中には……ううん、手紙のほとんどが、お兄さんに送ったことを、深く後悔している手紙でしょ?」
「それは……まぁ……そうだけど……」

言葉を濁す桐乃に、あやせは苛立ちを露わにするかと思いきや、

「そうだよね。
  ここでお預けにする方が、先のことを考えると危ないよね」

ハイハイ、全手紙強制焼却ルートを想像した俺がバカでした。
つーか妹からの手紙を読み返してガス抜きするシスコンて何だよ!
娘の結婚後に何年も経ってからアルバム見返す父親よりキモいわ!

「それがお兄さんでしょう?」
「…………」

否定する気力も失せたね。
俺は不自由な両手を使い、五枚目の手紙を開いた。

『こんやくしょ。
  キリノとお兄ちゃんはしょうらい、けっこんします。
  なぜなら、キリノはお兄ちゃんのことがだいすきで、
  お兄ちゃんもキリノのことがだいすきだからです。
  キリノ キョウスケ』

―――
――


暑い夏の昼下がり。
リビングで二人してアイスを頬張っていると、不意に桐乃が言った。

『ねぇねぇ』
『どうした、桐乃?』
『キリノねぇ、お兄ちゃんとけっこんしたい』

俺はむせながら、

『どうしてお兄ちゃんと結婚したいんだ?』
『だってねぇ、お母さんが言ってたんだもん。
  けっこんは、本当にだいすきな人どうしがするものだって』
『へ、へぇ~』
『それでねぇ……キリノがせかいでいちばんすきな人はねぇ、お兄ちゃんなの』
『…………』

そのとき、俺はガキなりに、どうやったら「異性の好き」と「兄妹の好き」の違いを教えられるか、必死に考えていた。
アイスが溶けて、冷たい感触が手のひらを伝った。桐乃は続けて言った。

『お兄ちゃんが、せかいでいちばんすきな人はだれ?』

『か、考えたことないから、分かんないな』
『じゃあ、今かんがえて』

俺が黙っていると、桐乃は消え入りそうな声で言った。

『…………まなちゃん?』
『なっ、なんで麻奈美の名前が出てくるんだよ?』
『だって、まなちゃんとあそんでるときのお兄ちゃん、すっごく楽しそうだもん。
  キリノとあそんでるときよりも、楽しそうにしてるもんっ』

桐乃の大きく円らな瞳を、うっすらと涙の膜が覆う。
兄貴は、妹の涙に弱い。その法則に、年齢は無関係だ。
俺はアイスで汚れていない方の手で、桐乃の頭を撫でてやりながら、

『お兄ちゃんが世界で一番好きなのは、桐乃だよ』
『……ほんと?』
『ああ、ほんとだ』
『じゃあ、しょうらいキリノとけっこんしてくれるの?』
『ああ、してやるよ』
『じゃあね、じゃあね……ちょっとまってて!』

キリノはぱぁっと顔を輝かせると、リビングを飛び出して行った。
戻ってきた桐乃の手には、鉛筆と、折り紙があった。
そうして桐乃は時間をかけて、「こんやくしょ」を作り始めたのだった……。

―――
――

こ、これはまずい。
あやせに見せたらシャレになんねーことになる。
無反応の俺を逆に不審に思ったらしい桐乃が言った。

「何書いてたの?あたし」
「ん、ただの落書きだよ。こいつは後で捨てとくから、次行こうぜ、次」

紙を折り曲げてポケットに仕舞おうとしたところを、

「待ってください。その玩具箱に入っていたものは、全て桐乃のもの、という約束でしたよね?」

とあやせ保安官に差し止められる。
手枷をはめられた俺に抵抗できるワケがなく、あっさりと「こんやくしょ」を没収された。
終わった。
俺のプロファイリングが正しければ、あやせはほぼ確実に、
「お兄さん幼少期から桐乃を洗脳していた」という妄想を肥大させ、俺に一心不乱の打擲を加えてくることだろう。
俺はじっと目をつむり、刑罰執行の時を待った……のだが、しかし。

「……………」

あやせは無表情で視線を紙上に滑らせると、
凝視していなければ分からないほど微かに頬をひくつかせて、「こんやくしょ」を玩具箱の奥底にしまった。

「あやせ、今の、本当に落書きだったの?」
「うん。お兄さんの言うとおりだった」

何事もなかったかのように桐乃に言い、あやせはこちらに顔を向けて、唇の動きだけでこう言った。
……"あんなもの、絶対に認めませんから"と。

や、あんなのに法的拘束力があるなんて、これっぽっちも思っちゃいねーって。
それに第一、桐乃が全力で婚約取り消しを求めてくるだろうよ。
とにもかくにも、窮地は脱したようである。

