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洛南会戦

洛南会戦(らくなんかいせん)とは永禄七年に足利将軍家と姉小路家との間で起こった戦いである。
戦闘が左京から南にかけて非常に広範囲で行われたので、「鳥羽伏見の戦い」「二条合戦」「東洛の大会戦」「京洛決戦」とも呼ばれる。
一戦に天下の命運をかけたこの戦いは壇ノ浦の合戦とも東勝寺合戦とも違い、強いていうならば殷周革命の牧野の戦いに例えられる。

合戦以前の情勢

連年の乱や先代の将軍達の失政によって将軍家の影響力は年々失われつつあった。
足利義輝はそのような状況を苦慮し、主だった大名に自分の名である『輝』の字を与えたり、
大名同士の抗争の調停を行うなど積極的に政治活動を行って将軍家の威光を示し、
また将軍家から失われた軍事力、経済力を取り戻すために山城国を纏め上げ、緩やかながらではあったが将軍家としての実力を取り戻しつつあった。

対する姉小路家は飛騨国の一国人に始まり、飛騨、越中および美濃を制圧し、この頃には近畿の大部分を含む13カ国を領していた。
当主、姉小路良頼は主だった家臣との協議の末、倒幕の意思を固めるに至った。

一方、主に鉱業・米生産に収入を頼り切っていた姉小路家にとって、京は一大消費地として重要であった。
また、前年(永禄六年(1563年))に堺を奪取した姉小路家にとって、堺に集まる物資の消費地としての京の重要性はますます上がっていた。
この当時京は、姉小路家の収入源となっている、ともいえる。

よって、足利将軍家によって京を抑えられた状態は、姉小路家にとってはその喉首に匕首を突き付けられているも同然であり、これ以上の勢力拡大には京を奪取し、生産と消費の双方を握る必要があった。
その点において、姉小路家がこの時期に倒幕に動くのは当然であった、と言える。

合戦までの経過の概要

この情勢のもと永禄8年4月、姉小路良頼は足利攻略の足がかりとすべく、松永久秀に命じて勝竜寺に出城を築かせた。
築城1ヶ月後の永禄8年5月に姉小路家は4万もの兵を集めて近衛前久をはじめとする主だった公家を招待して、大々的に大馬揃えを行った。
朝廷や将軍家への示威行為が目的であったという。
しかし、将軍家は屈せずに軍を召集、将軍家の危機に多くの御家人達が集まり、最終的には6万もの大軍をなした。
ただし、これは八雲紫が招集した毛玉衆が多く含まれていたとされているが、彼らはこの合戦後姿を消している。
また、極秘裏に八意永琳の指導の下で数々の弓と足軽に関する技術革新が行われた。

しかしながら、この当時の将軍家の資金力ではこのように大軍を集めたり技術革新を行うことができるとは到底考えにくいことから、
上杉家、武田家をはじめとする親将軍家勢力からの資金を含めた援助があったのではないかと考えられている。
事ここに至っては将軍家と姉小路家との決戦は避けられないものとなった。

同年6月、姉小路良頼は源氏に縁があり武神と崇拝されている石清水八幡宮に軍を集結させて戦勝祈願を行った。
その際、全軍に改めて足利将軍家を討つことを宣言した。同日に将軍家の二条城に開戦の意思を伝える使者を送り、翌々日、その旨を了承した将軍家からの使者が送られてきた。

永禄8年6月5日、姉小路頼綱率いる全軍は戦場となる下鳥羽に出陣した。
対する足利家も迎撃部隊を発し、日本中から注目されている戦はついに火ぶたを切ったのである。

松永弾正の一夜城

勝竜寺城は松永久秀が一夜で築城したので、別名松永一夜城と呼ばれる。
あらかじめ宇治川上流において木材を組んでおき、いかだにして宇治川を下って勝竜寺付近で陸揚げして組み立てたという。
ただ、柵などはともかく矢倉などの精密な設計が必要な建築物に関してはいかだにして運ぶといった雑な扱いはできず、また急ごしらえでは耐久性にも不安があった。

