第一章 穏やかな日常と、蠢く闇
数日前
「紅香。俺のボトルどこにやった?」
「紅香さーん。自販機が壊れちゃったんですけど・・・・・・」
「紅香ー!トイレの前に地雷が置かれてるぞ!誰だこんなことしたのは!」
「紅香!」
「紅香さん」
「おい、紅香」
もう限界だった。耐え切れなかった。
急激に増える仕事の量。その大半は今までマスターがやっていたものであり、これまで紅香がやっていた仕事といえば掃除などの後始末だけ。当然上手く行くはずもなく、無駄に短気で暴力的な客が多いこの酒場では最近怒号が絶えない。
「もう嫌だ・・・・・・限界よ」
全ては、あのマスターが悪い。いきなり酒場を押し付けて、本人はどこかへ消えてしまった。その後の消息は不明。トンプソンが持ち前の情報網を駆使して捜索中らしいが、まだ目立った成果は上げられていないらしい。
だから、紅香は決意した。酒場のカウンターの奥にある、アレを使うことを。
「使っちゃダメって言われたけど・・・・・・」
それは、開店当初からマスターが溜め込んでいたヘソクリ。裏世界に住む客が多い分、金を持っている奴は羽振りがいい。そんな奴らから頂いたチップは、既にバッグ一杯になるまで貯まっていた。
「後は、誰に頼むかよね」
確実に仕事をしてくれる奴がいい。信頼できる何でも屋、もしくは・・・・・・あ。
「そういえば・・・・・・」
一人の男の姿が、脳裏に浮かんだ。
「見つかりましたよ」
開口一番、トンプソンはそう言った。
「・・・・・・誰が?」
酒を飲みながら、フォードはそう答えた。
「誰って・・・・・・マスターですよ、マスター。どこをさ迷ったのか、随分と遠くで見つかりました」
「ま、あれから結構経つしな。んで、捕まえたのか?」
「いえ。曲がりなりにもこの酒場のマスターをしている男です。どんな力を隠し持っているか分かりませんし、焦ってこちらから仕掛けて失敗しても後が面倒です」
「・・・・・・ひょっとして」
「ええ、私が行こうかと。この酒場に入り浸りで、あなたとの戦い以来身体も鈍っていますしね」
「なるほどな。んじゃまあ、気をつけてなー」
まるっきり誠意のこもっていない言葉を投げかけ、飲酒を再開するフォード。彼にとっては、金にならない仕事などどうでもいい。手伝う気はさらさらないし、興味もない。この酒場の飲み逃げ犯退治を請け負っているのだって、マスターから高額の給料をもらっているからだ。
「やれやれ。まあ、貴方の力を借りるほどではないですしね。私独りでいくとしましょう」
「何を言うかね、この帝王が。こっちはいつ背中を撃たれるかヒヤヒヤしてるってのに」
「おや、冴えない冗談ですね。まあ、気が向いたらどうぞ。マスターの居場所はここです」
そういって、一枚の紙を取り出すトンプソン。そこには、簡素な地図と地名が書かれていた。
「それでは、私はこれで」
「おう、またな」
いつものように紳士的に一礼して、トンプソンは酒場を出た。
汝、何を望む?
【力】を。
汝、自らを捨てる覚悟はあるか?
【力】が手に入るのならば。
よろしい。ならば我を信じ、我に委ねよ。さすれば、力は得られん。
・・・・・・信じよう。この身を使い、【力】手に入れるのだ。
「・・・・・・・ふぅ」
あれから、数時間。酒場はますます騒がしくなっていた。まだ昼だというのに。
「みんな元気なことで・・・・・・」
酒場の端に陣取り、酒を飲むフォード。何も彼は、無意味に酒場に居るのではない。
彼の目的は、酒場の一角、隅に作られた机と、その上にあるノートを監視すること。
机そのものは、ただの木製細工だ。しかし、問題はそこではない。その上に置かれた、一冊のノートである。
アカシャノート。それは、そう呼ばれていた。
この世界の全ての事象を管理する【管理者】の持ち物。世界を作り、改変する権限を持つ【管理者】。その【管理者】が持つノートには、世界を変える力があるらしい。
すでに起こってしまったことを変えたい時。自らの力では変えられない未来を変えたい時。そのノートは、ありとあらゆる力を凌駕する武器となる。
その力には、抗えない。実際に体験し、胸を打ち抜く羽目になったからこそ分かるのだ。
「本当なら処分したいんだがなあ」
グラスを傾けながら、フォードは独り言を呟く。そう、本来ならば処分してしまいたい。トンプソンとこのノートの処遇について考えているとき、そういう意見が出たのは確かだ。
