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「史実ネタ/台詞の元ネタについて」(2013/02/16 (土) 14:13:42) の最新版変更点
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*台詞の元ネタについて
//一応そのまんま元ネタがあるものだけですが…
**織田家
:『'''で、あるか'''』 (UC織田信長・SR織田信長(天下布武)・SR織田信長(三段撃ち) : 復活時・熟練度上昇時)|
「信長公記」にも度々登場し、某大河ドラマなんかでも口癖のように織田信長が多用していた言葉。
実際の信長にとっても口癖だったかは不明だが、斎藤道三との会見をした際に道三の側近から、
「是ぞ山城殿にて御座候」と道三を紹介されると「で、あるか」と返したとの記録が残っている。
また、道三はこの会見(と場所へ向かう信長の様子)から信長の非凡さを見抜き、
「わしの子らは、あのうつけの門前に馬を繋ぐことになろう」と述べたと言われている。
(門前に馬を繋ぐ=家来になることを意味する)
現代口語訳では「そうか」という素っ気無い返事であり、不躾で面倒くさそうな印象を与える。
:『'''是非も無し'''』 (SR織田信長(三段撃ち) : 撤退時)|
本能寺の変において、本能寺から逃げるよう進言した森蘭丸に対しての織田信長の返答。
「是(良し)も非(悪い)を論じる意味は無い」、転じて「もはやどうしようもない」という意味になる。
信長が明智光秀を重用しており、その実力を誰よりも知っていた。
更には襲撃に対抗でき得る戦力が無かったため、「是非も無し」と発したと予想される。
信長自ら応戦した後、本能寺に火を放ち自刃した。
上記の『で、あるか』の様に主語を用いておらず、面倒な前置きや遠回しな言い方を嫌ったとされる信長ならではの言葉といえる。
尚、本能寺だけでなく金ヶ崎の戦いで浅井家が裏切ったという報告を受け、撤退するときにもこの言葉をつぶやいたという。
:『'''死ぬときゃ死ぬのさ'''』 (SR前田慶次 : 撤退時)|
晩年、米沢にて余生を過ごした前田慶次の記した「無苦庵記」の最後に、次のような一節が在る。
>そもそもこの無苦庵は孝を勤むべき親もなければ憐むべき子も無し。
>こころは墨に染ねども、髪結がむづかしさに、つむりを剃り、手のつかひ不奉公もせず、足の駕籠かき小揚やとはず。
>七年の病なければ三年の蓬も用いず。
>雲無心にして岫を出るもまたをかし。
>詩歌に心なければ月花も苦にならず。
>寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。
>九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし。
>生きるまで生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ。
最後の一文を現代語に訳すと「生きられる分だけ生きたなら、あとは死ぬだけだろうと思っている」といったニュアンスであり、
この台詞もそれに因んだ物であると思われる。
:『'''む、報いを待て'''』 (UC織田信孝 : 撤退時)|
信孝の辞世の句より。
>昔より 主を討つ身の 野間なれば ''報いを待て''や 羽柴筑前
羽柴筑前とは羽柴秀吉のことである。
信長の死後、総大将として秀吉軍と共に明智軍を討伐する。が、清洲会議において織田氏の後継者は(秀吉が推す)甥の三法師に決まる。
その三法師を後見役として預かる。が、秀吉が突然挙兵したため降伏、預かっていた三法師も引き渡す。
賤ヶ岳の戦いでは勝家側につくが敗戦し、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。
その後自害をさせられた際に放った辞世がコレ。秀吉に対する深い恨みと激しい怒りが感じられる。
:『'''死のうは一定'''』 (SR織田信長(是非に及ばず) : 撤退時)|
信長が愛唱したと言われる小唄の一節。
>''死のうは一定''、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの
「誰しもやがては死ぬものだ。死後に語り草になる為には何をしようか。きっと後の世の人が語り継いでくれるだろう」といった意味。
:『'''敵を知り己を知れば百戦危うからず'''』 (EX竹中半兵衛 : 開幕時)|
中国古代の兵法書『孫子』の謀攻篇の一節。
>''知彼知己者、百戦不殆''、不知彼而知己、一勝一負、不知彼不知己、毎戦必殆、
「敵の事も味方の事も把握していれば、何度戦っても危地に陥ることはない。
敵の事を把握していなければ味方の事を把握していても、勝ったり負けたりする。
