第7回口頭弁論期日①(2010年4月28日):原告準備書面(3)


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第7回口頭弁論期日(2010年4月28日)
陳述書面:原告準備書面(3)
http://watashinim.exblog.jp/11028493/


平成21年(ワ)第19716号
原告  金 光翔
被告 (株)新潮社 外2名

準備書面(3)

平成22年4月21日
東京地方裁判所民事第5部合議係 御中
原告 金光翔


第1 被告の準備書面(3)に対する反論

1 原告の異動について

(1)被告は、「反総連の記事はけしからん・・・」云々はあくまでも『世界』編集長が原告を持て余した事情の一つである。原告が主張するような「がゆえに」という接続詞で結ばれるような単純な原因と結果の関係に立つものではない。」などと主張するが、一般読者の普通の注意と読み方からすれば、既に原告準備書面(2)の「第1 原告の異動について」「2 被告の立証対象の範囲」で詳述したように、原告が『世界』編集部で「“反総連の記事はけしからん!”“なぜ佐藤を連載に使うのか!”などと抗議をしたり、匿名で始めたブログで佐藤氏やジャーナリストの斎藤貴男氏など、社と関係の深い作家の批判を繰り返すようになった」ことを主たる理由として、『世界』編集長が原告を「持て余し、校正部に異動させた」結果が生じていると解されること、そのような理由に基づいた「異動」であるがゆえに、原告の社会的評価が低下していることは明らかである。
 したがって、被告は、「持て余し異動させた」だけではなく、原告が『世界』編集部で「“反総連の記事はけしからん!”“なぜ佐藤を連載に使うのか!”などと抗議をしたり、匿名で始めたブログで佐藤氏やジャーナリストの斎藤貴男氏など、社と関係の深い作家の批判を繰り返すようになった」ことと『世界』編集長が原告を「持て余し、校正部に異動させた」こととの因果関係を立証すべきである。

(2)被告は、「反総連の記事はけしからん!」との記述について、「単に、原告の『世界』編集部への抗議内容の一つを伝えるものにすぎ」ないと主張するが、原告準備書面(1)の「第2 本件記事の伝える意味」「1 訴状・請求原因・第2・2・(1)について」で詳述したように、この箇所が原告の社会的評価を著しく低下させていること、記述それ自体も真実性を欠いていることは明らかである。
被告の主張は失当である。

(3)被告は、原告の異動経緯に関する立証の対象は、原告の言動を「世界」編集長が「持て余し異動させた」のかどうかの点であると考えるべきである、と一貫して主張しており、原告が異動願を出したかどうか、その異動願の提出が「思想・良心の自由」を守るためのものであるかは関係ない、本件記事の「“反総連の記事はけしからん!”“なぜ佐藤を連載に使うのか!”などと抗議をしたり、匿名で始めたブログで佐藤氏やジャーナリストの斎藤貴男氏など、社と関係の深い作家の批判を繰り返すようになった」という記述と、異動との因果関係を示す必要もない、と主張している。

だが、このような主張は、本件記事が極めて杜撰な取材の下に成り立ったものであり、それゆえに、真実性の証明が不可能なために苦し紛れに捻出された弁明に過ぎない。

被告が本件記事執筆に依拠したとする「岩波書店関係者」への取材記録(乙第10号証)には、以下のように記されている。

「これらの言動は、編集部員として明らかに不適格です。編集長も彼を持て余しましたし、会社もそういう状況を把握しました。その結果、金氏は07年に校正部に異動になったというわけです。岡本編集長からも異論はなかったということです。」

また、原告への取材依頼のメール(乙9・12号証)には、以下のように記されている。

「弊誌の取材によれば、編集部在籍時代から、金様が佐藤優氏の連載記事について批判を繰り返していたことが異動理由の一端にあると伺っておりますが、如何でしょうか。」

また、岩波書店への取材依頼書(乙14号証)には、以下のように記されている。

「『世界』編集部に所属していた際には、朝鮮総連への論調や佐藤優氏が連載を持っていることについて批判を繰り返していたとのこと。また、匿名で始めたブログで、佐藤氏や斎藤貴男氏など、貴社と関係の深い作家の批判をしていたこともあって、校閲部に異動となったと伺っておりますが、如何でしょうか。」

これらはすべて、「岩波書店関係者」の証言も含めて、原告が異動願を申請した事実を一切知らず、会社が一方的に原告を『世界』編集部から異動させた、という前提で書かれている。また、『世界』編集部内部での批判やブログでの批判によって、原告が異動させられた、という前提で書かれている。被告新潮社および被告早川が、裏付け取材をすれば虚偽が存在することが明白な情報に基づいて、本件記事を執筆したことは明らかである。

被告新潮社および被告早川が、もし裏付け取材をしていれば、原告が佐藤優を起用する編集方針に異議を唱えて自ら異動願を出した事実を容易に知りえたであろうから、そのことを記事で記しえたはずである。原告準備書面(2)で述べたように(8~9頁)、そのような事実が記されていれば、原告の社会的評価は低下しない。被告による、原告が異動願を出したかどうか、その異動願の提出が「思想・良心の自由」を守るためのものであるかは関係ない、などという主張は、杜撰な取材であることを糊塗するための、苦し紛れに捻出された弁明に過ぎないと言える。

また、上記の情報から、被告新潮社および被告早川が、原告が「“反総連の記事はけしからん!”“なぜ佐藤を連載に使うのか!”などと抗議をしたり、匿名で始めたブログで佐藤氏やジャーナリストの斎藤貴男氏など、社と関係の深い作家の批判を繰り返すようになった」がゆえに、会社に異動させられたと認識していたことは明らかであるから、当然、本件記事の「“反総連の記事はけしからん!”“なぜ佐藤を連載に使うのか!”などと抗議をしたり、匿名で始めたブログで佐藤氏やジャーナリストの斎藤貴男氏など、社と関係の深い作家の批判を繰り返すようになった」という記述と、原告の異動との因果関係が立証されなければならない。これは、本件記事を一般読者の普通の注意と読み方によって読んだ場合からもそう言うことができる。因果関係を立証する必要はないとする被告の主張は、これもまた、杜撰な取材であることを糊塗するための、苦し紛れに捻出された弁明であり、単なる論点ずらしに過ぎないと言える。


2 「思想・良心の自由と異動願」について

被告は、「人事異動は使用者が業務上の必要から労働者に対し命ずるものであって、原告がいうように「(異動願を申請したという事実)がなければ異動自体がそもそも成立しなかった」というものではない」のであり、「本件において原告が異動願を提出した動機・理由などは全く争点ではない」と主張している。だが、原告準備書面(2)の「第1 原告の異動について」「3 思想・良心の自由と異動願」で詳述したとおり、本件記事の異動に関する記述の箇所が、原告の社会的評価を著しく低下させているのは、原告が編集者および会社員としての社会的規範に則った上で、自らの思想・良心の自由を守るためにやむなく異動願を出したにもかかわらず、本件記事においては、逆に、原告に問題があったからこそ異動がなされた、とされている点である。したがって、原告から異動願を申請した事実および「原告が異動願を提出した動機・理由」は、異動の事実の意味を大きく左右するものであって、原告の異動の事実を記述するに不可欠なものであると言うべきである。被告の主張は失当である。


3 「中国人差別発言」について

被告は、原告準備書面(2)の「第1 原告の異動について」「4 中国人差別発言に関する被告の主張」における原告の、「一編集部員による中国人差別発言を原告が注意したことを契機とした、『世界』編集部内における原告への「職場いじめ」と言わざるを得ない状況に対して、原告から仲裁を依頼された岡本編集長が仲裁を拒否したことが、職場環境配慮義務に違反していることは明らかであり、そのような違法性を有する事実を挙げて、名誉毀損に関する免責が成立するとの主張は本末転倒である。」との主張に対し、「被告が「中国人差別発言」にふれたのは、原告と『世界』岡本編集長の面談のテープ(甲33号証)の中に「●さん」との発言部分がある為、何故面談の際に「●さん」に関し言及されているのかを理解するために原告のブログ(乙1号証)を引用して説明し、あわせて、岡本編集長が原告の言動を持て余していた例証の一つとしたものに過ぎない。」と主張している。

だが、被告は、本件記事の異動に関する記述によって社会的評価の低下が成立していることを認めた上で、立証範囲は「『世界』編集長が原告を持て余し校正部へ異動させたという事実」であると主張しており、その「持て余していた例証の一つ」として、一編集部員による中国人差別発言を原告が注意したことを契機とした、『世界』編集部内における原告への「職場いじめ」と言わざるを得ない状況に対して、原告から仲裁を依頼された岡本編集長が仲裁を拒否した事実を挙げている以上、被告がこの事実を一つの論拠として、「名誉毀損に関する免責が成立する」と主張していると解されることは明白である。被告の主張は失当である。そして、違法性を有する事実を主要事実とする被告の主張が、失当であることも自明である。


4 「当初の異動対象」について

被告は、「人事異動は使用者が業務上の必要から労働者に対し命ずるものである。/当初の異動対象が原告のいうとおり山本某であろうとなかろうとそれは本件の争点ではない。」と主張する。だが、一般読者の普通の注意と読み方からすれば、本件記事によれば、原告が「『世界』編集部で「“反総連の記事はけしからん!”“なぜ佐藤を連載に使うのか!”などと抗議をしたり、匿名で始めたブログで佐藤氏やジャーナリストの斎藤貴男氏など、社と関係の深い作家の批判を繰り返すようになった」ことを主要な理由として、『世界』編集長が原告を「持て余し、校正部に異動させた」と解することは明らかである。したがって、それらの事実や被告がその他に挙げる中国人差別発言への原告の注意に関する件も含めて、被告が「『世界』編集長が原告を持て余し」ていたと主張する根拠が既に明確に存在している時点において、なぜ、異動対象が山本であって、原告ではなかったかを、被告は証明すべきである。


