史実ネタ > 大戦国について



Ver1.0大戦国


◆稲葉山城攻防戦

稲葉山城は、美濃斎藤氏の居城として知られる。天文年間から続く尾張織田氏による攻撃を幾度と無く跳ね返した。
斎藤義龍の死後、斎藤氏は急速に求心力を失う。重臣の西美濃三人衆の寝返りが致命傷となり、織田信長の攻勢の前に稲葉山城は落城する。

◆塩尻峠の戦い

塩尻峠の戦いとは、小笠原長時と武田信玄(晴信)との間で行われた合戦。
小笠原長時による諏訪地方への侵攻に対し、諏訪地方の豪族が呼応。
鎮圧に赴く武田軍の進軍の緩さを見て、小笠原軍は油断。しかし、密かに急行していた武田軍に大敗する。
これを契機に、小笠原氏は勢力を弱めていくことになる。

◆清洲城攻略戦


◆桶狭間の戦い・前哨戦

桶狭間の本戦の前、松平元康隊や朝比奈泰朝隊が織田軍の丸根砦・鷲津砦に対し攻撃を仕掛けた戦闘のことである。
この時、砦の将兵はほぼ玉砕状態にまで壊滅したが、このおかげで織田信長は義元隊と戦闘できる環境が整ったともいえる。

◆桶狭間の戦い

桶狭間の戦いとは、1560年に織田信長と今川義元の間で行われた戦いである。
今川義元が率いる数万規模の今川軍が尾張に侵攻したが、桶狭間で行われた合戦で劣勢の織田軍により総大将の義元が討たれる。
義元の討死により、今川家の急速な弱体化、松平元康の独立、甲相駿三国同盟の崩壊など中部以東のパワーバランスが大きく変化し、そして尾張の風雲児・織田信長が一躍注目されるに至る。

◆新人主君歓迎!美濃の戦い

美濃の戦いと明確に呼ばれるものは存在せず、おそらくは森部の戦い・十四条の戦い・新加納の戦い・河野島の戦いのいずれかのことであると考えられる。
いずれも織田軍と斎藤軍の戦いであり、発生地域はすべて美濃国である。
  • 森部の戦い:1561年5月、斎藤軍6000に対し、織田軍1500という兵力差を覆し織田家が勝利した。
  • 十四条の戦い:森部の戦いの直後に発生。これも織田軍が勝利した。
  • 新加納の戦い:1563年に発生。この時は斎藤家当主である龍興方が勝利した。
  • 河野島の戦い:龍興の和平破棄に怒った信長が決戦をつけようとするも、大敗北を喫する。
なお、前田利家の帰参はこのうち森部の戦いの時であるとされている。

◆将軍地蔵山の戦い

将軍地蔵山の戦いとは、六角義賢と三好長慶による戦いである。
鬼十河こと十河一存が死去した後、畠山高政の岸和田城包囲に呼応した六角義賢軍が将軍山城に立て篭もる。
その動きに対し三好長慶は三好義興・松永久秀ら1万4000を送り、攻城戦に発展した。
三好軍が挟撃にかかるものの、六角義賢軍はこれを見事に迎撃することに成功。この後三好軍は勢力を弱め、結果として六角軍上洛に至った。

◆第四次川中島の戦い

第四次川中島の戦いとは、上杉政虎と武田信玄との間で起こされた5回ある川中島の戦いのなかでもっとも有名な戦いである。
馬場信春・山本勘助により「啄木鳥戦法」が立案され、実行されるも政虎はこれを看破し、妻女山を密かに下山、甘粕隊1000を別働隊への備えとして残し八幡原に布陣した。
翌日、政虎は柿崎景家を先鋒に車掛陣を敷き攻撃開始、武田軍8000は鶴翼陣で応戦するものの、信玄の弟の信繁や山本勘助、諸角虎定らが討死するなど、劣勢であった。
甘粕隊を撃破した別働隊が八幡原に到着後、戦況は武田軍優勢に転じ、これを見た政虎は善光寺へ兵を退く。
信玄も追撃を停止し、両軍痛みわけに終わった。