敵の事も味方の事も把握していなければ、戦う度に必ず危地に陥る。」という意味。
**武田家
:『'''我が死は伏せよ…'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 撤退時)|
後継者である武田勝頼を自身の最期に呼び出し言ったとされる遺言。
自身の死を三年間は秘匿にし遺骸は諏訪湖に沈めること、その三年間は戦をしないで内政に務めることなどがその詳細。
信玄死後の領内の動揺や他勢力からの侵攻を防ぐため、三年間は己の死を伏せるように遺言したとされる。
%%そもそも撤退なのだから死んではないという突っ込みは無用。%%
:『'''為せば成る'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 熟練度上昇時)&br()『'''為さねば成らぬ'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 復活時)|
武田信玄が言ったとされる格言。
>為せば成る 為さねば成らぬ 成る業(わざ)を 成らぬと捨つる 人の儚さ
意味は「やればできるし、やらなければできない。できることをできないといってやらないのは、愚かなことである。」となる。
後に第九代米沢藩主、上杉鷹山もよく似た意味の言葉を残しており、一般的にはこちらの方が知られていると思われる。
>生せば生る 成さねば生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり
発祥はいずれも中国の歴史書「書経」に書かれた「弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん)」であると考えられる。
「やれば出来る」という意味で使用されることが多いが、文章全体の意味としては「やらなければ出来ない」という意味合いのほうが強い。
「成せば成る 成さねば成らぬ」と書かれていることもあるが、これは間違いであるので注意。
(「為」は試す、「成」は成就する、という意味なので、成せば成るでは意味がおかしくなる)
:『'''徐かなること林の如く'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 虎口攻め時)&br()『'''侵掠すること火の如く'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 虎口攻め成功時)&br()『'''兵は拙速を尊ぶ'''』 (SR山本勘助 : 虎口攻め時)&br()『'''動くこと雷霆の如し'''』 (SR山本勘助 : 攻城時)&br()『'''戦いは正を以て合し、奇を以て勝つことにあり'''』 (SR山本勘助 : 落城時)&br()『'''動かざること山の如しってな'''』 (R馬場信春 : 計略使用時)|
これらの言葉は全て孫武が記した中国古代の兵法書『孫子』に記された言葉である。
「徐かなること林の如く」・「侵掠すること火の如く」・「動くこと雷霆の如し」・「動かざること山の如し」は、『孫子』軍争篇の一節。
>其疾如風、''其徐如林''、''侵掠如火''、''不動如山''、難知如陰、''動如雷震''、
「風林火山」は本来「風林火山陰雷」と言う言葉で、「知り難きこと陰の如く」「動くこと雷霆の如し」が抜けている。
何故抜けたのかの真相は未だ不明である。
「兵は拙速を尊ぶ」は、『孫子』作戦篇の一節。
>''兵聞拙速''、未睹巧之久也、
「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹(み)ざるなり」と言う言葉である。
本当に簡単に訳すと「無作為にでも迅速に行動したほうがよく、長々と技巧をこらしていてはよくない。」と言う意味である。
ちなみにこの有名な「兵は拙速を尊ぶ」という言葉が日本で初めて使われたのは、八世紀末の桓武天皇の勅書だと言われている。
(この時は蝦夷討伐軍が一ヶ月以上戦果があがらないのを難じて「兵は~」の言葉を使用している。)
「戦いは正を以て~」は、『孫子』勢篇の一節。
>凡戦者、以正合、以奇勝、
「戦いとは、正々堂々と敵に向き合い、相手の気を衒う策で勝つものだ」「正攻法と奇策を使い分けてこそ勝利できる」というような意味。
:『'''明日は瀬田に、旗を立てよ…!'''』 (SR武田信玄(瀬田に旗を) : 計略使用時)|
こちらは重臣の山県昌景や馬場信春らに後事を託した際に遺したとされる言葉。
「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」
源四郎とは山県昌景の幼名。
瀬田とは近江国(現在の滋賀県)南部の地名で、特に瀬田川周辺を指すと思われる。