そこで琵琶湖湖畔の観音寺城の支城を解体して船で宇治川を下り、改めて組み立てるといった方法がとられた。
あらかじめ完璧に手はずを整え、万を超える職人、おなじく万を超える兵士が徹夜で築城させたという。

初期の構造としては、小高い丘に最低限の兵舎を建て、丘の回りに空堀を掘り、掘った土と木材を利用して柵をめぐらし、矢倉を7つほど立てていたと言われるが、
実際は一夜で作れた部分は最低限の防衛施設だけで、殆どの矢倉は外見はともかく建造中であり、柵も一番外側の柵をしっかりと作っただけで、曲輪などは未完成であったという。
ただ、内部はともかく外見は相当な堅城に見えたらしく、その点、朝廷内においても話題になっていたことが近衛前久の日記に記されている。

足利将軍家としては築城の妨害のために出陣の準備を進めて物見を放っていたが、物見の報告を聞き、断念せざるを得なかったという。
翌日までには京に住む者たちにも知れ渡り、多くの見物人が現れた。

ちなみに、初期のこの城は将兵に非常に評判の悪い城であったといわれている。
なにせ兵舎も粗末なつくりで狭苦しく、風雨をしのぐのがやっとであったし、雨漏りも酷かった。
木材が足りずに生木を使った部分も多く、時間とともに変形してひび割れたり隙間が開いたりなどいろいろな問題がでてきた。

松永久秀としては予想済みの問題であったようで、徐々に生木であった部分を張り替えたり、一部の兵舎を増築するなど逐次対応を行っている。
なお、屋根に関しては修築時に耐火性に問題のある藁葺きにしている。
これは、この城が大きな戦火に巻き込まれることはないであろうと予想してのことであると言われている。
あくまで仮の城として扱い、本格的な修築は行っていない。


大馬揃え

明智光秀を責任者とし、公家衆への饗応役を朝倉宗滴が務めた。
武芸披露においては剣術、中条流富田景政、新陰流柳生宗厳、弓術では日置流吉田重政六角義治がその妙技を披露している。
この大馬揃えの陣容や饗応に出された品目は光秀・宗滴の日記にその詳細が残されており、現在においても再現が可能である。

余談ではあるが、この大馬揃えを見物したルイス・フロイスの手記にはその偉容に圧倒された様子が記されている。
ちなみに馬揃えが終わった後、霧雨魔理沙が勝手に空から星を蒔いたのを見て卒倒せんばかりの衝撃を受けている。後にこの話を聞いたカブラルなどは「日本は悪魔の国だ!」と叫んだと言われている。

石清水八幡での戦勝祈願

姉小路良頼は6月始めに石清水八幡宮に軍を集め戦勝祈願を行った。
神前に主だった将を集め、坂上田村麻呂以来の征夷大将軍の任を全うできていない不忠な足利将軍家を討つ、という内容の願文を読み上げた。
多くの場合、神前にて願文を大声で読み上げたことで全軍への宣言とするところであるが、
神前で読み上げたのでは全軍に声が届かないこと、異能の者や農民出身の者が古語の多い難解な願文を理解できない恐れがあったこと、
これらを考慮して改めて口語で全軍に宣言をすることとした。このときの姉小路軍の意気は天を衝くようであったという。

そして御祓いの後、姉小路良頼自身が奉納の舞を行い、後に宮司による戦勝祈願の舞が行われた。最後に全軍で掛け声をかけて儀式は終了した。
なお、姉小路良頼は願文と同時に太刀と軍旗を奉納している。
諸将もそれにならって太刀や鏑矢、あるいは弾丸などを奉納した。神前にはこれらの物が山と積まれたという。

ちなみに、姉小路良頼は願文及び宣言の中で足利家を朝敵と呼んでいるが、朝廷から正式に勅が下ったわけではない。
もちろんこれは幕府が京を押さえていたからであるが、朝廷に幕府よりの高官も多くいたからでもある。
幕府よりの公家と近衛前久ら姉小路家よりの公家は互いに朝敵討伐の勅を下すよう活動したが、結局朝廷は中立を保つこととなる。


