【笑顔】
人間は、いくつもの表情を持っている。笑い、怒り、喜び、悲しみはその代表的な例と言ってもいいだろう。
そして表情は、その人間の心理状態によって大きく左右される。怒った時は怒りの表情を、嬉しいときには笑いの表情,あるいは喜びの表情を。悲しいときには、悲しみの表情。人間の表情と心の動きは、常に一心同体である。
しかし、稀にそうではない人間も存在する。例を挙げるなら、ポーカーフェイス。決して自らの表情を顔に出さず、平静を保つ。これは大なり小なり普通の人でも出来ることだろう。だが、それでも常にポーカーフェイスを維持していることは出来まい。必ず、何処かで心の動きが表情となって表れる。
だが、彼は違った。彼はどんなときでも、怒りや悲しみの表情を出すことはない。どんなときでも笑顔で、笑っていて。でもそれは、本当の笑顔ではなかった。彼の心を覆い尽す、仮面の笑顔。それが、彼の笑顔の正体。
そして、これは彼の物語。どんな時でも笑うことしか出来なかった、そんな人の物語。
「悪い!今日どうしても外せない用事があってさ・・・・・・頼むよ」
「でも斎条君、昨日も・・・・・・」
「じゃあ、頼むぜ!またな!」
「あ・・・・・・」
僕の言う事を無視して、斎条君は教室を出て行ってしまった。
「どうしようかなぁ・・・・・・」
また、一人でやらなきゃいけないのかな。しょうがないよね、他の人はみんな帰っちゃったし。
「アハハ」
どうして、笑うことしか出来ないのかな。心の中は、こんなにも怒りで満ちているというのに――。
僕の名前は、飯島駿介。今年で高校一年生になる。特徴は・・・・・・笑顔。
僕は、笑顔にしかなれない。悲しい気持ちになることはあっても、顔は笑ったまま。怒りに身を任せようとしても、笑顔のまま。まさに、壊れた人形。
昔は普通だったと思う。笑って、起こって、泣いて。でも、いつだっただろうか・・・・・・ある時を境に笑う事しか出来なくなり、そして疑問に思うことはなかった。でも、どんなに笑っていても心のそこから楽しめないし、どんなに悲しくても泣く事も出来ない。自分の心を外に出せず、ずっと中に溜め込み続けたら、僕はどうなってしまうんだろう。そんな疑問が、時折頭を掠めていく。
医者に相談したりもした。でも、病気とは違う。
『心理的なものがストップをかけている。これだけは、自分で何とかするしかない』何度も通いつめた挙句、その医者に言われた言葉がこれだ。ならば、僕がまだ小さかった頃に何かがあったはず。でも、その部分の記憶だけがすっぱり抜け落ちている。気づいたら、笑う事しか出来ない自分が居た。
だから、僕は今も笑顔のまま生きている。多分、死ぬときまで笑顔のままなんだろう。
「――駿介?駿介ってば」
「・・・・・・え?あ、香織ちゃん?」
たった一人の教室で呆けていたら、突然声をかけられた。声をかけたのは、橘香織ちゃん。幼稚園時代からの幼馴染で、僕の数少ない友人。
「何ぼうっとしてるのよ・・・・・・また一人で掃除してるの?」
入り口から全体を見回して、香織ちゃんは尋ねた。
「う、うん・・・・・・皆用事があるみたいだったから」
「昨日も、一昨日も一人でやってたじゃない。あいつらは嘘ついてサボろうとしてるだけなんだから、しっかり断らないとまた調子に乗るわよ?」
