柏崎港の戦い

柏崎港の戦いとは永禄十二年8月に姉小路家と姉小路包囲網勢力との間で起こった戦いである。
上杉家と姉小路家との戦闘が行われた柏崎の地名をとって呼称されているが、
姉小路家が上野沼田城、信濃海津城を占領した事についても包括して扱う。

参加兵力及び戦力評価

上杉家・柏崎港7155(+援軍5000)

姉小路家
柏崎港攻略隊
混成前衛隊:足軽隊5000:本願寺顕如真柄直隆小島職鎮
雑賀鉄砲隊:鉄砲隊6000:鈴木重秀(雑賀孫一)原長頼鈴木重兼
近江鉄砲隊:鉄砲隊5000:浅井長政アリス・マーガトロイド鈴木重泰

別働隊
海津城攻略隊:足軽隊10000:黒田孝高伊吹萃香レティ・ホワイトロック
沼田城攻略隊:足軽隊9000:磯野員昌海北綱親朝倉景紀

概要

上杉家では南越後攻略戦の大敗によって、対姉小路を担っていた兵力がほぼ消滅した。
姉小路家はこの好機を逃さず未だ戦塵くすぶる南越後の安定化と柏崎港に残る上杉家の残存兵力の掃討、加えて武田家への牽制を行うために三方面への同時侵攻を行った。
海津城攻略隊1万、柏崎港攻略隊1万6千が7月26日出陣。沼田城攻略隊9千は少し遅れて8月5日出陣。
対する柏崎には兵7155。海津城及び沼田城には兵が全くといってよいほど駐在していなかった。
なぜ全く兵を置いていなかったのかには諸説あるが、有力説に対姉小路包囲網の盟約で海津城及び沼田城を非武装地域として軍事的な空白地域とし、武田上杉間の紛争を予防していたという協定説がある。
いずれにしても海津城は8月20日、沼田城は9月4日に姉小路家の攻撃開始と同日に開城している。
一方、柏崎では上杉方は先の大敗で士気が下がり兵も少ないので部隊出撃もままならず、篭城を強いられていた。
篭城といっても柏崎の防備は堀と低い壁で囲まれている程度であるため、姉小路方の一方的な攻撃によって陥落を待つばかりとなっていた。
この閉塞感漂う柏崎に8月27日、庄内地方で開拓に従事していた北楯利長が庄内地方や揚北地方から集めた援軍5千を引き連れて到着した。この時点で兵力だけは1万を超え、8月29日村上義清が7千の迎撃隊を率いて出陣。
しかし手持ちの兵糧が少なかったことに加えて足軽隊によって港との連絡を遮断されたために9月1日に柏崎港へ撤退した。この後は抵抗らしい抵抗もできず、9月10日に柏崎港は陥落した。

この戦いの影響

姉小路方はこれまで上杉家の侵攻に脅かされていた輪島港が後方領となり、対上杉家の前線を柏崎港のみに収束することに成功した。加えて信濃のみならず上野の武田領にも圧迫を加え、武田の大生産拠点である関東8州に楔を打ち込んだ。
本来、越後から険しい三国峠を超えて三国街道の先にある沼田城を落とすのは困難である。これを、容易に落とす事ができたのはまさしく幸運であった。
武田は上述のとおり、信濃、関東を圧迫された。
上杉はさらに兵力を失って新発田城の陥落も時間の問題となってしまった。

逸話

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最終更新:2010年08月28日 19:29