041 デレノート後編

その日、学校に着いた俺は、異様な光景を目にすることになった――

教室、廊下、階段……校舎の至るところでカップルがいちゃついていたのだ。
ある者は頬を寄せ抱き合い、ある者はパートナーを膝に乗せ語らい、またある者は――
いや、具体的に文字にするのは憚られる……まぁ、そんな具合だ。
一緒に登校した麻奈実も、目をぱちくりさせている。

「なんだか……みんなすごく仲良しになっちゃってるね……」
「ど、どうなってるんだ……これはまるで――」

キラッの呪いじゃないか、と、俺は麻奈実に聞こえないぐらいの小声で呟いた。

教室に入って自席に着くと、ちょうど教室の出入り口に黒猫の姿が見えた。
駆け寄る俺を見て、黒猫は安心したようにほっと息をつく。

「どうやら先輩は無事のようね」

一年生の黒猫が俺の教室までわざわざ来るのは珍しい。
今はそれほどの異常事態ってことだ。

「こりゃ、一体どうなっているんだ?」
「一年生のクラスでもカップルが急増していて、ここに来る途中に覗いた二年生の階も似たような感じだったわ」
「なぁ、これってやはり……」
「ええ、どう考えてもキラッの仕業よ。ついに再開したようね」

黒猫は廊下の窓から外を眺めながら言った。
俺がそれに倣って外の様子に目をやると、そこには何組かのカップルが仲睦まじく寄り添っている様子が見てとれた。
クッ……あいつら屋外でまで……

「それにしても……これは酷い……」

以前にも、うちの学校にはキラッの呪いを受けたと思われる何組かのカップルがいた。
だが今日の状況は、あまりにも規模が大きく、なによりそのカップルの“性質”がまるっきり違っていた。

「あの莫迦女、まさか新しいジャンルのエロゲに手を出したのかしら」
「まさかな……。しかし酷い光景だ」
「ええ、凄まじいわね……」


「なぜ男同士で――」


そう、学校内で繰り広げられているカップル達の睦み合い――それはいずれも男同士のものだったのだ。

「とりあえず教室に戻るわ。また昼休みに」

そう言い残し、黒猫は自分のクラスへと戻って行った。
それと入れ替わるように、ちょうど登校してきたクラスメイトの赤城浩平が俺に話しかけてきた。

「おいおい高坂、なんか学校の雰囲気がおかしくねえか?急にホモっぽくなってるぞあいつ等」

念のため、俺は赤城をまじまじと観察する。
うむ、どうやらこいつは呪いに掛かっていないようだ。

「ああ、俺が来たときにはもうこの状態だった」
「な、なんておぞましい光景だ……」

赤城は辺りを見回して青ざめている。
家庭の事情で、俺なんかよりよっぽどホモに耐性のあるこいつがこの反応なのだから、
今の状況がどれだけ異様かってことは、“推して知るべし”だろう……

その日の昼休み――

俺は教室を飛び出すと、一目散に部室へと向かう。
部室の戸を開けると、すでに中では黒猫がパソコンに向かっていた。
俺は黒猫の隣に腰掛ける。

「なぁ、今日のこの状況、キラッだとしても何かおかしいと思わねぇか?」
「――先輩、その前にちょっとこれを見て」

黒猫は俺の問いには答えず、パソコンのモニタを指差す。
そこにはいつもの“呪いの掲示板”のスレッドが映し出されていた。



299 :学校の名無しさん:2011/03/10(木) 08:47:37
県立千葉弁展高だけど、今朝から校内がホモカップルだらけになってる!
キラッがやったのか・・・?

300 :学校の名無しさん:2011/03/10(木) 09:07:11
同じく
やばいこわい

301 :学校の名無しさん:2011/03/10(木) 09:31:39
アッー!

302 :学校の名無しさん:2011/03/10(木) 10:01:00
俺も千葉弁展高校
何が何だかわからない……

303 :学校の名無しさん:2011/03/10(木) 10:03:56
すまないがホモ以外は(AA略

304 :学校の名無しさん:2011/03/10(木) 10:19:22
俺のダチがなぜかホモになってしまった@千葉弁展
ここの奴のせいか?答えろよ!!

303 :学校の名無しさん:2011/03/10(木) 10:24:04
俺もホモにされたらどうしよう(((;゚д゚)))


 


「これは……うちの学校の奴らが書き込んだのか?」
「ええ、おそらく学校から、携帯で書き込んだのでしょうね。
  ただ気になるのは、うち以外の学校からの報告が今のところない点……」
「そういえばそうだな……」

いままでも呪いの影響範囲の偏りはあったが、それはキラッ――つまり桐乃が
身近な対象に呪いを掛けていた当初のことだ。
そのときは桐乃の中学校を中心にカップルが量産されていたのだが……

「それと、以前のように掲示板でカップル化の依頼を受けるやり方ではないわね。
今日起きているカップル化は、キラッ自らの判断で行っているみたい」
「そうだな、キラッを名乗る書き込みは相変わらず無いようだし……」

あの自己顕示欲の強い奴が、ホームグラウンドとも言うべきこの掲示板をシカトして
黙々とカップル化を進めるだろうか?
それになんといっても、新たに呪いを掛けられた連中は、ことごとく男同士でカップルになっている。
あいつにそんな趣味があったとは思えないのだが……一体どうしちまったんだ?

「逆に女同士のカップルがいるわけではないし、どうやら意図して男同士のカップルを作っているようね」

ハァ……
あいつ、マジでホモゲーとかに手を出したんじゃないだろうな?
絶対にありえないと言い切れないところが、兄として情けないぜ……

俺は独り言のように、ぼそっと呟いた。

「……これ、本当にあいつの仕業なのかな」

そういう言い方をしたのは、桐乃=キラッ説を未だに受け入れられない往生際の悪い兄、という風に
受け取られたくなかったからだ。
まぁもちろん、俺の呟きに対する黒猫の反応を待っていたのだけど。

「そうね、私も疑問に思ってるわ。手口があまりにも違うから……まるで別人になったような……」

そこまで言って、黒猫は口をつぐみ、考え込んでしまった。
どうやら黒猫も俺と同じことを考えているようだ。

少なくともこの無差別なホモカップル化を、桐乃がやってるとは思えない。
もし本当にうちの高校だけで起きている現象なのだとしたら、いつものような名前や顔写真のタレコミも無しで、
桐乃の奴がうちの生徒達を把握できるはずが無いからだ。
今、カップル化を行っているのは桐乃ではない。それが今回の推理の大前提になる。

じゃあ、誰がやっているのか?
こんなことできる奴が、桐乃以外にもいるのだろうか?
桐乃のように、ある日突然能力を身に付けたのか? それは誰から、どうやって?
……そう考えると、どうしてもそこで推理が行き詰ってしまう。
なぜなら、俺達は“呪い”のシステムについて、あまりにも無知だからだ。
どんな方法で呪いを掛けているのか、どのような条件が必要なのか、どうやってそれを会得するのか……等々。

しばらく黙り込んでいた黒猫も、同じ結論に辿り着いたようだ。

「やはり魅了<チャーム>の呪いについて知らなければ、どんなに推理を巡らせても結論は出ないわね」
「そうだな、同感だ」

だが、どうやって……
目の前で呪いを掛けてもらえれば話は早いが、そんなことは不可能だろう。
そうだな、ここは黒猫の妙案に期待したいところだ。

「そうね、先輩。 こうなったら――」

黒猫は俺の瞳をまっすぐに見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
こういう時のこいつは、俺には思いつかないような素晴らしいアイデアを練り出してくれる。
俺も一緒に不敵な笑みを浮かべ、黒猫の次の言葉を待った。

「――あの女の部屋に忍び込んで、なにか呪いの痕跡を見付けてきて頂戴」

うおおおおおおい!!
俺は思わず椅子からずり落ちてしまった。

「期待したのにっ! 何だよその大雑把な作戦はよ!」

ずっと慎重にコトを運んでいたというのに、いまさら家捜しとか……それって思いっきり本末転倒じゃないか!?

「しょ、しょうがないでしょ。もう他に手が無いのだから」
「そうだけどさぁ……俺に妹の部屋に忍び込めってのかよ……」
「いままでは悠長に構えていたけれど、キラッの無差別攻撃が始まったからにはやむを得ないわ。
  先輩だっていつターゲットになるかも知れないのよ?」
「ターゲットって?」
「つまり……その……貴方もホモカップルの片割れに……」

クッ、なんて嫌なことを言いやがる……
俺は渋々、この高難度かつ不名誉なミッションを拝領することになってしまった。

 
◇ ◇ ◇


「……桐乃、なんだか元気ないね?」

学校の帰り道、あたしの腕に両手を絡めて歩くあやせが、心配そうに顔を覗き込んできた。
ちなみに反対の腕には加奈子がひっついている。
二人がデレ状態になってからというもの、すっかりおなじみの下校スタイルだ。

「ううん、別にそんなことないよ」

そう答えつつも、あたしは自然とため息をついていた。
はぁ……、デレノートのことを考えると、どうしても憂鬱な気持ちになってしまう。
あんな危険なノートをあたし以外の人間が使うだなんて…… マジやばすぎるでしょ……
一応、ノートを渡す条件として、あたしやあたしの家族には手を出さないよう約束をさせたけど、
そんな約束が気休めにすぎないのは分かってる。
とにかく、なんとかしてノートを取り返さないと……

「桐乃っ、悩み事があるなら加奈子に相談しろよな」
「あっ、ずるい加奈子!桐乃、わたしに相談してっ!」

そういうと、あやせも加奈子も争うように強くしがみついてきた。
二人は相変わらずだ。

帰宅してカバンを放り投げると、あたしは着替えもせずベッドに横になった。
はぁ、ホントどうしたらいいのかな……
ごろんと寝返りを打つと、帰るなりそそくさとノーパソを立ち上げるリュークが目に入った。

「ねぇ、あたしどうしたらいいと思う……?」
『ん?すっかりお手上げ状態か?ククク……』

そう言うと、リュークは頬まで裂けた口を吊り上げ、嫌らしい笑みを浮かべた。
どうやらこいつは、デレノートがどこに行こうとあまり気にしてないみたい。

「……ってか、あんたはノートの持ち主のところに行かなくていいの?」
『そうは言っても、俺にだってノートがどこの誰の元にあるのか分からないしな』

あの日、あたしはノートを郵送で送ったけど、指定された宛先は局留めだったので、相手の住所は分からなかった。
おそらく宛名も偽名なのだろう。

『それに、デレノートの所有権はまだお前にある。だから俺がここに居るんだ』
「なによ?所有権って」
『ノートの持ち主はお前だってことだ。つまり、いまは他人に預けているような状態だな』
「じゃあ、たとえばさ、所有者の権限でノートを呼び戻したりできないの?念じたら瞬間移動してくるとかさ」
『そんな便利なシステムはない。……お前はアニメの見過ぎだな』