◆稲葉山の戦い

稲葉山の戦いは、信長と斎藤龍興が稲葉山城をめぐり繰り広げた攻城戦のことである。
1566年、西美濃三人衆の内応工作・墨俣の支配を進める。西美濃三人衆が内応を約束すると信長はすぐに攻め入る。
突然の侵攻に龍興は何もできず、龍興は城を脱出して長良川を下り、伊勢の長島へと脱出する。稲葉山城は陥落し、大名としての斎藤氏はここで滅亡した。
信長は拠点を稲葉山城に移し、これを岐阜城に改める。また、この頃から天下統一への道を邁進しはじめた。
この戦では、美濃攻め・稲葉山城攻略の拠点となる墨俣に秀吉が一夜で城を築いたという伝説がある。が、江戸時代以降の創作といわれ、信憑性は低いとされている。

Ver1.1大戦国


◆観音寺城の戦い

観音寺城の戦いとは、1568年9月に足利義昭を奉ずる織田信長と六角義賢との間で起こった戦いである。
1565年に足利義輝が三好三人衆や松永久秀に討ち取られる事件が発生、弟義昭は和田惟政らの手引きで脱出。その後3年間の流浪生活の後、信長を頼る。信長は1568年8月に上洛を開始した。
途上、観音寺城にいる六角義治に義昭の入洛を助けるように使者を送るも義治と父の六角義賢はこれを拒否、開戦を決定した。
信長は、羽柴秀吉・丹羽長秀隊らと共に箕作城を真っ先に攻撃、その日の夜に秀吉の夜襲で落城した。
それを聞いた和田山城の兵たちは稲葉隊が攻撃に来る前に一目散に城から逃げ出し、和田山城も落城する。これを聞いた六角義治は夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。
これにより六角氏の没落は決定的となり、義昭は念願であった征夷大将軍の座に着いた。
なお、六角家の家臣蒲生賢秀がこの敗北後も戦闘していたが説得に応じて信長に質子を差出して忠節を誓った。この質子が後の蒲生氏郷である。

◆駿河侵攻戦

駿河侵攻とは、武田信玄が西進のために駿河に侵略した3度の戦いを表す。
(ここでの駿河侵攻はそのうちの1回目、1568年の戦いを記す)
信玄は第一次駿河侵攻にあたり徳川家康と今川領分割の密約を結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏がそれぞれ攻め取ることにした。こうして始まった駿河侵攻に対し今川氏真は戦わずして敗走。武田軍は12月13日に駿府に入った。
一方、西の家康も12月27日に掛川城を包囲するに至る。東の北条が氏真の援軍要請に応えるも、時すでに遅かった。
信玄は結局兵糧切れのため翌年正月に撤収。そこをすかさず家康が駿府を占領、掛川城に籠城していた氏真を無血開城させることで降伏させた。
こうして今川家は家康の手によって滅ぼされ、信玄は今川軍を圧倒しながら駿河を手に入れることができなかった。
しかし信玄はあきらめておらず、後に三方ヶ原の戦いが起こる原因にもなった。

◆姉川の戦い

観音寺城の戦いの後、足利義昭を奉じての上洛を果たした信長は朝倉義景に上洛要請を行うも義景はこれを拒絶したため、
1570年4月に信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。(これが金ヶ崎の戦いである)

信長は、この報復戦のために軍備を整えると北近江へ出陣。浅井氏の本拠である小谷城へ迫る織田軍に対して朝倉義景は一族の朝倉景健を総大将とする兵を派遣した。
6月28日、姉川河原で織田・徳川の連合軍2万8000と、浅井・朝倉同盟軍1万8000が琵琶湖へ注ぐ姉川を挟んだ。
徳川方の酒井忠次、小笠原長忠の隊が朝倉軍に攻撃したのを皮切りに合戦が開始されたところへ、磯野員昌の十一段崩しが始まる。しかしこれを森可成が止め、横山城攻城をしていた稲葉一鉄や丹羽長秀らが駆けつけ戦線は膠着状態になる。
一方朝倉軍はというと、徳川軍の本多忠勝が単騎中央突破を開始し、そこへ榊原康政隊が横から奇襲をかけ、家康らが応戦を開始したところ、義景が出陣しようとしなかったことも相成って朝倉軍は一気に崩れ始め、敗走した。
朝倉勢を撃破した徳川軍や横山城を攻めていた氏家卜全、安藤守就らが織田軍の増援として浅井軍攻撃に駆けつけ、浅井・朝倉両軍は敗走していった。
大打撃を受けたとはいえ浅井・朝倉両家の力はまだ残っており、さらには三好三人衆が挙兵したため信長は天王寺に出陣。こうして野田城・福島城の戦いや宇佐山城の戦いが発生する。

