生野の戦い

生野の戦い(いくののたたかい)とは永禄9年に姉小路家と山名家、尼子家の間で起こった戦いである。実際には生野だけでなく、朝来郡の広い範囲で行われた。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・弓木城兵37977
前衛部隊 :騎馬隊15500:浅井長政紅美鈴十六夜咲夜
主力鉄砲隊:鉄砲隊10000:明智光秀リグル・ナイトバグ明智秀満
支援鉄砲隊:鉄砲隊2500 :本願寺顕如原長頼江馬輝盛
遊撃騎馬隊:騎馬隊6000 :斎藤義龍海北綱親遠藤直経
支援鉄砲隊:鉄砲隊2500 :磯野員昌斎藤利三ルーミア

姫路城兵
旗本隊:鉄砲隊18500:姉小路頼綱明石全登遊佐続光

山名・鳥取城兵36572
第一部隊:足軽隊9000 :山名祐豊レミリア・スカーレット
第二部隊:足軽隊10000:伊吹萃香
第三部隊:足軽隊8000 :南条宗勝

此隈城兵27065
第一部隊:足軽隊7000:山名豊国
第二部隊:足軽隊8000:吉岡定勝
第三部隊:弓隊7000 :一色義道

尼子・月山富田城
第一部隊:足軽隊5000:尼子晴久
第二部隊:足軽隊8000:立原久綱
第三部隊:足軽隊6500:市川経好
第四部隊:足軽隊5000:田北鎮周
第五部隊:足軽隊5000:宇山久兼

姉小路は定番と言える鉄砲隊と騎馬隊での編成。騎馬技術の研究が進み、武田・上杉までとは言わないまでも西国大名にとっては十分な戦闘力を持っていると言えよう。
対する山名は伊吹萃香の力により兵力増加、足軽の驚異的強化が行われている。しかし、黒田・レミリア・萃香以外の武将の層は相変わらず薄く、彼ら三名が早い段階で戦闘に加入しなければ兵力の優越も無意味になりかねない。
尼子の援軍が来ることを入れれば山名・尼子同盟軍の方が兵力は優越している。ただし、尼子は技術研究があまり進んでいないため戦力としてはあまり期待できない。

合戦概要

弓木姫路で山名家を破った姉小路家は鳥取城、此隈城を一挙に攻略するべく着々と準備をすすめていた。対する山名家も迎撃の準備をすすめ、軍を質量共に強化していた。
 8月20日、姉小路軍38000は弓木城より山名領に侵攻した。対する山名家も此隈城に5000の兵を残し22000をもって出撃、山陰道と但馬街道が交差する生野の地で激突した。
 緒戦、山名軍は側道を使って本来遊軍のはずの斉藤義龍隊を急襲した。斉藤隊は少数であったが混乱する事もなく前衛の浅井長政隊と協力してこれに逆撃を加えた。山名豊国、吉岡定勝両隊は一色義道隊の弓での支援を受けながらの戦いであったが、勢い、兵数に勝る斉藤、浅井両隊の前に苦戦を強いられ、姉小路軍の鉄砲隊が到着する前にすでに半ば壊滅状態にあった。姉小路軍が鉄砲隊の支援の元、攻撃を本格化させると戦線は崩壊し、山名軍は次々に此隈城へ潰走した。なお、この時点で此隈城は磯野隊、姉小路頼綱隊による攻撃を受け、落城寸前である。
 此隈からの3隊が潰走を始めたころにやっと鳥取からの援軍が到着、交戦を開始した。このとき斉藤隊は鳥取城攻略のための後詰を率いるために弓木城へ一時撤退、浅井隊も此隈城方面へやや深追いしていたため中央に陣取っていた明智光秀隊へ攻撃が集中した。これに対し明智光秀隊は山を背に鶴翼に陣を展開して山名軍先鋒伊吹隊へ三斉射し、その出鼻を挫いた。明智隊の激しい銃撃によって山名軍の攻撃が阻まれている間に浅井、顕如隊が戦場に到着。山名軍を明智隊を中心とした巨大な鶴翼内に閉じ込める形となった。山名軍は南条隊を浅井隊に振り向けて足止めさせ、引き続き鶴翼の要である明智隊を壊滅させるべく数度に渡って山名祐豊本隊と伊吹隊による強襲を行った。山名祐豊本隊と伊吹隊に比べて明智隊は少数ではあったが、明智隊へ多くの兵力を割り振った分、顕如隊への備えは薄くならざるを得ず、顕如隊による側背からの銃撃によって情勢は互角となり、明智隊対祐豊、伊吹両隊の交戦は俗に死闘と言われるほどの激しさとなった。幾度も乱戦となり、時に光秀自身が槍を振るう事態となるほどであったと言う。しかし結局、最初の明智隊の銃撃による損害が響いて伊吹隊は壊滅。この死闘を制したのは明智隊であった。
 これによって全体の均衡は破れた。南条隊と祐豊隊は浅井隊によって分断され、孤立した両隊へ明智光秀は追い討ちをかけるように虚報を流して動揺を誘った。一方、鳥取城に戻った伊吹萃香は昼夜兼行で兵3000を率いて生野へ取って返したが、道中を急がざるをえず兵の疲労が激しくなったために、当初はものの役に立たなかった。これらの混乱は後に南条宗勝によって収められたものの、全体としては圧倒的に不利は変わらなかった。そこへ山名家への援軍として尼子軍が到着、状況は動くかに見えた。しかし、まさにその時に此隈城落城の報が両軍にもたらされた。尼子軍は既に先鋒の尼子晴久が顕如隊と交戦を始めていたが此隈城落城の報を聞いて不利を悟り撤退。戦場に残る山名方は南条隊、祐豊隊、伊吹隊各々3000以下の部隊のみとなった。姉小路軍は弓木、此隈の軍を集結させつつあり、幾重にも山名軍を包囲した。開戦当初より活躍していたレミリアはこのときも激しく明智隊に攻撃を加えつつ、一方で顕如隊の銃撃を防ぐなど八面六臂の活躍ぶりであった。萃香隊も厚囲の中で明智隊に損害を与えている。しかし結局は多勢に無勢で四方からの銃撃に耐え切れず、山名軍は全滅した。

