第二次美濃防衛戦

第二次美濃防衛戦(だいにじみのぼうえいせん)とは永禄11年冬から12年春に姉小路家と武田家の間にかけて起きた戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路家
稲葉山城兵72154 守将:竹中重治
第一部隊:鉄砲隊3000:霧雨魔理沙山崎片家仙石秀久
第二部隊:鉄砲隊8000:博麗霊夢関一政ルーミア
第三部隊:鉄砲隊3000:明智光秀六角義治斎藤龍興
第四部隊:鉄砲隊3000:八雲紫松本氏輔
弾幕隊:鉄砲隊各1000:斎藤利三
山中幸盛中川清秀
丹羽長秀日根野弘就
宮部継潤
滝川益重
淡河定範
明智秀満鵜殿長照
弓隊1000:赤井直正吉田重政

武田家
岩村城兵
武田信玄:弓隊22000
高坂昌信:騎馬隊14500
榊原康政大関高増大田原資清:騎馬隊14500
太田資正:足軽隊9500
沼田祐光保科正俊:足軽隊8000
藤原妹紅:9000
内藤昌豊:9000

長野業正小幡信貞:破城槌隊16000
武田信繁:破城槌隊13000
諏訪勝頼山本晴幸:破城槌隊20500
武田義信:破城槌隊14000

姉小路家は尾張攻略戦の勝利により東海道方面の武田軍を撃破したが、そちらに兵を多く回したため美濃の守りが薄くなっている。加えて、弾幕要塞を捨てているため防御力は落ちている。
武田家は尾張陥落により東海道方面の兵力は減少したものの、中山道方面は多数の兵を擁しており、未だ武田の驚異は衰えを見せていない。

背景

尾張攻略戦後の時点で対武田方面の姉小路家の兵糧は必ずしも余裕があるわけではなかった。
事実、同時進行で行われている対上杉家への侵攻作戦に必要な物資を考えれば
尾張かその次の三河が侵攻の限界点であった。
しかし、第二次稲葉山会戦によって武田の圧力が減殺したため、
姉小路家は弾幕要塞を破棄して美濃国の農業を振興していた。
この試みが成功すれば姉小路家の兵糧事情は大幅に改善されることは確実であった。
武田家にとってこれは姉小路家の侵攻の圧力が強まることを意味する。
武田家の侵攻は対武田最大の補給基地として生まれ変わりつつあった稲葉山城を叩いて、
美濃復興を妨げ、あわよくば奪取することを目的としていたと考えられる。

概要

一月二十日、武田軍の先陣、高坂昌信隊が南門付近に着陣。
以下、南門に武田信玄隊、西門に榊原康政隊、藤原妹紅隊、
北門に内藤昌豊隊、太田資正隊、沼田祐光隊など続々と配置に付いた。
ただし、武田一門衆、長野業正率いる破城槌部隊は行軍にやや手間取ってこの時点では着陣していない。

当時、武田家は馬不足に悩まされていた。清洲城での戦いで多くの軍馬を失っていたからである。
そのために騎馬部隊は榊原、高坂両隊のみであり、その他の部隊は足軽が主力となっていた。
信玄自身の部隊はあまり熟練していない農兵中心の弓兵であった。

これに対して姉小路家は敵の一隊に火力を集中させる方針をとる。
まず最初に交戦状態となった高坂隊に照準を定めた。
数万丁に及ぶ鉄砲の銃撃を受けた高坂隊はまたたく間に兵を損耗した。
彼は窮余の一策として早朝の濃霧に紛れて稲葉山城へ攻めかかり、放火を試みたが突然の雨で失敗。
逆に城方に気づかれて銃撃を受け、その上、撤退時に雨で濡れた岩肌で滑落する兵が続出。
隊は壊滅して高坂昌信は岩村城への撤退を余儀なくされた。
次いで北門内藤昌豊隊が標的となるも、霧雨魔理沙隊の強襲で兵の過半を失った上に陣屋を焼き払われ、
敗走するところを明智光秀隊に補足され全滅。
その次に標的となった沼田祐光隊は滝川益重によって主将が狙撃され討死。
副将の保科正俊が指揮を引き継ぐも八雲紫隊の銃撃の前に長くは持たなかった。
続いて内藤昌豊隊、藤原妹紅隊と各個に退けていった。
ここまで戦果を挙げられたのは戦えたのは稲葉山城を守る竹中重治が敵の攻撃を引き付け得たからである。
これによって弾幕隊を集中運用することが可能になった。
武田勢は完全に攻めあぐねたといって良い。

しかし、ここでようやく破城槌隊が到着、城門への攻撃を開始した。
4部隊、6万5千近い後続には流石に稲葉山城の城門が耐え切れず2月10日、
武田義信は城門の破壊に成功した。
榊原康政隊、太田資正がこれに続き、稲葉山城内で激しい戦いが行われた。
しかし、榊原康政隊は既に集中砲火を受けて副将が負傷しており戦力は長く戦うに耐えなかった。
八雲紫隊の攻撃で半壊。霧雨隊によって完全に壊滅した。
直後に太田資正隊も明智光秀隊の猛攻の前に壊滅。
この時点で戦場に残る武田軍は信玄弓隊と破城槌隊のみとなった。

城内に突入していた武田義信隊は引き返す間もなく崩壊。
不利となった武田軍は起死回生の一手として武田信繁、長野業正の稲葉山城へ調略を試みた。
しかし、内応するはずだった間者は捕らえられて失敗。
逆に反間計を仕掛けられて武田信繁隊は混乱に陥り、他の隊へも少なからぬ影響をだした。
長野業正隊は混乱こそしなかったものの、光秀隊の激しい銃撃によって6000もの兵力を失い、
その後も代わる代わる弾幕部隊に襲われ、吉田隊の弓の一斉射撃によって壊滅した。
ほぼ同時に混乱から立ち直ることができなかった武田信繁隊も総崩れとなった。
既に合戦は掃討戦となっており、信玄率いる弓隊は霧雨隊によって大きな損害を受けて駆逐され、
最後に殿軍の諏訪勝頼隊が隊伍をそろえて撤退にした時点でこの戦役は終結した。



この戦いの影響

この戦いは結果として一方的な姉小路方の大勝となった。武田家は多くの兵力を失い、姉小路家の侵攻に
耐える事は難しい状況であった。しかし、一方の姉小路家も侵攻するための兵糧が不足していた。
これは上杉家との戦闘が続く北陸に備蓄の大半を輸送していたからである。
よって武田領への逆撃はできなかった。
その後は姉小路方では武田の侵攻で中断した新田開墾を再開し、美濃や尾張の復興急ピッチで行った。
つまりは武田の美濃復興の妨害という目的は成功しなかったのである。
武田家では兵馬を補充し、姉小路家へ捕虜の返還を求めて交渉するなど戦力の回復に努めた。

逸話

この合戦が行われる直前に一部軍団長クラスの所属の変更が行われており、
これまで稲葉山城防衛に当たってきた蜂須賀正勝は清洲城代に着任、
武田信虎の軍団も清洲城に所属している。
そのため、姉小路頼綱は竹中重治、明智光秀、異能衆を初めとした諸将を美濃へと派遣した。
陣割では重治が守備を固め、博麗霊夢が東門守備を担当した。
これは基本的に、正勝、八雲紫の役割をそのまま交代させたものである。
東門守備がこれまでの八雲紫ではなく博麗霊夢なのは、長く同僚として勤めている
明智軍団及び竹中重治とのチームワークを優先したからであろう。

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最終更新:2010年01月02日 18:37