琵琶湖で唯一海(大阪湾)に繋がる河川で、東西交通の要所であった。
**上杉家
:『'''運は天に、鎧は胸に、手柄は足にあり!'''』 (UC上杉謙信・SR上杉謙信 : 出撃時)|
謙信の居城・春日山城の壁に書かれた文章が元ネタ。
>''運は天に、鎧は胸に、手柄は足にあり''。
>何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。
>死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。
>家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。
>帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、
>武士たる道は不定と思うべからず。 必ず一定と思うべし
謙信の信条を表した文章として知られている。
また、群雄伝でも川中島での信玄との決戦時に、この一部をフルボイスで聞くことができる。
//**今川家
//
//**浅井朝倉家
//
**本願寺
:『'''進めば極楽、退かば地獄ぞ!'''』 (SR下間頼廉 : 計略使用時)|
:『'''進めば極楽なり'''』 (SR本願寺顕如 : 攻城時)|
:『'''進めば極楽と申します'''』 (R本願寺准如 : 攻城時)|
:『'''退かば地獄と申します'''』 (R本願寺准如 : 虎口攻め時)|
「毛利氏黄旗組軍艦旗」と呼ばれる旗に使われている言葉が元ネタと思われる。
>進者往生極楽 退者無間地獄
「戦に臨んで前進するならば(たとえ戦死してしまっても)極楽に往生し、
退いて逃げてしまえば(その場からは生き延びられてもいずれは)無間地獄に落ちる」という意味。
何千何万という一揆衆を統率し、進軍に際しての士気を鼓舞する文言であると解釈される。
「南無阿弥陀仏」と書かれた莚旗を掲げていたとも言われるが詳しい資料がないので良く分かっていない。
**北条家
:『'''勝った、勝った!'''』 (SR北条綱成 : 虎口攻め時)|
地黄八幡こと北条綱成は、戦場において先陣を切り、「勝った、勝った!」と連呼しながら突撃していたと言われている。
厳島の戦い、桶狭間の戦いと並んで有名な奇襲戦である河越夜戦でも、この台詞を連呼して味方を鼓舞したという。
**毛利家
:『'''謀多きは勝ち、少なきは負ける……それだけのことだ'''』 (UC毛利元就・SR毛利元就 : 落城時)|
嫡男隆元の家督相続の前後に、隆元に宛てた書状の一文が元ネタと思われる。
>能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、計略、調略が肝要に候。''謀多きは勝ち、少なきは負け''候と申す
人質時代の主君大内義隆に厚遇されて影響を受け、文芸遊興に耽っていたことを叱責する内容である。
:『'''文をもって治め、武をもって守る。私の理想だ。'''』 (SR毛利隆元 : 落城時)|
隆元が生前に自戒として遺したとされる言葉の一部。
江戸時代中期の長州藩藩主・毛利重就はこれを抜粋して座右の銘とした。
>''文をもって治め、武をもって守る。''功あるを賞すれば、即ち忠ある者が増える。罪をもって罰すれば、即ち咎ある者は減る。賞を行うに躊躇せず
**島津家
:『'''チェストー!'''』 (島津家の武将全般)|
タッチアクションでよく使われている鹿児島方言である。
主に気合を入れる時や、掛け声に使われている。
実は語源が諸説ありしかも定まっていないのが現状である。
:『'''無勢とて敵をあなどることなかれ、多勢と見ても恐るべからず'''』 (R島津日新斎 : 開幕時)|
島津日新斎が5年余の歳月をかけ完成させたという47首のいろは歌が元ネタ。
薩摩武士、士道教育の教典となり、薩摩藩の郷中教育の基本の精神となったもいわれる。
#region
>い いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし
>ろ 楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそはたかきいやしき
>は はかなくもあすの命をたのむかな 今日も今日もと学びをばせで
>に 似たるこそ友としよければ交らば われにます人おとなしき人
>ほ ほとけ神他にましまざず人よりも 心に恥じよ天地よく知る
>へ 下手ぞとて我とゆるすな稽古だに つもらばちりも山とことのは
>と 科ありて人をきるとも軽くすな いかす刀もただ一つなり
>ち 知恵能は身につきぬれど荷にならず 人はおもんじはずるものなり
>り 理も法もたたぬ世ぜとてひやすき 心の駒の行くにまかすな
>ぬ ぬす人はよそより入ると思うかや 耳目の門に戸ざしよくせよ
