未カード化武将について
群雄伝に登場したり、武将カードの裏面テキストに名前が記載されていたりする人物の一覧。
古い世代の人物も多いが、今後のカード追加でカード化されるかもしれない。
あ行
あ
- 饗庭局(あえばのつぼね)
- ????年 - 1615年
- 浅井亮政の娘・鶴千代の次女。
- 長政の娘である茶々(後の淀殿)の乳母の一人となり、以降も名代や使者を務めるなど高級侍女として仕える。
- 最期は大坂夏の陣で敗れて自害した豊臣秀頼や淀殿に殉じて、子の長秋と共に自害した。
- 赤座 直保(あかざ なおやす)
- ????年 - 1606年
- 父は赤座直則。永原孝治の父。
- 赤座氏は朝倉氏家臣123家を所収した「一乘録」にその名が記されており、
- 直保や父の直則も朝倉氏家臣であった可能性が高い。
- 関ヶ原の戦いで初めは西軍の大谷吉継の軍に属して北国口で戦ったが、本戦で小早川秀秋が東軍に寝返ったのに呼応し、
- 脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷軍を壊滅させる。
- だが事前に通款を明らかにしなかったとの理由で、戦後、徳川家康にその功を認められず、所領を没収された。
- 他家 槍足軽 1.5 5/1 正兵の構え (群雄伝・関ヶ原伝・西軍の章 第十話)
- 赤穴 光清(あかな みつきよ)
- 1493年 - 1542年
- 赤穴盛清の父。
- 大内義隆の出雲遠征にて、陶晴賢の部隊と交戦の末、討ち死にした。
- 他家 槍足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第一章第五話)
- 秋月 文種(あきづき ふみたね)
- 1512年 - 1557年
- 筑前の国人領主である秋月氏15代目当主。
- 元は大内家に属していたが、大寧寺の変で大内義隆が死亡すると大友家に付く。
- しかし毛利元就の調略に応じて大友家に反旗を翻したことから立花道雪らに討伐され、自刃する。
- 朝倉 景豊(あさくら かげとよ)
- ????年 - 1503年
- 敦賀郡司朝倉家当主。姉妹を教景ら朝倉宗家に嫁がせて権勢を誇る。
- さらなる権力を狙い義兄弟たちを唆して反乱を起こすが、教景を始めとする義兄弟らは誰も誘いに乗らず孤立。
- 宗家当主朝倉貞景直々の出陣もあり、圧倒的戦力差の前に自害に追い込まれた。
- 浅井朝倉 槍足軽 2.0 8/4 邪道の構え (武将列伝3第九章第一話)
- 足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)
- ????年 - 1498年
- 堀越公方・足利政知の嫡男。
- 廃嫡され幽閉されていたが、父の死後に脱獄し、弟の潤童子を殺害し公方を継ぐ。
- 家臣の讒言を受けて重臣を殺害するなどの暴政をしたことから伊豆国が内乱状態に陥り、それに乗じた北条早雲により追放される。
- 他家 槍足軽 1.5 6/1 叛逆の狼煙 (武将列伝3第七章第三話)
- 足利 義尹(あしかが よしただ)
- 1466年 - 1523年
- 室町幕府第10代将軍。
- 初名は義材(よしき)で、8代将軍・足利義政の死後に将軍職を継ぐ。
- 細川政元のクーデター(明応の政変)に遭って将軍職を失い、幽閉されるが逃亡し、この間に義尹と改名する。
- 放浪の末に周防へたどり着くと大内義興を後ろ盾として将軍に復職。名も義稙(よしたね)と改める。
- 足利 義晴(あしかが よしはる)
- 1511年 - 1550年
- 室町幕府第12代将軍で、足利義輝、義昭の父。
- 先代将軍の足利義稙が管領・細川高国と対立・出奔したことから11歳で征夷大将軍に就任する。
- 将軍家の権威を取り戻すべく活動はしていたが、細川家の内紛に巻き込まれるなどして挫折している。
- 足利 義尚(あしかが よしひさ)
- 1465年 - 1489年
- 室町幕府第9代将軍で、足利義政の子。
- 彼が生まれる以前に義政は弟の義視を養子としていたため応仁の乱の一因となり、山名宗全によって総大将に担がれる。
- 応仁の乱の最中である1473年に将軍に就任し、乱が集結した後に六角家を征伐するなどして弱体化した幕府権力を回復した。
- かなりの美丈夫であり「緑髪将軍」と称されたという。
- 穴山 信友(あなやま のぶとも)
- 1506年 - 1560年
- 武田家の家臣で、穴山梅雪の父。
- 先代までは主に今川家に与しており武田家との関係は芳しくなかったが、
- 武田信虎の次女・南松院を妻に迎えて外戚となった事で誼を通じ、良好な関係を築いた。
- またその後も今川家との繋がりは保っており、今川義元の娘・嶺松院と武田義信の婚姻などにも尽力し
- 武田家の対外交渉において重要な役割を担った。
- 阿部 正豊(あべ まさとよ)
- ????年 - 1535年
- 三河松平家の家臣。
- 主君の松平清康が織田信秀との戦の最中に父・定吉が信秀と組み謀反を企んでいるという噂が流れ、
- 「もし自分が濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」という誓書を父から預かっていたが
- 翌日早朝に清康の本陣で馬離れの騒ぎが起きた際に、父が誅殺されたのだと勘違いし清康を背後から惨殺してしまった。
- 正豊はその場で斬り殺され、それを知った定吉は責任を取り自害しようとしたが、
- 清康の嫡男・松平広忠に許され、そのまま家臣として仕えている。
- 尼子 勝久(あまご かつひさ)
- 1553年 - 1578年
- 尼子誠久の子。
- 新宮党粛清の際に逃げ延び、京都東福寺の僧となっていた。
- 後に山中鹿之助らが彼を担いで尼子家再興を目指した。
- 一時期、月山冨田城の奪還に成功するも毛利軍に押され、上月城陥落後、切腹となった。
- 尼子 倫久(あまご ともひさ)
- 1546年 - 1623年
- 尼子晴久の次男で、尼子義久の弟。
- 第二次月山富田城の戦いでは南側の塩谷口を守り、山中幸盛らと共に吉川軍と戦った。
- 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第二章第四話、第五話)
- 荒川 義広(あらかわ よしひろ)
- ????年 - ????年
- ??年三河国の豪族。
- 家康の東条城攻めに協力し、その軍功により徳川家康の異母妹である市場姫を娶る。
- しかし三河一向一揆が起こった際に一向衆側についたため、一揆が鎮圧された後は河内国へ亡命した。
- その最期には諸説あり、そのまま河内国で病没したとも、三河で蟄居中に没したとも伝えられる。
- 有馬 豊氏(ありま とようじ)
- 1569年 - 1642年
- 丹波福知山藩主、のち筑後久留米藩初代藩主。久留米藩有馬家2代。
- 関ヶ原の戦いでは東軍に与し、美濃国岐阜城攻めや関ヶ原本戦で後ろ備えを務めた。
- 有馬父子の功績に対して同年12月、家康は、父の則頼には有馬家の発祥地である有馬郡三田2万石の知行を許し、
- 豊氏を山陰の丹波福知山6万石に加増のうえ転封とした。
- 寛永14年、島原の乱が勃発すると、豊氏は当時江戸にあり、老齢であったのにもかかわらず自ら島原まで出陣している。
- 島原の乱では久留米藩から6300余人が出陣しており、戦死173人、手負い1412人を出している。
- 他家 槍足軽 2.0 7/6 正兵の構え (群雄伝・関ヶ原伝・西軍の章 第六話)
- 飯坂 宗康(いいざか むねやす)
- ????年 - 1589年
- 伊達家家臣。
- 小梁川泥蟠斎の仲介で娘の猫御前を伊達政宗の側室として差し出す。