山名軍の強化について

この戦いの前に山名軍は短期間で足軽に関する技術を伸ばし、また、各地からの浪人衆5万を加えて大幅に強化されていいた。技術開発は黒田、増員は萃香によるところが大きいがこれを可能ならしめたのは生野銀山の資金力であると言われている。黒田は各国と交渉して戦後の生野銀山の利権と引き換えに足軽技術に関する情報を手に入れ、それを各地から金に飽かせて技術者を招聘して昼夜をおかず研究させたことで驚異的な速さでの技術革新が行われた。浪人衆は各地で姉小路家に敗れて各国を流浪していた者が山名と姉小路の戦いが行われることを聞きつけて此隈城、鳥取城に集結していた。ただ、5万という数は尋常な数ではなく、萃香の能力が相乗効果をなしたと言われている。浪人衆達は萃香によって登用された。その俸給、兵糧を支えたのも生野銀山の資金力である。


山名軍の敗因

この戦いは当初より姉小路軍の方が数が多く山名家不利ではあった。しかし、鳥取城からの援軍の遅れが戦力の逐次投入の形となって決定的な敗因となったことは合戦当時から言われていた。これは当初、此隈城兵は全軍で篭城をして姉小路軍の疲れを待って鳥取城からの援軍を待つという体制であったのに、此隈城軍が城外に釣り出され、鳥取城軍が対応できなかったというのが通説である。いかなる理由で野戦に引きづりこまれたのかは諸説あるが、姉小路軍は斉藤義龍隊6000を先行させて孤立しているように見せかけて油断を誘い、山名豊国が22000をもって一挙にこれを突いて敗走せしめ、全軍の士気をあげようとして誘いに乗ってしまったという説が有力である。ただ、この事に関しては確かな記録も残っておらず、どの説も推測の域を出ていない。

この戦いの影響

山名の主力軍は壊滅、鳥取城に残る兵もわずかであり防衛はもはや困難となった。1月、山名家は鳥取城を開城して降伏、城主以下武将領民の生命は安堵された。山名祐豊は衰退していた山名氏を立て直して、因幡、但馬、播磨、丹後四カ国を領するまでに力を伸ばし、さらに生野銀山の発展によって山名宗全以来の繁栄を築き上げた。しかしその覇業もここに終わりを告げた。

逸話

ほぼ両軍の先頭が接触すると同時に、戦場に記録的な濃霧が発生したと言う。これを察知した本願寺顕如は独断で部隊を引き、様子を見ると保守策を取った。
その結果として、濃霧を乗じて浅井、明智両隊へ突撃しに来た山名軍本体の索敵範囲から逃れ、さらに山名軍の背後からの援護射撃ができ、地理を利用した山名の袋叩きの図りを破り、逆包囲を成功した・・・とは民間の通説の一つで、「実は偽報を食らって足踏みずれていただけ」という説もある。残された史料が足りないので、真相はおそらく部隊長の本願寺顕如のみぞ知るのだろう。

この戦いの激しさは両軍で万余の戦死者が出た事でもわかる。生野は太古において荒神が道行く者の半数を殺したことから「死野」と呼ばれていたのを、縁起が悪いとして「生野」という名に改められた歴史を持つ。この戦いはまさに「死野」の再現であった。


BGM

亡き王女の為のセプテット Ezel-Ash (Act.72,73)
※かつてE館にあったが現在はリミックス版に置き換えられている
Demon Lord Remilia 東方アレンジ・耳コピスレッドCD企画 「幻想音楽祭~Phantom Concert」(Act.73)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2011年01月06日 20:05