5 佐藤発言①について

被告は、「「人民戦線」という用語は原告が使用したものであって佐藤が使用したものではない。/まさに「私が言っていないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容」という他はないのであって、佐藤のこのコメントは真実である。」と主張している。そして、その根拠として、2点を挙げている。だが、2点とも、被告の主張は失当である。

そもそも、原告準備書面(2)の「第2 佐藤発言①について」「2 被告が「言っていないこと」と主張している点」「(3)」において指摘したとおり、「原告による、「論文」中での「人民戦線」という記述は、被告佐藤の主張を要約したもの」である。

原告は、「論文」において、「佐藤は呼びかける。「ファシズムの危険を阻止するためには、東西冷戦終結後、有効性を失っているにもかかわらず、なぜか日本の論壇では今もその残滓が強く残っている左翼、右翼という「バカの壁」を突破し、ファシズムという妖怪を解体、脱構築する必要がある」(50)と。魚住昭は、呼びかけに応じて、「いまの佐藤さんの言論活動の目的は、迫りくるファシズムを阻止するために新たなインターアクションを起こすことだ」と述べており(51)、斎藤貴男も、前掲の『週刊読書人』の記事で、「魚住の理解に明確な共感を覚えた」と述べている。」と、被告佐藤の主張を示し、被告佐藤の主張が、「人民戦線」と要約される意で受容されていることを示している。

(1)被告は、「原告の論文(甲3号証)の141頁~142頁の6項のタイトルは「『人民戦線』という罠」であり、本文の中で佐藤の論文が2本引用されているが、その中で佐藤は「人民戦線」という用語は一切使用していない。」と主張している。まず、141頁~142頁の6項において被告佐藤の論文は1本しか引用していないから、被告の主張はそもそも事実認識が誤っている。また、「『人民戦線』という罠」というこの項のタイトルにおける「人民戦線」という語句は、被告佐藤の主張の要約であり、かつ、被告佐藤のような「保守派」と「大同団結しよう」とする日本のリベラル・左派の傾向をも指しているものである。したがって、引用されている論文に「人民戦線」という用語が使用されていないことは何ら問題ではなく、また、「人民戦線」という用語は原告が使用したものであって佐藤が使用したものではない。」などという被告の主張は意味をなさない。

また、被告は、「「人民戦線」という用語は、佐藤の「ファシズムの危険を阻止するためには、東西冷戦終結後、有効性を失っているにもかかわらず、なぜか日本の論壇では今もその残滓が強く残っている左翼、右翼という『バカの壁』を突破し、ファシズムという妖怪を解体、脱構築する必要がある」との「民族の罠」での記述に対する魚住昭や斎藤貴男等の反応をとらえ、原告が「ファシズム政権の樹立に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する」とまとめているだけであって、あくまでも原告が使用した用語である。」と主張する。

だが、ここで被告が挙げている記述例において、原告は、被告佐藤が「人民戦線」という用語を用いていることを前提とした記述は行なっておらず、「人民戦線」という用語は被告佐藤の主張を要約したものとして使用されているのであるから、「「人民戦線」という用語は原告が使用したものであって佐藤が使用したものではない。」などという被告の主張は意味をなさない。

(2)被告は、「原告の論文の143頁から144頁の7項のタイトルは「『国民戦線』としての『人民戦線』」であり、本文の中でも佐藤の論文が2本引用されているが、その中で佐藤は「人民戦線」という用語は一切使用していない。にも拘らず、タイトルは前述したとおり「『国民戦線』としての『人民戦線』」とされた上で、本文の1、2行目では「ここで佐藤の提唱する『人民戦線』なるものが、いかなる性質のものであるかを検証してみよう」とつながっているのである。」と主張している。まず、143頁~144頁の7項において被告佐藤の論文は1本しか引用していないから、被告の主張はそもそも事実認識が誤っている。また、ここでも「人民戦線」という用語は被告佐藤の主張を要約したものとして使用されているのであるから、引用されている論文に「人民戦線」という用語が使用されていないことは何ら問題ではなく、また、「人民戦線」という用語は原告が使用したものであって佐藤が使用したものではない。」などという被告の主張は意味をなさない。

(3)被告は、「原告は「佐藤優 国家を斬る」(甲36号証)の中の佐藤の発言、即ち「『反ファッショ統一戦線』というのと、私が理解するところの『国体の護持』というのは全く同じなんです」という部分を拾い出し、「反ファッショ統一戦線」と「人民戦線」とは同義であると主張する。/ここでは、同義であるかどうかはひとまず置くとして、同義であるということと「使用」しているということは全く別の事柄である。」と主張している。

だが、原告準備書面(2)の「第2 佐藤発言①について」「1」において指摘したように、被告佐藤は、「原告の論文(甲3号証、以下、「論文」という)において、被告佐藤が言っていないこと、あるいは曲解された事実が多数記載されている」という事実が、「滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」という論評の前提となるに足る真実性を有するもの、と主張していると解されねばならない。

被告佐藤は、原告の「論文」において、「言論を超えた私個人への攻撃」であり、被告佐藤をして「絶対に許せ」ないと思わしめた、「滅茶苦茶」な、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書」いた箇所が存在すると主張しているのであるが、これが、一般読者の普通の注意と読み方に従えば、原告が被告佐藤の主張を捏造して批判している、という意であると解されることも明らかである。

「反ファッショ統一戦線」と「人民戦線」が同義であれば、原告が被告佐藤の主張を捏造して批判していなかった事実が示されることを意味する。原告準備書面(2)で指摘したように、「反ファッショ統一戦線」と「人民戦線」が同義であることは、被告佐藤の用法から導かれる。また、被告佐藤が「人民戦線」という語句を使用していないという事実が「滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」という論評の前提となるに足る真実性を有するものとは到底言えず、実質を欠いていることも明白である。したがって、「同義であるということと「使用」しているということは全く別の事柄である」との被告の主張は、単なる形式論へのすり替えであって、失当である。

 被告の主張がどれほど実質を欠いているかは、『社会科学総合辞典』(新日本出版社刊行、1992年7月15日発行。甲45号証)の「人民戦線」の見出し項目には、「反ファシズム統一戦線」を見よとあり、「反ファシズム統一戦線」の見出し項目には、「人民戦線ともいう。」とされていることからも容易に窺うことができる。

また、被告は、「加えて原告の論文では「佐藤のいう」、「佐藤が使う」ではなく、より主体的・能動的に佐藤が関与していることを意味する「佐藤が提唱する人民戦線」とされているのである。」と主張している。

だが、ここでも「人民戦線」という用語は被告佐藤の主張を要約したものとして使用されているのであるから、「より主体的・能動的に佐藤が関与していることを意味」などといったことは何の関係もない。

また、被告は、「しかも、論文の7項の出典には、甲36号証は掲げられていない。」と主張している。

だが、甲36号証を掲げているかいないかは、論文の主張の真実性を判断するに際して、何の関係もない。甲36号証は、論文掲載誌の刊行日以前に出版されたものであるから、論文で扱う被告佐藤の言動・行動が、甲36号証におけるそれをも含むことは明白である。したがって、論文の7項の出典に、甲36号証を掲げていないことは何ら問題ではない。

また、被告は、「加えて、「人民戦線」とは歴史上の概念であって、「1935年のコミンテルン第7同大会で書記長ディミトロフの指導の下に、ファシスト独裁と戦争に反対する労働者階級の統一と、これを中心に反ファシズムの諸階層と諸党派を結びつける共同戦線戦術として採り上げられた政策(である)」(辻清明編・岩波小辞典・政治・第3版・第4刷・123頁)。/佐藤は『反ファッショ統一戦線』という用語を使用したことはあるが、「戦争反対」との主張をしたことはない。「新帝国主義の選択肢」(乙2号証)においても「帝国主義の選択肢に戦争で問題を解決することも含まれる」と主張しているとおりである。」と主張している。

 だが、原告準備書面(2)15~18頁で指摘したように、被告佐藤の用いた「反ファッショ統一戦線」という語には、「反ファッショ統一戦線  一九三〇年代に、コミンテルンの決議にもとづいて、各国共産党が、ファシズムと戦争に反対する多様な政治勢力の統一戦線戦術を採った。一九三五年のコミンテルン第七回大会のディミトロフ報告で提起され、翌三六年のフランス、スペインでの人民戦線内閣の成立として実を結んだ。」なる注釈が附されており、この注釈については、被告佐藤が承認を与えていると解される。したがって、被告が言うところの、「人民戦線」という用語はコミンテルン第7回大会で採り上げられた「歴史上の概念」であり、「戦争反対」なる主張を含むものであるとの主張は、上記注釈に従えば、被告佐藤が用いる「反ファッショ統一戦線」にもそのまま該当するものであるから、被告の主張はそもそも支離滅裂である。

また、そもそもコミンテルンは、「ファシスト独裁」によって引き起こされる帝国主義戦争に対しては反対であっても、戦争一般に対して反対しているわけではなく、その母体たる当時のソ連も戦争一般に対して反対しているわけでないことは自明であるから、被告佐藤が「戦争反対」との主張をしたことがないという事実は、被告佐藤の主張を「人民戦線」と解することを何ら妨げない。

 また、「人民戦線」という用語は、既に一般的な用語として使用されていることは明白であり、「戦争反対」があるかどうかという点はなんら意味をなさない。

 そもそも被告佐藤自身が、その著書『自壊する帝国』(新潮社刊行、2007年5月30日発行。甲46号証)の中で、「ラトビア人民戦線」という用語を用いている。被告佐藤は、「1988年10月8、9日、リガでラトビア人民戦線の創設大会が行なわれた。人民戦線はゴルバチョフが進めるペレストロイカを支持する一種の体制翼賛運動を建前としていたが、そのなかにはソ連からのラトビア独立を真剣に考える民族主義者や、逆にソ連を帝国として維持するためにはマルクス・レーニン主義と絶縁した国家社会主義体制を作るべきであるとする帝国主義者も含まれていた。」(124頁)と述べている。同書で「ラトビア人民戦線」は、「戦争反対」を目的として結成されたものとはされておらず、また、被告佐藤もそのような目的を有しているものとして「ラトビア人民戦線」を描いていない。また、「ラトビア人民戦線」の一員である、「帝国主義者」が「戦争反対」の主張を持っているはずもないことも自明である。被告の主張は、被告佐藤自身の過去の用法とすら矛盾する、荒唐無稽なものである。