それじゃ所有権なんて何のメリットもないじゃん。
やっぱりこいつは頼りにならないなぁ……
ノーパソが起動したらしく、リュークはもう画面に釘付けになっている。

しばらくすると、携帯の着信音が鳴り響いた。
携帯のディスプレイには、いつものように“非通知通話”の文字。ああ、またか……
あたしは着信ボタンを押し、気だるそうな声で応えた。

「もしもし、またアンタぁ?」
『ちょっとちょっと、桐乃ちゃん聞いてよー!またカップル作ったんだけどさぁ――』

聞こえてくるのは相変わらず不愉快なボイスチェンジャーの声。
そう、電話の相手はあたしからデレノートを奪った張本人だ。
妙なことに、こいつはあれから毎日電話を掛けてきている。

『――なんか皆おとなし過ぎて物足りないのよ。なんていうか、ナヨナヨしたカップルばかりで。
  あたしはもっとガツガツした男と男の熱いぶつかり合いを期待してたのに!』
「……デレにするノートなんだから、ガツガツってのはちょっと違うんじゃない?」
『えーっ?デレってそういうものだったっけ?』

こいつ、最初の電話のときから随分キャラが変わってきたような……

「ってか、なんで電話してくるのよ。あたしを脅迫してノート奪ったって自覚はないの?」
『えーっ、だってこんな話ができるのは桐乃ちゃんしか居ないし』

“桐乃ちゃん”って……馴れ馴れしい……
完全に舐められてるわね……

しかもこいつは、よりによって男同士でカップルを作っているらしい。
クッ……、あたしはとんでもない変態にデレノートを渡してしまった……胸が痛むわ。

『ねぇ、これって“攻め”とか“受け”とか指定できないの?』
「……そんな使い方したことないから分かんないよ」

リュークに聞いたら何か教えてくれるかもしれないけど、面倒だし、敢えてそれはしなかった。
こいつにはまだデレ神の存在は伝えていない。
別に隠そうとしたわけじゃなくて、特にノート入手の経緯を聞かれたことがなかったからなんだけど。

『なんだか期待したほど便利なノートじゃなかったなぁ~』

人から無理やりノートを奪っておいてこの言い草、大したタマだわこの女。

「アンタさぁ、ノートに飽きたならもう返してよ」
『そうはいかないわよ。これはもうあたしのノートなんだし、これからもカップルを作るんだから』
「……と、とにかく、あの約束はちゃんと守りなさいよね?」
『はいはい、分かってるわよ』

あたし達は、いつも最後にこんなやり取りを交わしてから電話を切る。
約束ってのは、“あたしやあたしの家族に手を出すな”ってコトなんだけど、向こうすれば律儀に約束を守る意味などない。
むしろ、ノートの秘密を知る邪魔者として、いつあたしが口封じにデレさせられるか分かったもんじゃないし。

はぁ、ホントなんとかしなくちゃ……
このままじゃマズいよね……

 
◇ ◇ ◇


黒猫から指令を受けた俺は、不本意ながら桐乃の部屋に忍び込むハメになってしまった。
はっきり言って、こんなやり方は俺のポリシーに反している。
かつて親父による桐乃部屋の家捜しを、身体を張って阻止したこともあるってのに……
まぁ、いま起きてるカップル騒動――しかもホモカップル騒動――は確かにシャレにならないから、
やむを得ないこと……それは理解している。
重要なのは、桐乃に絶対気付かれないようにしないといけないってことだ。
万一バレたら、俺まで呪いを掛けられる恐れがあるからだ……信じたくないことだけど。

夜、俺はいつもより少し早めにベッドに入って横になった。

俺の作戦はこうだ。
桐乃の奴は、いつも俺よりも30分~1時間ぐらい早く登校をする。
俺は普段よりちょっと早めに起きておいて、桐乃が家を出るのを待って部屋に忍び込み、ガサ入れを遂行する。
うむ、実にシンプルな作戦である。
桐乃が確実に家を出たのを確認するってのと、部屋に入った痕跡を残さないようにする、
その点を気をつければきっと大丈夫だろう。

許せ妹よ、俺には大義があるのだ――

そんなことを考えながら、俺はいつの間にか眠りについていた。

そしてその日の深夜――

バチン!

すっかり熟睡していた俺は、突然の頬の痛みで目を覚ました。
な、何だ!?どうやら平手打ちを食らったらしいが……
俺は寝起きの鈍い頭で状況を把握しようと努める。

「……っ!?」

起き上がろうとするが、腹部に重みを感じて起き上がれない。
と、そこで俺は目を見張った。
いま俺の上では、パジャマ姿の桐乃が四つん這いの状態で、顔を接近させて覆いかぶさっていたのだ。

「って、おまえ……またかよ!?」
「……静かにしてってば。いま何時だと思ってんの?」

このシチュエーションは、以前にも覚えがある。
そう、こいつが初めて俺に人生相談を持ちかけたときのこと。
同じように深夜に襲撃を受けて、半ば強制的に部屋に連行の上、とんでもないカミングアウトを受けたんだ。

「アンタに、また……人生相談があるからさ」

桐乃はベッドを降り、音を立てないよう静かに部屋のドアを開けると、犬でも呼ぶように指で手招きをした。
どうやらまた、俺に拒否権はないようだ。

桐乃は俺を自室に連行すると、床にクッションを無造作に放り投げ、そこに座るよう促した。
ここ最近は兄妹でゲームすることもなかったので、桐乃の部屋に入るのは本当に久しぶりだ。
しかし、朝になったら忍び込むつもりだったので、いまここに居るのは妙な気がするけど。
俺はベッドの上に腰掛ける桐乃に問い掛ける。

「んで、なんだよ……人生相談って?」
「あ、うん……ええっと……」

桐乃は口篭っていて、なかなか今回の人生相談の中身を話そうとしない。
その間、俺は脳内フル回転でこの後の展開を予想していた。
桐乃の相談――またアニメやエロゲのことだろうか?
いや、最近はこいつゲーム自体してなさそうだったし、それに今更改まって相談するようなことでもないだろう。
となると、学校関係?はたまた友人関係とか?

それともまさか……

「あ、あのさ。前にアンタと話した……キラッの話って覚えてる――?」

その言葉を聞いて、俺は戦慄した。
やべえ、嫌な予感がジャストミートでクリーンヒットしてしまったかもしれない。

桐乃部屋への侵入作戦の前夜、就寝中にまさかの逆侵入を許してしまい、
機先を制された俺に待っていたのは、これまでになくヘビーな予感のする人生相談だった。
なんなんだよ、この展開はよ……
とりあえず、下手なことだけは言わないよう気を付けねぇと……

「ねぇ、キラッって覚えてるかって聞いてるんだけど――?」
「あ、ああ。例の掲示板の――キラッだよな?」
「うん、そう……。実はあたし、ずっと秘密にしてたことがあるんだ……」

さっきまでの横柄な態度はどこへやらで、桐乃の表情は神妙な面持ちに変わっていた。
それにしても、まさかこいつの方からこの話題を振ってくるとは……
だけど兄貴としては……この先を聞きたいような、聞きたくないような、とても複雑な心境だ。

「えっと、驚かないで聞いてよね――」

ゴクリ、と俺は生唾を飲んだ。

それから10分ほどが経過したが――
俺は次の言葉を身構えて待っていたのに、桐乃はなかなか口を開こうとせず、部屋は沈黙に包まれていた。
この間、桐乃はずっとひとりで身悶えている。
おそらくこいつの中では、葛藤との戦いが繰り広げられているのだろう。

でも、俺はこいつがキラッだという事実をとっくに知ってるわけで、
いまさら何を言われても驚かない自信があるんだけど……
逆に、自然な驚きのリアクションを取れるよう、さっきから繰り返しイメトレしてるぐらいだ。
そんな状況にたまりかねた俺は、先に口を開いた。

「なァ桐乃、そろそろ話してくれないか……?」

そう言ってもなお、桐乃はウンウン唸っていたが、
しばらくすると何か諦めたように首を横に振り、ハァとため息をついた。

「やっぱりやめとくわ。……ごめん、部屋に戻って」

って、おい!なんだよそりゃ!?

「待て待て!夜中に叩き起こしておいて、それはねぇだろ!」
「だ~か~ら、ごめんって言ったじゃん。ホラっ」

桐乃は立ち上がり、部屋のドアを開くと、俺に出て行くよう促した。
クッ、なんて身勝手な妹だ……知ってたけどよ。

だけどキラッに関する話で、「秘密がある」「驚かないで聞いて」とまで言われて、
ここでおめおめと引き下がるわけにはいかないだろ?

「お前さァ――また何か人に言えない悩みを抱えてるんだろ?だから俺に相談持ち掛けたんだろ?」

負けじと俺も立ち上がり、桐乃の正面に立って対峙する。

「ずっと秘密にしてたことって何だよ? 言ってみろよ」
「もういいってば!あたしがもういいって言ってんだから、それでいいでしょ?」
「よかねぇよ!お前、悩み事があるんだろっ!?」
「アンタしつこい!ウザい!あたしに悩みなんかないっ!」

ああ、こりゃ完全に押し問答だ。
こんな状態じゃ、もうまともな話が出来るはずがない。
……だけど、キラッ事件の自供までもう少しだったかもしれない、という思いに、
深夜特有の余計なテンションも手伝って――
俺はうっかり口を滑らせてしまった。


「――嘘つけ!それなら、なんであの掲示板に書くのをやめたんだよ!?」

部屋には再び沈黙が訪れた――

覆水盆に返らず、後悔先に立たず、口は禍の元……
このとき俺の頭の中では、そんなことわざがピンボールのように激しく飛び交っていた。
桐乃はぽかんとした表情のまま、フリーズ状態になっていたが、
しばらくして瞳に光彩を取り戻すと、再び怒気を含んだ表情に変わった。

「……掲示板って……何のことを言ってるの?」
「えっ? いや、それは……その……」

考えろ俺!とにかく何かごまかせるよう考えろっ!