「考えたら、落書き、結構混じってるかもね。
  じゃあ、次、読んで」

水面下の攻防を知らぬ妹は、無邪気に七通目の開封を促してきた。

今度の手紙も三通目と同じく、日記風味の体裁で書かれていた。

『キリノはきのうのよる、とってもこわいユメをみました。
  よなかにおきて、でも、お父さんもお母さんもおきてくれませんでした。
  キリノはお兄ちゃんのへやにいきました。
  お兄ちゃんは「いっしょにねるか」といって、キリノは「いっしょにねる」といいました。
  でも、キリノはユメをみるのが怖かったので、なかなかねむれませんでした。
  お兄ちゃんはキリノをぎゅーっとしてくれました。
  そうしたら、キリノはあんしんして、ねむることができました』

そこで終わっていれば、いい話だった。
しかし、ああ、なんであやせが来てからというもの、スリリングな内容が連続するんだろうな、
手紙には続きがあった。

『きょうのあさ、おれいに、お兄ちゃんにちゅーをしました』

―――
――


深夜、ドアの向こうから物音が聞こえて、最初に想像したのは幽霊だった。
一人で二階で寝るようになってからというもの、
誰もいない廊下に幽霊が徘徊しているという想像は、常に頭の隅にあって、
しかもちょうど昨日の夜、怖い夢を見たばかりだった。

『誰だ?』
『…………』

誰何に答える声はなくとも、気配は依然としてそこにある。
俺が勇気を振り絞ってドアを開けたのと、桐乃が飛び込んできたのは同時だった。

『お兄ちゃんっ』
『なんだ、桐乃かぁ……どうしたんだ、こんな時間に?』
『あのね、キリノねぇ、とってもこわいユメを見てねぇ……ねむれないの』

普段なら『怖がりだなぁ、桐乃は』と馬鹿にしているところだが、
前日、怖い夢を見て、ついさっきまで寝付けなかった手前もあり、

『じゃあ、お兄ちゃんと一緒に寝るか』
『うんっ、キリノ、お兄ちゃんといっしょにねる!』

布団に入り、電気を消す。
たとえ俺が隣にいても、眠ってしまうことに抵抗があるのか、なかなか桐乃は目を瞑ろうとしなかった。
俺は桐乃を抱きすくめながら、

『お兄ちゃんがぎゅーってしといてやるから、桐乃は安心して眠りな』

『うん。お兄ちゃんの体、あったかいねぇ……』

桐乃が寝息を立て始めた頃、俺にも眠気が訪れた。
俺は桐乃の髪を撫でてやりながら、昨日見た悪夢のことなどすっかり忘れて、深い眠りについたのだった。

―――
――


ここまでは思い出せる。ここまでは。
が、どう記憶の糸を辿っても、俺が桐乃にちゅーされた場面を思い出せない。
何かの間違いなんじゃねえか、と手紙を見直すと、

「何かの間違いですよね」

と背面から手紙を覗き見ていたあやせが、震えた声で言った。
死の冷たい指先が首筋に纏わり付く錯覚がしたね。
俺は純粋な好奇心と、保身のために桐乃に尋ねた。

「なあ……この『おれいに、お兄ちゃんにちゅーをしました』ってのは……マジなのか?」

「ホントだけど?」

しれっとなんて爆弾発言しやがる!?
桐乃、お前分かってんのか?文字通り俺の生死がかかってんだぞ!
ここはマジでも冗談で書いたことにしといてくれよ!

「あんたが憶えてないのは、あたしが……寝てるあんたにキスしたから」

おい待て、それ以上の語りはやめろ。
さっきから「嘘、嘘嘘ウソウソウソウソ」という呪詛にも似た響きが聞こえてきて、現在進行形で俺の寿命が縮んでるんだが。
そのときの俺は、よほど深刻な顔つきだったのだろうか、
髪を指先で弄っていた桐乃は、ふと俺の方を見て、表情を硬くすると、

「ま、まさかあんたってば、あたしが唇にキスした……とか思ってないよね?」
「え?違うの?」
「あーキモいキモい。いくら小さな頃のあたしが……その……あんたに気を許してたからって、
  唇にキスするワケないじゃん。あたしはほっぺにキスしたの。勘違いすんなっ」

なんだ、本当に俺の考えすぎだったのか。
まあ、ほっぺのちゅーくらいなら、ぎりぎり、兄妹のスキンシップの範疇に入るよな、きっと……。

「だから、あやせも安心して」

と桐乃が言い、

「そうだったんだぁ」

とあやせが答える。
が、あやせの笑顔に、安堵感から来るものとは違う、作り物めいたぎこちなさが見て取れたのは、
ラブリーマイエンジェルの信奉者たる俺だけだろうか?
一瞬、桐乃は嘘をついていて、あやせはそれに気づいているんじゃないか――という憶測が脳裏を掠め、すぐに消えていった。

『お兄ちゃんへ。
  キリノはお兄ちゃんとあらいっこするのが大好きです。
  でも、さいきん、お兄ちゃんはいっしょにおふろに入ってくれません。
  どうしてまなちゃんとキリノがいっしょに入るのはよくて、
  お兄ちゃんとキリノがいっしょに入るのはダメなの?
  今日はゆぶねに、ゆずをうかべるとお母さんが言っていました。
  ひさしぶりに、お兄ちゃんといっしょに入りたいです』