 また、以下に示すように、「戦争反対」を特に主張するものとしてではなく、一般的用法として「人民戦線」という語句が用いられている用例は、極めて多数にのぼる。

「十一日夜のタス通信によると、アフガニスタン新政権は、与党人民民主党以外の広範な国民各層の協力を得るため「人民戦線」の結成を進め、その手始めとして、新政府閣僚に非党員三人を含めることを決定した。」(「“人民戦線”の結成めざす アフガン新政権」読売新聞夕刊、1980年1月12日付。甲47号証)

「一方、右派は「土井氏の主張を採れば採るほど、土井続投を望む左派主導での現状容認型の改革案づくりになる」(水曜会幹部)と反発。「広く門戸を開き市民代表まで参加させるというのは左派特有の『人民戦線』の発想。左派は改革案で基本政策の見直しは骨抜きにし、代わりに書記局の再編・強化など左派に都合の良い機構改革を打ち出すハラだ」と警戒している。」(「社党改革委 構成めぐり火花 左右両派、主導権確保狙う」日本経済新聞朝刊、1991年5月13日付。甲48号証)

「遠藤 (前略)昔だったら法王は仏教の人たちと対話してくれとは積極的に言わなかったと思うのです。だから今、こうしてお話ししているのも、実は久保さんの仏教、そしてキリスト教徒である私もですね、きっと同じ考えを持っているから成り立っている。お互いの立場を尊敬し、尊重する。これはかつての、いわゆる人民戦線みたいな政策的なことでは全くないわけです。でも、こういう目に見えない、時代の足音。そういうのが確実に到来しつつあるといえるのじゃないでしょうか。」(久保継成・遠藤周作「対話 人生と仏教」毎日新聞朝刊、1993年4月4日付。 甲49号証)

「野田 そのあたりに日本のリベラリズムの問題があるのだろう。どうも日本の場合は、リベラルというものの積極的な価値が弱く、人民戦線的で「左」と提携しているのがリベラルだ、といったイメージがずっと残ってしまった。」(粕谷一希・野田宣雄・坂本多加雄・山口二郎「「戦後論壇と知識人」4氏座談会」(上)読売新聞朝刊、1995年11月27日付。甲50号証)

「丸山眞男氏の急進主義は、一九三〇年代の英国労働党のイデオローグ、H・ラスキに倣って、コミュニズムにもっとも接近した姿勢であり、国内的には社共統一戦線、人民戦線の論理であり、国際的には米ソ両陣営いずれにも属さない中立志向であった。こうした理想主義が可能であったかどうか、後世史家の判断にまつほかはない。」(粕谷一希「丸山眞男氏 追悼」読売新聞夕刊、1996年8月19日付。甲51号証)

「(注・松田道雄は)『日本的育児法』に見られるように、手のはなせない母親にかわって、孫をつれてくる祖母との問答から考えを繰り広げて、昔からの子育ての知恵への評価を試みた。それは、さかのぼって江戸時代の儒者貝原益軒の『養生訓』への解説への道を開く、日本思想史への読み直しでもあった。先行者をふくむタテの人民戦線の拠点をつくる仕事だった。」(鶴見俊輔「松田道雄氏を悼む――タテとヨコの人民戦線」朝日新聞夕刊、1998年6月4日付。甲52号証)

「自民党の中曽根康弘元首相は二十七日、前橋市内で講演し、「民主党は反自民で一色だ。共産党は人民戦線をやろうとしている。(後略)」」(「自由・公明との連携を求める 中曽根元首相」朝日新聞朝刊、1998年8月28日付。甲53号証)

 また、久野収・鶴見俊輔「<対談>新しい人民戦線を求めて」(『思想の科学』1970年9月号、思想の科学社発行、1970年9月1日発行。甲54号証)、久野収「新しい創造的人民戦線の可能性」(『新日本文学』1971年6月号、新日本文学会発行。甲55号証)、高木郁郎「プレ・人民戦線と労働組合運動」(『労働経済旬報』1971年4月上旬号、労働経済社発行、1971年4月1日発行。甲56号証)、岩井章・高木郁郎「労働運動の新しい転機と人民戦線への展望」(『労働経済旬報』1971年6月上・中旬号、労働経済社発行、1971年6月1日発行。甲57号証)といった記事では、「人民戦線」がごく当然のように一般的な用語として用いられており、記事内で頻繁に使用されている。

 また、読売新聞朝刊1989年10月3日付には、「ミニ時典」なる欄で、「人民戦線」の用語解説が掲載されているが、そこには以下のように書かれている(甲58号証)。

「人民戦線  ソ連の沿バルト海3共和国などで、共和国の主権強化を求めて活動している民族主義団体。昨年秋、まずエストニア、ラトビア、リトアニアの3共和国で相次いで結成された。
 ペレストロイカ(立て直し)支持のスローガンを前面に掲げているが、これら3国は第2次世界大戦中のソ連邦加盟に対する不満が根強く、人民戦線の急進派の中にはソ連邦からの分離、独立を主張するメンバーもいる。今年8月には、3国のソ連邦加盟を決めた独ソ不可侵条約付属文書に対する抗議行動を起こし、共産党中央委員会が警告声明を発表するなど緊迫した情勢となった。沿バルト3国のほか、モルダビア、白ロシア、ウクライナの各共和国でも同様の組織が結成されている。いずれも幹部の大半が人民代議員で占められており、沿バルト3共和国では社会団体として認知されている。人民の支持も強く、共産党に対する“対抗政治勢力”になりつつある。」

 ここでは上で挙げた、被告佐藤も言及していた「ラトビア人民戦線」にも言及されているが、「戦争反対」なる主張も「コミンテルン第7回大会」も問題にすらなっておらず、被告が主張するものとは全く別の形で「人民戦線」という名称が使用されており、そのようなものとして解説されている。

 また、上記の用例でも挙げられているように、「人民戦線」の名称を有する政治団体は、多数にのぼっており、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)、人民戦線ネパール、西部人民戦線(スリランカ)等が有名であるが、いずれも戦争を否定しているわけではなく、パレスチナ解放人民戦線に至ってはテロ活動を肯定している組織である。また、「民主正義人民戦線」(PFDJ、旧称エリトリア人民解放戦線)は、エリトリアで一党独裁体制を敷いている政党であるが、もちろん戦争を否定しているわけではない。

 また、朝日新聞夕刊1970年10月31日付では、「サイゴンに人民戦線」という見出しが用いられており、「人民戦線」が普通名詞として使用されている(甲59号証)。朝日新聞夕刊1990年4月23日付では、「ソ連リトアニア共和国の独立運動を主導する人民戦線組織「サユジス」」と、やはり「人民戦線」は普通名詞として使用されており、「サユジスは分離共産党や社会民主党、緑の党、キリスト教民主党など独立に賛成する諸政党やグループを幅広く結集した運動体組織。」と解説されている(甲60号証)。また、朝日新聞夕刊1978年3月20日付でも、「ギュンター・グラス氏 政治を語る」なる記事に、「人民戦線にきびしい警戒心」という見出しが使われており、本文でも、「イタリア共産党については、レーニン主義的体質から比較的遠いとの判断を示したが、とにかく人民戦線にはきびしい警戒心、むしろ敵意すらみせる。」と、「人民戦線」が普通名詞として用いられている(甲61号証)。

 また、「人民戦線」の項目で、「戦争反対」の意を明記していない辞典も多数にのぼる。

「じんみんせんせん【人民戦線】《名》ファシズムに反対して民主主義を守ろうとする政党・団体・市民などによる共同戦線。(参)一九三五年のフランスと、一九三六年のスペインのものが名高い。」(『学研国語大辞典』学習研究社刊行、1978年4月1日発行。甲62号証)

「人民戦線 じんみんせんせん 〈仏〉Front Populaire ファシズムの脅威に対抗して、左翼勢力を中心とする反ファシズム勢力が大同団結して組織した共同戦線のことをいう。フランスの場合、1934年2月6日の右翼による暴動などを契機として、左翼によるファシズム阻止の動きが強まり、35年6月に共産党、社会党、急進党が団結して人民戦線を形成した。さらに翌36年3月には労働運動も統一され、5月の下院総選挙で人民戦線が勝利し、6月にはレオン・ブルム(Blum,Léon)を首班とする人民戦線内閣が成立した(共産党はこの内閣に対して閣外協力の立場をとった)。ブルム内閣は有給休暇制をはじめとする社会改革に着手したが、外ではスペイン市民戦争、内では経済情勢の悪化という困難に直面し、改革半ばにして、37年6月にブルム内閣は退陣する。その後2次にわたるショータン(Chautemps,Camille)内閣ののち、38年3月には第2次ブルム内閣が成立するが、これもすぐに瓦解しダラディエ(Daladier,Édouard)内閣の成立後、入民戦線は崩壊し去ってしまう。(舛添 要一)(『現代政治学事典』大学教育社刊行、1991年4月25日発行。甲63号証)

「[人民戦線]<仏>front populaire 1930年代にファシズム勢力の台頭に対して、各国に高揚した民主主義的運動。その起源は1934年にフランスの共産党と社会党が右翼の諸団体に対抗して共同闘争を組織したことにある。文献的には、フランス共産党書記長トレーズがこの言葉を用いたのが最初とされる。1935年コミンテルン第7回大会は人民戦線を戦術として採用して、すべての反ファシズムに対抗すべきことを提唱した。(以下略)(斉藤孝)」川田侃・大畠英樹編『国際政治経済辞典』東京書籍刊行、1993年3月25日発行。甲64号証)

