第三次越中防衛戦

第三次越中防衛戦(だいさんじえっちゅうぼうえいせん)とは永禄11年に姉小路家と上杉家の間に起こった戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・富山城兵57622
守将:朝倉宗滴
迎撃部隊:足軽隊12500:柴田勝家富田景政小島職鎮
第一弾幕隊:鉄砲隊1000:伊吹萃香黒田孝高鵜殿長持
第二弾幕隊:鉄砲隊1000:本願寺顕如天野景貫氏家行広
第三弾幕隊:鉄砲隊1000:鈴木重秀長続連神保長職
第四弾幕隊:鉄砲隊1000:アリス・マーガトロイド朝倉義景鈴木重兼
第五弾幕隊:鉄砲隊1000:佐々成政赤尾清綱
第六弾幕隊:鉄砲隊1000:レティ・ホワイトロック真柄直隆
第七弾幕隊:鉄砲隊1000:磯野員昌鈴木重泰
第八弾幕隊:鉄砲隊1000:鈴木重意朝倉景健
第九弾幕隊:鉄砲隊1000:海北綱親
第十弾幕隊:鉄砲隊1000:朝倉景鏡
第十一弾幕隊:鉄砲隊1000:原長頼朝倉景紀

上杉・春日山城兵60000
第一部隊:騎馬隊14500:上杉景勝
第二部隊:騎馬隊10000:四季映姫・ヤマザナドゥ
第三部隊:騎馬隊9500:村上義清
第四部隊:騎馬隊9000:斎藤朝信
第五部隊:騎馬隊8500:中条藤資
第六部隊:騎馬隊8000:氏家守棟

柏崎港兵5500
第一部隊:騎馬隊5500:本庄繁長

前回の第二次越中防衛戦では姉小路66000、上杉84500と防御側の優勢を加味すればほぼ同等の戦力であったが、今回上杉側は兵力が二万減少、姉小路側は朝倉宗滴、柴田勝家、雑賀衆に西国から黒田孝高、伊吹萃香、本願寺顕如、近江衆が加わっており、もはや一地方の防衛としては異常なまでに将が揃っている。姉小路側の優勢は間違いないだろう。

概要

上杉家は、足利義昭の要請により、第二次姉小路包囲網に参加。上杉景勝を主将とし、春日山城より65500を富山城に向かわせた。対する姉小路家は西国から転戦してきた黒田孝高、伊吹萃香、本願寺顕如、近江衆らが加わり、万全の態勢を整えていた。
10月5日、上杉軍は富山城への包囲攻撃を開始。これに対し姉小路軍は柴田勝家率いる12500を南門の守備にあて、11000の鉄砲隊を出撃。主将は朝倉宗滴がこれを務める。
途中、斎藤朝信隊が騎馬突撃をかけたものの、宗滴が守る城の守備は固く、10月20日、景勝は撤退を指示。自身と中条藤資隊(撤退時壊滅)を殿とし、撤退した。姉小路軍は前回同様足の速い騎馬隊は追わず富山城へ戻った。

この戦いの影響

この戦いにより、上杉家は半数近い兵を損耗。春日山城に残る兵も1万を割っており、姉小路家に越後を窺わせる機会を与えてしまった。

逸話

都合五度目となった対上杉防衛戦であったが、輪島港は双方が水軍技術に精通してないためいくらか割り引いて見る必要があるかもしれないが、今までの中で最も情けない戦いであったと言える。いくら姉小路側に優れた将が集まっていたとは言え、わずか半月で追い返されたというのは不名誉以外の何ものでもない。
この敗戦で主将であった上杉景勝が切腹しようとしたのも無理はない。(ただし、四季映姫を始めとする将達によって止められている)

なお、五度にわたる侵攻戦(第一次越中防衛戦は例外としても)で一度も上杉謙信が参戦していないという点は、姉小路家では様々な憶測を呼ぶこととなった(今回については北征で不在だっただけ)。
曰く、上杉家は参戦のポーズだけで包囲網には本気ではない。あくまで義将との評判を失わぬためだけに足利義昭に組みしているだけだ。本音では姉小路家と和し、東国の支配権を得ようとしているのではないか。
曰く、謙信は実は腰抜けで姉小路の鉄砲におそれを成しているのだ。
曰く、謙信は実は女で毎度月の物で出陣できないからだ
などなど。

上杉家の現状から見る、今回の戦


 上杉家の今回の出兵理由の考察で、いくつかの説を上げてみよう。

 前述にもあるように、上杉軍の主力(謙信や直江)は現在東北の地で南部(正確には南部からの独立を狙う大浦一派)との激しい戦闘を繰り広げている。
大浦為信の知略、そして彼と結びついた異能の者、フランドール=スカーレットの二人の複合力は極めて高い水準にあったが、多方面からの侵攻を弾き返す程の力は持たず、上杉家にとっては致命的問題とはならなかった。南部、大浦、或いはその先に続く蠣崎を含めた東北制圧の目処は既に立っており、戦力の転換は視野に入っていた。
 ここで上杉にとって問題となったのは、兵の練度にあった。
北の極寒の地で戦い続けた部隊は姉小路の最精鋭に十分に渡り合える程の力を持っているとされているのに対し、春日山、或いは柏崎に置かれた兵力は、上杉家が本格的に東北平定に乗り出した後に徴収された部隊であり、その練度に一抹の不安があった。
 鎮定を終えた主力とそのまま合流させてしまえば、部隊全体の練度を低下させかねないという懸念があり、そのため兵に実戦経験をさせるための出兵だったという説だ。
とはいえ、ほとんどの部隊がまともな戦闘をする間もなく、大きな損害を被ることは想定していたであろうから、この説はいささか突飛ではないかという疑問も多い。 

第二の説としては、将の不満を逸らす為という説だ。
 上杉は姉小路に対しての包囲網に加わっていたが、武田や三好に比べればその敵対意識は強くなかった。
第二次越中防衛戦以後、姉小路の富山城塞群を突破できる見込みが全く立たなった事、さらには武田が稲葉山の戦いで大きく戦力を衰えさせたのを理由として、むしろ武田を攻めるべきだという意見が広まり始めた。
 謙信不在の春日山では、武田に領地を奪われた村上義清などを急先鋒とした信濃、上野への侵攻、つまりは武田攻撃派が力を増大させ続けていたのだ。(中には包囲網の元となった足利義昭を暗殺し、包囲網を瓦解させた後、姉小路と手を結び武田を攻めるべきだという意見さえあった。)
留守を預かる上杉景勝はこれを押さえようと躍起になっていが、年若い彼ではその趨勢を覆す事はできなかった。
 それどころか武田を攻撃しないことに業を煮やした本庄繁長などの独立精神旺盛な将に至っては武田はおろか上杉に牙を剥く兆候すら見せ始めていた。
景勝はこれらの問題を一気に解決する(あるいは謙信が帰還するまでの時間稼ぎの)為に、姉小路への攻撃を決定したということだ。
 戦略的には愚策であったとしても、あくまで上杉は姉小路を主敵とするという意志を内外に知らしめし、また村上、本庄等の反骨的な将を多忙で覆い尽くす事で上杉内部の軋轢を緩和する狙いがあったと見られている。
もしこれが事実だとすれば、村上や本庄といった将の手持ち兵力をすり減らし、反乱を防止する狙いもあったと考えるべきだろう。





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最終更新:2009年01月08日 09:51