『キラッの正体を掴んでることを本人に知られたら、口封じに呪いを掛けられる』

――俺はそんな黒猫の台詞を思い出していた。
ヤバい、このシチュエーションはヤバすぎる……っていうか最悪の展開だ!
……だが残念ながら、俺のスペック不足気味の脳内コンピューターでは、
この場を凌ぐ気の利いた言い訳など、唯のひとつも浮かばなかった。

「キラッの掲示板のことよね?……アンタ、あたしがあそこに書き込んでたって言いたいの?」

\(^o^)/オワタ
そうだよな、話の流れ的にそうなるわな……
うん、もう観念したよ。煮るなり焼くなり呪いを掛けるなり好きにしろってな。
俺は覚悟を決め、その場にどしりと座り込んだ。

「ああ、そうだ――桐乃、お前がキラッとしてあの掲示板に書き込んでたことは知ってんだよ。
  こんな形でバラしちまったのは俺の大ポカだけどな」

証拠を掴むどころか、逆に桐乃にあっさりバラしてしまったなんて、
もし黒猫に知られたらどれだけの叱責を受けるか分からねぇけど、俺にはもう開き直るしかなかった。
桐乃はというと、驚きのあまり金魚のように口をパクパクさせている。

「……なっ、なんでアンタがそんなことを!?」
「ちょっと思うところがあってな。ここ最近、俺なりに調べてたんだよ」

さすがに黒猫と一緒に調べてたなんて言えやしない。
あいつまで巻き添えにするわけにはいかないからな……

「さぁ、覚悟は出来てるからよ。好きにしろよ」

俺は床に大の字になり、呆然と立ち尽くす桐乃を睨んでそう言い放った。

「はぁぁ?アンタ何言ってんのよ?」
「だから、口封じのために呪いを掛けるんだろ?……俺はお前にデレることになんのか?」
「ちょ、ちょっと!!アンタなにキモいこと言ってんのよ!?」

あれ……? なんか予想してた反応と違うな?とりあえず俺は助かったのだろうか。
桐乃は呆れたように首を左右に振ると、再びベッドに腰掛けた。

「――っていうか、アタシにはもうそんな力は無いんだからさ」

弱々しく呟く桐乃に、俺は聞き返す。

「力がないって……どういうことだ?」
「……いいわ、アンタには全部話してあげる。元々そのつもりだったし」

そう言うと、桐乃はこれまでの出来事を少しずつ、ぽつりぽつりと話し始めた。
そして俺は、デレノートという信じがたいノートの存在を知ることとなった。


名前を書くだけで他人をデレさせるノート――


この数か月の間に起きた、そんな嘘みたいなノートを巡る経緯を、桐乃はマジ顔で俺に語った。
にわかには信じられない話だが、邪鬼眼電波上等の黒猫ならともかく、
こいつがこんなことを嘘や妄想で話す奴じゃないってことは、俺が一番知っているわけだし、
そんなノートの存在でもない限り、この奇怪な事件の説明はできないだろう。
不本意ながら俺は、完全にオカルトの世界に飛び込んでしまったようだ……

すべてを話した桐乃は、力なくうなだれた。

「――ま、そんなワケで、いまカップルを作ってるのはあたしからノートを奪った奴なの」

なるほど、状況はよく分かった。
よく分かったんだが……それはそれとして、俺にはどうしてもこいつに確認しなければならないことがある。

「桐乃、お前さぁ――なんでキラッなんかやってたんだよ?」

そう尋ねると、桐乃はびくっと小さく身体を震わせた。

「な、なんでって言われても……」

「カップルを作るってのが、不思議なノートの力だったのは分かったよ。
  だけど、呪いの掲示板で依頼を受けるとか、俺には正直意味が分かんねぇんだけど……」
「ちょ、ちょっと!あれは呪いじゃないってば!あたしはただ……」

俯いていた桐乃は顔を上げて、一瞬、俺に視線を合わせたが、またすぐに目を逸らせてしまった。

「……ただ単に、カップルをたくさん作れば、みんなが幸せになれるんじゃないかなって思ってたの」

なぁおい、信じられるか?
世間を震え上がらせたキラッ事件の動機が、中三女子にありがちなお花畑な発想によるものだなんてよ。
こいつ、まさか恋のキューピッドにでもなり切っていたのだろうか。

「じゃあ、お前に悪意はなかったのかよ?世間を混乱させてやろうとか、さ」
「はぁ?あるわけないじゃん。何でそんなこと――」

桐乃は抗議のため再び顔を上げたが、俺の送るジト目の視線に気づいて、うっ、とたじろいだ。

「そ、そりゃあ、……途中からはちょっと調子にのっちゃってたかもしんないケド」
「ちょっとねぇ……」
「掲示板で叩かれたり荒らされたりして、ムキになっちゃったっていうか、
  そいつらにあたしの力を認めさせてやる、みたいなノリになっちゃって……」

桐乃の話は概ね理解しがたい事ばかりだが、掲示板で叩かれたこいつが顔を真っ赤にして
癇癪起こす様子だけは、悲しくなるぐらい容易に想像することができちまった。
まぁ、ある日突然、人知を超えた能力を手に入れるなんていう、
現実離れしたファンタジー体験をしたことがない俺には分からない話なんだろうけど、
過ぎた力は人を狂わせるってことなのかもしれない。

俺がため息をひとつ吐くと、桐乃はおずおずと顔を上げ、上目遣いで訴えてきた。

「――だけど、いまノートを使ってる奴は少し違うみたいなの。なんて言うか……
  最初っから自分の欲望フルスロットルっていうか……もう誰でもいいって感じで……」
「ああ、確かにそんな感じを受けるな」
「アイツから何とかしてノートを取り返さなきゃ……」

経緯はどうあれ、最終的にいま何が起こっているのかといえば、
桐乃をきっかけとして、とんでもなく危険なノートが、とんでもないイカレ野郎の元に渡っちまったってことだ。

思えば、桐乃がキラッだと判明したとき、なんとかして止めさせなければという気持ちがあったのは確かだが、
それと同時に、俺の妹だから何とかなるだろうという油断が俺にはあったのかもしれない。
もし俺がもっと早くに桐乃を問い詰めていれば、こんな危機的状況にはなってなかったかも……?
と、このとき俺はそんなことを思ったのだが、直後にその考えを打ち消した。
……いやいや、それは結果論だよな。
桐乃だって、そのノートを奪われて、初めて自分の行いを客観視できたみたいだし、
キラッとして現役バリバリだったときのこいつに干渉するのは、黒猫の言うようにリスクが大きすぎただろう。

俺はふと、机の上に置いてある、桐乃のノートパソコンに視線を送った。
ノーパソはつけっぱなしになっていて、さっきまで桐乃がプレイしていたのか、
モニタには妹系対戦獲得ゲーム『妹・真妹大殲シスカリプス』のデモ画面が映されていた。
二体の妹キャラが、様々な技を繰り出して闘っているところだったのだが、
俺はその画面にかすかな違和感を覚えた。
デモ画面にしちゃあ、一方のキャラクターの動きがCPUっぽくない……ていうか普通にプレイ中のような……
よく耳をすませて聞くと、キーボードをカタカタと打つ音もしている。
すると、俺の視線の先に気付いた桐乃が、誰もいない机に向かって言葉を投げかけた。

「ちょっとぉ、夜中はゲーム禁止って言ったでしょ!」

その言葉に反応するように、キーボードを叩く音が止み、画面内には「PAUSE」の文字が表示されている。

「桐乃、もしかして…… そこに……?」
「あ、うん。さっき話したデレ神のリューク。ノートに触れた人間にしか見えないらしいけど」

改めて机の方を向いたが、やはりそこには誰もいない。
俺は幽霊とかの類が怖いと思ったことは無いのだが、この時ばかりは寒気を感じた。
桐乃が見えない何かと会話をする様子は、傍から見りゃあ猛烈に気味の悪いもんだぜ……?

「お、お前、いつもそいつと一緒にいたのか?」
「まぁね。デレ神ってのはそういうシステムらしからさ……もちろんお風呂場とかには近寄らせなかったけど。
  慣れれば別に気にならないけどね」
「そうかのか……」
「あ、リュークが兄貴に、『よろしくな』だってさ」

なんだか超常現象がぐっと身近になっちまったな……
俺はデレ神のことはひとまず置いといて、ここで話を元に戻すことにした。

「なぁ、桐乃。色々聞かされて俺もまだ整理ができてないんだけどよ」
「あ、うん。そうだよね……」
「結局のところ、今回のお前の人生相談ってのは、この状況をどうにかしたいって事でいいのか?」
「……」

桐乃は何も言わなかったが、代わりにこくりと頷いた。
そうなると、やっぱりあいつにも事情を話して、力を貸してもらうしかねぇよな。


「よし分かった――じゃあさ、いま聞いた話を共有しておきたい奴が居るんだけどさ――」

 
そして翌日の土曜日――


俺からの連絡を受けた黒猫は、“三者面談”をすべく高坂家にやってきた。

「……こんにちは」
「よう、待ってたぜ」

俺は玄関に行き、ゴスロリファッションの黒猫を出迎えた。
桐乃がキラッとしての活動にハマってたこの数か月、自然とオタクっ娘コミュニティの集まりも
無くなっていたので、学校以外の場所で黒猫に会うのは本当に久しぶりだ。
見慣れてたはずのゴスロリファッションも、今日はなんだか新鮮に映ってしまう。

俺は黒猫を連れて妹の部屋へと向かう。
ドアを開けると、桐乃はベッドの上に腰掛けていた。

「随分久しぶりね」
「あっ――うん、久しぶり……」

桐乃はちょっとバツが悪そうにして、黒猫から視線を逸らしている。

そんな桐乃を気にすることなく、黒猫は単刀直入にキラッの話題を切り出した。

「聞いたわよ。貴女、随分楽しそうな遊びをしていたそうじゃない」
「……」

棘のある黒猫の言い方に、桐乃は何も答えず黙っている。黒猫は続けた。

「思いがけず特殊な能力を身に付けた者が、考えなしにその能力を振るい、そして溺れる――よくあるシナリオね」
「……なによ……アンタ何が言いたいの?」
「ふふ、別に…… 異界の能力<ちから>に浮かれて自滅した莫迦女を哂っているだけよ」
「ふんっ、知ったようなこと言っちゃって――あっ、そっかぁ、アンタって“自称”闇世界の住人だもんね~。相変わらずの邪鬼眼乙!」
「に、人間風情が調子に乗って――!」
「おいおい、二人とも――」

二人の間に険悪な空気が渦巻いていることを察した俺は、醜い言い争いが始まる前に割って入った。

「とりあえず、今は奪われたノートの話をしようぜ。電話でも話したけど、厄介なことになっちまってんだよ」

二人は互いにそっぽを向いている。
ハァ、こんなので本当に大丈夫なのかよ……

今朝の電話で、黒猫にはおおまかな事情を話したけれど、俺は改めて桐乃の口から一通りの経緯を説明させた。
こういうのは、相談する本人から話をするものだからな。

桐乃から、他人をデレさせる力を持ったノートや、そのノートに触れることで姿を現すデレ神という
現実離れした話を聞かされても、黒猫があからさまに驚くことはなかった。
この辺の順応性は、さすがに邪鬼眼かつ厨二な電波系少女として、一日の長があるようだ。
と俺は妙な感心の仕方をしていた。