「じんみん‐せんせん【人民戦線】(Front populaire フランス)  一九三〇年代後半、反ファシズムを共通綱領として組織された統一戦線。一九三五年のコミンテルン第七回大会で戦術として採択され、一九三六年フランスとスペインにおいて政権を獲得。中国では抗日統一戦線へ発展。」(『講談社 カラー版 日本語大辞典 第二版』講談社刊行、1995年7月3日第2版第1刷発行。甲65号証)   

「じんみんせんせん【人民戦線】  反ファシズムの政党・団体による広範な共同戦線。1930年代半ばファシスト独裁の危機を前に、フランス・スペインで結実した。」(『大辞林 第二版』三省堂刊行、1995年11月3日第2版第1刷発行。甲66号証)

「【じんみん‐せんせん 人民戦線】  一九三〇年代に、フランス、スペインなどでファシズムに反対して結成された農民、都市小市民などの広範な連合戦線」(『現代国語例解辞典〔第二版〕<二色刷>』小学館、1997年1月1日発行。甲67号証)

「[人民戦線]ファシズムに反対するあらゆる団体・個人の共同戦線。中心勢力は左翼にある。」(『新明解 国語辞典 第五版』三省堂刊行、1997年12月1日第2刷発行。甲68号証)

「じんみん‐せんせん【人民戦線】〔名〕一九三〇年代に、フランス、スペインなどでファシズムに反対して結成された労働者、農民、都市小市民などの広範な連合戦線。」(『小学館 日本語大辞典』小学館刊行、2005年1月1日発行。甲69号証)

 また、被告は、「人民戦線」を「1935年のコミンテルン第7同大会で書記長ディミトロフの指導の下に、ファシスト独裁と戦争に反対する労働者階級の統一と、これを中心に反ファシズムの諸階層と諸党派を結びつける共同戦線戦術として採り上げられた政策」と限定しているが、上で挙げたように、『国際政治経済事典』斉藤孝執筆の「人民戦線」の項目(甲64号証)によれば、「その起源は1934年にフランスの共産党と社会党が右翼の諸団体に対抗して共同闘争を組織したことにある。文献的には、フランス共産党書記長トレーズがこの言葉を用いたのが最初とされる。」とあるから、歴史的に見ても、「人民戦線」を被告が言うようにコミンテルン第7回大会で採り上げられれた政策に限定すべき理由もない。現に、上で挙げた『現代政治学事典』の舛添要一執筆の「人民戦線」の項目(甲63号証)は、コミンテルン第7回大会については全く触れていない。
 
 以上より、「佐藤は『反ファッショ統一戦線』という用語を使用したことはあるが、「戦争反対」との主張をしたことはない」がゆえに、「反ファッショ統一戦線」とは言っているが「人民戦線」とは言っていない、などとする被告の主張は、実質を欠いている単なる形式論であり、言葉遊びであり、噴飯物の主張である。

(4)『週刊新潮』荻原記者による取材結果(乙11号証)によれば、被告佐藤は以下のように述べている。

「「<佐藤優現象>批判」なる論文は、私が言ってもいないことを、あたかも私の主張であるかのように述べています。例えば「佐藤が言う『人民戦線』とは、『国民戦線』である」なる箇所(P143)がありますが、そもそも私は「国民戦線」なる言葉を使ったことがない。これは不当要約です。言ってないことを、さも私の主張であるかのように書かれ、それを元に批判されても、私は責任の取りようがない。この一件を取ってみても、メチャクチャな内容であることは明らかで、言論と言論との対話が成立していない。対等な話し合いが出来ない。言論を超えた私への攻撃であり、絶対に許せません。」

 被告準備書面(4)で記されているように、この乙11号証は、本件記事における被告佐藤の発言部分の元となったとものである。本件記事の、上記引用箇所に該当する部分は、以下のとおりである。

「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」

 したがって、被告佐藤が「言ってもいないこと」をさも被告佐藤の主張のように原告が書いたとする本件記事の記述の具体的根拠は、「「佐藤が言う『人民戦線』とは、『国民戦線』である」なる箇所(P143)」のみであったと言える。

 そして、「「佐藤が言う『人民戦線』とは、『国民戦線』である」なる箇所(P143)」は、被告佐藤が「言ってもいないこと」をさも被告佐藤の主張のように書いた箇所ではない。一般読者の普通の注意と読み方からすれば、ここで原告が用いている「国民戦線」という語句が、被告佐藤の諸発言においては「「日本国家、日本国民の一体性」を守る観点からの、それらの人々――経済的弱者、地方住民、沖縄県民、被差別部落出身者――の国家への包摂が志向されている」(同頁)にもかかわらず、その「包摂には、基本的に、在日朝鮮人は含まれない」(同頁)という事実に対しての論評として用いられていることは明らかである。したがって、「「佐藤が言う『人民戦線』とは、『国民戦線』である」なる箇所(P143)」を挙げて、「そもそも私は「国民戦線」なる言葉を使ったことがない。これは不当要約です。言ってないことを、さも私の主張であるかのように書かれ、それを元に批判されても、私は責任の取りようがない。この一件を取ってみても、メチャクチャな内容であることは明らか」だとする被告佐藤の発言は、論文の恣意的な読解または誤読というほかない。

 本件記事における被告佐藤の発言部分は乙11号証に基づいたものとされているのであるから、本件記事の被告佐藤発言「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」の真実性を被告が主張するにあたっては、本来、「被告佐藤が「国民戦線」なる言葉を使ったことがないのであるから、「佐藤が言う『人民戦線』とは、『国民戦線』である」との箇所は「不当要約」である」という趣旨の主張が存在しなければならないにもかかわらず、被告はそのような主張を行なっていない。これは、乙11号証に示されている「佐藤が言う『人民戦線』とは、『国民戦線』である」との箇所は「不当要約」である」という趣旨の被告佐藤の発言が、被告佐藤による論文の恣意的な読解または誤読であったことを、被告が認識していることを示している。そうでないならば、被告は、「佐藤が言う『人民戦線』とは、『国民戦線』である」との箇所は「不当要約」である」という趣旨の主張をなぜ行なわないか、理由を説明すべきである。

 また、本件記事の被告佐藤発言「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」の真実性を被告が主張するにあたって、被告が「佐藤が言う『人民戦線』とは、『国民戦線』である」との箇所は「不当要約」である」という趣旨の主張を行なっていない事実は、被告がこれまで挙げてきた「人民戦線」云々や「曲解していること」云々が、本件記事の雑誌掲載時においては考慮されておらず、裁判用に作られたものであることを強く推認させるものである。訴状に記したように、原告は、被告佐藤および被告早川清に対して、それぞれ、被告佐藤が「言ってもいないこと」を、さも被告佐藤の主張のように書いたとする箇所は具体的にどこなのか質問してきたが、両者は一切原告に対して回答しなかった。この事実も、この推認の妥当性を補足するものと言える。

 なお、本件記事において、乙11号証中の「例えば「佐藤が言う『人民戦線』とは、『国民戦線』である」なる箇所(P143)がありますが、そもそも私は「国民戦線」なる言葉を使ったことがない。これは不当要約です。」との箇所が利用されていないことは、本件記事を執筆した塩見洋デスクが、この箇所の被告佐藤の発言が、恣意的な読解または誤読に基づいていることに気づいていたことを推測させる。ある書き手が、ある人物の主張を捏造して批判しているという記述は、書き手の社会的評価を著しく低下させるものであるから、どのような捏造を行なっているかが具体的に例示されるのが常識であると言うべきである。

6 「曲解していること」について
 
 被告は、被告が「曲解していること」と主張していた件に関して、原告準備書面(2)の反論を受けて、「この点に関しては、被告の準備書面(2)の主張を再度援用し、反論するにとどめる。本書面で、原告の主張に対し新たな反論を繰り返すことにより、争点から次第に離れて行く危険性があることを危惧する為である。」と主張している。

 だが、被告自身が被告準備書面(2)において、被告佐藤発言「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」の真実性を主張するために「曲解していること」を列挙している以上、被告が主張している「曲解していること」の真実性の是非が、本訴訟上の重要な争点であることは明らかである。被告は、原告の主張に対し、反論があるならば改めて反論すべきである。


第2 情報提供者の責任

 被告は、「本件記事掲載にあたり、被告週刊新潮編集部は、被告佐藤に事前に「ゲラ」を見せるなどして本件記事に掲載するコメント内容の確認をとるという作業を行っていない。また「コメント」を必ず記事に掲載するという話をした上で取材をしたものでもない。/よって被告佐藤の情報提供行為と、当該情報を基に作成された本件記事による名誉毀損行為との間には、相当因果関係が認められず、この意味でも被告佐藤の責任は認められないというべきである。」と主張している。

 だが、原告準備書面(1)の「第1 本件記事の「公共性」・「公益性」」「1」で指摘したように、2009年3月14日に原告が『週刊新潮』編集部に電話したところ、その際応対に出た『週刊新潮』編集部佐貫(法務担当)は、本件記事を執筆した『週刊新潮』記者(塩見洋)は、被告佐藤と昵懇の関係にあり、被告佐藤と「毎日のようにやりとりしている」と思うと発言している。

 また、これも原告準備書面(1)の「第1 本件記事の「公共性」・「公益性」」「1」で既に指摘したが、2007年5月~2008年1月という短期間に、原告の事例も合わせて、被告佐藤の怒りを買ったと思われる書き手について『週刊新潮』が中傷記事を書くというケースが3つも存在している。このうち、大鹿靖明(雑誌『AERA』編集部員)に関する記事(甲13号証)は、本件記事より以前に掲載されたものである。甲13号証においては、大鹿が被告佐藤に謝罪した事実、匿名の第三者による「記者としてこれからやっていけるのか」などの大鹿批判、被告佐藤による大鹿批判などを取り上げており、大鹿の社会的評価を低下させるものであって、匿名の第三者と被告佐藤による、特定の人物の社会的評価を低下させるコメントを軸とした記事の構成は、本件記事のそれと同一である。

