第二次輪島港防衛戦

第二次輪島港防衛戦(だいにじわじまこうぼうえいせん)は永禄10年10月に能登輪島で起こった戦い。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・輪島港守備兵総勢30307
守将:高城胤辰
弾幕部隊:鉄砲隊1000×7:鈴木重秀(雑賀孫一)鈴木重泰黒田孝高鈴木重兼伊吹萃香小島職鎮鈴木重意レティ・ホワイトロック佐々成政

上杉・柏崎港守備兵(先発)
第一部隊:小早船隊8500:北条景広チルノ中野宗時
第二部隊:小早船隊8500:延沢満延
第三部隊:小早船隊8000:新発田景家
第四部隊:小早船隊7500:水原親憲

春日山城兵(後詰)
第一部隊:小早船隊6500:直江景綱
第二部隊:小早船隊6000:斎藤朝信

姉小路側は前回より兵数、将の質が向上しており万が一にも負けることはない。

概要

9月5日、上杉軍は姉小路領輪島港へ侵攻を開始した。
柏崎港より北条景広8500を先鋒するとする3万4千5百、春日山城より直江景綱6千5百、斉藤朝信6千が後詰めとして出陣した。
姉小路軍は主だった将を輪島港へ派遣、沿岸からの銃撃をもって対応した。
波状的な強襲で上陸を試みる上杉軍であったが、姉小路軍の銃撃の前に沿岸にたどり着く事もできず、
また、小早の薄い装甲では防ぐ事もかなわず前衛の新発田、北条、延沢、水原隊は早々に撃沈。

結局は柏崎港を発した上杉軍は全滅ということになり、生き残った兵もことごとく姉小路軍に投降した。
後詰めの直江、斎藤隊は姉小路軍と接触することなく撤退した。
姉小路軍の追撃を防ぐために後詰が待機していたが、姉小路軍は戦線の拡大を望まなかったので追撃を行われなかった。
この戦いの実質的な戦闘は十日に満たなかったと思われる。

合戦の影響

上杉軍の損失は3万を超えている。上杉軍と言えど、度重なる敗戦は後方領、他戦線への負担を大きいものとした。
また、その損害は兵だけではなく、伊達、奥州斯波家に勝利して大いに高揚していた士気も下げる結果となった。

出兵の理由

上杉軍は先の輪島港防衛戦での敗戦で小早を使って輪島港を奪取することは困難であることは分かっており、
また、特に姉小路家に対して内部工作やその他の調略を行った形跡は見られない。
その上出兵規模も前回の輪島港防衛戦を下回っている。
つまり、上杉方にはこの作戦で輪島港を陥落させる意図があったとは考えにくい。

ではいかなる目的をもっての侵攻かについては以下の説がある。

①義理出兵
永禄九年十一月に武田は姉小路領となっていた尾張へ出兵して奪還しており、姉小路軍に対して戦果をあげている。
上杉方は永禄九年四月に越中で敗戦して以来姉小路への出兵は無く、このまま永禄十年に一度も出兵がないとなると包囲網の盟主の一人としての面目に関わる。
また上杉軍が伊達家、奥州斯波家を次々に攻略していることは
姉小路家攻略より奥州制圧を第一としていると国外(特に侵攻に晒されている西国諸国)から白眼視されており、
このままでは包囲網全体へ悪影響を及ぼすこととなる。
この説の根拠として上杉家に向けた包囲網参加諸国及び足利義昭からの催促の書状が数多く存在している。

②牽制
上杉家の立場としては姉小路包囲網に同調しない陸奥出羽諸国を背後にして姉小路家攻略を本格化させることは得策ではないと思われる。
そこで柏崎や春日山に大軍を詰めて守りを固め、上杉謙信自身は陸奥出羽諸国制圧に乗り出したと考えられている。
柏崎、春日山勢としては上杉謙信が東北諸国制圧を終えるまで時間稼ぎをすればよいのであるが、
敵が戦力を越中富山城に集中させることは後の謙信の騎馬隊での侵攻の妨げになるために避けなければならない。
そこで、定期的に輪島港へ攻撃を加えて目を向けさせ、越中富山城に戦力を集中させることを防ぐ意図があったのではないか?といわれている。


逸話

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最終更新:2011年07月17日 19:45