「デレノート……デレ神……」

黒猫は腕組みをして、その単語を噛み締めるように呟いている。

「――ということは、あのときの“ノート”という言葉はそういう意味だったのね」
「えっ、あのときのって……」
「あなたが掲示板に最後に書き込んだ言葉よ。“ノートを持っているか”と」

そう、それは黒猫がキラッ――つまり桐乃をおびき出すため、自作自演をしたときの書き込みのことだ。
それを聞いて、桐乃も思い出したらしい。

「あっ、そういえばそんなことを…… アンタ、あの書き込みを読んでたんだ?」
「ええ、読んでいたわ。というよりも、あなたが私にレスを返したきたからだけど」
「ん?レスを返した……?」

今度は桐乃が腕組みをして考え込むことになった。
そして一拍置いて、その言葉の意味を理解した桐乃は勢いよく立ち上がり、黒猫を指差して叫んだ。

「に、偽キラッ!? アンタが……!」
「そうよ、あの時キラッに成りすまして書き込んだのは私」
「あ、あ、あのレスで……あたしがどんだけ悩んだと思ってんのよ……っ!」

わなわなと肩を震わす桐乃に対し、黒猫は涼しい顔で返した。

「知らないわよ、そんなこと。むしろあのレスであなたのキラッ活動にブレーキを掛けることができたのなら、
  あなたは私に感謝するべきじゃなくて?」
「ぐぎぎ……」

桐乃は悔しそうに歯軋りをしている。
おいおい、あんまり露骨に悔しがられると、こっちが不安になっちまうじゃねーか。

「オイ桐乃、お前まさか、まだキラッに未練があるんじゃねぇだろうな?」
「無いってば!ただ、やり込められてたのがムカついただけ」

そう言うと桐乃は、プイッとそっぽを向いた。

そんなやり取りには付き合ってられないとばかりに、黒猫は話題を戻す。

「それよりも――デレ神とやらは……本当にここに居るの?」

俺にはなんとなく黒猫が言わんとすることが分かった。
現在、デレノートは桐乃の手元にない。となると、この非現実的な一連の話の証拠になり得るのは、
いまこの部屋に居るという“デレ神”の存在だけ。
まずはそれを確認しないと、桐乃の相談には乗れないということだろう。
だが、桐乃はこともなげに答えた。

「あ、うん。いるよ。ホラ、あんたのすぐ後ろに立っ――」

そう桐乃が言い終わる前に、「ひぃっ!?」という小さな叫び声が発せられた。
今の声の発信源は…………黒猫?
桐乃は一瞬ぽかんとしていたが、すぐさま他人の弱みを握ったような、嫌らしい笑みを浮かべた。

「あれぇ~?もしやアンタ、リュークが怖いの? 普段は闇の世界がどうのこうの言ってんのに~?」
「莫迦にしないで頂戴。こ、怖くなんてないわ……」

そう言う黒猫の声はかすかに震えて聞こえた。
桐乃はというと、口に手を当てながら人を小馬鹿にするようにニヤニヤしている。
ハァ、お前らってホントそういうやり取り飽きないよな……

「冗談よ、冗談。いまリュークはそこの机の椅子に座ってるよ」

俺と黒猫は同時に机へ視線を向けた。だが、もちろんなにも見えない。

「そ、そう……。疑うわけではないけれど、なにか証拠を見せてもらえないかしら?」
「うーん、証拠って言っても……」

桐乃は少し考えた後に、ポンと手を打った。

「あ、そうだ。ちょっとリューク、アンタそのノーパソでメモ帳を開いて、何か文字打ってみなさいよ」

そう言うと、ノートパソコンのモニタには、すぐさまメモ帳の白い画面が表示され、
文字が少しずつ入力されていく――

《リュークだ これでいいか?》

モニタに表示されたテキストを見て、再び俺はぞくりとした寒気を感じた。
昨夜も俺は、見えない何者かがエロゲをプレイしているところを実際にこの目で見たのだが、
そのときはまだ現実味がなく、俺とは関わりのないところでの超常現象だと受け止めていた。
だけど、こうやってコミュニケーションを取ってこられると、否が応にもその存在を認めざるを得なくなり、
自分が怪しげな世界に巻き込まれていることを無理矢理に実感させられてしまう。

俺が黒猫に視線を移すと、黒猫も強張った表情でモニタに釘付けになっていた。
だけど、そうやすやすとデレ神の存在を認めるつもりはないようだ。

「まだ……まだ証拠とはいえないわ。リモートデスクトップ機能を使ったトリックの可能性も……」

いつも闇世界だとか天使だとか悪魔だとか、現実離れした妄想の世界に生きている黒猫の反応としては意外だけど、
現実世界の理<ことわり>の下に留まろうとする努力を、まだ諦めてはいないようだ。
こいつは案外リアリストなのかもしれない、と俺は思った。

……まぁ、そんな黒猫の抵抗も、その後すぐに潰えることになっちまったけど。

「ああ、もう面倒くさい。リューク、ちょっとそれ持ち上げて見せてやってよ」

そう桐乃が言うや否や、室内で起こった超常現象に、俺は思わず声を出して驚いた。
おい、信じられるか?

――机の上のノートパソコンが空中にふわりと浮かんだんだぜ。

そんな俺の反応を見て、桐乃は得意げに胸を張っている。

「これで信じたでしょ?もういいよ、リューク」

桐乃の言葉に応じるように、ノートパソコンは静かに机の上に着地した。
それを見ていた黒猫は、青ざめた表情のままでしばらく固まっていたのだが、
その硬直が解けると同時に勢いよく立ち上がった。

そして――

「鬱欖檳檻樞歿汪搓槃榜棆棕椈楾楷欖棗梭樸檢殀……!」
「待て、落ち着け!ストーーップ!!」

突如怪しげな呪文を大声で唱え始めた黒猫を、俺は羽交い締めにして制止する。
こいつ、どんだけパニックになってんだよ……
我に返った黒猫は、さっきまでより机から少し離れて座っている。やっぱりビビってやがったのか。

「ちょっとぉ~、悪霊祓いみたいな呪文唱えないでよ」

《ああ、失礼しちゃうぜ》

……面倒くさいからお前らは黙っててくれ。

まだ青ざめてはいたが、黒猫はなんとか平静を取り戻すと、観念してこの状況を受け入れたようだ。

「分かったわ…… デレ神がそこに居るのは認めるわ……」

まぁ、目の前でポルターガイスト現象が起これば誰だってパニックになるわけで、
実際俺も十分ビビってたんだけどさ。
黒猫はコホンと小さく咳払いをすると、桐乃に尋ねた。

「そのデレ神にいくつか聞きたいことがあるのだけど、……いいかしら?」
「ん?いいんじゃない? じゃあ、リュークはタイピングでね」

桐乃がノートパソコンの方に向かってそう言うと、また画面には少しずつ文字が表示されていった。

《ああ、わかった》

黒猫はいつものポーカーフェイスに戻り、デレ神へ質問を投げ掛ける。

ここからしばらく、黒猫とデレ神リュークとの間での質疑応答の時間となった。

「いま、デレノートがどこにあるのか、あなたには分かるのかしら?」

少し間をおいて、タイピングが始まる。

《いいや、俺にもわからない》

「じゃあ、いまデレノートを使ってる人間については何か分かるかしら?」

《それも俺にはわからないな》

「もしノートを取り返したとして、そのノートをどう処分したらいいのか教えて頂戴」

《所有者が所有権を失えば、俺がノートを回収して人間界を去る。ただそれだけだ》

この所有権というのが俺にはよく分からないのだけど、昨日桐乃から聞いた話によると、
奪われはしたもののデレノートの所有権とやらはまだ桐乃にあるらしい。
デレ神が桐乃の元から離れないのはそういう理由なんだとか。

「……あなたは今回の件以外にも、過去に人間界にデレノートを持ち込んだことがあるのかしら?」

《ああ、いままでにも何度か、人間にノートを与えたことがあるな》

「ふうん……」

黒猫はそこで一旦やり取りを停めて考え込んだ。
俺と桐乃は、そんな黒猫の様子を静かに見守っている。

「……その割に、今回のようなデレ騒動は、これまで噂レベルでさえ聞いたことがないわ。おかしな話よね?
  他のケースでの顛末はどうだったのか、聞かせてもらえるかしら?」

《それは》

デレ神はそこまで入力したところでタイピングを止めていたが、すぐに別の文を打ち直した。

《なかなか痛いところを突いてきたな。お前のような聞き方をしてきた奴は初めてだ》

「フッ、お褒めに与り光栄よ」

黒猫は髪をかき上げ得意顔を見せる。
傍からやり取りを見てる俺には、質問の意図も、何が痛いところなのかも分からないのだけど……
デレ神はまたゆっくりとタイピングした。

《シラけるから言わないでいたが、ノートの所有権を失うと、それまでに書いたノートの内容はすべて無効になる》

《さらに、デレノートによってデレていた者達の、デレに基づく行動の記憶はすべて消去される》

《過去のデレノートのことが人間界で知られていなかったのはそういう訳だ》

すると、そこで桐乃が割って入った。

「ちょっと、ちょっとリューク!!なによその後付け感たっぷりの設定はっ!?
  前にあたしが聞いたとき、デレを取り消す方法はないって言ってたじゃん!」

《あれは個別に取り消すことはできないという意味だ。嘘は言ってない》

どうやらこのデレ神、かなりの食わせ物のようだ……

 まだ文句を言いたそうな桐乃を制して、黒猫は言った。

「とにかく、ノートを取り返しさえすれば、丸く収まるって訳ね」

確かにその通りだ。
特に、すでにデレ状態に陥った人達が正気に戻れる可能性があるっていう光明が見つかったのはデカい。
後はいかにして取り返すか……だよなぁ……

「だけど、どこの誰が持っているのかも分からないノートを、どうやって取り返すんだよ」
「私に考えがあるわ」
「……また俺に忍び込めって言うんじゃねえだろうな?」

妹の部屋への侵入ならバレても半殺しぐらいで済みそうだが、よその家に不法侵入するのはシャレになんねーぞ?
ってなことを考えていると、俺の言葉に桐乃が反応した。

「ん? “また”忍び込む……って?」
「どああああ! な、なんでもないっ!気にすんな!」

あ、あぶねぇ……バレるところだった!
いや、実際は未遂なんだから、俺が後ろめたさを感じる必要はないんだけどさ……

「大丈夫よ。今度は先輩の手を借りることはないわ。私が一人でノート奪還の段取りをつけるから」
「おいおい、一人でって……」
「私に任せて頂戴――明日で、すべてのケリをつけてみせるわ」