 また、大鹿に関する記事以外に、『週刊新潮』2007年7月19日号(7月12日発売)の記事「北方領土「ムネオハウス」がロシアの「ホテル」になっちゃった」(甲70号証)も、被告佐藤のコメント付きで、記事が構成されている。また、『週刊新潮』2006年8月31日号(8月24日発売)の記事「[特集]外務省「赤ちゃんプレイ」が招いたロシア「漁船拿捕」の悲劇」(甲71号証)でコメントを寄せている「外務省関係者」に関しても、被告佐藤の熱心なファンによれば、「記事後半部分の「外務省関係者」として事情説明しているのはどうみても佐藤さん」(甲72号証)とのことである。

 以上、被告佐藤と本件記事執筆者である塩見記者との親しい関係、被告佐藤が不快に思う人物の社会的評価を低下させる記事が、被告佐藤のコメント付で、以前にも『週刊新潮』で掲載されている事実、それ以外にも被告佐藤のコメント付の記事が『週刊新潮』に掲載されている事実から、本件記事において、被告佐藤が、取材における自己の発言内容の主要な点が、コメントとして掲載されることを認識しており、そのことを容認した上で、あえて記者に対してコメントを提供していることは明らかである。

 また、後述するように、本件記事の発端に、被告佐藤が積極的に関与していることも明らかである。

 したがって、被告佐藤は、自らの発言の主要な点が、当然、『週刊新潮』に被告佐藤のコメントとして掲載されることを知った上で発言していたと見るべきであって、被告佐藤による被告新潮社・被告早川との共同不法行為が成立することは明らかである。


第3 被告準備書面(4)への反論

 被告は被告準備書面(4)において、本件記事の取材経緯について述べている。これは、真実性または真実相当性を主張していると解される。

1 原告の異動について

 この点に関する本件記事の記述に真実性が存在しないことは既に述べているのでここでは繰り返さない。以下、真実相当性が存在しないことを示す。

 原告の異動に関して荻原信也記者が取材を行ない得たのは、提示されている限り、乙10号証において取材記録が示されている「岩波書店関係者」一人のみである。乙10号証においては、『世界』編集部内での原告の様子や発言に言及されているが、それらがすべて「~~そうです。」「~~ようです。」「~~ということです。」等の伝聞形で書かれていることから、この人物が『世界』編集部員ではなく、挙げられている事実を直接見聞しているのでないことは明らかである。

 被告は、原告の異動経緯に関するこの情報提供者の発言に関して、何ら裏付けをとっておらず、また、原告に対しても一方的なメールを送ったのみで、取材行為を行なっていない。

 また、後述のように、この「岩波書店関係者」の発言は全編にわたって虚偽と原告への悪意に満ちたものであって、この証言が一方的に採用できる類のものでないことは、最低限の常識があれば、容易に気づき得たはずである。        

 したがって、被告がこの「岩波書店関係者」による原告の異動経緯に関する発言を真実と信ずるについて、相当な理由があったと到底言えないことは明らかである。


2 「社外秘」について

 被告は被告準備書面(4)において、被告佐藤への取材により、「組合の「壁新聞」のように「社外秘」扱いを受けている文書が容易に外部に出てしまうところとは安心して仕事ができないと考えており、今後の対応によっては岩波書店に対する訴訟に出ることも辞さないと佐藤が考えていること、といった事実」、および「岩波書店組合関係者」への取材により、「岩波労組では、組合報である「壁新聞」は、内部文書で外部への公表を前提としていない「社外秘」扱いになっていること」を確認した旨主張している。

 被告佐藤への取材記録(乙第11号証)には、「岩波の責任も大きい。岩波のある現役社員によれば、組合の「壁新聞」というのは、外部に公表することを前提としていない「社外秘」の扱いであるとのこと。内部文書がこんなに容易に外部に出てしまうところとは、安心して仕事ができません。」とある。

 また、「岩波書店組合関係者」への取材記録(乙第13号証)には、「岩波労組では、組合報である「壁新聞」は「内部文書」で外部への公表を前提としていない「社外秘」扱い。」「組合執行部は、壁新聞が無断で、しかもその一部を選択されて引用されたことを問題視しています。」とある。

 本件記事における、「岩波関係者」による発言を用いた「社外秘のはずの組合報まで引用されているのですから、目も当てられません。」、および被告佐藤による発言を用いた「社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。」との記述は、一般読者の普通の注意と読み方に従えば、原告が、雇用主との間で業務上の守秘義務が存在するにもかかわらず、それを破って、雇用主が「社外秘」と規定する文書の内容を漏洩した、と解されることは明らかである。

 だが、本件記事において言及されている「組合報」すなわち「岩波書店労働組合壁新聞」は、「社外秘」ではない。現に、「岩波書店職員就業規則」「第10条」に「職員は、会社の機密を外部に漏らしてはならない。」と規定されているにもかかわらず、原告は、論文「<佐藤優現象>批判」発表後、論文内で「岩波書店労働組合壁新聞」を引用したことに関しては、岩波書店から何ら注意を受けていない。

 原告は、論文発表後、岩波書店労働組合から「壁新聞」を無断引用したことに関して抗議を受けたが、「壁新聞」が「社外秘」であるとは言われていない。また、岩波書店労働組合による「調査嘱託書への回答」(甲73号証)も、「調査嘱託の申立書」の「3」「(4)「壁新聞」は「社外秘」とされているのかどうか」という問いに対して、「4)当組合では「カベ新聞」を社内の活発な議論に資したいという思いで掲示しており、その編集・執筆依頼に際しては、その内容が社外に公表されることがないことを前提としています。」とあるのみである。これらの岩波書店労働組合の公式見解は、「カベ新聞」は「その内容が社外に公表されることがないことを前提としてい」るとするものであり、これは、本件記事において使用されている「社外秘」なる語句が一般読者に喚起する内容と著しくかけ離れたものである。

 また、岩波書店労働組合執行委員会「執行委員会ニュース」(2009年度)第9号、2010年3月10日付(甲74号証)には、以下のような記述がある。

「【『執行委員会ニュース」「カベ新聞」に関する会社見解について】
◆「カベ新聞」について、「社外秘」である「新経営計画2010」についての記事が掲載されたことにたいして、1月の経協で会社から、「社員以外の人も出入りする食堂での掲示ということで、今後慎重にしてもらいたい」ということが言われたことについて、2月17日の定例経協で、組合からは、「「カベ新聞」は組合員の意見発表の場として、重要なメディアである。したがって、組合員にとって重要、緊急な問題についての記事を掲載することこそが最優先される。今回の「経営計画2010」に関する記事掲載は、上記の点からも、「カベ新聞」の存在意義がもっとも発揮されるものであった。たしかに掲載の場である食堂は、社員以外の人も利用しているが、「カベ新聞」編集部はその点も考慮した上で、社外に出されてはならない内容等を適正にチェックした上で掲載している。今回の記事もこの点例外ではない。今後も経営について組合員がさまざまな意見を発表し、議論をしていくことは、この会社の健全な発展のために不可欠なことであり、その場合のメディアとして、「カベ新聞」は今後も積極的に活用していきたい。ただし、社外の人がかなり多数出入りしている現状がある以上、記事の内容や表現、表記についてはこれまで同様、編集部で配慮していく」と答えました。
◆また同じ1月経協で、「執行委員会ニュース第6号」の中で「期末に向けての緊急施策」についての経協のやりとりを報告した記事について、「経協のやりとりがそのまま掲載されている。従来はこのような内容は口頭で伝えられていたはずで、これまでのやり方から逸脱している」と述べられたことに対しては、組合からは「執行委員会ニュース」は、組合員に限って配布している。第6号の経協で提示された「経営施策」の掲載については、とくにこれを詳しく問いたいと求められていた経協での経営施策提示への会社回答を丁寧に伝えたいという意図で執筆された。経協委員は経協の場で伝えられたことは、詳しく、正確に他の組合員に報告する義務がある。とりわけ、今回の「施策」については、職場会での報告のみでは、当日参加できない組合員に伝えきれないし、重要なものであるからこそ、組合員全員に正確に丁寧に報告する必要があると判断した。ただし、経協の場では経営に聞する詳しい数字なども提示されているので、冒頭の発言を除いては大幅に編集し、やりとりをそのまま伝えることはせずに、要点をまとめて掲載している。当然ながら外部に漏れてはならないような内容が載ることのないよう、執行委員会で至急なチェックを行っている。「力べ新聞」と違い、組合員のみに配布するものであるから、内容の詳しさについては「活動報告」で記載するレベルとしている」という見解を述べました。
 これに対して、会社からは「経営内容についてはかつては口頭で報告したり、職場会で回覧して回収するなどしていた。経営に関する記事が冒頭にある文書が机の上に放置されることもあるのではないか」という懸念が示されましたので、このことについては、今後記事の内容によっては必要な対応をするようにしていきたいと考えています。」

 この記述においては、「壁新聞」で「社外秘」に関する記事が掲載されたことに関して、会社が岩波労組に対して「社員以外の人も出入りする食堂での掲示ということで、今後慎重にしてもらいたい」と注意し、岩波労組はこれに対して、「社外に出されてはならない内容等を適正にチェックした上で掲載している」、「社外の人がかなり多数出入りしている現状がある以上、記事の内容や表現、表記についてはこれまで同様、編集部で配慮していく」旨回答している。また、「組合員に限って配布している」点で、「壁新聞」よりも読者層が限定される「執行委員会ニュース」に関して、「当然ながら外部に漏れてはならないような内容が載ることのないよう、執行委員会で至急なチェックを行っている」と述べているのであるから、当然、「社外の人がかなり多数出入りしている現状」の下で読まれる「壁新聞」の掲載内容に関しては、「執行委員会ニュース」に比べて同等もしくはそれ以上の「至急なチェック」が行われていると考えられる。