- 世継ぎとなる男子がいなかったので、宗康の死により飯坂家は一度断絶したが
- 政宗と新造の方との子の宗清が養子に入り1604年に再興している。
- 池田 勝正(いけだ かつまさ)
- 1539年 - 1578年
- 三好長慶の死後、摂津池田氏当主として盟友三好氏と共に松永久秀と戦った。
- 織田信長が上洛すると抵抗するもやむなく降服するが、領地安堵どころか摂津守護に任じられる。
- その後、本圀寺の変での救援や桂川での一騎駆け、金ヶ崎の戦いでの殿軍で功を挙げた。
- 一族衆である荒木村重が調略によって三好氏に寝返ると池田城から追放されるが、村重が信長の家臣になると池田に戻り隠居した。
- 伊丹親興・和田惟政と並んで「摂津三守護」と称される。
- 池田 盛周(いけだ もりちか)
- ????年 - ????年
- 最上家家臣。元は大宝寺氏に仕えていた。
- 慶長出羽合戦では志駄義秀に敗れるも、最上家は勝利し恩賞を得た。
- 治水事業にも優れた手腕を発揮し、彼の通称を取った「悪次郎堰」は現在もその名を残している。
- 生駒 家宗(いこま いえむね)
- ????年 - 1556年
- 吉乃の父で、灰・油の商いと馬借で冨を築いた尾張小折の土豪。
- 吉乃が織田信長の側室に迎えられたことで織田家と縁戚関係を結び、信長に仕え重用された。
- 伊丹 雅興(いたみ まさおき)
- ????年 - ????年
- 伊丹康直の父。
- 伊東 祐安(いとう すけやす)
- ????年 - 1572年
- 日向伊東家家臣。
- 父・伊東祐武は伊東家八代目当主・伊東祐充の死後に反乱を起こして自害するが祐安らは許され、一門衆として伊東義祐に仕える。
- 木崎原の戦いの戦いでは敗走する伊東軍の殿を務め、戦死する。
- 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (島津伝第一章第四話)
- 伊東 義祐(いとう よしすけ)
- 1512年 - 1585年
- 日向伊東家の第10代当主。
- 弟・祐吉が家督を継いだため自身は出家していたが、3年後に祐吉が病没すると還俗し10代当主として相続した。
- 島津家と長らく日向の覇権争いをしていたが、木崎原の戦いで3000の軍勢を用いながら
- 島津義弘のわずか300の寡兵に大敗し、それを契機に伊東家は衰退の一途を辿る。
- やがて本拠である佐土原も追われ進退窮まった義祐は、大友宗麟を頼り豊後に落ち延びるが
- その宗麟も耳川の戦いで島津に大敗したため、豊後を離れその後は流浪の身となり諸国を巡る余生を送った。
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- 上杉 顕定(うえすぎ あきさだ)
- 1454年 - 1510年
- 越後の守護大名・上杉房定の次男。
- 関東管領・上杉房顕が男子を残さず没したため、室町幕府8代将軍・足利義政に命じられ養子として家督を継ぐ。
- 永正6年、父の後を継いで越後守護となった兄・房能が長尾為景の謀反により討たれたと聞いて激昂し、
- 越後へ攻め入って一度は為景らを越中へ追放したが、翌年に猛反攻を受け自刃した。
- 他家 騎馬隊 2.5 8/5 気 援軍 (武将列伝3第七章第三話)
- 上杉 定勝(うえすぎ さだかつ)
- 1604年 - 1645年
- 上杉景勝の嫡男。
- 母である桂岩院は産後に程なく死去したため、直江兼続・お船の方夫妻に育てられた。
- 1623年に景勝が没した後は、家督を相続し出羽米沢藩の第2代藩主となる。
- 「万事質素律儀を作法を旨とし、専ら文武忠孝に励む事」という法令を出しており、
- 父祖から受け継がれし謹厳実直を是とした藩政を敷いた。
- 上杉 定正(うえすぎ さだまさ)
- 1443年 - 1494年
- 相模国の守護で、関東管領上杉氏の一族・扇谷上杉家の当主。
- 名将・太田道灌を擁し、関東においてその権勢を拡大させていったが
- 道灌の才知と声望の高さから次第に猜疑心と不信感を募らせるようになり、ついには暗殺に至る。
- 道灌の謀殺は家中に衝撃を与え、多くの家臣が主家の管領上杉氏へ走ったため定正の勢力は大きく衰退してしまった。
- その後、伊勢宗瑞(北条早雲)と結んで主家に対して叛逆を企てるが、戦で渡河中に落馬して死去した。
- 他家 槍足軽 2.0 7/7 気 方陣 (武将列伝3第七章第二話)
- 上杉 朝興(うえすぎ ともおき)
- 1488年 - 1537年
- 扇谷上杉家の当主であった叔父・上杉朝良の養子となり家督を継ぎ、朝良の死後は実権を掌握する。
- 北条氏綱率いる北条軍に江戸城を攻撃された際は迎撃するも敗退し、江戸城を奪われて河越城へと逃亡した。
- その後は、山内上杉家の上杉憲房や甲斐国の武田信虎などとの同盟を謀っている。
- 小沢原の戦いで北条氏康に敗れ、江戸城を奪還できぬまま河越城で病死した。
- 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (北条伝第一章第一話)
- 上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)
- 1525年 - 1546年
- 上杉朝興の子。朝興の死後家督を継ぎ当主となる。
- 深大寺城を築いて後北条氏に備えるが、北条氏綱に河越城を攻められ敗走、松山城に居城を移した。
- 北条氏康に対抗するため、山内上杉家の上杉憲政と和睦し、駿河の今川義元と連携を図る。
- 義元の挙兵に合わせて、諸大名らと連合した8万の大軍で河越城を攻め、河越城主北条綱成を落城寸前まで追い込んだ。
- しかし後詰に駆け付けた氏康の奇襲に遭い扇谷上杉軍は大敗、他の連合軍は四散した。
- 朝定は河越城を奪還できぬまま討死した。
- 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (北条伝第一章第一話)
- 上杉 朝良(うえすぎ ともよし)
- 1473年 - 1518年
- 扇谷上杉家当主。伯父・定正の養子となり家督を継ぐ。
- 太田道灌亡き扇谷上杉家を引っ張れる程の器量は無く、山内上杉家との対立および伊勢宗瑞(北条早雲)の台頭に苦しむ。
- 一度は伊勢宗瑞の力も借りて山内上杉家に大勝するが、猛反撃を受けて隠居に追い込まれ、甥の上杉朝興に家督を譲った。
- 他家 騎馬隊 1.5 6/5 突貫の構え (武将列伝3第七章第五話)
- 上杉 房能(うえすぎ ふさよし)
- 1474年 - 1507年
- 越後の守護大名。
- 越後上杉家を戦国大名とすべく、在地領主の権限を制約しようとしたが強い反発を受けてしまう。
- その後、自身の養子である定実を擁立し反旗を翻してきた守護代の長尾為景に攻められ、自刃に追い込まれた。
- 海野 棟綱(うんの むねつな)
- ????年 - ????年
- 東信濃を古くから支配していた滋野三家の嫡流である海野家の当主。
- 海野平の戦いで武田・村上・諏訪連合軍に敗れ領地を失い、その後失地回復は成らなかった。
- 浦上 宗景(うらがみ むねかげ)
- ????年 - ????年
- 備前の戦国大名。
- 兄・政宗が幼少より家督を相続していたが、尼子親和派である兄と意見が対立し浦上家は分裂する。
- そこで宗景は毛利家と同盟することにより、兄の勢力を駆逐して備前の支配者となった。
- それから浦上家は徐々にその版図を広げていくが、配下であった宇喜多直家の謀反により
- 所領を奪われて追放されてしまった。追放後は黒田長政の誘いで筑前にて出家したと伝えられる。