―――
――


浴室に入ってからしばらくして、脱衣所の扉が開いた。

『ねえ、お兄ちゃん、どうしてお風呂に行くとき、キリノに何も言ってくれなかったの?』
『……忘れてたんだよ。ごめんな』
『いい』

いいって何が、と聞くと、衣擦れの音が返ってきた。

『おい、ちょっと待てって。俺、もう少ししたら出るから……』
『ダメ。キリノはお兄ちゃんのせなか、流してあげるんだもん』

当時、俺は小学五年生、桐乃は小学二年生で、俺は朧気ながらに、性の知識を持ち始めていた。
だから桐乃と一緒に風呂に入ることを避けるようになったのだが……。
脱衣所と浴室を隔てる仕切りが開き、起伏のかけらもない桐乃の裸身が露わになる。

『えへへ』

と桐乃は無垢な笑顔を浮かべて、俺が浸かっている湯船に、体を滑り込ませてきた。

子供二人といえど、一緒に入れば湯船は手狭で、
楽な体勢を追求すると、俺が桐乃を後ろから抱きかかえる格好になる。

『いい匂いだねぇ、お兄ちゃん』

ツンツン、と湯に浮かんだ柚子をつついて遊ぶ桐乃。

『ああ、そうだな』

と適当に相づちを打ちながら、俺は可能な限り、妹の裸体から意識を反らしていたように思う。
体が温まった頃、俺たちは湯船から出て、バスチェアに腰掛けた。

『じっとしててね、お兄ちゃん』

桐乃はボディタオルにソープを染みこませ、よく泡立ててから、俺の背中を擦ってくれた。

『気持ちいい?』
『ああ。すげー気持ちいいよ』
『えへへ、桐乃、上手でしょ』

あまりの心地よさに目を瞑る。
……まだ、もう少し一緒に入ってもいいんじゃないか?
甘い誘惑が、思考に靄をかける。俺はかぶりを振って、

『交代しようぜ。桐乃、後ろ向け』

少し経ってから振り向くと、そこには白くすべやかな妹の背中があった。
タオルを受け取り、柔肌を傷つけないよう、優しく擦ってやる。

『んっ、お兄ちゃん、もっと強くしてもいいよ……?』
『どうだ、これくらいか』
『うん……すごく気持ちいい……』

別に妹の体に、性的な魅力を感じているワケじゃない。
そんなのは、これから先もありえねー……と思う。
でも、そう断言できる今だからこそ、きっぱりと線引きしておく必要があるんじゃないか。
それが、ガキの俺が出した結論だった。

『桐乃、一緒にお風呂に入るのは、これっきりにしよう』
『えっ?なんで?』
『お兄ちゃんは男で、桐乃は女だ。男と女は、一緒にお風呂に入っちゃダメなんだ』
『嘘っ。だって、今までずっと、お兄ちゃんと入ってても、だれにもおこられなかったのに……』
『体が小さいうちは良くても、大きくなってきたらダメなんだよ』
『キリノはまだ子供だもんっ!キリノの体、まだ小っちゃいもんっ!』
『キリノの体がそうでも、俺の体が――』

最後まで言い終わらないうちに、桐乃が体ごとこちらに振り向く。
俺は咄嗟に目をそらし、きっとそれが、桐乃の目には拒絶のポーズとして映ったのだろう。

『やだ……お兄ちゃんのバカぁ……キリノに……いじわるしないでよぉ……』

泡のついた指で目を擦る桐乃をあやしながら、

『ごめんな。でもお兄ちゃん、桐乃に意地悪してるワケじゃないんだ』
『じゃあ、なんでそんなこと言うの……?』
『いつか桐乃にも、俺の言ってることが分かる日が来るから』
『分からない。分からなくていいっ』
『桐乃……』

それから俺は、お袋が長風呂を心配して様子を見に来るまで、桐乃を宥め続けた。

―――
――


今回ばかりは、あやせに責められる謂われはないはずだ。
なんてったって、どんなに国語能力が欠けているヤツが見ても、
この手紙は、『桐乃』が俺と一緒に風呂に入りたがっていることを示しているんだからな。

あやせは目頭を押さえつつ、

「刷り込み教育の成果ですね。桐乃はこんな時から洗脳を……」

文盲がここにいた!

「桐乃、お兄さんとお風呂に入っているときに、悪戯されたりしなかった?」
「するわけねーだろ!小学生の頃の話だぞ!」
「こ、子供だからこそ犯してしまう過ちもあるじゃないですか!」
「たとえば?」
「お医者さんごっこで、桐乃の体に触診とか……って、何言わせてるんですか変態ッ!」

即そういう発想に至ったお前が変態だよ!
くそう、やはり何を言ったところで、あやせの心証を悪くするだけだ。
「こんやくしょ」、「ちゅー」、「いっしょにおふろ」の怒濤の三連撃で、いよいよ俺のライフは残りわずかである。

「聞いて、あやせ」

と、突然桐乃が、よく通る声で言った。
あやせはオイルライターと俺宛の殺意をいったん仕舞い、

「どうしたの?」
「手紙、見てもらったら分かると思うんだケド……。
  小さい頃のあたしらって、結構……ううん、かなり、仲良かったんだよね。
  だから、あたしが兄貴と一緒にお風呂入りたがってた、っていうのも本当だし」