 これらは、「壁新聞」がそのまま「社外秘」または「「社外秘」扱い」になるものではない事実、また、「社外秘」に関する記事を「壁新聞」が掲載する場合でも、岩波労組が「社外に出されてはならない内容等を適正にチェックした上で掲載している」のであって、むしろ「社外秘」とされる情報は掲載しないよう努めている事実、また、「壁新聞」について「社外で読まれることを想定」していない、「社外に公表されることがないことを前提としてい」るとする見解が、「壁新聞」を「社外秘」と見なしていることを意味しない事実を摘示していると解されるのであって、以上の岩波労組の見解に従えば、本件記事における、「岩波関係者」による発言を用いた「社外秘のはずの組合報まで引用されているのですから、目も当てられません。」、および被告佐藤による発言を用いた「社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。」との記述が真実性を欠いたものであることは明らかである。

 また、訴状で既に指摘したとおり、原告が論文において「壁新聞」から引用した箇所は、「社外秘」に属する内容を何ら含んでいない。これは、「壁新聞」が、岩波労組執行委員会により「社外に出されてはならない内容等を適正にチェックした上で掲載」されている以上、当然である。また、「社外の人がかなり多数出入りしている現状」の下で「壁新聞」が掲載されている以上、それが「社外秘」または「「社外秘」扱い」と言えるはずもない。岩波労組の見解は、「岩波書店労働組合「壁新聞」は、岩波書店社内の食堂で、岩波書店労働組合が掲示している文書であるが、そもそもその食堂は、岩波書店の建物内で働く、岩波書店の社員ではない人々(DTP製作者、校正者、印刷業者等)や、岩波書店の出版物の著者も利用することがあり、そうした人々は、「壁新聞」を容易に目にし得るのであるから、「壁新聞」がそのまま「社外秘」になるという、この「岩波関係者」の証言の認識は奇妙である。」との、訴状における記述の正当性・真実性を裏付けるものである。

 また、訴状で既に指摘したとおり、仮に岩波労組が「壁新聞」を「社外秘」だと言い張ったとしても、

 また、訴状で既に指摘したとおり、原告の論文が発表された後も、原告が「壁新聞」からの引用を今後も控える気はないと岩波労組に対して明言しているにもかかわらず、岩波労組が「壁新聞」の掲載をやめたという事実はなく、株式会社岩波書店が岩波書店労働組合に対して、「壁新聞」を廃止する等の措置を執った事実もない。また、原告のこうした見解について、岩波書店から、何ら注意も受けていない。これらの事実も、原告の主張の正当性・真実性を裏付けるものである。

 以上示したように、本件記事の「社外秘」の記述には何ら真実性は存在しないが、真実相当性も存在しない。

 被告の取材記録によれば、本件記事の「社外秘」の記述は、被告佐藤への取材記録(乙第11号証)の「岩波の責任も大きい。岩波のある現役社員によれば、組合の「壁新聞」というのは、外部に公表することを前提としていない「社外秘」の扱いであるとのこと。内部文書がこんなに容易に外部に出てしまうところとは、安心して仕事ができません。」の部分、および、「岩波書店組合関係者」への取材記録(乙第13号証)の「岩波労組では、組合報である「壁新聞」は「内部文書」で外部への公表を前提としていない「社外秘」扱い。」「組合執行部は、壁新聞が無断で、しかもその一部を選択されて引用されたことを問題視しています。」の部分に依拠している。

 このうち、被告佐藤の発言は、そもそも伝聞であってそれだけでは依拠し得る情報とは言えない。また、「外部に公表することを前提としていない」ことを理由として「壁新聞」を「「社外秘」の扱い」だとする、論理的飛躍と虚偽に基づいたものである。

 また、被告佐藤のこの発言が真実性を欠いたものであることは、被告佐藤のその後の行動からも明らかである。

 被告佐藤はここで、「内部文書がこんなに容易に外部に出てしまうところとは、安心して仕事ができません。例えば、私が編集部に提出した記事化する前の企画が、私の許可も得ずに外部に出てしまう可能性も出てくるのです。」と述べているが、原告が「壁新聞」を今後も外部に公開用の文章で引用・利用することがありうると主張していることを株式会社岩波書店は認識している一方で、株式会社岩波書店が岩波書店労働組合に対して、「壁新聞」を廃止する等の措置を執った事実はないのであるから、被告佐藤からすれば、本件記事掲載後から現在に至るまで、一貫して岩波書店は、「社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所」であるはずである。

 ところが、被告佐藤は、本件記事掲載後に発売された、『世界』2008年3月号(2月8日発売)に、「『プーチン20年王朝』シナリオの綻び」なる一文を発表しており、また、『世界』2009年1月号(2008年12月8日発売)から、同2010年5月号(4月8日発売)にかけて、9回にわたって、「沖縄は未来をどう生きるか」との大田昌秀(元沖縄県知事)との対談を連載している。

 また、2009年4月16日には、岩波書店から「岩波現代文庫」として、著書『獄中記』を刊行している。

 また、『週刊金曜日』2008年4月11日号に掲載された、被告佐藤の連載「佐藤優の飛耳長目」では、沖縄戦集団自決裁判の第一審の「原告団が、『沖縄ノート』の内容に異議があるならば、版元の岩波書店を訪ね、議論をすればよい。筆者も岩波書店とは付き合いがあるが、岩波側は誠実に対応すると思う」と述べている。

 以上のように、被告佐藤が言うところの「内部文書がこんなに容易に外部に出てしまう」状態が現在まで継続しているにもかかわらず、被告佐藤は、岩波書店が刊行している雑誌『世界』で執筆を続け、単行本を刊行し、「壁新聞」に関して何ら具体的措置を執っていない岩波書店に関して「岩波側は誠実に対応すると思う」などと発言しているのであるから、「岩波の責任も大きい。岩波のある現役社員によれば、組合の「壁新聞」というのは、外部に公表することを前提としていない「社外秘」の扱いであるとのこと。内部文書がこんなに容易に外部に出てしまうところとは、安心して仕事ができません。」なる被告佐藤の発言が真実性を何ら有していないことは明らかである。

 また、「岩波書店組合関係者」の発言も何ら真実性を有していない。
 そもそも、岩波書店労働組合は、株式会社岩波書店におけるユニオンショップと位置づけられてきたものであり、入社と同時に岩波書店労働組合に「加入」したものと見なされてきたものである。職制は岩波労組を脱退することになっているので、岩波書店における正社員のうち、岩波書店労働組合員ではない者は、役員および職制と、岩波書店労働組合を脱退した社員(本件記事掲載号の刊行時は、原告一人)を除き、全ての正社員が原則としては岩波書店労働組合員であり、本件記事掲載号の刊行時には、岩波書店労働組合員は約200名存在した。

 被告は「岩波書店組合関係者」に取材したと主張するものの、「岩波書店組合関係者」とは、少なくとも約200名の岩波書店労働組合員全員が該当しうる概念であり、「岩波書店組合関係者」の発言が岩波労組の見解を正確に反映していたとは言い難い。したがって、被告は、真実相当性を主張するならば、取材した「岩波書店組合関係者」はいかなる意味において「岩波書店組合関係者」であると言えるのか、例えば、委員長・執行委員等の具体的な役職を有しているのかを明らかにすべきである。

 また、「岩波書店組合関係者」がどのような立場の者であろうとも、「社外秘」に関するその発言内容は、上述のとおり、岩波労組の見解と完全に乖離したものであって、真実性を欠いている。

 被告は、「社外秘」に関する上記2名の証言について、提示されている限り、何ら裏付け取材を行っていない。

 そもそも、「表現の自由」の尊重の観点から、ある情報が「社外秘」にあたり従業員の秘密保持義務が成立する要件は、①有用性②秘密管理性③非公知性の、営業秘密成立の3要件に準じるものであると考えることができ、会社が一方的に「社外秘」と定めるものを公表することが、そのまま違法性を有するとは言えないことは自明である。

 ましてや、「壁新聞」の発行主体は会社ではなく、一労働組合なのであるから、「壁新聞」を「社外秘」と記述するに際しては、慎重な裏付け取材が必要であったことは言うまでもない。ところが、提示されている限り、被告は、伝聞による被告佐藤の証言と、役職を有しているかすら不明確な「岩波書店組合関係者」の証言にのみ基づいて、「社外秘」と記述している。

 また、『週刊新潮』編集部にはじめに電話をかけてきた「岩波書店社員」の行為および証言内容が、原告に対して極めて敵対的または批判的であることは明らかであるから、その社員の紹介によって『週刊新潮』編集部の取材に協力している「岩波書店組合関係者」も、原告に対して同様の認識・感情を有すると見なすのが当然である。したがって、本来、『週刊新潮』編集部は、そのような一方の立場による情報のみでなく、より客観的な立場に立っていると見なされる人物にも少なくとも取材すべきだったのであって、慎重に取材を進めれば、そもそも岩波労組の見解自体すら「社外秘」と主張するものではなかったのであるから、「壁新聞」を「社外秘」とする見解が虚偽である結論に容易に達し得たはずである。ところが、被告は、裏付けのためのそのような取材行為を、提示されている限り一切行っていない。本件記事における「社外秘」との記述が、真実相当性を何ら有していないことは明らかである。
       
               
3 「岩波書店関係者」の証言の真実性

 被告新潮社および早川清が本件記事において依拠した「岩波書店関係者」の証言(乙10号証)は、以下で示すように、全編にわたって虚偽と原告への悪意に満ちたものであり、到底信頼できるものではない。そして、この証言が一方的に採用できる類のものでないことは、最低限の常識があれば、被告新潮社および早川清は容易に気づき得たはずである。

 以下、乙10号証について、その虚偽であるところを、段落ごとに論ずる。

「金光翔氏は『岩波書店』の歴とした社員です。出身大学の関連団体の職員を経て、中途で『岩波』に入社しました。宣伝部に配属後、2005年か06年に『世界』の編集部員になりました。入社した際には通名でしたが、何時の間にか本名の「金光翔」を名乗るようになっていました。」