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- 近江局(おうみのつぼね)
- ????年 - ????年
- 浅井亮政の娘・鶴千代の三女(しかしそれには諸説あり、亮政の娘であるとも、久政の養女であるとも言われる)。
- 美濃の斎藤家との関係強化のため、義龍の正室となる。
- 大内 義長(おおうち よしなが)
- ????年 - 1557年
- 大友義鑑の次男で、宗麟の弟。元の名は大友晴英。
- 大内義隆とは叔父甥の関係にあり、義隆に嫡子・義尊が生まれるまでは大内家の猶子であった。
- 大寧寺の変にて義隆が自刃後、陶晴賢によって大内家の当主となった。
- しかし大内、大友両家でこれといった功績は残して無く厄介者扱いされていた。
- そのため晴賢が厳島の戦いで戦死した後、さしたる抵抗も出来ず毛利軍に攻められ自害した。
- 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第二章第三話)
- 大浦 為則(おおうら ためのり)
- 1520年 - 1567年
- 大浦氏当主。父・政信が戦死したため家督を継ぐが、生来病弱のため政務は家臣に任せていたと言う。
- 娘の戌姫(阿保良姫)の婿として津軽為信を迎え、養嗣子とした。
- 大関 親信(おおぜき ちかのぶ)
- 15??年 - 15??年
- 魚沼郡浦佐城主で、水原親憲の父。官途は阿波守。
- 大友 親貞(おおとも ちかさだ)
- ????年 - 1570年
- 大友宗麟の末弟、又は甥。
- 龍造寺隆信討伐のため、大軍を率いて肥前に侵攻する。占朴にこだわり長期戦を選んだため、士気を緩ませてしまう。
- 酒宴を開いていたところに鍋島直茂・成松信勝らによる奇襲を受け、討死。
- 大西 覚養(おおにし かくよう)
- ????年 - 1578年
- 阿波の国人領主。
- 三好家と密接な関係を築き、阿波や讃岐・伊予の辺境を支配した。
- 三好家が衰退し長宗我部家が台頭すると、弟の大西頼包を人質として和議を結ぶ。
- しかし三好家が織田家と結託して長宗我部家に対決姿勢を取ったと知ると
- 和議を破棄して反攻するが、元親の軍勢に敗れ降伏した。
- 大政所(おおまんどころ)
- 1513年 - 1592年
- 豊臣秀吉、秀長、朝日姫の母。本名は、なか。
- 織田家に仕える足軽だった木下弥右衛門に嫁ぎ、日秀尼(秀次の母)と秀吉を産む。弥右衛門の死後、竹阿弥と再婚して秀長、朝日姫を産んだ。
- 秀吉が関白に任じられると従一位に叙せられる。
- 大森 藤頼(おおもり ふじより)
- ????年 - 1503年
- 扇谷上杉家家臣で小田原城主を務めていた大森氏頼の次男。
- 北条早雲が領内で狩りをすることを許可した事により、勢子になりすましていた兵の奇襲を受け、小田原城を追われる。
- 他家 弓足軽 1.5 4/8 柵 前線への采配 (武将列伝3第七章第四話)
- 小国 重頼(おぐに しげより)
- ????年 - 1601年
- 上杉家の家臣で天神山城主。小国頼久の子。
- 謙信に付き従い、武勇に誉れがあったと言われる。
- 天正10年(1582年)に小国氏の家中で内紛があった際、主君である上杉景勝の命により
- 直江兼続の実弟で樋口兼豊の次男・与七(後の大国実頼)を養子に迎えた。
- 小倉 実房(おぐら さねふさ)
- ????年 - 1570年
- 六角義賢の家臣。正室はお鍋の方。
- 織田信長と親交があり、幾度となく信長の危難を避ける手助けをしたが
- 金ヶ崎の戦いにて信長を逃がした事で義賢の怒りを買い、滅ぼされた。
- 小鹿 範満(おしか のりみつ)
- ????年 - 1487年
- 今川氏の一族である小鹿氏の武将。
- 今川家第6代当主・今川義忠が戦死した際、嫡男の龍王丸(後の今川氏親)が幼少だった事から
- 後継者として名が上がったが、範満派と龍王丸派が対立し数度の合戦に及ぶ内乱状態に発展してしまう。
- そこで事態を重く見た室町幕府の介入により、龍王丸が成人するまで範満が家督を代行することで決着した。
- しかし龍王丸が成人しても家督を返そうとしなかったため、業を煮やした氏親の母・北川殿が
- 室町幕府より呼び寄せた伊勢盛時(後の北条早雲)に攻められ自害した。
- 今川家 槍足軽 1.5 6/5 死闘の構え (武将列伝3第七章第二話)
- 織田 信興(おだ のぶおき)
- ????年 - 1570年
- 織田信秀の七男で信長の弟。
- 早くから兄信長に従い、信長からの信頼も厚かった。
- 信長の命で弥富服部党当主の服部友貞不在の時を狙って攻め立て勝利し、鯏浦城と小木江城を築く。
- 以後は小木江城に在城し、服部党と東方面の長島を牽制する役目を担った。
- しかし信長包囲網の形成と共に、居城である小木江城を伊勢長島の一向一揆に囲まれ、孤立無援の中で奮戦するも落城・自害する。
- 織田 信賢(おだ のぶかた)
- ????年 - ????年
- 岩倉織田氏の織田信安の嫡男。
- 父信安が弟信家を寵愛し跡継ぎにしようとしたため、居城岩倉城から追放し城主となる。
- 織田信勝や斎藤義龍らと結んで織田信長に対抗するが、浮野の戦いで敗れる。
- 他家 足軽 1.5(?) 5/5 正兵の構え (織田伝第一章第十話、豊臣伝第一章第七話)
- 織田 信友(おだ のぶとも)
- ????年 - 1555年
- 守護代清洲織田氏の継承者で尾張清洲城城主。
- 織田信勝の家督相続を支持し織田信長と対立するが敗れる。
- さらに信長暗殺を謀るが失敗、かえって清洲城に焼き討ちを受けるなど追い込まれる。
- 他家 足軽 1.5(?) 5/5 正兵の構え (織田伝第一章第三話、同第五話)
- 織田 信広(おだ のぶひろ)
- ????年 - 1574年
- 織田信長の父・信秀の庶出の長男で信長の兄に当たる。
- 第二次小豆坂の戦いで先鋒を務めるが敗北、安祥城の守備を任される。
- 太原雪斎に城を攻められ安祥城は陥落し生け捕りにされる。
- 後に松平竹千代(徳川家康)との人質交換で織田家へ送還される。
- 織田家 足軽 1.5(?) 4/5 正兵の構え (豊臣伝第一章第二話)
- 織田 信安(おだ のぶやす)
- ????年 - 1591年
- 岩倉織田氏こと織田伊勢守家当主。
- 信長とはかつて友好関係にあったものの、信長の父信秀の死後は関係が疎遠になる。
- 斎藤道三の死後は斎藤義龍を支持して信長に敵対し、稲尾の戦いでも信勝に味方した。
- その後信賢を廃嫡しようとしたことで逆に追放され、義龍・龍興に仕える。
- 斎藤家滅亡後は京に逃れるが同族の誼として信長に罪を許された。
か行
か
- 海津局(かいづのつぼね)
- ????年 - 1656年
- 浅井亮政の娘・鶴千代の長女。
- 夫の浅井政高が豊臣秀吉に臣従すると、共に大坂へ赴き秀吉の側室・淀殿の侍女として仕えた。
- 海部 友光(かいふ ともみつ)
- ????年 - ????年
- 阿波三好家家臣。
- 病気の療養に出ていた島親益を那佐湾にて発見し、これを討った。
- だが弟の死に烈火の如く激怒した長宗我部元親の猛攻に遭い、あえなく居城は落城する。
- その後は落ち延びて紀州の縁者を頼ったとされるが、消息は不明。
- 桂 広澄(かつら ひろずみ)
- ????年 - 1524年
- 桂元澄の父。毛利家の庶流である安芸坂氏の嫡男に生まれたが、分家して桂家を興している。
- 本家の当主である坂広秀が相合元綱を担いで謀反し討たれたことから、一族の者として責任を取り自害する。
- 金子 元宅(かねこ もといえ)
- 1551年? - 1585年