>る 流通すと貴人や君が物語り はじめて聞ける顔もちぞよき
>を 小車のわが悪業にひかされて つとむる道をうしと見るらむ
>わ 私を捨てて君にしむかわねば うらみも起こり述懐もあり
>か 学問はあしたの潮のひるまにも なみのよるこそなおしずかなれ
>よ 善きあしき人の上にて身をみがけ 友はかがみとなるものぞかし
>た 種となる心の水にまかせずば 道より外に名も流れまじ
>れ 礼するは人にするかは人をまた さぐるは人をさぐるものかは
>そ そしるにも二つあるべし大方は 主人のためになるものと知れ
>つ つらしとて恨みかえすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ
>ね ねがわずば隔てもあらじいつわりの 世にまことある伊勢の神垣
>な 名を今にのこしおきける人も人も 心も心何かおとらん
>ら 楽も苦も時すぎぬれば跡もなし 世に残る名をただおもうべし
>む 昔より道ならずしておごる身の 天のせめにしおわざるはなし
>う 憂かりける今の身こそはさきの世の おもえばいまぞ後の世ならむ
>ゐ 亥にふして寅には起くと夕霧の 身をいたずらにあらせじがため
>の のがるまじ所をかねて思いきれ 時にいたりて涼しかるべし
>お 思ほえず違うものなり身の上の 欲をはなれて義をまもれひと
>く 苦しくとすぐ道をいけ九折の 末は鞍馬のさかさまの世ぞ
>や やわらぐと怒るをいわば弓と筆 鳥と二つのつばさとを知れ
>ま 万能も一心とあり事ふるに 身ばしたのむな思案堪忍
>け 賢不肖用い捨るつという人も 必ずならば殊勝なるべし
>ふ &b(){無勢とて敵をあなどることなかれ 多勢と見ても恐れずべからず}
>こ 心こそ軍する身の命なれ そろゆれば生きそろわねば死ぬ
>え 回向には我と人とをへだつなよ 看経はよししてもせずとも
>て 敵となる人こそはわが師匠ぞと おもいかえして身をもたしなめ
>あ あきらけき目も呉竹のこの世より 迷わばいかに後のやみぢは
>さ 酒も水ながれも酒となるぞかし ただなさけあれ君がことの葉
>き 聞くことも又見ることも心がら 皆まよいなりみな悟りなり
>ゆ 弓を得て失うことも大将の 心一つの手をばはなれず
>め めぐりては我身にこそは事えけれ 先祖のまつり忠孝の道
>み 道にただ身をば捨てんと思いとれ かならず天のたすけあるべし
>し 舌だにも歯のこわきをば知るものを 人はこころのなからましやは
>ゑ 酔える世をさましもやらでさかずきに 無明の酒をかさむるはうし
>ひ ひとり身あわれと思え物毎に 民にはゆるすこころあるべし
>も もろもろの国や所の政道は 人にまずよく教えならわせ
>せ 善にうつり過れるをば改めよ 義不義は生まれつかぬものなり
>す 少しを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく十六夜の空
#endregion
**他家
:『'''人は一代、名は末代なり'''』 (SR長野業正 : 計略使用時)|
「人は一代、名は末代」という故事の一つ。
人の肉体は1代で滅びるが、その名や行いは善行であろうが悪行であろうが後世まで残り続けるという意味。
実際の業正も同じ事を言ったかは不明だが、彼の名や業績は今に至るまで語り継がれている。
:『'''わが恋は、三島の浦の'''』 (BSS大祝鶴姫 : 撤退時)|
鶴姫伝説で知られる鶴姫の辞世の句の上の句。
>''わが恋は'' ''三島の浦の'' うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ
16歳にして陣代として出陣し活躍、2年後の大内氏との戦いでも勝利を収めたが、
討死した兄・大祝安房や恋人・越智安成を想い、18歳の若さで入水自殺したと伝えられる。
:『'''月よ、俺に七難八苦を与えろ!'''』 (SR山中鹿之助 : 裏テキスト、計略使用時)|
講談などで有名な尼子家再興に燃える鹿之助が三日月に祈った内容の現代語アレンジである。
本人の言葉によると「自らの成長を苦難によって試したいのだ」という意味であるらしい。
なお、正確な原文は「''三日月よ、願わくば我に七難八苦を与えたまえ''」である。
:『'''今一度、最上の土を'''』 (SR最上義光 : 撤退時)|
秀吉の朝鮮出兵の際、義光は朝鮮出兵の駐屯地、名護屋(現在の佐賀県唐津市)での物資輸送の任に就いていた。
何時秀吉から異国の地への出兵の命が下されるか分からない不安の中、義光は望郷の思いを綴った手紙を家臣に送っている。
>いのちのうちに''今一度、最上の土を''踏み申したく候。水を一杯飲みたく候
|編集が苦手な方はこちらへ訂正指摘・情報提供をお願いします。|
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*台詞の元ネタについて