 「出身大学の関連団体」というのはやや不正確で、正しくは出身大学の100%出資の子会社である。採用は一般公募である。また、原告準備書面(1)「第2 本件記事の伝える意味」「1 訴状・請求原因・第2・2・(1)について」で既に指摘したように、原告は、入社試験の時点から「金」という本名で受験しており、岩波書店における登録名は一貫して「金」という本名であり、そのことは入社当初から社内で出勤簿等で公開されており、社内では周知の事実であった。宣伝部での業務の関係上、業務上の名前として通名(日本名)を名乗っていたに過ぎず、2006年4月の『世界』編集部への異動に伴い、業務上の名称も「金」に統一したのであって、「何時の間にか韓国名を名乗」ったのではない。

「編集部員によれば、『世界』編集部で、彼の言動は″問題視″されていたそうです。金氏には、他の部員との協調性に欠ける面があり(ママ)ばかりか、自分勝手でひどく常識に欠ける面があったようで、例えば、彼は、他の部員の些細な発言を取り上げて、「差別だ!」と大袈裟に批判したことがあったそうです。」

 「金氏には、他の部員との協調性に欠ける面があり(ママ)ばかりか、自分勝手でひどく常識に欠ける面があったようで」という一節がどのような事実を根拠としているか不明だが、一例として挙げられている、「他の部員の些細な発言を取り上げて、「差別だ!」と大袈裟に批判したこと」は、前述の「中国人差別発言」の件を指していると思われる。これは「些細な発言」ではなく重要なものであって、発言を批判したことが「自分勝手でひどく常識に欠ける面があった」ことの例証になるはずもない。

「彼は、編集会議で、佐藤優氏の文章を掲載することに激しく反対していたそうですが、その批判の中身は、殆ど彼の思い込みに過ぎないと編集部内では受け止められていたようです。金氏は、他の媒体での佐藤氏の論文の片言節句を取り上げて、「佐藤は○○主義者」とレッテルを貼り、「掲載するべきではない」と主張するとのことでした。しかし、批判の中身が間違っている上に、『世界』は誌面の自由を重んじ、仮に筆者が特定の主義主張を持っているなどしても、それだけで門前払いをする雑誌ではない。これは『岩波』にいれば誰もがわかっていることだと思います。それを彼は一切受け付けず、ついには佐藤を「使う」ような雑誌の仕事をすれば自分が共犯になるなどと、自分勝手な理屈を付けるようになったそうです。そして「反総連の記事はけしからん!」「何故、佐藤を連載に使うのか!」などという趣旨で、編集長が一度決めた方針にまで、激しく抗議をするようになったということです。」

 「その批判の中身は、殆ど彼の思い込みに過ぎないと編集部内では受け止められていた」かどうかは知らないが、「金氏は、他の媒体での佐藤氏の論文の片言節句を取り上げて、「佐藤は○○主義者」とレッテルを貼り、「掲載するべきではない」と主張するとのことでした。」との証言は事実ではない。私は、論文「<佐藤優現象>批判」では、被告佐藤に関して、「国家主義者」「排外主義者」「帝国主義者」という表現を用いているが、『世界』編集部内での問題提起においては、そのような「佐藤は○○主義者」などという言い方はしておらず、被告佐藤の具体的な発言を引き、その問題点を指摘している。この「岩波書店関係者」の証言は、論文での原告の記述を過去にあてはめているに過ぎない。

 また、「批判の中身が間違っている」という事実はない。また、「『世界』は誌面の自由を重んじ、仮に筆者が特定の主義主張を持っているなどしても、それだけで門前払いをする雑誌ではない。これは『岩波』にいれば誰もがわかっていることだと思います。」という証言は噴飯物であって、『世界』には編集権が存在するのであるから、「特定の主義主張を持っている」筆者に関して、「それだけで門前払いをする」ことがあり得ることは当然であり、それは「誌面の自由」とは何の関係もない。むしろ、そのような事実こそ「『岩波』にいれば誰もがわかっていること」である。実際に、原告が在籍中の『世界』編集部においても、ある企画案に関して、その筆者が『世界』の論調とは著しく乖離する「特定の主義主張を持っている」がゆえに、企画案が否定されることは当然のように存在していたのであって、原告は、被告佐藤も同様の事例だと考えて、被告佐藤の起用が問題であると提起したのである。そして、『世界』がそれ自体としての論調を有し、「特定の主義主張を持っている」筆者に関して、「それだけで門前払いをする」ことがあり得ることは当然であり、同じ出版業界の『週刊新潮』記者が知らないはずはないのであるから、被告新潮社および被告早川清は、「岩波書店関係者」の証言のこの一節だけでも、「岩波書店関係者」の証言が一方的に採用できる類のものではない、真実性を欠いたものであることを認識し得たはずである。

 また、「ついには佐藤を「使う」ような雑誌の仕事をすれば自分が共犯になるなどと、自分勝手な理屈を付けるようになったそうです。そして「反総連の記事はけしからん!」「何故、佐藤を連載に使うのか!」などという趣旨で、編集長が一度決めた方針にまで、激しく抗議をするようになったということです。」という箇所は、事実関係に重大な虚偽がある。既に指摘しているように、原告は「反総連の記事はけしからん!」とは主張していない。また、「編集長が一度決めた方針にまで、激しく抗議をするようになった」という記述は事実関係を逆転させている。原告は、被告佐藤の起用という方針が変わらないことを認識したがゆえに、『世界』編集長に異動願を出したのであって、「編集長が一度決めた方針にまで、激しく抗議をするようになった」というのは完全な虚偽である。

 また、「ついには佐藤を「使う」ような雑誌の仕事をすれば自分が共犯になるなどと、自分勝手な理屈を付けるようになったそうです。」などという記述があるが、「佐藤を「使う」ような雑誌の仕事をすれば自分が共犯になる」との主張は、原告が編集長への異動を申請した理由として、編集長に対してや、当時原告が所属していた岩波労組に対して述べたものであって、編集部内で提起した際には取り立てて主張していなかったものであり、順番が前後している。また、ここでの記述は原告の主張の重要な点を省略している。原告が編集長等に述べたのは、雑誌『世界』においては、インタビュアーや対談の司会等で編集者名を記載するのが原則であるから、この場合に編集者名として「金光翔」という名前が『世界』誌上で掲載されることは、被告佐藤の『世界』への起用を在日朝鮮人が承認しているという印象を読者に与えることになり、社会に悪影響を及ぼす、ということである。これは「自分勝手な理屈」ではない。

「また、残業を嫌がり、遅刻も目立つなど、勤務への熱意や態度にも問題があったと聞きました。」

 これも虚偽である。「残業を嫌がり」というのは、原告準備書面(2)の「第2 本件記事の伝える意味」「2 訴状・請求原因・第2・2・(2)について」「(3)」で記したように、原告が口頭で異動願を出した際に、原告が、「現在の編集方針の下では、自分としては、今後、法定労働時間以上の残業を希望しない」と述べたことが、歪曲されて伝わったものと思われる。原告はそもそも「残業を嫌が」ったことはないが、そもそも「残業を嫌が」ることは労働者として当然であり、何ら不当なものではない。このような記述は、御用組合である岩波書店労働組合の(元)組合員であるこの「岩波書店関係者」が、いかに労働者としての権利意識を欠いているかを示すものである。
 
 また、「遅刻も目立つ」なる記述も何ら事実ではない。宣伝部在籍時にもそのような事実はないし、『世界』編集部在席時にもそのような事実はない。原告への悪意に基づくでっち上げである。

「これらの言動は、編集部員として明らかに不適格です。岡本厚編集長も彼を持て余しましたし、会社もそういう状況を把握しました。その結果、金氏は07年に校正部に異動になったというわけです。岡本編集長からも異論はなかったということです。編集者は仕事の特性上、一つの部署に長期間、在籍することが多く、わずか1~2年での配転は、非常に珍しいケースと言えます。」

 ここにおいてこの「岩波書店関係者」は、岡本編集長が原告を「持て余し」ている状況を把握した会社が、原告を異動させた、と認識している。「編集者は仕事の特性上、一つの部署に長期間、在籍することが多く、わずか1~2年での配転は、非常に珍しいケースと言えます。」という一文は、その認識の根拠として提示されている。

 だが、原告準備書面(2)の「第1 原告の異動について」「5 当初の異動対象が原告ではなかったこと」で指摘したように、会社が異動対象の選定対象者の選定に関して慎重となると推定される合理的根拠が存在する以上、原告が異動願を出さなければ少なくとも当面は異動もなかったと考えられるのであって、「わずか1~2年での配転」は、「岡本編集長が原告を「持て余し」ている状況を把握した会社が、原告を異動させた」との認識の根拠になり得ない。

 また、この「岩波書店関係者」が、原告が自身の思想・良心の自由を守るために主体的に異動を申請した事実、また、原告からの異動願がなければ異動自体がそもそも発生していない事実を全く認識しておらず、「原告準備書面(2)」「第1 原告の異動について」「1」で本件記事の摘示事実として指摘したとおり、「原告が、『世界』の確定した編集方針に対して編集部に居座ったまま反旗を翻し、その姿勢を持て余した『世界』編集長によって異動させられた」と認識していることは明らかである。この認識は、これまで示してきたように虚偽である。

「また、金氏は、「kolwitz」(コルヴイッツ) という名で執筆している『私にも話させて』というブログで、『岩波』で著書も出版し、大事な執筆者である佐藤氏やジャーナリストの斎藤貴男氏の批判記事を書くようにもなりました。もし執筆者がそれを読み、その筆者が『岩波』 の人間であると知ったらどう思うでしょうか。これは思想信条の問題でなく常識の問題です。しかも、そのブログも長文に亘り、″勤務中に書いているのでは?″と疑われているほど。更には『岩波』の組合も勝手に脱退している。ですから、編集部のみならず、社内でも″問題視″される社員であったことは間違いありません。」