- 東伊予一帯を統治していた豪族。
- 1578年に誼を通じていた長宗我部家に降り、元親の四国統一に大いに貢献する。
- 豊臣秀吉の四国征伐に対し迎え撃つが、秀吉配下の小早川隆景率いる毛利軍に討たれた。
- 鐘捲 自斎(かねまき じさい)
- ????年 - ????年
- 剣豪。名は通家もしくは通宗。初め富田景政に師事し中条流を修め、のちに鐘捲流を興す。
- 弟子の前原弥五郎(伊東一刀斎)のひたむきな鍛錬を認め、奥義「高上極意五点」を伝えた。
- 「巌流島の決闘」で有名な佐々木小次郎も彼の弟子であると言われている。
- 本作に登場する印牧能信は彼の一族であるとも言われる。
- 川上 忠堅(かわかみ ただかた)
- 1558年 - 1586年
- 川上忠智の嫡男で、久智、忠兄の兄。久林の父。
- 沖田畷の戦いでは敵総大将である龍造寺隆信の首級をあげるという大功を挙げ、隆信の脇差を戦利品として得ている。
- 肥前の国人領主・筑紫広門との戦いでは筑紫晴門を一騎打ちの末に討ち取るが、この時受けた怪我が元でまもなく死去した。
- 川上 忠智(かわかみ ただとも)
- ????年 - 1607年
- 島津家臣で川上久智、忠兄の父。久林の祖父。
- 島津義弘の家老として日向国高鍋、大隅国栗野、薩摩国馬越、大隅国蒲生などの地頭を務めた。
- 軍事でも木崎原の戦い、沖田畷の戦いなどに参戦している。
- 神尾 忠重(かんお ただしげ)
- ????年 - 1577年
- 家は代々今川家の臣だが、彼自身は一条信龍に仕えた。
- 1573年に須和(後の阿茶局)と結婚し一子をもうけたが、その4年後に没している。
き
- 城井 鎮房(きい しげふさ)
- 1536年 - 1588年
- 豊前城井谷城主。強弓を扱う武勇の士。
- 主家である宇都宮家のために奔走する父・長房に代わり、若い頃から本領を任されその維持に力を尽くした。
- 秀吉の九州征伐の際、一度は従属の姿勢をとるが本領安堵を頑なに拒否されたため決起。
- そのあまりの剛勇に手を焼いた黒田孝高(官兵衛)は、和議を結ぶと偽って鎮房を誘い出し、一族もろとも騙し討ちにしてしまった。
- 他家 弓足軽 2.5(?) 8/5 制気 正兵の構え (武将列伝第十章九話)
- 木曾 義康(きそ よしやす)
- 1514年 - 1579年
- 信濃国南部の木曾氏の18代当主で木曾義昌の父。
- 武田信玄の信濃侵攻に当初は対抗するが、更なる侵攻を受けて武田家に降伏した。
- 北畠 具親(きたばたけ ともちか)
- ????年 - 1586年
- 北畠具教の弟。
- 奈良興福寺東門院院主の地位にあったが、兄の死を受け還俗して伊勢に戻る。
- 兄の仇である織田信長・信雄父子に対して、北畠家の旧臣を集めて挙兵するも鎮圧された。
- 吉川 興経(きっかわ おきつね)
- ????年 - 1550年
- 吉川氏当主で、毛利元就の次男吉川元春の義父。
- 武勇に優れた武将ではあったものの戦略眼や政治力に乏しかったとされ、
- 大内氏と尼子氏が争う中で、その時々の形勢によって両陣営の間で鞍替えを繰り返した。
- そして天文11年(1542年)の第一次月山富田城の戦いで、大内氏を裏切り多大な犠牲を出した事により
- 不信感を募らせた重臣らが元春を養子に迎えて吉川氏の家督を継がせ、興経を強制的に隠居させてしまった。
- 他家 足軽 1.5(?) 4/5 正兵の構え (毛利伝第一章第七話)
- 肝付 兼続(きもつき かねつぐ)
- 1511年 - 1566年
- 大隅の戦国大名で、肝付氏の第16代当主。
- 島津家との関係を重視しており、島津忠良の長女を妻に迎え、自身の妹を忠良の子・島津貴久に嫁がせるなど良好な関係を保った。
- だが、大隅の平定を成し遂げると島津家との関係が次第に悪化し、
- 竹原山の戦いで貴久の弟・島津忠将を討ち取ると本格的に敵対するようになる。
- その後も島津家とは激しい戦いを繰り広げたが、永禄9年に隠居城の志布志付近で没した。
- 肝付 兼演(きもつき かねひろ)
- ????年 - 1552年
- 肝付兼盛の父。
- 大隅国人肝付氏庶流。加治木城主。肝付本家と袂を分かち、島津氏に従う。
- 後に島津実久(薩州家)に従い反旗を翻すも、伊集院忠朗らの討伐を受けて降伏。所領を安堵される。
く
- 九戸 政実(くのへ まさざね)
- 1536年 - 1591年
- 南部氏の家臣。九戸城主。九戸信仲の子。
- 晴政・晴継の死後、信直との対立し、「九戸政実の乱」を起こすが、
- 天正19年、怒涛の勢いで討伐軍により、政実・実親の籠る九戸城も包囲攻撃を開始されると、
- 善戦した政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、4日に出家姿で討伐軍に降伏した。
- 秀次の陣へと引き出された政実・実親兄弟らは死を覚悟しており従容として斬首された。
- 他家 槍足軽 2.0 7/7 陸奥の迅雷 (群雄伝・関ヶ原伝・東軍の章第二章)
- 朽木 元綱(くつき もとつな)
- 1549年 - 1632年
- 近江の戦国武将。父は室町幕府の奉公衆を務めた朽木晴綱。
- 元亀元年(1570年)、朝倉攻めにおいては織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に織田家に臣従。
- 信長の死後は豊臣秀吉に仕え、蔵入地代官任命、豊臣姓下賜、朽木谷2万石安堵と厚遇された。
- 関ヶ原の戦いでは当初は西軍に属するが、小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に寝返る。
- 戦後9,590石に減封され大名の格を失い、以後は旗本として幕府に仕えた。
- 他家 槍足軽 1.5 5/5 正兵の構え (群雄伝・関ヶ原伝・西軍の章 第十章)
- 蔵田 直信(くらた なおのぶ)
- ????年 - 1523年
- 尼子氏の侵攻の際に鏡山城副将として毛利元就らと戦った。
- 戦線が膠着状態に陥いると、元就から蔵田家の家督を継がせることを条件に寝返りを持ち掛けられる。
- 直信はこれに応じて寝返り、尼子軍を城内へ手引きした。
- これにより鏡山城は落城したが、尼子経久に寝返りを非難されて処刑された。
- 他家 弓足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第一章第一話)
- 蔵田 房信(くらた ふさのぶ)
- ????年 - 1523年
- 尼子氏傘下の毛利元就・吉川国経らの鏡山城侵攻に対して、大内方として叔父蔵田直信と共に迎え撃った。
- 尼子軍を城に近づけない奮戦を見せるが、元就の策によって叔父直信が寝返り、城内に尼子軍が侵する。
- 一昼夜本丸に籠もるが遂には落城し、房信も自害した。
- 他家 槍足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第一章第一話)
- 栗山 善助(くりやま ぜんすけ)
- 1550年 - 1631年
- 黒田官兵衛、長政の家臣。本名は利安。他の家老・宿将とは別格として「一老」とまで称された黒田家筆頭家臣。
- 母里太兵衛の台詞に出てくる「義兄者(あにじゃ)」であり(母里太兵衛のフレーバーテキストに出てくる大友義統は別人)、
- 有岡城に監禁された官兵衛の救出等、黒田氏の戦に貢献し続けた。
- 黒田騒動で知られる栗山大膳は善助の子。
- 群雄伝・武将列伝 第十章 天下人の軍師 合間のキャラクターとして登場。
- 黒田 秀忠(くろだ ひでただ)
- 1492年 - 1546年