そこで桐乃はチラ、と俺の方を盗み見て、

「お風呂は別々に入ろう、って言い出したのも、兄貴の方なんだ。
  あたしはそれが嫌で、お風呂で大泣きしちゃってさぁ」

俺はあやせへの身の潔白の証明と、思い出話を兼ねて言った。

「あ、あの時はあの時で、またお袋の誤解を解くのが大変だったよな」

風呂場で子供が泣いていたら、転んで怪我をしたのでは、と疑うのがフツーだが、
お袋はまず第一に、桐乃が俺に悪戯されたことを疑った。
まあ、予め一緒に入ることをお袋に伝えていなかったことも、原因の一つだが……今から考えると酷い誤解だよな。

「しかもその後、あたしが怒って、しばらく兄貴と口聞かなかったんだよね」
「どれくらいだっけ。三日くらいか?」
「一週間くらいじゃなかった?」
「いや、そんなに長くなかっただろ」
  
割とすぐに、お前の方から話しかけてきてくれた覚えがあるぞ。
控えめに俺の部屋のドアをノックして、『お兄ちゃん、学校のしゅくだい、おしえて?』ってさ。
あの頃、お前は体育が苦手でも、勉強の方は余裕で、
だからあれはきっと、俺と仲直りするためのきっかけ作りだったんだろうな。

「あはっ、バレてたんだ」
「あのときの俺はすっかり騙されてたよ。
  お前が口聞いてくれたことが嬉しくて、バカ丁寧に算数を教えてやってた気がする」

俺は笑った。桐乃も笑った。
アレ、なに俺たちフツーに談笑してんだ?と冷静になったそのときだった。

「帰ります」

すっくとあやせが立ち上がった。

「え、もう帰っちゃうの?」
「お前、泊まってくつもりじゃなかったのか?」

てっきり「俺と桐乃を一晩二人きりにできない」とかなんとか理由をつけて、
親父とお袋が帰ってくる明日まで居座るとばかり思っていたんだが。

「両親と外食する予定があるので。……お邪魔しました」
「待って。家の外まで送るから」
「外、すっごく寒いからここでいいよ。じゃあね、桐乃」

それからあやせは、俺に複雑な感情を宿した一瞥を投げかけ、静かに部屋を出て行った。
やがて玄関の扉が開き、閉まる音が聞こえた。

いやいや待て待て。

なんで急に帰っちまったんだろうな、とか。
最後にくれた一瞥の意味はなんだったんだろうな、とか。
んなことがどうでもいいと思えるくらいに、あいつは重大な忘れ物をしていきやがった!

呆気にとられる妹を部屋に残し、俺は全速力であやせを追いかける。
玄関を飛び出し、自転車は……ダメだ、ハンドルをまともに握れねえ。
道に出ると、遠くの方に白い人影が見えた。

「あやせ!」

近所迷惑も顧みずに叫ぶ。
声は届いたようで、あやせは立ち止まった。が、何を思ったか再び家路を歩き出す。

「待てよっ……はぁ……はぁ……」

あやせの背中に追いつく頃には、不自然な体勢で走ったことも祟って、ヘロヘロになっていた。

「どうしたんですか、お兄さん?」

と、恐らくは心当たりがあるくせに、澄まし顔で宣うあやせ。

「手錠だよ、手錠!外すの忘れて帰っただろ」
「別に、忘れて帰ったつもりはないんですけど」

おま……手錠つけさせたまま俺に日常生活送らせるつもりだったの?
どんな罰ゲームだよ畜生。

「外して欲しいですか?」
「ああ、さっさと外してくれ」
「…………」
「外してくださいお願いします」

カシャカシャン。
施錠したときと同様、目にも留まらぬ早業で、あやせは解錠を済ませ、手枷をバッグにしまった。
両手を解放されて調子に乗った俺は、余計なことを言った。

「お前さ、桐乃と俺を二人きりにするのが嫌だからって理由で家に来たのに、
  こんなに早く帰っちまって良かったのか?」
「わたしが帰る理由は……さっき言ったとおりです」

というと、マジであやせの親父さんとお袋さんと、外食に行くからか?
あやせは俺の言葉には応えずに、

「お兄さんは、今日は部屋のお片付けをされていたんですよね」
「ああ。あと二ヶ月もすりゃあ俺も大学生だし、気分を一新しようと思ってさ」
「やっぱり……」

あやせは物憂げに目を伏せ、

「だから桐乃は……それならわたしも……」

などとブツブツ呟いていたが、不意に、一投足で距離を詰めてくると、

「お兄さん。
  こんなこと、わたしが言うまでもなく、分かっていることだと思いますけど。
  ――桐乃と過ごす時間を、大切にしてあげてください」

そして俺が何か言う前に、

「さよなら!」

踵を返して、たたた、と走っていってしまった。
俺は小さくなるあやせの背中に語りかけた。
なあ、率直な感想を言ってもいいか?……ワケが分からん。
お前、ついさっきまで、俺と桐乃が過ごす時間を思いっきり危険視してたよな?
いったい全体、どんな心境の変化だよ。