しかし、処分したらどうなるのか。これまでにノートに書かれた事象は、そしてこの世界は。彼らはそれを恐れ、またその力に魅せられていた。だからこそ処分することなく、そして使うこともなく自らの管理下に置いているのだ。
それは、一見無造作に置かれているように見える。しかし、表面上ただの酒場であるはずのここに多数の罠が仕掛けられているのと同様、ノートにいたるまでには数々の罠が存在する。何しろ、酒場中の罠の8割がノート近辺に集約しているという状況なのだ。
再び、グラスを傾けるフォード。彼の任務は監視だが、別段監視する必要もない。あれが二人の所有物であるということは酒場の皆が知っているが、その絶対的な能力は二人以外知らない。ならば、一見ただのノートにしか見えないものにわざわざ手を出そうとする愚か者は殆ど居ないのだった。
「たまに居たとしても・・・・・・」
飲み終わったグラスを投げる。グラスは半円軌道を描いて、ノートの側へ。
次の瞬間。空中にあったグラスは、一瞬で粉々になっていた。知覚不能。何がおきたのか全く出来ないままグラスは細かい破片となり、地面に散らばった。
「こうなる訳だ。仕掛けすぎて解除方法は俺でも分からん。何しろ、一つ解除する間に10個は罠が発動するからな。分かったか?」
そういって、目の前の紅香に目を向ける。
「じゃあ、どうしろっていうのよ」
「要するに、マスターを捕まえてくればいいんだろ?俺が探して来てやるよ」
「・・・・・・幾らよ」
「今ここにある金と・・・・・・そうだな、カウンターの奥に隠してある残り半分。それで手を打とうじゃないか」
ニヤリと笑うフォード。どうして気づかれていたのか、と愕然とする紅香。
「どうして・・・・・・」
「さあ?ともかく、マスターのヘソクリ全額でなら手を打ってやる。別にあんたに損害はないだろう?」
「・・・・・・強欲」
「好きに言え。で、頼むのか?頼まないのか?」
「・・・・・・分かったわよ。ただし今日中に見つけてきて頂戴。じゃなきゃ、契約は破棄よ」
「OK。十分だ」
前金の半額を懐に納め、席を立つフォード。無論、既にトンプソンが探しに行っているなどとはおくびにも出さない。
「ヒヒ、儲けた儲けた」
さて。後はマスターを踏ん縛って来るだけか。
そして、フォードが酒場を出て数分後。
一人の人物が、酒場内に入店した。
「お、響さんじゃないですか。久しぶりですね~」
入店した客は、どうやら先客の顔馴染みだったらしい。奥で酒を飲んでいた春光が近づき、気軽に肩を叩く。
しかし、その顔が一瞬強張った。ゆっくりと顔を上げたその表情は、響であり響ではなかった。
「響さん?どうかしましたか?」
「・・・・・・今日は、一つ面白い話を持ってきたんですよ」
春光の疑問には答えず、唐突に語りだす響。
「面白い話?」
「ええ・・・・・・私の、いえ私たちの一世一代の大勝負。この世界の理を変え、運命を変え、私たちは支配者になる」
言いながら奥に進み、低い笑い声を漏らす響。
「響さん・・・・・・?」
普通ではないと、春光は何処かで感じていた。しかし、彼の精神は以上溢れるこの酒場ですでに麻痺していた。それゆえ、響の違いには気づけなかった。
「アカシャノート。管理者の残した遺産。求めし者が、命を懸けてまで求めた呪具。私はそれを・・・・・・奪います」
「始まったね」
少年は、呟いた。
「そうでござるな」
青年は、答えた。
「どうなると思う?」
「分からぬ。ただ、面白いことになるのは確かでござろう」
そうだね、と頷く少年。年齢は、10代前半。それも、まだ小学生と見まごうばかりである。その全身はまるで魔法使いのような服に被われ、トンガリ帽子が少年の小さな頭部の半分近くを隠してしまっていた。
「ボクはね、飽きたんだ。ただこの場で傍観者となることに」
「干渉するつもりでござるか?」
一方、こちらの姿はまさに忍者。声からまだ若い男であることは分かるが、真っ黒な忍装束に覆われた全身からは、常人にはない力が溢れていた。
「たまには、ね。せっかくの機会なんだし・・・・・・七無しさん、君もどう?」
「ふむ・・・・・思えば、最初のあのときから拙者は傍観者であったな。たまには、表に出るのも悪くはないでござるな」
「決まりだね。さて・・・・・・どっちか一方に味方するのは不公平だよね。どっちに付く?」
「拙者は、魔王に付こう。聖霊殿、お主は番人についてはどうでござるか?」
「分かった。じゃあそうしよう。それじゃあ・・・・・・しばし、この世界を楽しもう」
そして、闇から気配がなくなった。後に残されたのは、その残り香のみ・・・・・・。