- 上杉謙信の父・長尾為景の信任を受けて、黒田家を継承した。
- 為景が息子に家督を譲った後謀反を起こすが、謙信の部下に居城を攻められ降伏した。
- 他家 槍足軽 2.0(?) 7/5 正兵の構え (上杉伝第一章第二話)
こ
- 近衛 前嗣(このえ さきつぐ)
- 1536年 - 1612年
- 公家・近衛家当主であり、関白左大臣や太政大臣を務めた。絶姫の兄。
- 長尾景虎や三好三人衆・松永久秀、赤井直正、本願寺顕如などを頼り各地を転々とする。
- 織田信長の奏上により帰洛を許されると信長との親交を深め、要請される形で和議や調停に携わる。
- 児玉 元良(こだま もとよし)
- ????年 - ????年
- 毛利家重臣。児玉就方の甥で、二の丸殿の父。
- 毛利五奉行を担った人物としても知られ、輝元の指揮下で数多くの合戦に参加した。
- 娘が幼い頃より輝元に見初められて執拗に迫られていた事を快く思っておらず、
- 二の丸殿が12歳の時に同じ毛利家家臣の杉元宣に嫁がせている。
- しかし諦めきれない輝元は配下の佐世元嘉に命じて、二の丸殿を元宣から無理やり強奪してしまった。
- 駒姫(こまひめ)
- 1581年 - 1595年
- 最上義光の娘。東国一の美少女と名高く、その美貌を聞きつけた豊臣秀次の側室となる約定を取り付けられる。
- しかし輿入れのために京に着いた矢先、秀次が高野山に追放、切腹させられたことで他の側室同様に連座して死罪を命じられる。
- 父・義光が必死に助命嘆願したことから秀吉も死罪の撤回を命じたが、その早馬が刑場に着いた時には既に処刑されていたという。
さ行
さ
- 西郷 義勝(さいごう よしかつ)
- ????年 - 1571年
- 徳川家臣。祖父・正勝、父・元正が今川との戦いで戦死したことから幼くして家督を継ぐ。
- 戸塚忠春の娘(西郷局)を後妻として娶るが、武田家との戦いで戦死する。
- 彼女との間に生まれた子である勝忠は秀忠の異父兄という立場から重用され、家康の十男で紀州藩初代藩主となる頼宣に仕えた。
- 坂井 大膳(さかい だいぜん)
- ????年 - ????年
- 清洲織田家の織田信友の重臣。
- 織田信秀の死後、人質に取って織田信長に反旗を翻すが撃破される。
- 他家 足軽 1.0(?) 3/3 力萎えの術 (織田伝第一章第三話、同第五話)
- 相良 頼房(さがら よりふさ)
- 1574年 - 1636年
- 相良義陽の次男で、肥後人吉藩初代藩主。
- 兄・相良忠房が疱瘡で急死したため、12歳で家督を継承し、島津配下として大友攻めなどに従軍する。
- 関ヶ原では当初西軍についていたが、本戦で西軍が敗れると東軍に内応し、大垣城を攻め垣見家純を討ち取る。この功で所領を安堵された。
- 桜井 霞之助(さくらい かすみのすけ)
- ????年 - ????年
- 真壁氏幹の家老・桜井大隅守の子で、霞流を学んだ剣客。
- 霞流は氏幹が興した流派で、霞之助は氏幹の弟子とも孫弟子とも言われている。
- 斎藤伝鬼坊に決闘を挑んだが、返り討ちに遭い殺された。
- 佐治 信方(さじ のぶかた)
- 1553年? - 1574年?(諸説あり)
- 元々は知多半島で水軍を率いていた豪族で、桶狭間の戦いの後に信長に臣従した。
- 信長からは妹であるお犬の方を嫁に貰い受けたり、名前に「信」の字を拝謁するなど
- 異例の厚遇を受けていたが、伊勢長島攻めにて討ち死にしている。
- 三条 公頼(さんじょう きんより)
- 1495年 - 1551年
- 藤原北家の流れを汲む転法輪三条家の当主。
- 質素倹約を旨とした家風や時勢に伴い家計に苦しんだ。
- そのため、次女三条夫人を武田家へ輿入れに、三女如春尼を管領細川晴元へ養女にそれぞれ送り出している。
し
- 志賀夫人(しがふじん)
- ????年 - 1587年
- 戸次鎮連の正室。戸次統常の母。
- 1586年、鎮連の裏切りを恥じた志賀夫人(鎮連の妻、統常の母)は、
- 統常の出陣に際して、統常の幼い弟たちを刺殺(※但し、統利は殺害されなかったようである)、
- 統常に決死の覚悟を求めた。
- 統常はそれに奮起し、伝来の書物や家宝を焼き、最期の戦い「戸次川の戦い」に出陣していった。
- 統常を見送った母の志賀夫人はその直後に自害して果てた。
- 篠原 長房(しのはら ながふさ)
- ????年 - 1573年
- 三好家の重臣で、三好義賢に仕える。
- 義賢が討死した後は三好長治を補佐し、三好家を取りまとめた。
- 畿内においても優れた執政手腕を発揮し、長慶の死後も衰退へ向かう三好家をよく支えたが
- 同じ一族である篠原実長の讒言を聞いた長治によって居城を攻められ、自害した。
- 島津 実久(しまづ さねひさ)
- 1510年 - 1553年
- 薩州家島津第5代当主で、島津義虎の父。
- 自らが宗家当主となるべく勝久に家督を譲るよう迫るが、その方法が力ずくであったために勝久は日新斎と組んで逆に駆逐されてしまう。
- その後も日新斎と争い続けるが最終的には降伏して出水に隠棲した。
- 島津 忠辰(しまづ ただとき)
- 1565年 - 1593年
- 島津義虎の嫡男で忠隣の兄。
- 豊臣秀吉の九州征伐では肥後方面を守るが、有馬晴信の裏切りにあって本領の出水に撤退する。
- 朝鮮出兵で義弘と別の陣にするよう秀吉に直訴するが却下され、さらに病気と称して上陸しなかったことで秀吉の怒りを買い改易される。
- 島津 彰久(しまづ てるひさ)
- 1567年 - 1595年
- 島津貴久の甥である以久の長男で、一門衆・垂水島津家の初代当主。妻は玉姫。
- 沖田畷の戦いなどで功があり、義久が上洛した際は供をして父・以久の人質として数年間を京で過ごす。
- 文禄・慶長の役では本家の島津忠恒に従い朝鮮へ渡海するが、病により陣中で没した。
- 島津 久信(しまづ ひさのぶ)
- 1584年 - 1637年
- 垂水島津家の4代目当主。母親は玉姫で、島津義久の外孫にあたる。
- 一時は義久の後継者として擁立されたが、従兄弟の忠恒との後継争いに敗れ失脚する。
- その後は乱行を繰り返すようになり、罰として蟄居させられるも奇行は止まなかったため
- 最期は毒殺されたと伝えられる。
- 上条 定憲(じょうじょう さだのり)
- ????年 - ????年
- 越後上杉氏の一族である上条上杉氏当主。
- 守護上杉氏への下克上を成した長尾氏に対し反抗的だったが、為景によって定実が幽閉された際には兵を挙げた。が、成果は得られなかった。
- しかし、為景の後盾が崩れると国内外の勢力を味方につけて攻勢を強め、為景を隠居に追い込んだ。
す
- 杉 元宣(すぎ もとのぶ)
- ????年 - 1589年
- 毛利家家臣で、毛利五奉行の一人である児玉元良の娘(二の丸殿)を娶る。
- しかし幼少の頃から目をつけ、思慕していた毛利輝元によって妻を強奪されてしまう。
- 主君とはいえ輝元のあまりの悪行に激怒した元宣は、豊臣秀吉に直訴するべく出立した。
- それを聞いた小早川隆景は、輝元とその側近が犯した愚行を恥じながらも
- 毛利家にとっての危機と判断して追手を放ち、元宣は道中で殺害されてしまった。
- 諏訪 頼満(すわ よりみつ)
- 1473年 - 1540年
- 諏訪頼重の祖父。諏訪家中興の祖と称される。
- 当時諏訪家は惣領家と大祝家に分裂していたが、これを統一し当主と大祝を兼任。南信濃に一大勢力を築き上げた。
- 一時は甲斐の武田信虎とも渡り合ったが、後に和睦している。
- 他家 槍足軽 2.0 7/5 挑発 (武将列伝3第八章第三話)
た行
た
- 高遠 頼継(たかとお よりつぐ)
- ????年 - 1552年