家に帰ると、玄関に立った時点でイヤ~な予感がした。
回れ右をして田村さん家に緊急避難した方がいい、と第六感が訴えかけてくる。
杞憂だと信じて扉を開けると、

「あ、おかえり兄貴。
  先に夕ご飯作り始めてるケド、兄貴も手伝ってくんない?」

ホント、イヤな予感に限ってよく当たるよなあ。
居間に赴くと、台所は惨状の一歩手前の様相を呈していて、
桐乃の料理の腕が、まるで上達していないことを思い知らされる。

「ちょっと色々失敗しちゃってさぁ、でも、まだまだ修正きくと思うんだよねー」

『ちょっと』と『色々』が矛盾していることに気づけバカ。
あと、修正するのはお前じゃなくて俺だからな……。

三十分後。

「おいしい?」
「さも自分が作ったみたいに言うな」
「ハァ?あたしとあんたの合作でしょ?で、味は?」
「ん……、うまいよ」

桐乃の作りかけていた料理が、カレーだったから、まだ味付けの修正が効いた。
付け合わせのサラダも酷い切り方だったが、こちらも見た目を気にしなければ、普通に食える。

「兄貴ってさ、なにげに料理できるよね」
「なんだよ、いきなり」
「だって、子供の頃からそうだったじゃん。
  特に練習してたワケでもないのにさぁ」
「お袋によく手伝わされてたからな。
  でも、最近は自分なりに、レパートリー増やそうと頑張ってんだぜ」
「ふぅん、なんで」

料理ができる男はモテるぞ、と赤城に触発されたからだとは言えず、

「いや、まあ、なんとなくな」
「…………」

桐乃は煮込み足りない具材でも噛んだような顔になり、それからは黙ってカレーをかき込み始めた。
夕飯を食い終わると、自然と俺が食器洗い、桐乃が風呂の準備と役割分担が決まった。
食器をすすぎながら考えるのは、別れ際の、あやせの一言だ。

――『桐乃と過ごす時間を、大切にしてあげてください』――

別に桐乃となんざ、普通に生活してるだけでイヤというほど顔を合わせるってのに。
まるで、桐乃と俺が離ればなれになってしまうみたいじゃないか……ほら、桐乃がアメリカに行っちまったときみたいに。

「あ」

ごとん、と食器が手から滑り落ち、音を立てた。
これってもしかしなくても、もしかするんじゃないか?
実は桐乃は俺に隠れて、スポーツ留学に再挑戦しようと考えていて、
それをあやせは知っているから、遠回しに俺に忠告してきたのでは……。

んなワケねーだろ、と一笑に付したい自分と、
ここ最近、様子がおかしい桐乃を顧みて、真剣に疑い始めている自分が、俺の中に同居していた。
時間が経つにつれて肥大してくのは、やはり、後者の思考だった。

だって、冷静に考えてみろよ。おかしいだろ。
あの気位が高くて、自分の恥部を晒すことを何より厭う俺の妹が、
常日頃から『嫌い』と公言している兄貴に向けた手紙を、当の本人に読ませてるんだぜ?
賭けてもいい。これには絶対裏がある……。

「兄貴、お風呂入れといたから」
「あ、ああ。ありがとな。こっちも今終わったところだ」

手の水気をタオルで拭き取り、桐乃と向き合う。
湯船がいっぱいになるまで、20分。
普段なら銘々の部屋にいき、別々の時間を過ごすところだが――指先に髪を巻き付けながら、桐乃が言った。

「あんたの部屋行こ。……手紙、まだたくさん残ってるでしょ?」

階段を上がり、俺の部屋の前に来ると、
桐乃はこちらに向き直り、

「兄貴はしばらくここで待ってて。
  良いって言うまで、入ってきちゃダメ。分かった?」
「別に構わねーけどさ……」

これ言うの二回目だが、ここ、俺の部屋だからな?
なんで部屋主の俺が閉め出し食らってんの?
寒い廊下で待たされること数分、

「いいよ」

部屋に入ると、散らばった手紙の片付けでもしてくれているのかと思いきや、
惨状はそのまま、別段何か変わったというところも発見できなかった。

「何やってたんだ?」
「な、何だっていいじゃん。さ、次の手紙選んで」

と言われて、素直に従えるほど俺は単純でもなかった。
怪しい。桐乃が俺を閉め出している間に、何か細工をしたことは間違いない。
エロ本チェック……はねえか。お袋じゃあるまいし、そもそも桐乃はエロ本を見るのも嫌がるからな。
俺の部屋から何か持っていった……というのも考えがたい。
ここに桐乃が欲しがりそうな物はねえし、桐乃の性格を鑑みれば、
「これ貸して(=ちょうだい)」と正々堂々申し出てくるはずである。