って、明日だと!?
ずいぶん急な……いや、もちろん悠長に構えている暇はないんだけど……

「ってことは、お前にはもう犯人が誰なのか判ってるんだな?」
「ええ、それは今日話を聞いて確信したわ。……そして、ノートを奪う作戦も」

いつの間にやら、黒猫の瞳は紅く染まっていた。

「アンタ、犯人が分かってるなら教えなさいよ。あたしだって捕まえてとっちめてやりたいんだからさ」

そういう桐乃に対し、黒猫はハァとため息をついた。

「あなたに教えたらぶち壊しにされそうだから言えないわ。
  それに、犯人のことやノートを奪う手段を今バラしてしまうと、抜け駆けされる恐れもあるから……」
「……抜け駆けってどういう意味よ?」
「あなたが抜け駆けしてノートを取り返して、私や先輩を排除した上でキラッに返り咲く可能性もあるということ。
  私はまだあなたのことを信用していないのだから」

黒猫は冷たく言い放つと、今度は俺をじっと見据えた。

「……悪いけど、先輩にもまだ話せないわ。結果オーライだったとはいえ、
  先の作戦を豪快にしくじった先輩に、今の時点でネタ晴らしするのは色々と危険だから」

クッ……その点を責められると、俺にはグウの音も出せない。
俺が口篭っていると、桐乃が反論した。

「そんなこと言ったら、アンタだってノートを独り占めして、第三のキラッになるかもしれないじゃん!」

桐乃にしてはなかなか鋭い指摘だったが、
黒猫は、引っ込んでなさい、とばかりに、「ふん」と鼻を鳴らした。

「何を言い出すのかと思えば……もしそうだとしたら、今あなた達にこんなことをわざわざ話す訳ないでしょう?
  私がキラッになろうとしているのなら、一人で密かにノートを手に入れるわ」

あっさりと論破され、桐乃も俺と同じく何も言い返せない状態に。
そんな俺たち兄妹を見て、黒猫は言った。

「……勘違いさせたかもしれないけど、私一人でやるのはあくまで下準備だけ。
  明日、犯人と会うときには、あなたたち兄妹にも来てもらうわ。
  犯人を含め、私やあなたたち兄妹、――デレノートの秘密を知ってしまった全員の目の前で
  ノートをデレ神に突き返して、この事件を終わらせるのよ」

そう宣言する黒猫の気迫に圧され、俺も桐乃も無言で何度も頷くしかなかった。
ふとパソコンのモニタに視線をやると、デレ神がなにやらタイピングをしている。


《ククク、面白くなってきたじゃないか》

翌日、俺は桐乃と二人で秋葉原を訪れていた――

別に兄妹で仲良くアニメショップ巡りとか、そういうことじゃない。
昨晩、黒猫からのメールで“決戦の場所”として指定されたのがアキバだったんだ。

俺達は目的の建物へと入り、エレベーターで三階へ。
入り口で受付を済ませると、細長い通路の奥の部屋へと案内された。
そう、ここは以前に沙織主催のパーティで借りたあのレンタルルームだ。
あの時、散々な目に遭わされた上に、仕舞いにカッコ悪く泣いちまった俺にとっちゃあ、ここは忌々しい場所だ……

ドアを開けると、中にはゴスロリ姿の黒猫が足を組み、頬杖をついてソファに座っていた。

「よう、来たぜ」
「……待っていたわ、二人とも」

黒猫は相変わらずの不遜な態度で俺たちを迎えた。
部屋に入り、中を見渡すが、まだ黒猫の他には誰も居ないようだ。

「なぁ、……桐乃からノートを奪った奴も、今日ここに来るんだよな?」
「そうよ、昨夜私が話をつけたから。もうすぐその人物が、ここにデレノートを持ってやってくるわ」

デレノートを持ってやってくるって……昨日の今日で、そんな簡単に事が進むものか?
そもそも話をつけるっつっても、相手がホイホイと応じるわけがないと思うんだが……

俺と同じく怪訝な表情をしていた桐乃が口を開いた。

「アンタさぁ、話をつけたって……一体どうやったのよ?」

そんな桐乃の言葉に、黒猫はこともなげに答えた。

「簡単なことよ。だってノートを奪う方法は昨日教えてもらったじゃない」
「ノートを奪う方法?……昨日?」

そこまで聞いて、俺はようやくピンときた。どうやら桐乃も気づいたようだ。

「あっ……もしかして……」
「そう、あなたがノートを奪われたときのやり方を、私が同じようにやっただけよ」

桐乃がノートを奪われたときのやり方……つまり、ボイスチェンジャーを使って電話を掛けて、
例の掲示板に名前をバラすぞと脅迫したってことかよ。
そう言われりゃ、その方法はすでに実績もあるわけだし、確実といえば確実かもしれない。

やられたことをただやり返すだけ――

黒猫のノート奪還プランは、呆れるほどシンプルなものだった。
だけど、その方法はノートの持ち主が誰なのかが分かっていないと使えない。
痺れを切らした俺は黒猫に問い掛けた。

「なぁ、そろそろ誰なのか教えてくれてもいいだろ?」

だが、黒猫はこちらに視線を向けず、真正面を睨むように見つめていた。
聞こえなかったのか?と、もう一度問い掛けようとした俺だったが、黒猫がそれを制す。

「待って、先輩――どうやらおいでなすったようよ」

黒猫はじっと部屋の出入り口のドアを凝視していた。

俺と桐乃も、黒猫の視線を追って、出入り口へと視線をやる。
すると、ドアは半開きの状態で止まっていた。
俺達の今の位置からはドアの向こうは見えないが、正面に座っている黒猫には見えているようだ。

「どうぞ、中に入って」

黒猫はドアの向こうの人物に呼び掛けたが、ドアは半開きのまま動かない。

「……言っておくけど、電話を掛けたのが私だと判ったからといって、今から逃げ出したとしても無駄よ。
  このままあなたがドアを閉めたら、私は即座に掲示板にあなたの名前を書き込むわ」

そう言う黒猫の右手には、携帯が握られていた。

「――それに、こちらには海外留学経験もある中学陸上の選手が居るから、
  どんなに頑張って逃げても、まず逃げ切れないでしょうね」

その言葉に、半開きのドアが一瞬ビクッと動いた。
そして、黒猫の言葉に退路を断たれ観念したのか、ゆっくりとドアが開く。
いよいよお出ましか――ごくり、と、俺と桐乃は同時に生唾を飲んだ。

その人物は、うつむき加減に部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。

「あの電話は……五更さんだったんですね……」

恨めしそうに呟いたその人物は、
黒猫のクラスメイトで、俺にとってゲー研の後輩でもある――赤城瀬菜だった。

「あ、赤城!?」
「せなちー!?」

俺も桐乃も驚いた。驚いたのだけど――
冷静になって考えてみると、これは「ああ、なるほど」と、実に喉越し爽やかに腑に落ちる結果だった。
うちの学校でホモカップルを大量生産する女……ううむ、嫌になるぐらい合点がいくぜ……

「それにしても、何でお前がノートのことを……?」

そう尋ねたが、瀬菜はうつむいたまま何も話さない。
代わりに横から黒猫が答えた。

「どうやら私と先輩が部室で話していたのを盗み聞きしたようね。
  昨日いきさつを聞いたとき、電話の主の話した内容があまりにも私達の会話の内容と同じだったから、
  そのことから、ゲー研の部室に来そうな人物――赤城さんだと気づくことができたの」

あの日、部室の扉越しに見えた人影は、俺の気のせいじゃなかったってことか……
ということは、俺があのとき黒猫にそのことを話していれば、もしかすると少しは展開が変わってたのかもしれない。
……そう思ったけど、今更掘り起こして黒猫に責められるのは御免なので、余計なことは言わないでおこう。

部屋の隅にいた桐乃は、瀬菜に近づいて声をかけた。

「せなちー……どうしてあたしからノートを奪ったの……?」
「桐乃ちゃん、それは……って、えええええええ!?な、何それ!!??」

突如大声をあげた瀬菜は、桐乃の方に指差したままガクガクと身を震わせ、恐怖に慄いている。
――いや、正確には桐乃の隣、誰も居ない空間を指差している。

「あ、そっか。せなちーにはリュークの姿が見ているんだ」
「リューク……?」
「そう、最初にデレノートをあたしに与えたデレ神。ノートに触れた人間にしか見えないの」
「いやあああああ!怪物!!近寄らないでえええ!!」

瀬菜は床にへたり込んだ体勢で、桐乃から後ずさりをしている。
なるほど、デレノートに触れた瀬菜にはデレ神の姿が見えているってことか。
デレ神が見えない俺や黒猫からすれば、まるっきりコントのようなやり取りなんだけど……
でも、これはつまり、瀬菜がデレノートを奪ったというダメ押しの証拠になるわけだ。

桐乃からデレ神について聞き、実際にデレ神と一言二言話した瀬菜は少し落ち着きを取り戻したようで、
ソファーに座ってぜえぜえと呼吸を整えている。

「まったく、お前って奴は……やたらめったら手当たり次第にホモカップル作って……何考えてんだよ」

ため息混じりに俺がボヤくと、その言葉に瀬菜が反応した。

「手当たり次第なんかじゃありませんッ!!」

うおっ!!いきなりデカい声出すなよ!
俺の何気ない一言がこいつの癇に障ったのか、瀬菜は肩をいからせて反論し始めた。

「一応言っときますけど、あたしなりの緻密な考察の元にカップルを作らせていただきましたからっ!そこは譲れません」
「……緻密な考察って何だよ?」
「攻め・受けの二極化をベースに、文科系の男子と体育会系の男子や、クラス内で内向的な男子、社交的な男子
  という具合にリストアップし、属性の異なる同士を、通学ルートや学内行事などでなるべく接点のある組み合わせを
  チョイスしてカプ化を――」
「……わ、分かった、もういいぞ」

うむ、こいつの脳が腐ってることが改めてよ~く分かった。
黒猫が今日決着をつけると言ったときは、性急過ぎるんじゃないかと思ったものだけど、
こんな危険なBL職人を放置するなんてとんでもないことだったな……。

「ちなみに高坂先輩は“受け属性”として分類していました」
「うおおおい!!おっかねぇことをシレっと言うんじゃねぇ!」
「でも、せっかく攻め×受けで組ませてカップルを作っても、みんな健全にいちゃつく程度で、
  押し倒したりとかそういう展開になかなか進まないんですよねぇ……」

駄目だこの腐女子……早くなんとかしないと……

話が迷走しそうになってきたところで、あきれ顔の黒猫が口を開いた。

「とにかく――ここに来たって事は、デレノートを返す意思があるということよね、赤城さん?」
「うっ……それは……」

瀬菜は手提げカバンを持つ手にギュッと力を込めた。
あのカバンの中にデレノートが入っているのか……?