- 諏訪氏庶流の高遠氏の当主。
- 武田信玄が諏訪氏との同盟を破棄して侵攻するとそれに与する。
- 他家 槍足軽 1.5(?) 5/1 正兵の構え (武田伝第一章第二話)
- 武田 信清(たけだ のぶきよ)
- 1560年 - 1642年
- 武田信玄の七男。里美の子。
- 7歳で法善寺に入り玄竜を号するが、後に兄勝頼の命令で還俗する。
- 甲斐源氏の旧族である安田氏の名跡を継承し、海野城の城主となる。
- 田原 親賢(たはら ちかかた)
- ????年 - 1600年
- 大友氏の家臣・奈多鑑基の子として誕生し、大友宗麟の義兄(妻の兄)にあたるため、側近として重用された。
- 関ヶ原の戦いに先だって旧主・大友義統が毛利氏の手引きで西軍に与して挙兵すると、
- 他家へ仕えていた宗像鎮続や吉弘統幸をはじめ豊後各地から集まった大友旧臣らとともにこれに従った。
- しかし、石垣原の戦いで鎮続・統幸は討死し、吉統は黒田如水に降伏した。
- 親賢は中川氏に帰参するも、西軍方の太田一吉との戦闘(佐賀関の戦い)に投入され討死した。
- 他家 鉄砲隊 2.0 7/6 気 占領妨害 (関ヶ原伝・九州の章 第三話)
- 田屋 明政(たや あきまさ)
- ????年 - ????年
- 北近江の土豪で、浅井氏の一族。
- 浅井亮政の嫡男・政弘に世継の男子が出来ないまま早世したため、娘の鶴千代の婿として亮政の養子となる。
- しかし後に亮政が庶子の久政を後継者に選んだため、彼は姓を戻し身を引いたという。
ち
- 千葉采女(ちばうねめ)
- ????年 - ????年
- 上野国平井城主で伊勢姫の親。
つ
- 津田 宗達(つだ そうたつ)
- 1504年 - 1566年
- 堺の豪商・天王寺屋の主人。
- 茶湯の「天下三宗匠」として、千利休・今井宗久とともに並び称せられた津田宗及の父。
と
- 土岐 頼芸(とき よりのり)
- 1502年 - 1582年
- 土岐氏当主の座を巡って兄の頼武やその子頼純と対立した。
- 美濃とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主及び美濃守護となった。
- しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。
- 徳川 義直(とくがわ よしなお)
- 1601年 - 1650年
- 徳川家康の九男で、尾張藩初代藩主。
- 大坂の陣にも参戦し、夏の陣では後詰めとして活躍する。
- 儒学を奨励し、林羅山が上野忍ヶ丘に孔子廟を建立する際にも資金協力している。
- 富田 景政(とだ かげまさ)
- ????年 - 1593年
- 富田勢源の弟。兄が眼病を患い剃髪すると家督を譲られた。
- 越前朝倉氏に仕えていたが、その没落後は前田利家に仕えた。
- 後に「名人越後」と称される富田重政の養父でもある。
- 豊臣 秀保(とよとみ ひでやす)
- 1579年 - 1595年
- 日秀の子で秀次、秀勝の弟。
- 叔父の秀長に嗣子がいなかったことから、当時まだ幼い秀長の娘の婿養子という形で秀長の後を継ぐ。
- 1595年に17歳の若さで病死したというのが通説だが、死因には異説もある。
な行
な
- 直江 信綱(なおえ のぶつな)
- ????年 - 1581年
- お船の最初の夫。総社長尾家の出身とされる(父親については諸説あり)。
- 御館の乱では景勝方について活躍し、乱の終結後に重用されたが、河田長親の遺領をめぐるトラブルで殺害される。
- お船との間には子がいたが、お船が兼続と再婚するにあたり出家させられたという。
- 中村 一氏(なかむら かずうじ)
- ????年 - 1600年
- 豊臣家家臣。
- 紀州征伐や小田原征伐で武功を積み、豊臣政権では三中老の一人に任命された。
- 中村 一栄(なかむら かずしげ)
- ????年 - 1604年
- 豊臣政権三中老の1人である中村一氏の弟。
- 兄の一氏は、徳川家康が江戸に転封となったのち駿府に封ぜられ、一栄は沼津三枚橋城主となった。
- 慶長5年(1600年)一氏は、関ヶ原の戦いで東軍に属すが、上杉氏討伐で東上する家康に病床で自らが参陣できないことを詫び、
- 弟を陣代として会津征伐に参加させた。一氏は合戦前の7月17日に病没。
- 一栄は小山評定ののち反転した東軍に加わり、桂市兵衛、織田四郎左エ門、鈴木勝元らと犬山城を攻め開城させたが、
- 関ヶ原の戦いの前日の杭瀬川の戦いでは、西軍の島清興隊の罠にはまり、
- 有馬豊氏と共に撃破され、野一色助義ら30余名が討ち取られてしまう。
- 他家 弓足軽 2.0 7/6 正兵の構え (群雄伝・関ヶ原伝・西軍の章 第六話)
- 鍋島 清房(なべしま きよふさ)
- 1513年 - ????年
- 鍋島直茂の父。
- 鍋島家は龍造寺家の重臣の家柄で、家兼が隆信を擁して挙兵した時もこれに呼応している。
- 隆信が家督を継ぐことには当初反対していたが、本家家老に諭されたこともあり後見役となった。
- 慶誾尼が継室として嫁いだ経緯は、「佐賀の押し掛け嫁」として知られている。
- 鍋島 茂里(なべしま しげさと)
- 1569年 - 1610年
- 鍋島直茂の養子で伊勢龍姫の夫。旧姓は石井。
- 武勇に優れていることから直茂より鍋島軍の先鋒に指名され、直茂・勝茂をよく補佐した。
- 成田 氏長(なりた うじなが)
- 1542年 - 1596年
- 成田長泰の嫡男で、甲斐姫の父。
- 父の隠居で家督を継ぎ北条家に仕えていたが、秀吉の小田原征伐にて北条家が滅亡すると、蒲生氏郷の配下となる。
- またのちに娘の甲斐姫が秀吉の寵愛を受けた事もあり、大名として下野2万石に封ぜられた。
- 成瀬 正義(なるせ まさよし)
- 1535年 - 1573年
- 徳川家家臣。
- 家康の主要な合戦の多くに参加し、武功を挙げる。
- 三方ヶ原の戦いで盟友の鳥居忠広と共に決死の覚悟で武田軍に突撃し、討ち死にした。
- 南部 晴継(なんぶ はるつぐ)
- 1570年 - 1582年
- 南部晴政の嫡男。
- 信直が養子になった後で誕生したことから信直が疎まれる原因ともなった。
- 晴政の死後に家督を継いだが程なく死亡。病死とも暗殺とも言われている。
に
- 二階堂 盛義(にかいどう もりよし)
- 1544年 - 1581年
- 須賀川城主。蘆名家と対立、敗北後に嫡男・盛隆を人質に差し出して蘆名家臣となる。
- その後、盛隆が蘆名家の家督を継ぐと、蘆名を後盾として自らの勢力を伸ばし、二階堂家の全盛期を築く。
ね
- 禰津 元直(ねづ もとなお)
- 1495年 - 1575年
- 里美こと禰津御寮人の父。
- 武田信虎の信濃侵攻に破れ所領を奪われるが、諏訪頼重を通じて知行を安堵された。
- 武田臣下となり、子の政直に家督を譲った後に、功をたて旧領を回復した。
は行
は
- 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)
- 1568年 - 1586年
- 織田信長の四男で羽柴秀吉の養子。
- 秀吉は信長の葬儀では秀勝を喪主とし、弔い合戦では秀勝を織田信孝と共に旗印としている。
- 秀吉の甥で江の二人目の夫、羽柴秀勝とは同姓同名の別人である。
- 林 通具(はやし みちとも)
- 1516年 - 1556年
- 林秀貞の弟で通称は美作守。
- 稲生の戦いでは柴田勝家とともに出陣するが討ち死にした。
- 織田家 鉄砲隊 1.5(?) 5/1 正兵の構え (織田伝第一章第八話、豊臣伝第一章第六話)
- 林 弥七郎(はやし やしちろう)
- ????年 - ????年