となれば、残る可能性はひとつ。……桐乃は何かを仕込んだのだ。

俺は改めて、辺りを見渡した。
机の上、コンポの上、棚の中、ベッドの下と、一通り何か隠せそうなところを見てみたが、やはり、何かが増えた様子はない。
が、そのとき、頭の中に閃くものがあった。
昔の人は言いました。――木の葉を隠すなら森の中、と。
俺は立ち上がり、"森"を見下ろした。
すると、折り重なった手紙の合間に、ひとつ、真新しい色合いの便箋が混じっているのが分かった。

「なあ、この手紙って……」
「……………」

うつむき、前髪で表情を隠す桐乃。
覗いた耳が、見る間に赤く染まっていく。
俺は黙って便箋を拾った。
それはこれまで読んできたものと同じように、桐乃から俺に宛てられた手紙だった。
ただ、それを書いたのは小さなキリノではなく、現在の、目の前にいる桐乃だった。

『兄貴へ。
  今まで、たくさん優しくしてくれて、ありがとう。
  ワガママで、可愛くない妹で、ごめんなさい。
  もう、一緒に過ごす時間が残りわずかなので、この手紙を書きました。
  兄貴はあたしと喧嘩したキッカケを憶えてる?
  たぶん、忘れてると思うから言うね。
  六年前、あたしと公園に出かけた兄貴は、あたしをひとりぼっちにして、男の友達とどこかに行ってしまいました。
  あたしはそのとき、あたしが女の子だから、仲間はずれにされたと思ったの。
  でも、兄貴はまなちゃんとは、それまでどおりに遊んでた。
  どうして兄貴があたしを避けるのか、あたしには分からなかった。
  兄貴に構ってもらえなくなったのが悲しくて、いつも公園に置いてきぼりにされることが悔しかった。
  それで、あたしは、兄貴に嫌われるくらいなら、あたしの方から嫌いになってやろう、って思ったんだ。
  きっと、あれが兄貴とした、初めての喧嘩だったよね。
  それから、仲直りできないまま何年も過ぎて、
  あたしは本気で兄貴から嫌われちゃったんだと思ってた。
  だから、二年前、兄貴があたしの趣味を守ってくれたときは、本当に嬉しかったよ。
  でも、あたしは素直になれなかった。
  友達を作ってくれたり、アメリカに迎えに来てくれたり、
  兄貴があたしのことを思ってくれてるのは、痛いほど分かるのに、あの頃のあたしに戻れなかった。
  あの頃みたいな自分に戻れば、また兄貴に避けられちゃうんじゃないかって、怖かった。

  結局、あたしは今でも、兄離れできていないんだと思う。
  兄貴が妹離れした年になっても、それから三年経った今でも、
  あたしの兄貴への気持ちは、小さいときから全然変わってないんだ。
  兄貴のことを困らせたくないから、もう、あの頃のあたしには戻らないけど、
  最後にひとつだけ、ワガママを聞いてください。
  あたしと仲直りして。
  桐乃より』

―――
――


『お前、妹つれてくんの?』
『ありえねー』
『ジャマになるからおいていこうぜー』

小学六年の夏休み。
公園に妹の手を引いて現れた俺を、友達は口を揃えて非難した。
俺は桐乃の手を離して言った。

『桐乃はここで待ってろ』
『どうしてぇ?キリノも、お兄ちゃんたちといっしょにあそぶ』
『ダメだ。後で迎えに来てやるから、良い子にしてな』
『やだ……キリノもいっしょにいくっ!キリノをひとりにしないでよぉ!』

友達は『泣いた、泣いた』と囃し立て、公園の出口に駆けだした。
俺はTシャツの裾をつまむ桐乃を振り払い、友達の後を追った。
『お兄ちゃんっ!』――桐乃の悲痛な泣き声に、必死で耳をふさぎながら。

その出来事以来、俺は妹を避けるようになった。
きっと、どうして俺がお守りをしなくちゃならないんだ、という苛立ちと、
妹に愛情を注ぐ姿を家族以外の誰かに見られることへの気恥ずかしさが、俺にそうさせていたんだろう。

『ねえ、どうしてお兄ちゃんは、キリノとあそんでくれないの?』
『キリノが女の子だからダメなの?』
『どうしてまなちゃんとはあそぶの?』
『お兄ちゃんは、せかいでいちばん、キリノのことがだいすきなんでしょ……?』

――もういい。お兄ちゃんのことなんて、嫌い。
ある日、桐乃がポツリと漏らした一言は、深く俺の胸を抉った。
桐乃を公園にひとりぼっちにしてから、俺は散々、桐乃に嫌われるようなことをしてきた。
桐乃の心境の変化は、当たり前だ。
なのに、俺は心のどこかで、桐乃はいつまでも無条件で自分を慕ってくれると信じていた。
もしそのときに、『ごめんな、桐乃。もうお前のことを邪険に扱ったりしないから』と抱きしめていたら、
俺と桐乃の関係は、元の温かなものに戻っていたのかもしれない。
しかし俺は素直になれなかった。桐乃が言った『嫌い』の一言が、二の足に釘を刺していた。
一番言いたい言葉はいつしか、絶対に言えない言葉に変わっていった。