参加兵力及び戦力評価

姉小路軍:勝竜寺城41000
第一前衛部隊:足軽隊14000:竹中重治博麗霊夢ルーミア
第二前衛部隊:騎馬隊14500:朝倉宗滴前田利益紅美鈴(8月20日4887で再出撃)
第一後衛部隊:鉄砲隊3000 :鈴木重秀(雑賀孫一)霧雨魔理沙鈴仙・U・イナバ
第二後衛部隊:鉄砲隊3000 :斎藤義龍浅井長政アリス・マーガトロイド
第三後衛部隊:鉄砲隊3500 :明智光秀明智秀満リグル・ナイトバグ
本隊      :鉄砲隊3000 :姉小路良頼松永久秀十六夜咲夜

大和、近江から招集された兵力で姉小路軍のほぼ5分の1の兵力に相当する。
注目すべきはやはり鉄砲隊である。この合戦に参加した鉄砲隊は2月完成した元込銃が装備されており、
かつ鈴木重秀直率の雑賀衆と明智光秀が練兵を続けてきた精鋭中の精鋭であり、間違いなく日本最強の鉄砲隊と言えよう。
一方足軽・騎馬隊は強兵とは呼べぬ状態であり、戦力としては統率する将に左右される。
最大の問題は強化された足利足軽隊を防ぎきれるかどうかである。
また、参加武将も飛弾・美濃・越前以来の主力を始め、近江衆、旧織田家臣で固められており、この合戦への意気込みが感じられる。

足利軍:室町御所64435
第一部隊:足軽隊27000:足利義輝八雲紫大館義実
第二部隊:足軽隊8500 :八雲藍宮部継潤
第三部隊:足軽隊8500 :北畠具教河田長親百地三太夫
第四部隊:弓隊8500  :細川藤孝蜷川親長レティ・ホワイトロック
第五部隊:弓隊5000  :足利義秋(足利義昭)蓬莱山輝夜

前述の通り、足軽・弓隊は極めて有力である。ただし、対鉄砲防御については完全とは言えず弱点となりかねない。
両軍が示し合わせた会戦という状況であることを考えれば、兵力の上回る足利側が優勢であり、鉄砲隊が接近戦に弱いことを考えれば敵前衛を滅ぼせばほぼ勝利したと言えよう。

概要

この戦いでは、八意永琳や竹中重治によって両軍に偽報や流言がひっきりなしにばら撒かれた。
各部隊が受け取る伝令による状況報告も10に9つは偽の情報であり、偽情報を流した意図から事実を推測するといった、心理戦ともいえる状況が続いていた。
このことで両軍ともに現状把握をすることが精一杯の状況に陥り、竹中重治や松永久秀が得意とする調略が封じられ、八意永琳も対応に追われて軍を率いる余裕を失うなどといった結果に繋がっている。
また、そのような状況にも関わらず大体の場合には両軍の各部隊長は副将と良く協議して状況を正確につかんでいたという。両軍の将の質の良さがうかがえる。

緒戦、前衛同士がぶつかり合い八雲藍は奮戦したが竹中、朝倉両隊の攻撃に加えて鉄砲隊の集中攻撃を受けて1300をきるまでに討ち減らされて撤退した。
しかし同時に明智光秀も将軍家側の弓の集中攻撃を受け1300まで討ち減らされて撤退した。
姉小路側は将軍家の弓の改良による射程の変化を予想しておらず、そのために隊の位置取りを誤ったためであると言われている。
八雲藍隊が抜けた隙はすぐさま義輝隊によって埋められ、姉小路軍の残った2隊の鉄砲隊もすぐさま位置を変更し、依然激しい戦いが続けられた。

戦況がやや膠着し始めた頃、朝倉隊の前田利益は突如北畠隊の側背に回り込んで突撃、その予想外の速さに不意を突かれた形となった北畠隊は壊滅した。
前田利益は休むことなく今度は義輝隊に突撃、これにも多くの損害を与えたと言う。
また、この戦い時の雑賀孫市の部隊の働きもすさまじく、間断ない5連続斉射という前代未聞の戦法によって一気に義輝隊へ4千を超える損害を与えたという。
こういった経緯もあって戦況は徐々に姉小路側に有利になっていった。