//一応そのまんま元ネタがあるものだけですが…
**織田家
:『'''で、あるか'''』 (UC織田信長・SR織田信長(天下布武)・SR織田信長(三段撃ち) : 復活時・熟練度上昇時)|
「信長公記」にも度々登場し、某大河ドラマなんかでも口癖のように織田信長が多用していた言葉。
実際の信長にとっても口癖だったかは不明だが、斎藤道三との会見をした際に道三の側近から、
「是ぞ山城殿にて御座候」と道三を紹介されると「で、あるか」と返したとの記録が残っている。
また、道三はこの会見(と場所へ向かう信長の様子)から信長の非凡さを見抜き、
「わしの子らは、あのうつけの門前に馬を繋ぐことになろう」と述べたと言われている。
(門前に馬を繋ぐ=家来になることを意味する)
現代口語訳では「そうか」という素っ気無い返事であり、不躾で面倒くさそうな印象を与える。
:『'''是非も無し'''』 (SR織田信長(三段撃ち) : 撤退時)|
本能寺の変において、本能寺から逃げるよう進言した森蘭丸に対しての織田信長の返答。
「是(良し)も非(悪い)を論じる意味は無い」、転じて「もはやどうしようもない」という意味になる。
信長が明智光秀を重用しており、その実力を誰よりも知っていた。
更には襲撃に対抗でき得る戦力が無かったため、「是非も無し」と発したと予想される。
信長自ら応戦した後、本能寺に火を放ち自刃した。
上記の『で、あるか』の様に主語を用いておらず、面倒な前置きや遠回しな言い方を嫌ったとされる信長ならではの言葉といえる。
尚、本能寺だけでなく金ヶ崎の戦いで浅井家が裏切ったという報告を受け、撤退するときにもこの言葉をつぶやいたという。
:『'''死ぬときゃ死ぬのさ'''』 (SR前田慶次 : 撤退時)|
晩年、米沢にて余生を過ごした前田慶次の記した「無苦庵記」の最後に、次のような一節が在る。
>そもそもこの無苦庵は孝を勤むべき親もなければ憐むべき子も無し。
>こころは墨に染ねども、髪結がむづかしさに、つむりを剃り、手のつかひ不奉公もせず、足の駕籠かき小揚やとはず。
>七年の病なければ三年の蓬も用いず。
>雲無心にして岫を出るもまたをかし。
>詩歌に心なければ月花も苦にならず。
>寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。
>九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし。
>生きるまで生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ。
最後の一文を現代語に訳すと「生きられる分だけ生きたなら、あとは死ぬだけだろうと思っている」といったニュアンスであり、
この台詞もそれに因んだ物であると思われる。
:『'''む、報いを待て'''』 (UC織田信孝 : 撤退時)|
信孝の辞世の句より。
>昔より 主を討つ身の 野間なれば ''報いを待て''や 羽柴筑前
羽柴筑前とは羽柴秀吉のことである。
信長の死後、総大将として秀吉軍と共に明智軍を討伐する。が、清洲会議において織田氏の後継者は(秀吉が推す)甥の三法師に決まる。
その三法師を後見役として預かる。が、秀吉が突然挙兵したため降伏、預かっていた三法師も引き渡す。
賤ヶ岳の戦いでは勝家側につくが敗戦し、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。
その後自害をさせられた際に放った辞世がコレ。秀吉に対する深い恨みと激しい怒りが感じられる。
:『'''死のうは一定'''』 (SR織田信長(是非に及ばず) : 撤退時)|
信長が愛唱したと言われる小唄の一節。
>''死のうは一定''、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの
「誰しもやがては死ぬものだ。死後に語り草になる為には何をしようか。きっと後の世の人が語り継いでくれるだろう」といった意味。
:『'''敵を知り己を知れば百戦危うからず'''』 (EX竹中半兵衛 : 開幕時)|
中国古代の兵法書『孫子』の謀攻篇の一節。
>''知彼知己者、百戦不殆''、不知彼而知己、一勝一負、不知彼不知己、毎戦必殆、
「敵の事も味方の事も把握していれば、何度戦っても危地に陥ることはない。
敵の事を把握していなければ味方の事を把握していても、勝ったり負けたりする。
敵の事も味方の事も把握していなければ、戦う度に必ず危地に陥る。」という意味。
**武田家
:『'''我が死は伏せよ…'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 撤退時)|
後継者である武田勝頼を自身の最期に呼び出し言ったとされる遺言。