―――
――


自然に、唇が動いていた。

「ごめんな、桐乃」
「あたしの方こそ、ゴメン。
  あの頃のあたしってさぁ、今から思い返してもちょっと引いちゃうくらい、お兄ちゃん子だったよね。
  兄貴に依存しすぎてて、自分が兄貴の負担になってることにも、気づいてなかった」
「妹が兄貴に迷惑かけて、何が悪いんだよ」

悪かったのは俺の方だ。
友達に笑われるのが恥ずかしいから、
お守りをするのが面倒だから、妹をひとり置いてきぼりにした?
挙げ句、幼い桐乃に『嫌い』と言われていじけてたとくれば、当時の俺は百点満点の大バカ野郎だ。
助走をつけてぶん殴ってやりたいね。

俺はおそるおそる聞いてみた。

「お前は、あのとき俺がしたことを、もう、許してくれてるのか?」

桐乃はこくん、と頷いて、

「あのときの兄貴と同じ年になって、分かったんだ。
  仲の良い友達ができて、やりたいことができて、
  そんなときに妹に付きまとわれたら、鬱陶しいだろうな、って……」
「じゃあ、お前に人生相談されるまでの、冷戦期間は?」

俺が意地を張りつづけたばかりに、俺とお前の関係は、長いこと冷え切っていたんだぜ。

「アレは別に、兄貴だけのせいじゃなくない?
  兄貴はあたしとの喧嘩が長引いた原因が、自分にあると思ってるのかもしれないケド……。
  それを言うなら、あたしが素直になれなかったのも、喧嘩が長引いちゃった原因でしょ?
  あたしはさ……こうやって、兄貴と仲直りできて……それだけで良かったの」

嘘だ。こんな仲直りの儀式ひとつで、桐乃を苦しめた罪が、購えるワケがない。
小学三年生の夏から、中学二年の春まで。
俺と桐乃が初めて喧嘩した日から、俺が桐乃から人生相談を受けた日まで。
約五年間ものあいだ、俺は兄貴の仕事をほっぽり出して、妹と向き合うことを避けていた。

「どうすれば、埋め合わせができる?」

滑稽だ、という自覚はある。
とっくに自分を許している相手に、贖罪の方法を尋ねるなんてな。
桐乃はしばし黙考し、ふと口を開きかけ、喉元まで来ていた言葉を飲み込んだ。

「なんだ?」
「う、ううん……やっぱり、やめとく」
「遠慮すんな。できる限りのことはするつもりだぞ」
「ほ、ホントに何もしなくていいから。
  あたしも、兄貴と喧嘩してたときは、兄貴に何もしてあげられなかったワケだし……」
「兄貴と妹じゃ、責任の重みが違うんだよ。ほら、言ってみ」
「…………」

それから、長い沈黙があり。
やがて、桐乃は窓外の木枯らしにも負けそうなほど小さな声で言った。

「今日一日だけ……あの頃みたいに甘えてもいい?」

妹萌えは二次の話だけ、三次で妹萌えとかありえねー。
……そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。
俺はしどろもどろになりながら言った。

「あ、甘えてもいいかって……俺は何をすりゃあ……」
「兄貴は何もしなくていいから」

桐乃は四つん這いで距離を詰め、ちょこんと俺の隣に座った。

「そのままじっとしてて」

と言いつつ、頭を俺の肩に乗せてくる。
ああ、そういや昔はこうしてよく、二人でテレビを見ていたっけ。
映画を観ながら眠ってしまった桐乃を、何度寝室に運んでやったことか……。

「ねえ、兄貴……あたしが今、兄貴のコトとどう思ってるかは、手紙に書いたとおりだケド……。
  兄貴はあたしのこと、どう思ってるの?」
「俺も、お前と同じだよ。
  お前は手紙に、俺が妹離れしたって書いてたけど、あれは間違ってる。
  俺はまだまだお前のことが心配で、ほっとけなくて……その……アレだ」
「アレ?」

ここで、俺は皆さんに深いお詫びをしなければならない。
今まで散々、妹のことが大ッキレーだの、ムカツクだの言ってきたが、ありゃ嘘だ。
俺は言った。

「……大好きだぞ、桐乃」

ああ、近場に鏡がなくて助かった。
今の俺の顔面は、直視に堪えないレベルに成りはてていただろうからな。

そして、昨日までの桐乃なら

「自分からシスコン宣言するとか超キモいんですケドぉ~。
  真顔で妹に『大好き』とかマジ通報レベルだしィ。死んだ方がいいよ?」

と容赦なく罵声を浴びせかけてくるところが、今日に限っては、嬉しそうにクスッと笑い、

「……あたしも」

と囁きかけてくるデレっぷりである。
それから他愛もない会話を続けること数分、
階下から、湯船がいっぱいになったことを知らせる音が聞こえてきた。
身を離し、「桐乃から先に入れよ」と言いかけたところで、何かを期待するような碧眼に射貫かれる。
脳裏を過ぎるは、桐乃に背中を流してもらった思い出の数々。
いや、さすがにそれはマズくね?
いくら兄妹でも、立派に成長した女の裸見て、冷静でいられる自信はねえ。
俺は咄嗟に、階下からの音が聞こえなかったフリをして尋ねた。

