吉田郡山城の戦い

吉田郡山城の戦い(よしだこおりやまじょうのたたかい)は永禄10年に姉小路家と毛利家との間で起こった戦い。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・月山富田城兵64608
本隊     :足軽隊18500:姉小路頼綱山中幸盛ルーミア
近江騎馬隊:騎馬隊9000:磯野員昌海北綱親紅美鈴
明智鉄砲隊:鉄砲隊8500:明智秀満リグル・ナイトバグ別所就治
明石鉄砲隊:鉄砲隊9000:明石全登原長頼鈴仙・U・イナバ
一色鉄砲隊:鉄砲隊7919:一色義道稲富祐秀遊佐続光

毛利・吉田郡山城兵5707+傷兵
援軍:長船貞親8000、口羽通良6000

三好・岡山城兵
第一部隊:鉄砲隊10500:三好義興
第二部隊:足軽隊5500:三好政勝
第三部隊:騎馬隊5000:十河一存パチュリー・ノーレッジ
第四部隊:鉄砲隊5000:三好政康

概要

石見防衛戦において毛利家は多くの兵を失うこととなり、姉小路家にとって吉田郡山城を落す好機が生まれた。
とはいえ、毛利方は天文十年に圧倒的大軍であった尼子三万を吉田郡山城に篭城して破っており、これを落すのは容易な事とはいえなかった。

姉小路頼綱は尼子晴久など当時の事を良く知る将を集め、情報収集に努めた。
永禄十年八月二十五日、月山富田城を出陣した姉小路軍は石見路を通って安芸国に侵入、
城下にあった弓櫓を破壊しつつ十月五日に吉田郡山城に到着し、攻撃を開始した。
姉小路頼綱は本陣を吉田郡山城南の光井山に置き、その他の隊は城の北方から東方に布陣したといわれている。
布陣翌日には姉小路軍侵攻の報を聞いて急行してきた三好家十河一存隊5000が吉田郡山城を攻撃中の頼綱の本陣を突き、戦線はさらに拡大した。

戦闘開始から数日後、近江騎馬隊の斥候が毛利方が奇襲のために設けていた間道を発見した。
吉田郡山城には少数の兵で敵を翻弄することができるよう、奇襲用にいくつも間道が設けられていた。
尼子方は以前の戦いからその存在を知っており、頼綱は間道を逆用する策を立てていたのである。
数十人の少数精鋭部隊を編成し、間道を伝って城へ攻撃を加えた。
毛利方は当然間道にも兵を配して一応の警戒をしていたが、肝心の城代である長船貞親がこの間道の存在を知らされていなかったため、対応が遅れた。

これは、長船貞親は穂井田元清の代理で急遽城をあづかることとなった事、長船貞親が外様でその他の毛利家臣に信用されていなかったことが理由と思われる。
城外からも呼応して攻撃を加え、結果、間道からの攻撃隊が放った火によって城門が焼け落ち、姉小路軍は城内に突入する事に成功した。

このように、攻城においては姉小路軍は比較的有利な状況で推移していたが、城に攻撃を加えつつ三好の攻撃を抑えている頼綱本陣は苦しい状況に置かれていた。
毛利家も後方より援軍が到着しており、他の姉小路軍の部隊も頼綱隊を支援することは難しく、被害は大きくなっていった。
本陣が十河騎馬隊の吶喊を受けて乱戦となった時、突如季節はずれの局地的な濃霧が発生した。
これにより、他の隊と本陣とが連絡が取れなくなったのに加えて、姉小路頼綱討死の噂が全軍に流されたので姉小路軍全体に動揺が走った。
諸将は偽報であると触れ回ったが、姉小路兵にとって各軍団長が戦線を離脱して後、頼綱は精神的な拠所となっていたのでその動揺は長引いた。
結局、頼綱が各隊へ伝令を使わすまで混乱が続く事となった。

この後もルーミアが三好政康隊の集中砲火を浴びて重傷を負うなど三好軍による被害は少なくなかったが、
寡兵で頼綱隊を悩ませ続けた十河隊も多くの傷兵をかかえて限界をむかえたので退却。
また、肝心の城兵が討ち減らされて城を守りきれなくなり、十一月十日に吉田郡山城は落城した。
毛利軍傷兵は姉小路家に投降、三好軍鉄砲隊は撤退に成功するも殿軍の三好政勝隊が壊滅した。

この戦いの影響

毛利家は本拠地である安芸国と多くの兵を失った。
これほどの大事にもかかわらず家臣の離反や大きな混乱が見られなかったのは流石というべきであったが、やはり家臣団の動揺は小さくなかった。


尼子家について

この戦いの勝因の一つに尼子家の全面的な協力が挙げられる。
尼子家では以前から盛んに吉田郡山城の研究が行われていた。これは、天文十年の尼子家の敗北が毛利家の興隆のきっかけになったことに由来する。
尼子家にとっていかに痛恨の敗北であったかがわかるし、尼子晴久がいかに捲土重来を期していたかもよくわかる。
そんな戦いに晴久自身が加わらなかったのは、戦後間もない出雲、石見を鎮めて後顧の憂いを絶つためであった。
天文十年の戦いにおいても常に後方の備えに兵を割かなけれなばらなかったことから、今回の戦いでは万全の状況を求めたのである。
頼綱もそのような尼子家の気配りをくんでおり、尼子家臣山中幸盛に自身の隊の攻城部隊を任せていた。幸
盛も晴久、頼綱の期待にこたえて最終的には幸盛によって吉田郡山城は制圧されたのである。

吉田郡山城について

吉田郡山城は近畿の城と比べればさほどに大きな城ではなかったが、実績のある堅城として知られていた。
ただ、この城が堅城であったのは実際のところ城主である毛利元就の能力によるところが大きかった。
以前の戦いでも油断や疲労が溜まった寄せ手に対して奇襲をかけ、大軍を翻弄できたことが勝因の一つに挙げられる。
今回の戦いでは毛利元就はもとより三矢と呼ばれる元春、隆景、隆元を欠いており、毛利家にとって厳しい状況であったのは間違いない。

逸話


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最終更新:2011年07月17日 19:47