自身の死を三年間は秘匿にし遺骸は諏訪湖に沈めること、その三年間は戦をしないで内政に務めることなどがその詳細。
信玄死後の領内の動揺や他勢力からの侵攻を防ぐため、三年間は己の死を伏せるように遺言したとされる。
%%そもそも撤退なのだから死んではないという突っ込みは無用。%%
:『'''為せば成る'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 熟練度上昇時)&br()『'''為さねば成らぬ'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 復活時)|
武田信玄が言ったとされる格言。
>為せば成る 為さねば成らぬ 成る業(わざ)を 成らぬと捨つる 人の儚さ
意味は「やればできるし、やらなければできない。できることをできないといってやらないのは、愚かなことである。」となる。
後に第九代米沢藩主、上杉鷹山もよく似た意味の言葉を残しており、一般的にはこちらの方が知られていると思われる。
>生せば生る 成さねば生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり
発祥はいずれも中国の歴史書「書経」に書かれた「弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん)」であると考えられる。
「やれば出来る」という意味で使用されることが多いが、文章全体の意味としては「やらなければ出来ない」という意味合いのほうが強い。
「成せば成る 成さねば成らぬ」と書かれていることもあるが、これは間違いであるので注意。
(「為」は試す、「成」は成就する、という意味なので、成せば成るでは意味がおかしくなる)
:『'''徐かなること林の如く'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 虎口攻め時)&br()『'''侵掠すること火の如く'''』 (UC武田信玄・SR武田信玄 : 虎口攻め成功時)&br()『'''兵は拙速を尊ぶ'''』 (SR山本勘助 : 虎口攻め時)&br()『'''動くこと雷霆の如し'''』 (SR山本勘助 : 攻城時)&br()『'''戦いは正を以て合し、奇を以て勝つことにあり'''』 (SR山本勘助 : 落城時)&br()『'''動かざること山の如しってな'''』 (R馬場信春 : 計略使用時)|
これらの言葉は全て孫武が記した中国古代の兵法書『孫子』に記された言葉である。
「徐かなること林の如く」・「侵掠すること火の如く」・「動くこと雷霆の如し」・「動かざること山の如し」は、『孫子』軍争篇の一節。
>其疾如風、''其徐如林''、''侵掠如火''、''不動如山''、難知如陰、''動如雷震''、
「風林火山」は本来「風林火山陰雷」と言う言葉で、「知り難きこと陰の如く」「動くこと雷霆の如し」が抜けている。
何故抜けたのかの真相は未だ不明である。
「兵は拙速を尊ぶ」は、『孫子』作戦篇の一節。
>''兵聞拙速''、未睹巧之久也、
「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹(み)ざるなり」と言う言葉である。
本当に簡単に訳すと「無作為にでも迅速に行動したほうがよく、長々と技巧をこらしていてはよくない。」と言う意味である。
ちなみにこの有名な「兵は拙速を尊ぶ」という言葉が日本で初めて使われたのは、八世紀末の桓武天皇の勅書だと言われている。
(この時は蝦夷討伐軍が一ヶ月以上戦果があがらないのを難じて「兵は~」の言葉を使用している。)
「戦いは正を以て~」は、『孫子』勢篇の一節。
>凡戦者、以正合、以奇勝、
「戦いとは、正々堂々と敵に向き合い、相手の気を衒う策で勝つものだ」「正攻法と奇策を使い分けてこそ勝利できる」というような意味。
:『'''明日は瀬田に、旗を立てよ…!'''』 (SR武田信玄(瀬田に旗を) : 計略使用時)|
こちらは重臣の山県昌景や馬場信春らに後事を託した際に遺したとされる言葉。
「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」
源四郎とは山県昌景の幼名。
瀬田とは近江国(現在の滋賀県)南部の地名で、特に瀬田川周辺を指すと思われる。
琵琶湖で唯一海(大阪湾)に繋がる河川で、東西交通の要所であった。
**上杉家
:『'''運は天に、鎧は胸に、手柄は足にあり!'''』 (UC上杉謙信・SR上杉謙信 : 出撃時)|
謙信の居城・春日山城の壁に書かれた文章が元ネタ。
>''運は天に、鎧は胸に、手柄は足にあり''。
>何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。