- 橋本一巴とは旧知の仲である弓の名手。
- 浮野の戦いにおいては敵同士となり、弓対鉄砲の組討ちを演じた。
ひ
- 疋田 景兼(ひきた かげとも)
- 1537年 - 1605年
- 疋田陰流の開祖で、通称は豊五郎(文五郎とも)。上泉信綱の弟子で、甥とも言われる。
- 信綱と共に長野家に仕えていたが、主家が滅ぶと信綱の武者修行に同行する。
- 柳生宗厳が上泉信綱に勝負を挑んだ際、代わりに勝負を引き受けて宗厳を負かしたとも言われている。
- 平賀 源心(ひらが げんしん)
- ????年 - 1537年
- 信濃源氏の流れを汲む豪族・大井氏の一族で信濃国の平賀城主。玄信とも呼ばれる。
- 武田家の海ノ口城攻めに対し一ヶ月近く抗戦したが、武田晴信の奇策により落城し
- 教来石景政(後の馬場信春)に討たれたと言われる。
- 弘中 隆包(ひろなか たかかね)
- 1521年 - 1555年
- 大内家の家臣、毛利元就やその息子達とも親交があった。
- 陶晴賢に従っていたが毛利元就の計略によって晴賢に江良房栄の殺害を命じられてしまう。
- 厳島の戦いでは晴賢に罠ではないかと進言するも、聞き入られることはなくその結果として大内家は敗北した。
- 最後は晴賢を逃がすため奮戦するが力及ばず討死、晴賢も自害と相成った。
- 他家 槍足軽 1.5(?) 4/5 正兵の構え (毛利伝第二章第二話)
ふ
- 不破 光治(ふわ みつはる)
- ????年 - 1580年
- 早くから美濃国の斎藤氏に仕え西美濃四人衆と呼ばれる一人。
- 斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え緒戦に参陣する。
- 越前一向一揆平定後は柴田勝家のもとで、府中三人衆と呼ばれ活動する。
へ
- 戸次 鎮連(べっき しげつら)
- ????年 - 1586年
- 豊後国の戦国大名・大友氏家臣。大友氏庶流・戸次氏の16代当主。
- 天正13年、猶父・立花道雪が死去。いよいよ、大友氏の衰運は決定的となる。翌年、大友家加判衆となる。
- 同年、島津氏が北進して豊後国まで進出すると、鎮連は島津氏に内応したとされ(実際に内応したかは不明、
- 他の南部衆が裏切ったため、同様に疑いをかけられたとも、諌言を繰り返して義統に疎まれていたためとも)、
- 大友義統によって誅殺、もしくは自害に追い込まれた。嫡男の統連が統常に改名して跡を継いだ。
ほ
- 北条 氏舜(ほうじょう うじとし)
- ????年 - 1581年?
- 北条氏繁の長男で、母は氏康の娘の七曲殿。
- 武蔵岩付城の城代を務め、後に当主・氏政の子の北条氏房が岩付城主となると玉縄城の主となる。
- 北条 繁広(ほうじょう しげひろ)
- 1576年 - 1612年
- 北条氏繁の五男で、母は氏康の娘の七曲殿。
- 豊臣秀吉の小田原征伐では兄らとともに伊豆国・山中城で奮戦するも敗退、相模国・玉縄城で徳川家康に降伏した。
- 降伏後は一時家康に仕えたが、嫡男を失った氏勝に乞われ養子となり、兄の治める下総国・岩富城に入る。
- しかしそれを快く思わなかった家臣の一派が、氏勝の死後に秘かに家康の甥・氏重を養子に迎えて家督を相続させてしまう。
- 激怒した繁広は徳川2代将軍・秀忠に訴え出たが、翌年に急死。後に顛末を知った家康により繁広の嫡男・氏長が旗本として遇された。
- 北条 為昌(ほうじょう ためまさ)
- 1520年 - 1542年
- 北条氏綱の三男。
- 幼くして玉縄城主となるが23歳の若さで病没。家督は北条綱成が為昌の養子となる形で継いだ。
- 宝蔵院 胤栄(ほうぞういん いんえい)
- 1521年 - 1607年
- 興福寺の僧で、宝蔵院流槍術の開祖。
- 柳生宗厳と共に上泉信綱の元で剣術を学ぶ一方、大膳太夫盛忠に師事して槍術を学び、
- 「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌」と謳われる十文字槍を用いた槍術を開眼するに至る。
- 晩年は僧の身でありながら殺生の技を究めていた自身に対する悩みから槍を置き、僧としての活動に専念した。
- 保科 正之(ほしな まさゆき)
- 1611年 - 1673年
- 徳川秀忠の四男。幼名は幸松丸。
- 家康の庇護を受けていた武田信玄の次女である見性院に養育され、またその縁で旧武田家臣の信濃高遠藩主・保科正光に預けられた。
- そして正光の死に伴って家督を継ぎ、高遠藩3万石の藩主となる。
- 異母兄である徳川幕府3代将軍・家光にことのほか気に入られており、
- 出羽山形藩での白岩一揆の鎮圧の功などもあって、陸奥会津藩23万石という大身の大名に引き立てられた。
- その後も幕政・藩政に優れた手腕を発揮し、江戸初期の三大名君の一人と称されている。
- 細川 昭元(ほそかわ あきもと)
- 1548年 - 1592年
- 細川晴元の子。
- 父の没後に三好三人集と結託して足利義昭に敵対するが、三好家の没落後は義昭に臣従する。
- また足利将軍家の没落後には、管領を担ってきた名門の出身と言う事もあり
- 織田信長に重用され、信長の妹であるお犬の方を妻に娶った。
- 細川 晴元(ほそかわ はるもと)
- 1514年 - 1563年
- 如春尼の養父。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄・本願寺顕如の義兄に当たる。
- 三好長慶らの父三好元長の助けで細川京兆家の家督争いに勝利するが、直後から元長と対立する。
- 本願寺一向一揆の蜂起依頼を提言し元長を敗死させるが、長慶が離反したためその後長らく争った。
- 細川 政元(ほそかわ まさもと)
- 1466年 - 1507年
- 応仁の乱の際に東軍を率いた細川勝元の嫡男。
- 乱の最中に病死した父の後継としてわずか8歳で家督を相続し、丹波・摂津・土佐守護に就任した。
- 乱の終息後、日野富子らと結託して明応の政変を起こし、管領の畠山政長を追い落として自らが就任する。
- そして擁立した将軍を事実上の傀儡にして幕政を掌握、世に言う「京兆専制」を確立した。
- 修験道に没頭して生涯独身だったため実子はおらず、3人の養子を迎えるが後継者の指定を次々と変えたため
- 各家臣の対立が激化し、最期は実権を握ろうとした一派によって暗殺されてしまった。
- 堀 秀治(ほり ひではる)
- 1576年 - 1606年
- 堀秀政の長男。
- 幼少期に父が死去したため所領召し上げの危機に陥るが、堀直政の尽力により無事家督を相続する。
- 関ヶ原の戦いでも直政の助言に従い東軍に付くことで所領を守り抜いた。
- 本多 政重(ほんだ まさしげ)
- 1580年 - 1647年
- 本多正信の次男。
- 徳川家臣・倉橋長右衛門の養子になるが諍いを起こして出奔し、宇喜多秀家の家臣となる。
- 関ヶ原の戦いでは、秀家に従い西軍として奮戦するもあえなく敗北。
- 西軍方ではあったが臣下の立場でもあり、また徳川家重臣である正信の子でもあった為か罪には問われなかった。
- その後、父・正信への接近を図ろうとしていた直江兼続から婿養子の誘いがあり、兼続の娘・於松を娶る。
- 以降は前田家の治める加賀藩に仕え、所領の安堵に尽力した。
ま行
ま
- 町田 久倍(まちだ ひさます)
- 1553年 - 1600年
- 島津家家臣。
- 忠良・貴久・義久・義弘四代に仕え、義久・義弘の代には家老を務める。
- 豊臣秀吉の九州征伐で島津家が敗れ降伏した際には、義久の供として付き従って聚楽第へ赴いた。
- 秀吉の死後は徳川家康・石田三成の対立の中で情報収集にあたったが、関ヶ原の合戦の直前に播磨で病没した。