「うん、そうだね」
「何が面白いのよ、全く」
ズカズカと教室内に入ってくると、香織ちゃんは僕の頬をつねる。それも、思いっきり。
「イタイイタイ!やめてよ香織ちゃん」
「煩い!たまにはほかの表情も見せなさいよ、ほら!」
痛い、やめてと言っても、香織ちゃんはやめてくれない。そのまま両手で頬をつねられて、もう頬が千切れてしまうんじゃないかと思ったとき、ようやく香織ちゃんは手を離してくれた。
「・・・・・・はぁ。どうして、ずっと笑ってるの?」
もうこれで、何度目になるだろう。そんな質問を、香織ちゃんは投げかけた。
「分からないよ。これでも怒ってるんだけど・・・・・・な」
「全然変わってないわよ。いつもみたいなヘラヘラした笑い顔。楽しくもないのに、どうしてそんな表情できるわけ?」
「別に楽しくないわけじゃないよ。香織ちゃんと話すのは楽しいし」
「なっ・・・・・・全く、だからアンタは・・・・・・」
僕の言葉、何処かおかしかったかな?一瞬驚いた後に黙ってしまった香織ちゃんは、突然きびすを返して掃除用具入れに向かってしまった。
「香織ちゃん?」
「手伝ってあげるわよ、掃除。一人じゃ大変でしょ?」
そう言って、掃除を始める香織ちゃん。なんだか、機嫌がいいみたいだ。
何はともあれ、助かった。一人より二人の方が、掃除ははかどるし。
まあ・・・・・・帰りに何か奢らされるんだろうな、とはは思ったけれど。それはそれで、楽しいからいいか。
それから30分。何故か、僕達はまだ教室に居た。
掃除はもう終わっている。だけど、帰してくれないのだ。彼女が。
「だから、見せればいいのよ。笑う事しか出来ないわけじゃないんでしょ?」
ごめん、その通りなんだ。
「アハハ・・・・・・いきなり言われても、難しいよ」
やや苦笑交じりの、曖昧な笑顔。誤魔化す時の定番だ。こうやって笑っていれば、やがて香織ちゃんは諦めるだろう。いつも、そうだった。
「今日はそんな笑いで誤魔化されないわよ」
でも――今日は、なかなか逃げられないみたいだ。
「怒るなり、泣くなり、ただの無表情でもいい。ねえ、お願い・・・・・・」
段々と、声が萎んでいく。何でだろう。何で、こんなにこだわるんだろう。
「ねえ、どうしてそんな事にこだわるの?」
だから、聞いてみた。それが一番簡潔で、一番明瞭な方法だったから。
そして、それは僕の運命を大きく変化させた質問でもあった。
「・・・・・・悔しいのよ」
大きな声で騒いでいたと思ったら、いつの間にか掠れた声になっていた。嗚咽が混じり、更に聞き取りにくくなる。
焦った。どうして泣くんだ?何か悪いことを言ったんだろうか。思いつかない。とにかく何とかしなきゃ。何とか。でもどうする?こんなこと今までなかった。混乱する。まともに頭が働かない。ああ、どうしよう。
「く、悔しいって?」
結局。口から出たのは、どもった質問。何かいわなくちゃと思っても、動転しまくった僕の心は冷静な思考を取り戻さない。
「小学校のとき、皆に馬鹿にされても笑ってたよね?不良にカツアゲされたときも笑ってたよね?今だって、皆がサボってるのに無理して笑ってたよね・・・・・・?」
「それは――」
「もう、自分を偽らないで。約束を守ってくれるのは嬉しいけど・・・・・・もう、いいのよ」
え?