しかし、実はこのとき蓬莱山輝夜立案で足利義秋隊が火牛計が実行しようとしていた。
この作戦は足利家の切り札として極秘裏にすすめられ、義秋隊の出陣が遅れたのもこの作戦の準備のためであった。
足利義秋によって念入りに準備されたこの作戦は機を見て実行された。
突然尾に火をつけて突撃してくる数千もの牛が姉小路軍の目の前に現れ、姉小路軍の将士のほとんどが絶体絶命と感じたという。
しかし、竹中重治は冷静であった。彼は前々から義秋隊に注目しその動きに疑念を感じており、念のために前線に油を大量に運んでいた。
彼は急ぎ部隊に命じて油を自陣の前に撒かせ、火を放った。

牛は炎の壁に遮られて姉小路軍に突撃せず、その場で狂乱して四方へ逃げ散ってしまった。
その後は姉小路家有利に戦況はすすんだが、常に前線にあって2万7000もの義輝隊と激戦をつづけた朝倉隊も残り少なに討ち減らされていた。
その際、孫市隊の援護で前線から撤退しているが、義輝隊はこの孫市隊の援護射撃によって壊滅した。残った細川隊義秋隊も壊滅したことで勝敗はほぼ決した。

将軍家側の残った将士たちは二条城に篭城したが、ろくな防備もない二条城では長く抵抗することができず、7月半ばに落城してこの戦いは終結。
足利義輝が朝廷に将軍位を返上し、隠居することで室町幕府は滅亡した。


この戦いの影響

この戦いで室町幕府は滅亡し、姉小路良頼がもっとも天下人に近い存在となった。この報は瞬く間に天下に知れ渡り、諸大名に衝撃を与えた。まさに歴史が動いた戦いであった。

同時に、山城を手に入れたことで、美濃~近江~山城という米生産~消費ルート、また堺~京という商業ルートを姉小路家は手中におさめることができ、
また当時日本の中でずば抜けた人口を抱える商業都市・京をも手中にした。
その結果、姉小路家の収入は、これまでの農業・鉱業基盤に加え、商業からの収入をも得ることとなり、安定した財政基盤を確保した。
しかし、一方でこれにより、商業収入基盤の近江衆・大和衆と、農業・鉱業収入基盤の美濃衆・越前衆という、家中の対立の要因ともなってしまった。

火牛計について

この戦いは瞬く間に天下に知れ渡り、特に火牛計は有名となった。
火牛計とは牛の尾に松明をつけて敵陣に突進させて敵陣を撹乱する戦法のことである。
これは木曽義仲と田単の二人によって史上2度行われ、どちらも寡兵で大軍を破ることに成功している。
(ただし、木曽義仲の火牛計は一般に後世の創作であると言われている。また、彼は牛の角に松明をつけたと言われているが、牛の角に松明をつけても真っ直ぐには走らないと思われる。)

史記や平家物語で知られていたこの戦法も具体的な実行方法については誰も知らない状況であり、尾に松明をつけた牛を放てば一応はまっすぐに進むと思われるが、実際に行うのには牛の配置や牛の進路の誘導、タイミングなど数々の困難がある。
よってこの作戦の立案及び実行者である蓬莱山輝夜と足利義秋の非凡さは天下に知れ渡った。
それだけに歴史上一度も破られたことがない火牛計を防いだ竹中重治の知略はより一層有名となる。

ただ火牛計を防ぐ際に用いた、油を燃やして炎の壁を作るという方法について、普通の油が急に燃え広がって牛が避けるほどの火力を得るということは考えにくいはと多くの者が首を傾げたという。
このことについては詳しいことは分かっていない。
ただ、姉小路家は鉄砲を扱っていることから火薬に詳しい者が多く、当時にも焙烙玉が存在していたことから、
輜重などで使っていた荷車やその辺りの家から剥がして来た木材に油を撒いてそこに火薬を使った焙烙玉のような物を使用して、短時間で広範囲の強い火力を得たのではないか、と推測されている。