「……し、仕方ないですね」

瀬菜は立ち上がると、フーっと大きく息を吐き、黒猫をじっと見据えて言った。

「ノートは返しますよ――“五更瑠璃”さん」

そう言い放つ瀬菜の姿は、不思議と強気に見えた。
それに、今なにか違和感が……

「“高坂京介”先輩と、“高坂桐乃”ちゃんにもご迷惑をおかけしました」

そう言うと、瀬菜はぺこりと頭を下げた。
その時、俺は違和感の理由に気づいた。瀬菜はなぜ俺達をわざわざフルネームで呼ぶのか……?
黒猫も何か感づいたようで、俺の方に目配せを送ってきた。

と、その時、出入り口のドアに視線を移すと、閉じていたはずのドアが僅かに開いていて、
そこから何者かが室内を覗き込んでいた――

「先輩、まずいわ!外に仲間を潜ませていたのよ!名前を書かれてしまう!」

ニヤリと笑う瀬菜――
俺は慌ててソファーから立ち上がり、ドアへ向かって駆けた。

何者かが俺達の名前をノートに書こうとしている――

俺は慌てて部屋の出入り口へと駆け寄った。
せっかくこの騒動が解決間近になったというのに、ここで俺達がデレさせられたら
また振り出しに戻っちまう。
っていうか、事件なんて関係なしに、デレさせられること自体まっぴら御免だっての!
瀬菜が名前を読み上げてから数秒が経過している。間に合うか!?
俺はドアノブを掴むと、思いっきり手前に引く。

すると――

「うおっ!!」

ドアの向こうに潜んでいた人物は、ドアを開けられた拍子に、ドテッと床に転がった。

「お前か……赤城……」
「よ、よう……高坂……」

その人物は、俺のクラスメイトで瀬菜の兄、“残念なイケメン”こと赤城浩平だった。
地べたに突っ伏した赤城の横には、真っ黒な表紙のノートが落ちている。
桐乃がそれを拾い上げ、パラパラとページをめくると、安堵のため息をついた。

「どうやら大丈夫だったみたいよ」

横からノートを覗き込むと、そこには乱雑に書き殴られたいくつかの名前の羅列があった。


後高 ルリ  御高 るり
後光 るり  五高 留理
五光 留理  五光 流里


なるほど……、黒猫の本名が書けなかったってわけか。


確かに、“ごこうるり”で“五更瑠璃”なんて、そうそう書けるもんじゃない。
ついでに言えば、書けない黒猫を後回しにして俺や桐乃の名前を先に書く、というような
融通が利かない奴で命拾いしたようだ。
テストで難しい問題があると、そこで詰まって時間がなくなっちまうタイプだな。

「お兄ちゃん!ちゃんとやってくれないとだめじゃない!」
「すまん、瀬菜ちゃん!……俺の漢字力では無理だった……」

瀬菜の叱責を受けて、赤城は土下座して謝っている。
これがシスコン兄貴のなれの果てか……身につまされるぜ……
赤城家での兄の威厳は、すっかり地に堕ちているようだ。
まぁ、うちだって威厳があるかと言われれば微妙なところではあるんだけど。

「……このノート、あたしのデレノートで間違いないよ。 以前に書いたページを確認できたから」

ノートの内容を精査していた桐乃がそう言うと、瀬菜は観念したように肩を落とした。

「今度こそ回収できたようね」

黒猫は満足そうに呟いた。

そして今、俺達はテーブルの上のデレノートを囲むようにして座っている。

「じゃあ、このノートをデレ神とやらに返して、お引き取りいただこうかしら」
「ようやくこれで一件落着ってわけだな」

この数か月の間、俺達が振り回されてきた原因であるデレノート――
桐乃や瀬菜のせいで起こった混乱は決して小さくはなかったけど、ノートを返すことで掛かっていた呪いがチャラになるなら、
これはもうハッピーエンドに相当するんじゃねえか。
満足そうにひとりで何度も頷いていた俺だったが、そんな俺に黒猫は、実にありがたくない提案をしてきた。

「……先輩、ちょっとノートに触ってみる気はない?」
「な、なんで今更ノートに触る必要があるんだよ! 触ったら……見えちまうんだろ?デレ神が……」
「妹さんとデレ神との会話を聞くためには必要でしょう? ノートを返すにしても、私かあなたのどちらかが第三者として
  やり取りの内容を聞いていないと不安じゃない」
「不安って、何がだ?」
「私達に分からないように何か取引をされるかもしれないでしょう。デレ神の声が聞こえるのは他に赤城さん兄妹だけなのだから」

それを聞いた桐乃がキッと目をむく。

「アンタねぇ、少しは信用しなさいよ!あたしはもうデレノートなんかに未練は無いってば」
「それなら別に会話を聞かれても構わないはずよね」

黒猫は桐乃の抗議などどこ吹く風で続けた。

「……ということで、先輩、どうぞ」
「ちょっと待て待て!なんで俺なんだよ!? こういうのに慣れてるお前こそ適任じゃないか」
「だらしないわね…… デレ神が怖いなんて……」
「お前にゃ言われたくねーよ!」

そんなやり取りをしていると、ふいに桐乃が俺と黒猫の手を取った。

「あーっ!もう面倒くさいからさ、触るんなら二人ともノートに触ればいいじゃん」

そう言って、桐乃は俺達の手を机の上のデレノートへと導く。
虚を突かれた俺と黒猫は、抵抗する間もなくノートに触れてしまった。

「「あ……」」

ノートに触った瞬間、俺は思わず肩をすくめて身構えたが、ノートが光を発するとか、
身体に電気のような衝撃が走るとか、そんなファンタジーでありがちな特殊効果は何も起きなかった。

だけど、部屋の隅に視線を移すと、そこには壁に寄りかかって立っているそいつが見えたんだ――

長身の赤城よりもさらにデカい図体で全身黒ずくめ、逆立った髪の毛がさらにその身体を大きく見せている。
そして青味のかかった真っ白な顔面に頬まで裂けた口に、なにより特徴的なギョロリとした焦点の合わなさそうな瞳。
……まぁ、それらを総合すると、要するに化け物だってことだ。

「うおおおおおおおおおおお!!」

あまりにも不気味な姿形に、俺は思わず叫び声を上げちまった。
こ、こんなのが何か月もうちに住み着いてたのかよ……!

「うおおおおおおおおおおお!!」

そんな俺に呼応するように、赤城も同じような叫び声を上げていた。

「うぉい!いまさらかよ!? お前はずっと見えてたはずだろ!」
「……いや、なんかさっきから驚くタイミングが見つからなくってよ」

そう言うと、このイケメンはサムアップして白い歯をきらりと光らせた。
ああ、前から知ってはいたけど、やっぱりお前はアホだよ。

黒猫はというと、デレ神の方向を見つめたまま、微動だにしていない。
微動だにしていなかったが……、しばらくしてスッと立ち上がると、両手で印を組んだ。

そして――

「鬱欖檳檻樞歿汪搓槃榜棆棕椈楾楷欖棗梭樸檢殀……!」
「待て、落ち着け!ストーーップ!!」

またもや怪しげな呪文を大声で唱え始めた黒猫を、俺は必死に制止する。
こいつのブレのなさは尊敬に値するぜ……
とにかく、ビビったときに呪文を唱える癖は直そうな!

俺達が一通り驚きのリアクションを済ませたところで、デレ神は口を開いた。

『まぁ、そんなに怖がることはない。俺はこれでも神の端くれだからな』

嘘付け! 神っていうか、そのビジュアルはどう見ても悪魔寄りじゃねえか!
俺は心の中で思いっきり突っ込んだ。……口に出す勇気は無かったけど。
デレ神リュークは、頬まで裂けた口をさらに吊り上げてニヤついている。

顔面蒼白で震えていた黒猫は、どうにか落ち着いたようで、コホンとひとつ咳払いをした。

「……それじゃ、気を取り直して、今度こそノートをデレ神に返してもらおうかしら」

その言葉を受けて、桐乃がこくりと頷く。
桐乃はノートを手に取り、両手で胸の前に持つと、立ち上がってデレ神と向き合った。

「リューク、そういうことだから、あたしはデレノートの所有権を放棄するね」

そう言うと、桐乃はデレ神に優しく微笑みかけた。

「この数か月、なんだかんだでアンタと一緒にエロゲしたりして楽しかったよ。……元気でね」

俺や黒猫、赤城兄妹の見守る中で、デレノートを返し、デレ神が去り、すべてが終わる。
これでようやく元の日常に戻れるんだ。

――そう思っていたけれど、事はそんな簡単に終わらなかった。

『ククク……所有権を放棄? 何を言っている』

デレ神リュークは小馬鹿にしたように嘲笑っている。
部屋の中に不穏な空気が漂い始めているのを俺は感じた。

デレ神の意図のみえない言葉に、桐乃は食って掛かった。

「えっ、アンタこそ何言ってんのよ。昨日そう言ったじゃん。
  所有権を放棄したらノートを回収して人間界を去って、これまでのデレも無効になるって」
『俺は、所有者が所有権を“失ったら”と言ったんだ』
「だから失って良いって言ってるじゃん。何が違うのよ?」

するとデレ神は呆れたように言い放った。

『そんな放棄宣言なんかで、俺がすんなりデレ神界に帰ると思ったのか?
  デレノートの表紙裏に書かれたルールに従わなければ、所有権の喪失はありえないし、
  俺がデレ神界に帰ることもない』
「表紙裏のルールって――」

桐乃が机の上でデレノートを開き、表紙裏を確認する。
俺達もノートを覗き込む。
そこに書かれていたルールとは――


《デレノートを持っている限り、自分が誰かにデレるまで元持ち主であるデレ神が憑いてまわる》

デレノートを手放し、デレ神と縁を切るための条件
――それは、デレノートの持ち主自らが、デレの呪いに掛かることだった。

予想外の展開に、俺達はノートの表紙裏を見つめたまま、声も出せずにいた。
桐乃とデレ神の別れを皆で見守っていた数分前とは一転、室内は重苦しい空気に包まれている。

『別に、無理にノートを手放す必要はないぞ。今まで通りでも構わない。俺も人間界は嫌いじゃないからよ』

ククク……と独特の笑い声を漏らしながらデレ神は言う。

『その場合はもちろん、デレノートでデレた者共は元に戻らず、ずっとそのままだけどな』

これまでのデレの呪いをすべてリセットできる――そんな旨い話には、しっかり代償が必要だったって訳だ。
こいつはやっぱり神なんかじゃなく、見た目通りの悪魔だったらしい。

重苦しい雰囲気の中、最初に口を開いたのは黒猫だった。

「……あなた、どうするつもり?」

さすがの黒猫も、この状況に戸惑い気味の様子だ。
キラッの正体を暴き、今日のこの場をセッティングした張本人だが、まさかこんな展開になるなんて
思ってもみなかっただろう。
当の桐乃も、大いにショックを受け、ずっと押し黙っている……
――かと思いきや、意外にも妙に晴れ晴れとした表情をしてやがった。

「え? そんなの、決まってるじゃん」

桐乃はそう言うとソファーから立ち、デレ神と向き合った。
そして、俺達の視線を一身に受けながら、その決意を表明した。

「あたしが撒いた種なんだから、あたしがちゃんと責任を取るってば」

桐乃はこの数か月、他人の心を操るという不気味なノートを使って、世間を混乱に陥れていた。
それは、法に照らして罰することなんてできない、超常現象の類ではあるけれど、
それが人のモラルに反する行為だということは、俺を含め、誰もが感覚的に解っている。
そして、キラッだった以前ならいざ知らず、今の桐乃だってそのことを認識しているだろう。
だからこそ、桐乃はその責任から逃げるようなことはしない。
どうしてかって?