「手紙に書いてあった、『一緒に過ごす時間が残りわずか』ってのは、どういう意味なんだ?」

俺は続けて訊いた。

「スポーツ留学に再挑戦するのか?
  それとも、エタナーの専属モデルの話を受けることにしたのか?」
「えっ……誰から聞いたの、そんな話?」

呆気にとられた様子の桐乃。
どうやら両方とも違うらしく、俺に、その二つ以外の心当たりはない。

「じゃあ、何のために家を出るんだよ?」

と言うと、桐乃は目をぱちくりさせて、

「ちょ、ちょっと待って。なんであたしが家を出るって勝手に決めつけてるワケ?
  てゆうか、家を出るのは兄貴でしょ?
  大学入ったら、家を出て一人暮らしするって、この前お母さんと話してたじゃん」

「お前、盗み聞きしてたのか?」
「リビングに入ろうとしたら、聞こえてきたのっ」

そこでドアに聞き耳を立てるのが、世間では盗み聞きという。
俺は勘違いしているらしい妹に、事の顛末を聞かせてやった。

「結論から言うと、俺が一人暮らしする話はナシになったんだよ。
  親父に、そんな贅沢をさせる金はない、ってバッサリ切り捨てられちまってさ」
「じゃあ……」
「春からも、俺は家から大学に通う」

ぽかんと口を開けたままフリーズした桐乃を余所に、俺はあやせの

――『桐乃と過ごす時間を、大切にしてあげてください』――

という言葉を思い出していた。
あやせはきっと、麻奈実から『俺が一人暮らしするかもしれない』という話を聞かされて、それを鵜呑みにしたんだろう。
一人暮らしの話が御破算になったのはつい昨日のことだ。
食い違いは避けようがなかった。

掠れた声で、桐乃は訊いてきた。

「じゃあ、朝、部屋を片付けてたのは……?」
「ただの模様替えだ」
「最近、料理を練習してたのは……?」
「友達に、料理が上手い男はモテるって言われてな」

俺は朝、桐乃が俺の部屋に入ってきた場面と、夕食の場面を思い出す。
そういえば、部屋の模様替えに奮闘している俺を見て、
料理のレパートリーを増やそうとしている、という俺の話を聞いて、桐乃は機嫌を損ねていっけな。
あのときは何が不愉快なのか、見当もつかなかったが……。

「もしかしてお前、模様替えを引っ越す準備と、料理の練習を自炊の訓練と勘違いしてたのか?」

桐乃は首筋まで肌を赤く染めて、コクリと頷く。

「でも、結果的には、勘違いしてよかったのカモ」
「なんでだ?」
「こんな風に追い込まれなきゃ、あたし、兄貴に昔の手紙を見せようなんて思わなかった。
  手紙を読み返しているうちに、小さい頃のこと……喧嘩の理由を兄貴が思い出して、
  自然に仲直りできたらいいなって……それが、兄貴に手紙を見せた理由」
「そうだったのか……でも結局、俺が思い出せたのは、今のお前が手紙を書いてくれたお陰だよな」
「あ、あれは、兄貴が全然肝心なコト思い出してくれなかったから、仕方なく!」

桐乃が俺の腕に抱きつき、こちらを見上げて八重歯を剥く。
その仕草がぴったりと、幼少の桐乃と重なり、
俺もつい、あの頃と同じように、ふっくらした頬を親指の腹で撫でてやる。
いつまでも、こんな時間が続けばいいと思った。
が、階下から響く二度目のコールサインが、兄妹団欒の空気を破った。

「あっ、お風呂わいたみたい」
「お、おう、そうみたいだな……」

なあ、桐乃。
さっき、今日一日限りであの頃の俺たちに戻る、とは言ったが、
さすがにこの年で、風呂に一緒に入るのは……。

「ねえ、久しぶりに、背中流してあげよっか?」

ああ、この純真無垢な問いかけに、どうして邪念を言い訳にして首を横に振れようか?
結局――その夜、俺は実に六年ぶりに妹と同じ湯を浴び、同じ布団で眠った。
その間、どんなやりとりがあったかは想像にお任せするが、
断じて妹に手を出すような真似はしなかった、と言っておく。
散々妹のことが嫌いだと断っておきながら、ついさっき妹に「大好きだ」と宣言した俺が言っても、信憑性は皆無だろうけどさ。

さて、一応この話にはオチがある。
翌朝、俺たちは派手に寝坊した。
理由は単純、桐乃は久々に俺と一緒に寝たことで熟睡し、
俺は隣に桐乃がいることで深夜まで寝付けなかったからであり、
結果として俺たちの同衾風景は、午前中に帰宅したお袋と親父に、バッチリ目撃されることになった。
そして今、俺がどんな状況に立たされているかというと……。

「京介」

親父はハンカチで目元を拭うお袋を横目に据えつつ、悲しみに暮れた調子で言った。

「俺は真剣に、お前の一人暮らしを考えることにした」




おしまい!

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2011年08月25日 09:45