◆宇佐山城の戦い

宇佐山城の戦いとは、1570年9月に織田軍の森可成率いる1000と浅井・朝倉・六角・延暦寺連合3万が近江の宇佐山城をめぐり戦った戦いのことである。
連合軍は摂津で勃発した野田城・福島城の戦いに信長始め織田軍主力が投入されているのを好機として背後を突くべく坂本占拠を試みる。
しかし、可成らは坂本にて果敢に応戦、本願寺軍の要請を受けた延暦寺の僧兵までもが連合軍に駆けつける事態となった。
開戦から4日後、可成は討死したが肝心の宇佐山城は城兵の頑固な抵抗により信長到着まで4日間耐え続けた。
結局同年12月に和解が成立。後にこのことが原因で信長は比叡山焼き討ちを行うことになる。

◆第一次石山合戦

正しくは「野田城・福島城の戦い」といい、三好三人衆の挙兵によって発生した織田軍と、本願寺・三好連合軍との戦いである。
当時織田にいた松永久秀が連合軍にやってくる大量の援軍を見て、河内にいち早く到着し侵攻に備えたのも相成って双方激戦となる。
信長がこれを聞き精鋭を引きつれ岐阜を出陣し、たった6日で河内の天王寺に着陣したものの、背後では宇佐山城で森可成が必死に防衛しているなど戦況は不利であったため、仕方なく兵を引き上げた。同年12月に和解が成立することになる。

◆三方ヶ原の戦い

駿河侵攻の後、信長包囲網のに参加した信玄軍3万による西上作戦が始まる。徳川軍は三路同時侵攻の前にはどうすることもできず、織田も宇佐山や野田・福島などのせいでまともな援軍が派遣できなかった。
一言坂・二俣城の戦いと連続で敗北したころに信長が援軍を派遣するも、徳川軍は1万程度の兵数しか動員できなかった。にもかかわらず家康は家臣の意見を押し切って打って出る。結果、2時間で大敗北を喫した家康は浜松城へ逃げ帰り、空城計を行った。
このあと三河武士の反撃である犀ヶ崖の戦いが勃発する。


Ver1.2大戦国

◆多々良浜の戦い

多々良浜の戦いは1336年にも発生しているため、こちらは区別のため多々良川の戦いとも呼ばれる。
1567年の秋月種実の再興の挙兵を毛利が支援したことがきっかけで大友の重臣である高橋鑑種や立花鑑載が離反。
さらに元就自ら九州に襲来する事態となった。元就は肥前の龍造寺と連携してこれを追い詰め、一度は奪われた立花山城を奪い返す。
これを見た宗麟が立花山奪還のため多々良川にて毛利と衝突することになる。小競り合い程度の戦いの中対双方陣が長引く間に、大内・尼子再興の兵が毛利を脅かす事態となり、元就は仕方なく元春・隆景らを撤収させたため、結果的に事実上大きな争いもなく立花山城は大友が制圧した。
ちなみに、この時離反した立花・高橋の名跡はそれぞれ戸次鑑連・吉弘鎮理が継承したためこの両名は「立花道雪」「高橋紹運」と改名した。

◆響野原の戦い

1581年、島津氏の阿蘇攻略命令により相良義陽が出陣したものの、義陽は阿蘇の甲斐親直(宗運)と親しい間柄であった。
相良軍は守備に向かないはずの響野原に陣を敷き、そこを親直に奇襲され、当主の義陽は一歩も動かず討死した。

◆小田原城の戦い

小田原城の戦いは3度発生している(今回の大戦国・信玄の小田原攻略・秀吉の小田原城の戦い)ため、こちらは区別のため大槻合戦ともいう。
河越城の戦い以降、上杉憲政が謙信を頼ったことにより北条討伐の大義名分が立った謙信が関東の救援要請をきっかけに関東へ出陣する。
しかし信玄が海津城を完成させたり越後で一向一揆が発生したり、関東での兵糧事情が最悪だったことから小田原を落とすことなく謙信は帰っていった。

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最終更新:2012年06月26日 07:05