――俺の妹はそういう奴だからだ。

自分の過ちに気付いたら、そのことを誤魔化したり、言い逃れするようなことをせず、バカ正直に潔く受け入れる。
親父譲りの芯の強さを持ち、自分自身に対して人一倍厳しい――そんな奴なんだ。

「桐乃ちゃん……その……ごめんね。あたしの責任でもあるのに……」

瀬菜はおずおずと桐乃を見上げ、今にも泣き出しそうな顔を見せた。

「ううん、せなちーは気にしないでいいって」
「でも……」
「そりゃあ、ノート奪わて好き勝手されたのはムカついたけど、結果的にそのおかげであたしの目が覚めたんだしさ」

桐乃は瀬菜に微笑んでみせた後、再びデレ神と対峙した。

「んじゃ、デレノートにあたしの名前を書けばいいのね?」

傍から見れば、単に桐乃の自業自得、因果応報かもしれない。
そして、道理に従えば、これまでの悪戯の“責任”を取らせるべきなのかもしれない。
だけど――だけどさ、
だからといって、桐乃を誰かにデレさせるだと?
そんなの、兄貴として到底認められるわけがねぇだろうよ。

「……桐乃、バカな真似はよせ」

俺が発したその言葉に、バッグの中のペンを探していた桐乃が顔を上げる。

「はぁ~?今更なに言ってんのよ」
「あのな、デレるってことは……つまり、お前がデレデレになっちまうってことだぞ?
  他の誰でもなく、お前がだ。 そんなのダメだろ?」

まさに“何を今更”な当然のことをまくし立てている俺を、桐乃はぽかんと見つめている。
クソっ、俺は何を言ってんだよ……
頭の整理ができていないので、自分でも何を言いたいのか分からねぇ。
――分からねぇけど、いまは桐乃を思い留まらせないといけない。 誰かにデレてる桐乃なんて我慢できるかよ!
そんな俺の中の秘められたシスコン魂が、俺を喋らせていた。

「お前がデレちまうなんて……そんなの、お前がお前じゃなくなっちまうじゃねえか」

「でもあたしがデレないと、終わりにできないじゃん!」

そんなことは承知の上だ。
だけど、俺はお前のように、潔くこの状況を受け入れることなんてできやしない。

「そんな結末あり得ないだろ! お前がデレる? なんでそんなことになっちまうんだ」
「あ、あたしだって望んでデレるわけじゃないって!でもしょうがないでしょ!」
「ふざけんなよ!まだ中学生のお前が、なんでそこまで背負う必要があるんだよ」
「だって、あたしが責任とってデレないと、デレノートでデレさせられた大勢の人達が元に戻れない。
  ……それでいいワケがないじゃない」

俺は一瞬ひるんだ。
確かに桐乃の言う通りだ。その通りなんだけど……でも――

「そんなの……お前が変わっちまうぐらいなら、そいつらなんか――」

そう言いかけたところで、「兄貴!」と桐乃が妨げた。

「あたしを想ってくれるのは嬉しいけど、その先を言っちゃったら兄貴はサイテーだよ」

その言葉は俺の胸を突いた。
俺は何も言い返せず、舌を打ち、ソファーにどさっと腰掛ける。
自分の無力さが恨めしい――俺は心底そう思い、大きく息を吐いた。

そんなやり取りを黙って聞いていたデレ神が口を開いた。

『――どうやら決まりのようだな』

桐乃は無言でこくりと頷く。

『言っておくが、自分を自分にデレさせることはできないぞ。
  自分の名前を書くのなら、デレる対象を指定しなければならない。もしくはデレ対象の人物に書かせるか、だ』
「わ、分かってるってば!」

桐乃はデレノートをパラパラとめくり、まっ白なページを開く。
そして一度大きく深呼吸をすると、そのノートとペンを差し出した。
――俺の目の前に。

「さすがに自分で書くのは抵抗があるからさ……アンタがあたしの名前書いてよ」

は??
俺が、お前の名前を、デレノートに書く?
それってつまり……

俺が尋ねるよりも先に、桐乃は慌て気味の弁明を始めた。

「しょ、しょうがないでしょ! 事情知らない人にいきなりデレるわけにいかないし――」

桐乃はチラッと横目で黒猫に視線を送る。

「この黒いのにデレたっていいんだけど、こいつひ弱だからさ。
  デレたあたしが力尽くで何かしちゃいそうになったときに、抵抗できなさそうだし」
「なっ!? あなた……お、恐ろしいことを言わないで頂戴……」

何かしちゃうって……なにをだよ……
黒猫は額に縦線を浮かべて思いっきり引いている。
そんな黒猫のことは気にすることもなく、桐乃は俺を指差して話を続けた。

「――そんなわけで、あたしのデレ対象候補はあんたぐらいしか居ないのよ!
  一応……あんたならちゃんと、兄妹の節度を守ってくれるかなって……、信じてるし……」

待て待て待て!
節度って!お前はどういう状況を想定してんの!?

「よその男にデレて、世間で変なウワサたっちゃうよりは、
  不本意だけど……ブラコン娘だと思われる方が少しはマシだし……すっごく不本意だけど!」

そこで依然引き気味の黒猫がぼそっと呟く。

「私に言わせれば、本質は今とあまり変わらない気がするのだけど……」

桐乃がジロッと睨むと、黒猫はわざとらしく口を押さえて顔をそむけた。

「というわけだから、はいっ」

桐乃は俺にペンを押し付け、俺はやむなくそれを受け取る。
な、なんてこった……
俺が、自分の手で妹をデレさせるのかよ……しかも俺に。

「なぁ、桐乃…… ノートも返ってきたんだし、急いで結論出すこともないんじゃないか?
  もう一度じっくり考えてから決めても……」

そんな諦めの悪い俺の提案を、桐乃は一蹴する。

「くどい!……っていうかアンタさ、そんなにあたしにデレられるのが嫌なの!?」
「い、いや、そういうわけじゃねえけどよ……」

腕組みをして、さっさと書けと言わんばかりに俺を見下ろしている桐乃の迫力に圧され、
俺は仕方なくペンを握り、ノートの白いページの左上に構える。
なんで俺が追い込まれる立場になってるんだよ……
そんなボヤキを呟きつつ、皆が注目する中、俺はゆっくりと桐乃のフルネームを書き始めた。

俺は一画ずつ、普段よりもずっと丁寧に文字を書く――

いつでも中断できるようにという、そんな考えで時間を稼いでいたのだけど、
結局、桐乃からストップの声が掛かることはなかった。

そして最後の一字、「乃」の字を書き終えてしまう最後のハネに差し掛かり、
そこで顔を上げると、俺のペン先を見つめていた桐乃と視線が合った。


「デレたあたしのことも、よろしくね――兄貴」


そう言い残し、桐乃は俺に

デレた。

 

あれから数日が経ち――

今日も、なんら変哲も無い、いつもの朝を迎えた。
いつものように、部屋に鳴り響く目覚まし時計。そのけたたましいベルの金属音に、俺の眠りは妨げられる。
しばらくすると、ガチャっと部屋のドアが開く音が聞こえ、目覚まし時計のベルが鳴り止んだ。

「お兄ちゃ~ん?――いつまで寝てるの? もう朝だよ」

まるで世話女房のように振る舞う桐乃がカーテンを開くと、薄暗かった部屋に眩しい朝の光が差し込んできた。

「早く起きないと、朝ごはん冷めちゃうでしょ。せっかく作ったのに~」

そう言って俺の身体を揺さぶる桐乃に、俺は背中を向けて狸寝入りを決め込み、
ささやかな抵抗を試みるが、

「ふ~ん、起きないなら……」

そんな声が聞こえ、ゴソゴソとベッドシーツをまさぐられている感じがしたかと思えば――

「抱きつき攻撃ぃぃぃ~!」

ぬおおおおお!!
寝ている後ろから抱き締められ、背中に感じた柔らかく温かな感触に、俺は今度こそ完全に目を覚ました。
そして慌てて上体を起こし、桐乃を引き離す。

「お、お前! ベッドに潜り込むのはよせって言ったろう!」
「えへへ~、おはよっ、お兄ちゃん」

あの日以来、俺の妹はずっとこんな調子だ。


以前の桐乃からは到底想像できない、妹萌えのキャラを地で行くようなこの変わりよう。
四六時中ツンツンして、俺を「クソ兄貴」呼ばわりしてたこいつが、今では「お兄ちゃ~ん」だぜ?
俺にはどうしてもこの甘ったるい呼称が受け入れられず、呼ばれる度にムズ痒さと気恥ずかしさの
ハイブリッドな感覚に襲われてしまう……

ガシガシと頭を掻く俺に、ベッドから降りた桐乃は手を差し出して言った。

「ほら、服も脱いで。洗濯するから」

俺は黙ってシャツを脱ぎ、桐乃に手渡す。
朝からこうやって兄貴に甲斐甲斐しく世話を焼く妹だなんて、まさに兄妹の理想像だろう。
赤城のようなエリート級のシスコン兄貴だったら、喜んでこの状況に順応するんだろうけど、
俺の場合、どうしても以前とのギャップがさ……俺を素直にさせてくれないんだ。

「じゃ、先に下に降りてるからね」

そう言ってそそくさと部屋を出る桐乃を、俺は「ちょっと待て」と呼び止める。

「なあに、お兄ちゃん?」
「……念のため言っとくけど、シャツの匂いは嗅ぐなよ」
「ぎくっ!」

ぎくっ、じゃねえっての。
なぁ、こういうのもデレの内なのか……?