>死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。
>家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。
>帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、
>武士たる道は不定と思うべからず。 必ず一定と思うべし
謙信の信条を表した文章として知られている。
また、群雄伝でも川中島での信玄との決戦時に、この一部をフルボイスで聞くことができる。
//**今川家
//
//**浅井朝倉家
//
**本願寺
:『'''進めば極楽、退かば地獄ぞ!'''』 (SR下間頼廉 : 計略使用時)|
:『'''進めば極楽なり'''』 (SR本願寺顕如 : 攻城時)|
:『'''進めば極楽と申します'''』 (R本願寺准如 : 攻城時)|
:『'''退かば地獄と申します'''』 (R本願寺准如 : 虎口攻め時)|
「毛利氏黄旗組軍艦旗」と呼ばれる旗に使われている言葉が元ネタと思われる。
>進者往生極楽 退者無間地獄
「戦に臨んで前進するならば(たとえ戦死してしまっても)極楽に往生し、
退いて逃げてしまえば(その場からは生き延びられてもいずれは)無間地獄に落ちる」という意味。
何千何万という一揆衆を統率し、進軍に際しての士気を鼓舞する文言であると解釈される。
「南無阿弥陀仏」と書かれた莚旗を掲げていたとも言われるが詳しい資料がないので良く分かっていない。
**北条家
:『'''勝った、勝った!'''』 (SR北条綱成 : 虎口攻め時)|
地黄八幡こと北条綱成は、戦場において先陣を切り、「勝った、勝った!」と連呼しながら突撃していたと言われている。
厳島の戦い、桶狭間の戦いと並んで有名な奇襲戦である河越夜戦でも、この台詞を連呼して味方を鼓舞したという。
**毛利家
:『'''謀多きは勝ち、少なきは負ける……それだけのことだ'''』 (UC毛利元就・SR毛利元就 : 落城時)|
嫡男隆元の家督相続の前後に、隆元に宛てた書状の一文が元ネタと思われる。
>能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、計略、調略が肝要に候。''謀多きは勝ち、少なきは負け''候と申す
人質時代の主君大内義隆に厚遇されて影響を受け、文芸遊興に耽っていたことを叱責する内容である。
:『'''文をもって治め、武をもって守る。私の理想だ。'''』 (SR毛利隆元 : 落城時)|
隆元が生前に自戒として遺したとされる言葉の一部。
江戸時代中期の長州藩藩主・毛利重就はこれを抜粋して座右の銘とした。
>''文をもって治め、武をもって守る。''功あるを賞すれば、即ち忠ある者が増える。罪をもって罰すれば、即ち咎ある者は減る。賞を行うに躊躇せず
**島津家
:『'''チェストー!'''』 (島津家の武将全般)|
タッチアクションでよく使われている鹿児島方言である。
主に気合を入れる時や、掛け声に使われている。
実は語源が諸説ありしかも定まっていないのが現状である。
:『'''無勢とて敵をあなどることなかれ、多勢と見ても恐るべからず'''』 (R島津日新斎 : 開幕時)|
島津日新斎が5年余の歳月をかけ完成させたという47首のいろは歌が元ネタ。
薩摩武士、士道教育の教典となり、薩摩藩の郷中教育の基本の精神となったもいわれる。
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>い いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし
>ろ 楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそはたかきいやしき
>は はかなくもあすの命をたのむかな 今日も今日もと学びをばせで
>に 似たるこそ友としよければ交らば われにます人おとなしき人
>ほ ほとけ神他にましまざず人よりも 心に恥じよ天地よく知る
>へ 下手ぞとて我とゆるすな稽古だに つもらばちりも山とことのは
>と 科ありて人をきるとも軽くすな いかす刀もただ一つなり
>ち 知恵能は身につきぬれど荷にならず 人はおもんじはずるものなり
>り 理も法もたたぬ世ぜとてひやすき 心の駒の行くにまかすな
>ぬ ぬす人はよそより入ると思うかや 耳目の門に戸ざしよくせよ
>る 流通すと貴人や君が物語り はじめて聞ける顔もちぞよき
>を 小車のわが悪業にひかされて つとむる道をうしと見るらむ
>わ 私を捨てて君にしむかわねば うらみも起こり述懐もあり
>か 学問はあしたの潮のひるまにも なみのよるこそなおしずかなれ