 たとえ社員であれ、私人として「大事な執筆者」の公的見解を批判することは、憲法上権利として認められている「表現の自由」の行使である。「大事な執筆者」といえども憲法上規定されている権利を尊重しなければならないのは当然であるから、社員が批判したとして会社に抗議してくる被告佐藤のような執筆者の行為は、端的に「言論封殺」である。原告を非常識とするこの「岩波書店関係者」の主張こそが、「表現の自由」の権利の尊重という観点を有しない、出版業に携わるものとしてふさわしくない姿勢である。また、原告がブログを勤務中に書いているなどという事実は存在しないのであるから、これは原告への悪意に基づく発言である。また、原告は労働組合を首都圏労働組合を社外の有志と結成し、岩波書店労働組合を脱退したのであるが、労働組合の脱退の自由は法的に認められている当然の権利であるから、「『岩波』の組合も勝手に脱退している」などという主張が不当であり、原告への悪意に基づくものであることは明らかである。


4 まとめ

 以上のように、本件記事作成にあたっての『週刊新潮』編集部による取材は、証言の裏付け取材すらほとんど行なっていない、極めて杜撰なものと言わざるを得ないものである。このことは、後述するように、本件記事がそもそも被告佐藤の私怨に端を発した、被告佐藤と被告週刊新潮および早川清の結託によるものであることを一事情として補足するものである。被告新潮社および被告早川清が証言を真実と信ずるについて、相当な理由があったとは到底言えないことは明らかである。


第4 本件記事執筆経緯の真相 

 本件記事は、そもそも被告佐藤の私怨に端を発した、被告佐藤と被告週刊新潮および早川清の結託によるものであって、公共性・公益性などはじめから存在しないのであり、そうであるがゆえに杜撰な取材にのみ基づいているのである。その取材は、真実を確認しようという目的などはじめからなく、アリバイ的なものに過ぎない。提出された取材記録は、すべて取材日付すら明示されていない、記録として不備のあるものであり、取材の杜撰さを示唆している。

 被告準備書面(4)に書かれた取材経緯を時系列順に示せば、

①2007年11月23日に「取材のお願い」を原告にメールで送り(乙9号証)、
②24日午前に「岩波書店関係者」に取材し(乙10号証)、
③被告佐藤に取材し(乙11号証)、
④24日午後に再度「取材のお願い」を原告にメールで送り(乙12号証)、
⑤25日に「岩波書店組合関係者」に電話で取材し(乙13号証)、
⑥26日に岩波書店総務部に「取材依頼書」をFAXで送信した(乙14号証)、

ということになる。

 原告の所属部署は、①「営業部」、②「校正部」、④「校閲部(営業部?)」「校閲部」、⑥「校閲部」と表記されている。もちろん、②の「校正部」が正しい。このように、原告の所属部署という最も基本的な情報すら確定していないことは、この取材がいかに杜撰なものであったかを示唆するものである。また、「岩波書店関係者」から②で一旦正しい情報が示されているにもかかわらず、④で「校閲部(営業部?)」とされているように、その後も情報が所属部署が確定しておらず、部署名も正しく認識されていないことは、被告が主張する取材経緯の真実性すら疑わしめるものである。

 また、被告は①で原告に「取材のお願い」をメールで送った後、②および③で、多くの情報を得たにもかかわらず、④で再び「取材のお願い」を原告に送る際に、②および③で得たはずの情報に関する新たな質問を行なっていない。①および④の「取材のお願い」には、「編集の都合上、日曜日(25日)の深夜までに御回答いただければ幸いです。」とあり、④は24日20時7分付に送られたものであるから、『週刊新潮』記者荻原は、④の時点で、そう何度も原告とやりとりしている余裕がないことを認識していたはずである。にもかかわらず、④の「取材のお願い」に、②および③で得たはずの情報に関する新たな質問が盛り込まれていないことは、被告新潮社および被告早川が、はじめからまともに原告を取材する気がなく、単にアリバイ的に「取材のお願い」を送ったに過ぎないことを示している。

 また、①の「取材のお願い」には、「上記論文中では、金様は、自身が岩波書店の社員であることを明らかにされませんでしたが、それは何故ですか?」とある。     
 だが、原告が個人の資格で論文を書いていることは、一読すれば明らかであるから、ここでの荻原の疑問は奇妙である。荻原がこのような疑問を呈しているのは、あらかじめ、被告佐藤が④で述べている、「金氏は「IMPACTION」の論文で自ら岩波書店社員であることを隠しています。岩波書店社員という特権的地位を利用して得られる情報を元に、私を批判する社員がいる。」という発言に接していたからだと思われる。荻原は恐らく、被告佐藤が、原告が岩波書店社員であることを隠していると主張していることを知っていたのであって、それがゆえに①の「取材のお願い」に上の一文を盛り込んだのだと思われる。

 また、①の「取材のお願い」にある、「今後も同様の執筆活動を続けられる予定はございますか?」という質問も、原告はこの時点ではいかなる人物からも執筆活動を抑制するよう言われていないのであるから、奇妙なものであって、これは、原告の執筆活動に利害関係を有する、被告佐藤の関心に発しており、被告佐藤がこのことに関心を持っていることを聞いていたからこそ、荻原はこの質問を盛り込んだのだと思われる。実際に、本件記事掲載号発売直後に、被告佐藤と電話でやりとりをした『インパクション』編集長の深田卓は、被告佐藤が、今後も原告は自分を批判するのか非常に関心を持っていた、と原告に発言している。

 被告は、被告準備書面(4)の「第1 取材の経緯について」「1」で、「本件記事の取材は、被告週刊新潮編集部の記者が平成で19年11月に、岩波書店の関係者から、電話で雑誌「IMPACTION」に掲載された、被告佐藤優を批判する論文の著者が岩波書店の社員であり、それを知った被告佐藤が立腹している旨聞いたことがきっかけである。」と述べているが、②の「岩波書店関係者」の取材記録には、「そんな著者に腹を立てられてしまっては仕方ない。」と仮定の形での記述はあっても、被告佐藤が実際に立腹しているとは書かれていない。

 本件記事の取材の「きっかけ」は、「岩波書店の関係者」とは無関係に、『週刊新潮』編集部の人間が、被告佐藤から直接、立腹している旨を聞いたことも主要な要因としてあると解するのが妥当であり、①の「取材のお願い」に関する奇妙な質問項目は、そのことを強く示唆していると言える。

 また、被告佐藤は、本件記事掲載号発売後、2008年1月10日に、安田好弘弁護士(被告佐藤代理人)と、私の論文を掲載した『インパクション』の深田卓編集長の三人で、会合を開いている。

 深田によれば、この会合は、安田弁護士が『インパクション』誌上にしばしば登場しており、深田および被告佐藤と親しい関係にあることから、安田弁護士が仲介役を行なうことで実現したものとのことである。原告の論文に対して反論を送ることなく、掲載誌の出版社代表と話し合って「手打ち」をするという行為が、自分へのさらなる批判の掲載を回避しようという被告佐藤の動機に起因することは明らかである。現に、この会合以降、『インパクション』に、被告佐藤への批判的内容を含む文章は掲載されていない。

 ところで、深田から会合内容を聞いた『インパクション』関係者によれば(遺憾なことに、深田は私には会合内容の詳細を伝えなかった)、この会合内容は、以下のようなものだったとのことである。

○被告佐藤が本件記事で述べている「言ってもいないこと」の一つは、<佐藤の言う「人民戦線」とは、在日朝鮮人を排除した「国民戦線」のことだ>(「在日朝鮮人」ではなく、「朝鮮総連」と言っていたかもしれない)という、私の主張を指している(他の部分について、具体的な指摘があったかは分からない)。

○深田が、『週刊新潮』の私に関する記事はよくないと言ったところ、被告佐藤は、『週刊新潮』の記者(塩見洋デスクと思われる)は、何かあると相談する関係であり、今回は、被告佐藤が悩んでいることをいつものように相談したところ、『週刊新潮』側が独断で記事にすることにし、記事になったものだと答えた。被告佐藤は、記事での被告佐藤の発言には責任を負うが、記事自体には責任は負えないと主張している。

○被告佐藤は、私の論文への反論記事を書くつもりがない、と言っている。

○被告佐藤は、私の論文において、岩波書店の内部情報が使われたことも問題だと主張している。

○被告佐藤は、私の論文において、『週刊金曜日』編集長のメールが使われたこと(多分、片山貴夫氏のブログの記述の引用)も問題だと主張している。

○被告佐藤は、私の論文への反論ではなく、『インパクション』に自分の別の論文を投稿したいと述べている。これに対して、深田は、掲載は編集委員との相談で決めることだと答えた。

 ここからは、本件記事掲載号発売から、それほど月日が経っていないことから、被告佐藤が当初考えていたことをよく読み取れると思われる。被告佐藤が『週刊新潮』記者に相談したところ、独断で記事にすることになったと述べているらしい点、また、被告佐藤が記事での自身の発言には責任を負うと述べているらしい点は、本訴訟における被告の主張と食い違っている。

 また、本件記事掲載号発売からすぐ後に、原告が電話で深田から聞いたところでは、深田は被告佐藤と話した際に、佐藤は金が今後も自分への批判を行なってくるかを非常に気にしていて、脅えているような感じだった、新潮の記事も批判封じのために佐藤が仕掛けたのだろう、という感想を持った旨を述べている。

 このような、本件記事掲載号発売からそれほど日を経ていない頃の被告佐藤の発言は、本件記事執筆経緯の真相を考える上で、極めて示唆的なものである。

 以上より、本件記事が、被告佐藤の私怨に端を発した、被告佐藤と被告週刊新潮および早川清の結託によるものであって、公共性・公益性などはじめから存在しないことは明らかである。

以上
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