「――きょうちゃん、最近、桐乃ちゃんと仲良しになったんだってね」

いつものように麻奈実と並んで登校していると、この幼馴染はふいにそんなことを言ってきた。

「な、なぜお前がそんなこと知ってんだ!?」

別に隠していたわけではないけど、デレノートの件を知らない麻奈実には、どうにも事情を説明しづらい。
そんなわけで、わざわざ我が家の兄妹仲の変化を報告するようなことはしなかったのだが、
どこかから漏れ伝わってしまったようだ。

「ふふふっ、わたしは意外と情報通なんだよ」
「なんだそりゃ……。 一応言っとくけどよ、前が仲悪すぎたから、せいぜい普通レベルになった程度だぜ」

勘違いしてもらっては困るが、俺が、今朝のようなやり取りを“普通レベル”の兄妹仲だと
歪んだ認識をしてるわけではない。
俺の中のフィルター機能が働いて、ちょっと控えめに……いや、相当控えめに表現したんだ。
……妹が俺にデレですウヘヘ、なんて言えるかっての。

「まぁ、兄妹仲が良いのはいいことだよね~」

俺の微妙な反応を察したのか、麻奈実はこの件を深く追求してくることはなかった。
そういや、麻奈実はあやせと仲良かったんだよな。 おそらくネタの出どころはその辺りだろう。
っていうかさ、桐乃が俺にデレてることをあやせが気付いているとしたら……色んな意味で俺やばくね?
近親相姦上等の兄貴への憎しみで悪鬼と化すあやせを想像し、俺は思わず身震いした。

学校に到着し、麻奈実と教室に入ると、なんの変哲もない普段のクラス風景が目に入ってきた。
かつてこの学校を恐怖に陥れた、ホモカップル達による睦み合いの地獄絵図は、
あの日を境に綺麗サッパリ消え失せていた。


あの秋葉原での出来事の後――

俺がデレノートに名前を書いたことで、桐乃はノートの所有権を失った。
そして、ノートを回収したデレ神リュークは、あっけなく人間界を去り、デレ神の言葉通り、
デレの呪いに掛かっていた奴等は、みんな一斉にデレ状態から元に戻ったようだ。

かつて桐乃が根城にしていた例の掲示板も、“一斉デレ解除”を契機に、多くの書き込みで賑わっていた。
と言っても、ほとんどの書き込みが、デレ解除に対するクレームだったり、キラッに対して説明を求めるもの
だったりするんだけど……ホント勝手な奴等だよ。
それでも、キラッはもう現れることはないのだし、時間が経てば皆忘れていくだろう。

ちなみに、俺の学校でも、影響がまったく無かったわけではない。
当人たちはデレてた時の行動を憶えてないからまだ良かったんだけど、周りの人間は衝撃のホモ化事件を
バッチリ覚えているわけで、そういう訳で、ホモの呪縛から解き放たれた者たちへの微妙な空気は残ってしまった。
まぁ、この件の後ろめたさは赤城兄妹に背負ってもらおう。

とにかく、やっと平穏な日々がようやく戻ってきたんだ。

その日の放課後、俺は久しぶりに部活に顔を出し、帰りは黒猫と一緒に下校した。

「――妹さんは相変わらず?」

俺と並んで歩きながら、黒猫は微かな笑みを浮かべながら、そう尋ねてきた。
いつも無愛想なこいつが微笑むときは、大抵が俺をからかう予兆なのだ。

「まぁ、相変わらずデレてるよ。こればっかりはしょうがねぇからな」
「そう言いながら、満更でもないと思っているのでしょう? シスコンとブラコンで相思相愛じゃない」

ぐっ…… 何を言ってやがる……
黒猫は手を口に当て、くすくすと笑っている。ほらな、やっぱり予兆通りだろ?
俺は気を取り直して反論する。

「お前はそう言うけどな……、一応桐乃は自分の行いの代償としてああなったんだからな。
  あんな事をしてた奴だけど、ケジメのつけ方については、俺は褒めてやりたいと思ってんだよ」

黒猫の軽口に対し、俺が割とシリアスな調子で返したので、黒猫はちょっとバツが悪そうにそっぽを向いた。
その後、コホンとひとつ咳払いをすると、黒猫はいつもの無表情に戻って言った。

「……これは先輩に話そうか話すまいか迷ったんだけど、やっぱり伝えておくわ」

あん?いきなり何の話だ?

「私は……その件については、少し異なる考えを持ってるの」
「異なる考え?」

道端で立ち止まった黒猫に合わせて、俺も一緒に立ち止まる。

「そう、あのデレノートのルールについて、どうしても腑に落ちない事があるのよ。
  ――それは、所有者がノートに名前を書かれると所有権を失い、ノートの効果もすべて無効になる、という点」
「腑に落ちないって言っても、元々常識外れのノートなんだから、どのルールだってそうじゃねえか?
  逆に“腑に落ちる”ルールなんて無いだろ」
「そうでもないのよ。あの表紙裏に書かれていたルールは、どれも突飛なものではあったけど、
  それぞれが矛盾しないようになっていたわ。でも――」

そこで黒猫は顔を上げ、俺の目をまっすぐ見つめた。俺は思わず視線を逸らす。
端正な顔立ちのこいつに正面からまじまじと見つめられると、どうも照れてしまう。

「――でも、デレノートを手放す条件がデレることで、手放したらすべてのデレ効果がリセット。
  これって矛盾しているでしょう?」

そう説明されても、どうにも得心がいかない俺の反応を見て、黒猫はさらに丁寧な説明を始めた。

「つまり、あなたの妹はデレノートに名前を書かれて、その結果ノートの所有権を失ったわよね」
「ああ、そうだな」
「でもノートの所有者が居なくなると、それまでにそのノートに書かれたデレはすべてリセットされる。
  その時リセットされる対象に、デレたばかりの元所有者は含まれるのかしら?含まれないのかしら?」

あっ、と思わず声を出し、俺はようやく気づいた。

「普通に考えれば、あの女もノートによってデレた一人なのだから、リセットされるでしょうね。
  だけど、あの時のデレ神とのやり取りを見た限りでは、リセット対象外のような雰囲気だったわ」
「……デレ神がそういう反応を示してたなら、そういうものなんじゃねぇのか……?」
「そうかもしれないわね。でも、数あるルールの中で、曖昧になっていたのはその部分だけだった。
  だからわたしは腑に落ちないのよ」
「もし私の考えが正しいのだとすると、『デレによってノートの所有権を失う』というのは
  意味のない“死にルール”になってしまうけど、おそらくそれは複数のデレノートが存在する状況下で
  はじめて意味を成すものなのではないかと思うの」
「他のノートの所有者の名前を書いて、所有権を失わせるってことか……」

改めて指摘されると、確かに黒猫の言うようにルールが矛盾しているし、
そう言われてみると俺も、あの時、何かすっきりしないものを感じていた。
感じていたのだけど、あの場の雰囲気で、なんとなく“そういうものだ”と納得してしまっていた……
例えばさ、漫画や小説でこういう些細な設定ミスっぽいものに気づいても、物語として都合のいい方に
解釈してやるっていうか……そこはお約束としてスルーするじゃねえか?そんな感じだよ。
俺には、ドラゴンボールの神龍に「願い事の回数を増やしてくれ」と願い事するような無粋さは
持ち合わせていないのだ。

自論を説き終わり、再び歩き始めた黒猫に、今度は俺から問い掛けた。

「でもよ……実際のところ、桐乃は今でもデレてるんだぜ? お前の言う通り無意味な“死にルール”だったしたら、
  名前を書かれた所有者は、デレた直後にすぐデレ解除されているはずだろう?」
「もちろん、もしかすると本当に『デレノート所有者は解除の対象外』なんて例外ルールがあるのかもしれない。
  それはあのデレ神にしか分からないことよ。だけど――」

黒猫は視線をこちらに向けないまま、ぼそっと小声で言った。


「――デレノートの呪いがなくても、デレることは可能でしょ」

「それは……つまり…… 桐乃がデレを装っているかもしれないと言いたいのか?」

俺の言葉に黒猫は答えず、すました顔で正面を向いて歩いている。

「意味わかんねーし…… 第一そんなことをする理由が無いだろ?」

黒猫はピタリと立ち止まる。
気づくとそこは、俺の黒猫の帰宅路の分かれ道だった。

「たとえば、無意味な“死にルール”のことを知ったあの女が、この機会に乗じるために、
  デレ神と一芝居打ったのかもしれないわね。
  ――鈍感な先輩には理解できないことでしょうけど」

機会に乗じる……?

「まぁ、先輩に任せるわ。追求するもしないも自由よ。 それじゃ、また明日」

そう言い残し、黒猫はさっさと去っていった。
丁字路に残された俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
何なんだよあいつは。意味深な言い方しやがって……

ただ、実は俺にもちょっと気になっていたことがある。

デレの呪いに掛かった桐乃は、今朝のようにブラコン丸出しのお兄ちゃんっ娘に変貌を遂げ、
猫なで声の「お兄ちゃ~ん」呼びや、俺への過度の世話焼き、すぐにくっついて甘えてくるところなんか、
一見デレデレのようだけど、俺がこれまで見聞きしてきたデレノートによる“デレ状態”に比べると
なんか違うっていうか、まるでアニメに出てくる仲良し兄妹のテンプレートに沿って行動してるような、
そんな感じを受けるんだよな。
ブリジットの話だと、デレてたときの加奈子は、デレの副作用で無気力になってることが
しばしばあったというけど、桐乃の場合はそんなことも無いようだし……
それに、当初のあいつは、デレてくる動作が妙にぎこちなかったんだ……すぐ顔真っ赤にしてたし。

もしかして、本当に黒猫の言うように――

そんなことを考えながら家に着き、俺は玄関の扉を開く。
すると間髪入れずリビングの扉が開き、駆け寄ってきた桐乃が俺に飛び掛るようにして抱きついてきた。

「おっかえり~!お兄ちゃん!」
「お、お前……いちいちくっつくなよ!」
「ええ~っ、 せっかくカワイイ妹が出迎えてあげてんのに~」

抱きついたまま、俺の胸元で一瞬むくれた後にすぐ笑顔を見せる桐乃。
俺は、そんな桐乃の頭を撫でてやりながら思う。


まぁ、いいじゃねえか――
桐乃のこのデレが、デレノートの力だろうと自発的なものだろうと


俺の妹が可愛いことに違いはねえんだからさ。





おわり

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最終更新:2011年08月26日 23:30