>よ 善きあしき人の上にて身をみがけ 友はかがみとなるものぞかし
>た 種となる心の水にまかせずば 道より外に名も流れまじ
>れ 礼するは人にするかは人をまた さぐるは人をさぐるものかは
>そ そしるにも二つあるべし大方は 主人のためになるものと知れ
>つ つらしとて恨みかえすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ
>ね ねがわずば隔てもあらじいつわりの 世にまことある伊勢の神垣
>な 名を今にのこしおきける人も人も 心も心何かおとらん
>ら 楽も苦も時すぎぬれば跡もなし 世に残る名をただおもうべし
>む 昔より道ならずしておごる身の 天のせめにしおわざるはなし
>う 憂かりける今の身こそはさきの世の おもえばいまぞ後の世ならむ
>ゐ 亥にふして寅には起くと夕霧の 身をいたずらにあらせじがため
>の のがるまじ所をかねて思いきれ 時にいたりて涼しかるべし
>お 思ほえず違うものなり身の上の 欲をはなれて義をまもれひと
>く 苦しくとすぐ道をいけ九折の 末は鞍馬のさかさまの世ぞ
>や やわらぐと怒るをいわば弓と筆 鳥と二つのつばさとを知れ
>ま 万能も一心とあり事ふるに 身ばしたのむな思案堪忍
>け 賢不肖用い捨るつという人も 必ずならば殊勝なるべし
>ふ &b(){無勢とて敵をあなどることなかれ 多勢と見ても恐れずべからず}
>こ 心こそ軍する身の命なれ そろゆれば生きそろわねば死ぬ
>え 回向には我と人とをへだつなよ 看経はよししてもせずとも
>て 敵となる人こそはわが師匠ぞと おもいかえして身をもたしなめ
>あ あきらけき目も呉竹のこの世より 迷わばいかに後のやみぢは
>さ 酒も水ながれも酒となるぞかし ただなさけあれ君がことの葉
>き 聞くことも又見ることも心がら 皆まよいなりみな悟りなり
>ゆ 弓を得て失うことも大将の 心一つの手をばはなれず
>め めぐりては我身にこそは事えけれ 先祖のまつり忠孝の道
>み 道にただ身をば捨てんと思いとれ かならず天のたすけあるべし
>し 舌だにも歯のこわきをば知るものを 人はこころのなからましやは
>ゑ 酔える世をさましもやらでさかずきに 無明の酒をかさむるはうし
>ひ ひとり身あわれと思え物毎に 民にはゆるすこころあるべし
>も もろもろの国や所の政道は 人にまずよく教えならわせ
>せ 善にうつり過れるをば改めよ 義不義は生まれつかぬものなり
>す 少しを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく十六夜の空
#endregion
**他家
:『'''人は一代、名は末代なり'''』 (SR長野業正 : 計略使用時)|
「人は一代、名は末代」という故事の一つ。
人の肉体は1代で滅びるが、その名や行いは善行であろうが悪行であろうが後世まで残り続けるという意味。
実際の業正も同じ事を言ったかは不明だが、彼の名や業績は今に至るまで語り継がれている。
:『'''わが恋は、三島の浦の'''』 (BSS大祝鶴姫 : 撤退時)|
鶴姫伝説で知られる鶴姫の辞世の句の上の句。
>''わが恋は'' ''三島の浦の'' うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ
16歳にして陣代として出陣し活躍、2年後の大内氏との戦いでも勝利を収めたが、
討死した兄・大祝安房や恋人・越智安成を想い、18歳の若さで入水自殺したと伝えられる。
:『'''月よ、俺に七難八苦を与えろ!'''』 (SR山中鹿之助 : 裏テキスト、計略使用時)|
講談などで有名な尼子家再興に燃える鹿之助が三日月に祈った内容の現代語アレンジである。
本人の言葉によると「自らの成長を苦難によって試したいのだ」という意味であるらしい。
なお、正確な原文は「''三日月よ、願わくば我に七難八苦を与えたまえ''」である。
:『'''今一度、最上の土を'''』 (SR最上義光 : 撤退時)|
秀吉の朝鮮出兵の際、義光は朝鮮出兵の駐屯地、名護屋(現在の佐賀県唐津市)での物資輸送の任に就いていた。
何時秀吉から異国の地への出兵の命が下されるか分からない不安の中、義光は望郷の思いを綴った手紙を家臣に送っている。
>いのちのうちに''今一度、最上の土を''踏み申したく候。水を一杯飲みたく候
:『'''大将は扇の要……俺が崩れるわけにはいかん'''』 (SR最上義光 : 落城時)|
義光は常々、大将と部下の関係について以下のように例えていたという。
>大将と士卒は扇のようなものであり、要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ
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