☆このページでは、霧雨の野望における遠藤慶隆について詳細に解説しています。
史実での遠藤慶隆について詳しく知りたい方はwikipediaなどの遠藤慶隆を調べてください
遠藤慶隆(えんどうよしたか)(天文19年(1550年- )
決戦3において発見される。
が、登用に失敗。ギリヨンや牛丼以下としか言いようがない程度の能力の彼を登用しようとしたのは姉小路家との縁ゆえか。
今後登場する事はあるのだろうか?
☆出生・家族構成
☆官位・役職
☆参加合戦
統率47 武勇50 知略36 政治44 義理51
足軽D 騎馬D 弓C 鉄砲D 計略D
兵器D 水軍D 築城D 内政D
戦法:斉射
なし(遠藤慶隆、そんなのもいたな……と、登場しながら無視された)
八幡藩初代。有名な山内一豊の妻見性院の兄と言われる。飛騨方面の抑えの将で大殿やいい笑顔のライバルの一人。
金森の三木氏討伐にも加わっている。秀吉と対立して減封されるものの、関が原で東軍について武功をあげ、大名に返り咲く。
彼の娘はいい笑顔の息子、三木直綱の妻である。遠藤慶隆には男子がおらず、後に三木直綱の子の慶利を養子にして後を継がせる。
つまり、八幡藩藩主は血筋的にはいい笑顔の男系子孫である。
最終更新:2009年02月05日 19:08