「あの時、私を助けてくれて――」
それは、抜け落ちた記憶のピース。
「私が、ずっと笑顔でいてって・・・・・・もう泣き顔は見たくないんだって言ったから――」
僕が、変わってしまったきっかけ。それが、あの時の出来事。
それは、10年以上前の事。
発端は、突然の暴風雨。天気予報でも予測できなかった、夕方の土砂降り。土手で遊んでいた僕達は、大雨が降ってきたから直ぐに帰ろうと思った。
だけど、香織ちゃんが泥濘に足を取られた。そのままコンクリートの堤防に身体を打ち付けて、彼女は泣き出してしまった。川の水量は一気に上がって、子供心にもマズイと感じられるほどだったのに、僕達は一番危ないところで右往左往していた。
親達は、まだこっちに来ない。遠くに姿は見えるけど、こちらに到着するまでにはまだ時間がかかる。
他の子は右往左往するばかりだった。だから、自分で動いた。
斜面になっているコンクリートを滑り落ちる。雨で濡れたコンクリートは滑りやすくなっていて、中々引っかかりに足が止まらない。手も使い、ギリギリで停止。そのまま引っかかりを伝って、香織ちゃんの手を掴む。
『大丈夫?』
泣きじゃくりながら、頷く彼女。その手を取って、斜面を駆け上がろうとして・・・・・・僕達は、突然の波に吹き飛ばされた。
何処かの堤防が決壊して、こちらに流れる水量が増加したのだろうか。ともかく、その時はそんなことを考える余裕はなかった。水の圧力で吹き飛ばされ、冗談抜きで死ぬかと思った程だ。
結局――二人とも、さしたる怪我はなかった。水に押し出されて、泥濘まで吹き飛ばされていただけだ。でも、半狂乱になっていた僕は泣きじゃくりながら香織ちゃんのところまで行き、必死で叫びながら身体を揺すっていた。
そう、その時に言われた言葉。それが、僕の運命を大きく変えた。
『泣かないで。泣いている顔なんか見たくないよ』
自分も痛いだろうに、泣きたいだろうに、彼女はそう言った。
『私は、笑っている顔が見たいよ・・・・・・だから、約束して?』
ずっと、笑顔でいて欲しい。その頼みを、僕は承諾した。僕がうなづくのを見たら彼女は気絶し・・・・・・僕も、痛みと疲労で倒れこんでしまった。
数日後。目覚めたら、その時の記憶は失われていた。そして、この事を誰も口にしなかったから、今まで思い出すこともなかった。
それが、僕の過去。
「そう、だったんだ・・・・・・」
思い出した。だから、僕は笑っていようと決めたんだ。どんなに苦しくても、辛くても。
何度も虐められた。無視とかそういうのではなかったけれど、とても辛かった。それは、僕の覚悟を超えるほどの辛さで。でも、その時にはどうしようもならなくて。
そして、何時からだろう・・・・・・僕は、既に壊れていた。
心を覆う、真っ赤な思考。これが、10年以上も溜め込んだ、鬱屈した感情。その怒りが、憎しみが、はけ口を求めて暴れ狂う。
ニクイ。
自分で選んだことだ。後悔はしていないはずだ。
ボクハツラカッタノニ、コノオンナハノウノウトイキテイル。ニクイ。
そんなの、ただの逆恨みじゃないか!
ニクイ。ニクイ。ニクイ。ニクイ。ニクイ。ニクイ。
飲まれた。真っ赤な思考に、感情に。唯一残った【僕】が、逃げてと彼女に叫ぼうとする。
でも、その意識も途中で消えた。だから、今ここにいるのは・・・・・・僕だ。
「後ろを向いてくれるかな?」
まだどこかで、やめろと叫ぶ僕がいる。
でも、そんな言葉は何の抵抗にもならない。案の定、その声は外に漏れることはなく――彼女は、素直に後ろを向いた。
一体、何が起こると思っているのかな。告白でもする気か、とか思ってるんじゃないだろうか。
まあ、それも正解だろう。最も・・・・・・それは、想像しているものとは違う形になるだろうが。
「あの時、僕に約束してといったよね。ずっと笑っていて欲しいって。あの時、僕はそれに頷いたけど・・・・・・とっても、後悔してる」
ごめんと、彼女は言った気がする。まあ、そんなことはどうでもいい。
「いいんだ。過去はもう変えられない。でもね――未来は変えられるんだ。失われたものは、過去を清算することによって全てやり直すことが出来るんだ」
だから、僕は君を。
「死んでよ、香織ちゃん」
殺す。
グシャッ
グシャッ
グシャッ
もう、どれだけ殴っただろう。持っていた椅子はばらばらに砕け散り、地面に倒れた彼女は全身から血を流して死んでいた。
「アハハ・・・・・・ハハハ、ハハハハ!」
死体の側で、僕は笑い続けた。眼から涙を流し、口をゆがめて、それでも笑い声は止まらない。
結局、壊れた人形は直らない。どんどん狂って、更に壊れて、周りのものを壊して・・・・・・最後には、死んでいく。
僕は、負けてしまった。真っ赤な感情に飲まれて、憎しみを吐き出して。もがいた挙句にたどり着いた先は、最悪の結末だった。
だから、この物語はここで終わり。物語は幕を閉じ、壊れた人形はその存在を消す。
「アハハハハハハハハ!」