- 松倉 重信(まつくら しげのぶ)
- 1538年 - 1593年
- 筒井家家老。幼くして家督を継いだ順慶に仕える。
- 松倉右近の通称で知られ、島左近と並んで筒井氏の両翼と目され「右近左近」と称された。
み
- 三浦 道寸(みうら どうすん)
- 1451年 - 1516年
- 本名は三浦義同。道寸は出家名。
- 三浦家の内部分裂を制し、力で当主の座を奪い取った豪腕。
- 北条早雲に城を追われた大森藤頼を保護した事から早雲と敵対し、以後早雲にとって最強最大の宿敵となる。
- 他家 騎馬隊 2.5? 8/9 制 気 力萎えの術 (武将列伝3第七章第五話)
- 水野 忠重(みずの ただしげ)
- 1541年 - 1600年
- 水野忠政の九男で、勝成の父。
- 兄・水野信元と共に織田家に属していたが、後に兄とは不仲になり徳川家康に仕えて姉川や三方ヶ原の戦いで軍功を重ねる。
- 佐久間信盛の追放後は既に死亡していた兄の旧領を賜って再び織田家に属し、本能寺の変では信忠とともに二条城にいたが脱出。
- 以後は織田信雄→豊臣秀吉と主を変え、秀吉の死後に再び家康に従い、関ヶ原でも東軍に属するが、本戦前に西軍方の加賀井重望に暗殺された。
- 三隅 国定(みすみ くにただ)
- ????年 - 1570年
- 石見国の豪族で、陶晴賢の配下。
- 晴賢が倒された後も、勢力を広げてきた毛利元就に対し反抗を続けたが、
- 那賀星城・鷹巣城攻略戦にて毛利元氏らに討たれた。
- 三好 吉房(みよし よしふさ)
- 1522年 - 1612年
- 低い身分の生まれであったが、日秀と結婚していたことから秀吉に取り立てられ、武士として出世する。
- 長男である秀次が三好康長の養子となったことから自身も三好姓を名乗るようになる。
- 秀次が切腹となった際に連座して改易されるが、秀吉の死後に罪を許された。
も
- 毛利 幸松丸(もうり こうまつまる)
- 1515年 - 1523年
- 毛利興元の嫡男。父の病死により2歳で家督を継ぐ。
- 叔父に当たる元就や外祖父である高橋久光が後見役として実権を握っていた。
- 鏡山城の戦に従軍するが、帰還後まもなく病死。首実検に立ち合った時のショックから病に陥ったという説もある。
- 最上 義守(もがみ よしもり)
- 1521年 - 1590年
- 最上義光の父。
- 天文の乱では稙宗に付き、長谷堂城を奪還するなどして伊達家の従属状態から脱却する。
- 秀吉による小田原征伐の時期に死亡したことから、義光が遅参する原因となっている。
- 最上 義康(もがみ よしやす)
- 1575年 - 1603年
- 最上義光の嫡男。
- 英邁かつ温厚な人物であったが、家臣の讒言により父義光との仲が険悪になった。
- 程なくして家臣の手により暗殺されるが、義光は残された日記から義康の忠心を知り深く後悔する。
- しかし嫡男を失った影響は大きく、のちに後継者争いが発生して最上家は改易となった。
ゆ
- 柚木崎 正家(ゆのきざき まさいえ)
- ????年 - 1572年
- 日向伊東家家臣で、「日州一の槍突き」と呼ばれた勇将。
- 木崎原の戦いにて釣り野伏せにかかった伊東軍の殿を務め奮戦する。
- この時島津義弘を射るも義弘の愛馬・長寿院栗毛が屈んで回避したため、そのまま義弘に討ち取られた。
- 他家 足軽 2.0 7/2 正兵の構え (島津伝第一章第四話)
- 由良 国繁(ゆら くにしげ)
- 1550年 - 1611年
- 上野国の戦国大名。
- 群雄割拠の関東で生き残るため、管領上杉氏、北条氏、上杉謙信、織田信長と様々な大名の元を渡り歩いた。
- 天正11年、北条氏の戦勝祝いの茶会に出かけた際に家臣が造反し北条氏に反抗したため、そのまま小田原城に幽閉されてしまう。
- その後無事に開放されたものの領土を大きく削られてしまった事に不満を抱き、北条氏に反旗を翻したが
- 北条氏直との戦いに敗れ降伏、再び小田原城へ篭もる事になった。
- 豊臣秀吉の小田原征伐時には母の妙印尼が秀吉に与して功を挙げたため、そのまま秀吉の配下となる。
- 秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの際は江戸城の守備を任された。
よ
- 吉江 宗信(よしえ むねのぶ)
- 1505年 - 1582年
- 吉江景資の父。
- 御館の乱では景勝側に付き、織田に寝返った石黒成綱の居城・木舟状を落とすなど老齢ながら武功を上げている。
- 織田との戦いでは魚津城に籠城するものの、子の景資ともども自害した。
- 吉田 重高(よしだ しげたか)
- 1508年 - 1585年
- 吉田重政の子で吉田流弓術の継承者。
- 六角義賢へ伝授されていた家伝の返伝がなされ、日置吉田流出雲派の祖となる。
- 吉弘 統幸(よしひろ むねゆき)
- 1563年-1600年
- 豊後国の戦国大名・大友氏の家臣で屋山城城主・吉弘鎮信の子として誕生。
- 耳川の戦いで、父・鎮信が戦死すると、家督を継いだのち、衰退する大友氏の勢力挽回を目指し忠誠を尽くした。
- 朝鮮役で明将・李如松の軍旗を奪った功により豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞讃され一対の朱柄の槍を許されていた豪傑であり、
- 石垣原の戦いでは、統幸は釣り野伏せ戦術を使って鉄砲隊の攻勢で黒田軍の先鋒隊を大損害に与える獅子奮迅の活躍をするが、
- 次第に戦況が劣性に変わると、統幸は主君・大友義統に別れを告げ、残りの手勢30余騎で黒田勢に突撃。
- 七つ石において旧知の黒田家臣・井上之房に功を挙げるため、自刃して討たれたといわれる。
- 他家 槍足軽 2.0 7/5 気 不屈の構え (関ヶ原伝・九州の章 第三話)
ら行
り
- 龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)
- 1556年 - 1607年
- 龍造寺隆信の子。
- 隆信の死後に家督を継ぐが、島津の勢いは止められずに結局降伏することになる。
- 豊臣秀吉の九州征伐時にはいち早く秀吉に降って肥後32万石を安堵されるが、程なく隠居させられて実権を鍋島直茂に移されてしまった。
る
- ルイス・フロイス
- 1532年 - 1597年
- ポルトガル出身でキリスト教カトリック派の宣教師。
- 布教目的で来日後に織田信長に謁見する。当時の仏教界に失望していた信長の承認を得てキリスト教の布教を許された。
- 以後は布教活動の傍ら日本におけるイエズス会の活動記録を編纂し、「日本史」を完成させる。
- この「日本史」はキリスト教の布教史として、また日本側にとっても歴史を知る上で貴重な史料となった。
ろ
- 六角 定頼(ろっかく さだより)
- 1495年 - 1554年
- 六角義賢の父。出家していたが兄・氏綱の早世を受けて還俗し、家督を継ぐ。
- 足利将軍家の後ろ盾として三好氏と戦う、北近江の混乱に乗じて浅井家を傘下に置くなどして六角家の全盛期を築き上げた。
- 後に織田信長が取り入れたことで知られる楽市楽座を初めて導入した人物とも言われている。
- 他家 槍足軽 2.0 7/7 采配 (武将列伝3第九章第三話)
- 六角 義治(ろっかく よしはる)
- 1545年 - 1612年
- 六角義賢の嫡男。
- 後藤賢豊、壱岐守親子を殺害した「観音寺騒動」で父・義賢ともども観音寺城を追われる。
- その後、蒲生定秀、賢秀親子の尽力で観音寺城に戻るが、家督は弟の六角義貞に譲った。
最終更新:2017年02月19日 10:07