彼女の、――仕業か。
俺は理解する。富田君にしても、岡村君にしても、俺の塒(ねぐら)を探し当て、人のものを奪い取るような真似はしないだろう。
とんだ泥棒猫だな、彼女は。
ぶらんぶらんと大木のかなり上で宙吊りになるという、この状況で、俺はそんなことを考えていた。
彼女――古手梨花は、俺が釣り下がっている真下で、俺の獲物で、今回の「ブカツ」の勝ち越し点となるアナコンダを、まるで飼い犬のように撫でている。
それができるのは――、彼女が羽織っている、上着のせいだろうな。
彼女が羽織っている黒とオレンジの上着――ホーネット・ストライプ迷彩服の、能力だ。蜂、毒蜘蛛、蠍、そして蛇。あらゆる人に危害を加える生物を、抑止する。
彼女にはミステリアスな部分はかなり多いとは思っていたが、まさか偶々自分が持ってきた装備品の特性まで把握しているとは。
いや侮れん。……だが。
俺は時計を見る。
既に3時限目も終わりに近いが、完全に終わっているわけではない。
一番最初にさわった者が勝つ、とは言っていなかった。それにある意味これは、反則に近いだろう。……第三者の勝利なんて、な。
俺は腹筋に力を込め、柔軟体操をするように手を足の先に伸ばす。両腕で足を拘束するロープを握る。
大佐に言われたことを馬鹿正直に守っていたからな。ナイフすら、携帯していない。
ならどうするか。……簡単な話だ。
腕で、ロープを、――引き千切る。
「う、うおおおおおおおおおおっ!!」
声を上げながら、ロープに力を込める。ブチ、ブチと、僅かずつではあるが、ロープは切れていく。
「くすくす……。頑張るわね。スネーク。でもここ、沙都子が仕掛けたトラップ、わりと多いとこなのよ。裏山ほどじゃないけどね」
真下にいる梨花が見上げながら、勝利宣言をする。そこでロープを切っても、時間まで逃げ切れると、言いたいのだろう。
「何を言っている。まだ勝負は終わっちゃいないさ。今のうちに遠くに逃げておいたほうが懸命だぞ」
「あら、そう」
じゃあ、そうするわ。と言い残して、梨花は従者を引き連れて駆けて行く。
それを見逃しはしない。ロープを千切り、飛び降りる。残りのロープをとって拘束を解き、追い駆ける。
彼女の行く方向に、間違いなく沙都子が作ったトラップは点在する。
しかし、それはさっきのように、不用意に踏みさえしなければ作動しない。彼女が作ったにしては初歩のトラップだ。
注意深く見れば、まずかかりはしないが――、問題は、時間制限だろう。
時間が来る前に、追いついて、奪還しなければならない。だからよく地面を見るなんて、そんな余裕は無い。かといって、また罠を踏めば、間違いなくタイム・オーバーだ。
最速でこの地域を突破し、かつ、一度も引っ掛からない。
何処に何のトラップが仕掛けられているのか分からないのに、それは可能か?
現実的には、まず実現不可能な確率だろう。ルーレットの玉が、赤と黒、どちらに入るのか。二分の一の確率も、機会が多いならそれは天文学的な数字になる。
ましてやここに、どれだけの罠があるのか。全くわからない。二分の一では効かないことは、確かだ。
そんなとき、できることといえば、何だ?
自問する。そして出した答えは、実に簡単なもの。
――賭けるのさ。
彼女が通り過ぎた道。彼女が通った道筋はこうだと――、仮定する。
そこを、突っ切る。突っ走る。
それしかないのら――、そうするまでさ。
「いくぞ!」
誰にかける号令でもなかったが、その言葉を合図に、俺は疾走した。
もうすぐ――、鐘が鳴る。
それは、このゲームの終わり。この勝負の決着を意味していた。
この場所で幾つか点在する、見晴らしがよい天然の広場の一つ。
その場所で彼女は、彼の到着を待つ。
来るか――、来ないか。
来なければ、私が勝つ。
来れば――。
時計を持っていないから、今は何時か分からない。
でも、終焉はもう、近い。
そして、来るか、来ないか、花の花弁を摘み取りながら占おうとして、手ごろな花を摘み取ったとき。
彼が、現れた。
「……来たのね」
「……ああ、待たせたな」
彼は賭けに勝った。
そうして今、彼女の前にいる。
ここにはもう、沙都子の仕掛けたトラップは無い。
ならば、この勝負は彼の勝ちだろう。
彼女がいかに蛇を手元に置こうとしても。
力づくでは敵わないことは、もうわかっている。
「……梨花」
彼が近づく。
「ええ。そうね」
「ああ……、さあ」
返すわ、と。
私は――、上着を放り投げた。
「?! 梨花! 何を?!」
彼は風に待った上着を取ろうとして、手を伸ばす。
それが、決定打。
私の周りには沙都子のトラップは無いけれど。
彼が上着をとって足を着いた場所にはもう一つ。あなたがさっきかかった、宙吊りの罠があったんだから。
彼は宙に浮き上がる。これで、彼の勝ちは無くなった。
あとは――、目の前で目の色変えたこの爬虫類を、手懐ければ、私の勝ちね。
「梨花!」
遠くから、彼が叫ぶ。
彼女がこの戦いに、どんな気持ちで望んだのか、それは彼女以外誰も分からない。
だが、懸命な判断とは言えない。
魔女は魔物を隷属させる魔法を自ら解いた。
それは自殺するということと、どれほど違いがあるというのか。
「逃げるんだ! そいつは君じゃ抑えられない!」
彼の意見は正しい。力づくでどうにかできるような相手じゃないことぐらい、彼女も理解している。
しかし、彼女は逃げない。
後ろを振り向いたら、たちどころに巻きつかれて絞め殺される。――そう、理解していた。
それは正しい。すでに蛇は、人に追い立てられた過度のストレスで、殺気立っていたから。
無用心に動いたら、攻撃される。
かといって、黙って突っ立っていても、同じこと。
蛇はすでに鎌首を持ち上げ、今にも襲いかかろうとしている。
縮まったバネは伸びる以外に、行う術を知らない。
まさにそうであるかのように、蛇は、牙をみせる。
ここには、彼女と、魔物。
そして傍観者がいるだけ。
なんと残酷な、なんと凄惨な見世物か。
このあとにおこるであろう惨劇を――、わざわざ見せつけるのか。
そして。
牙が恐るべき疾さで華奢な柔肌に喰らいつこうとした、とき。
『 下がれ。 下郎 』
――人ならざる、声が響いた。
その声は凛として透きとおり、厳かな威圧を以て語られる。
『異国より迷い来た哀れな来訪者よ。この娘に――、仇を成すのか』
魔物は、清浄なる声に、その力を緩めた。
『自らのために他の命を奪い、生きながらえるは此岸の掟。我はそれを咎めぬ。だが知るがよい。遠い地よりいでし者。此の地で我が眷属に仇成す事。それ即ち其方の眷属に千年に及ぶ災厄を招くことだと』
彼女の――梨花の後ろから、発せられる何者かの、声。
人、なのか。いや、人がこんなこと、できるものなのか。
古手梨花、君は一体。
「何者、なんだ……?」
彼はそう、呟いていた。
やがて、魔物は魔力を失い、その場に小さく丸まった。
その頭に、小さな手のひらが乗せられる。
やがて、学校から聞き覚えのある鐘の音が響く。
その音に紛れるように。
「ありがとう。……羽入」
そう、梨花は呟いた。
最終更新:2008年02月27日 21:57