逸話

この戦いの前に八雲紫は侍所所司となっている。また、この戦いにおいても異能の者が軍を指揮している。
異能の者であり、しかも女性である彼女にこのような地位を与えることは、幕府内でも強い反発があったと言う。
更に、義輝が狐にたぶらかされたと陰口を叩く者もいたほどであった。
しかし、この当時幕府内での義輝の発言は絶対に近かったので足利義輝はこの人事を押し通すことができた。

足利義秋も反対派の一人であったが、いざ戦が始まると蓬莱山輝夜を副将にしてその意見を聞き入れている。
義輝の命令でもあったのだろうが、良い意見については耳を塞がない度量を持っていたとも、戦の途中で内部分裂を起こす危険を弁えていたからであろうとも言われている。

前田利益はこの戦いでの活躍で天下一の豪の者と称えられるようになった。
日本中の各地で彼にあやかって傾く者が現れたという。

この戦いは雑賀衆が姉小路家の下で戦った初の合戦である。
雑賀衆の鉄砲の扱いの上手さに明智筒と呼ばれる姉小路家の鉄砲の威力が加わり、その実力が存分に発揮された。

剣豪将軍の異名を持つ足利義輝と、異能の者の一人である紅美鈴による一騎打ちが乱戦の最中に起こり激闘が繰り広げられたが、二人の勝負は遂に着く事はなかった。
ただし、今回のような大規模な合戦で一騎打ちが発生したこと自体が極めて稀な事例であることを考慮に入れる必要がある。
なお、室町幕府滅亡後、義輝は自分の隠居先である慈照寺(銀閣寺)に美鈴を招き、一介の剣客として存分に力を奮い闘えた事への感謝の意を述べた。
そして彼女の武勇を誉め讃え、その健闘を賞し、彼の愛刀である童子切安綱を贈ったとされている。

この戦いの決戦の地となった左京一帯と鳥羽伏見一帯は焼け野原となった。
住民達は戦の前に避難していたが、戦が終わって我が家に帰ろうとしたとき、家があった一帯が焼け野原になっていて途方にくれる者や涙を流す者は少なくなかったという。

ただ、姉小路家による復興も非常に速かった。以下のような説話が残っている。

とある下級貴族がこの戦いを避けて堺の知り合いの所へ3ヶ月ばかり避難していたが、三好家が堺に攻めてくると聞いて自身の家のあった伏見に帰った。
ところが元あった家々は無くなって農家が立ち並び、また新たに農家が建てられたり見渡す限りの田畑が開墾されつつあった。
そのあまりの元の風景との違いに狐につままれたように思ったという。
働いている者に話を聞くと、細川藤孝松永久秀八意永琳の指揮の下たった20日足らずで農村が出来てしまったということだった。
その貴族は驚くばかりだったが、しばらくして自身の家が無くなったことを思い出して途方にくれていた。
そこへ責任者の三名が通りかかり、奇異に思った細川藤孝がその貴族に話しかけた。
事情を聞いて哀れんだ藤孝は2人に相談した後、余った資材でついでに家を建ててやるから翌日まで待つようにと貴族に話した。
翌日その貴族が現場に来てみると前に住んでいたよりも立派な家が建っていたという。

この説話の下級貴族が本当に実在したのかは定かではないが、かれら3人の下知で20日足らずで農村が作られたのは実話である。
戦争直後には荒廃していた都も姉小路家の庇護の下、さらに栄えるようになったという。

なお、足利将軍家が倒れたことにより、特に西国大名は次は己の番、と言う深刻な危機感を抱かせることとなった。
これが毛利・三好同盟のきっかけとも言われている。また、足利家の同盟であった上杉謙信(長尾景虎)は姉小路家を見誤ったと非常に悔やんだと言われている。

BGM

Overture Sequel, Retrospective 『Symphonic Caprice "Evening Primrose"-奇想交響詩 月見草-』より