☆このページでは、霧雨の野望における柳生宗厳について詳細に解説しています。
史実での柳生宗厳について詳しく知りたい方はwikipediaなどの柳生宗厳を調べてください
柳生宗厳(やぎゅうむねよし)(大永7年(1527年- )
筒井家臣。後姉小路家家臣。
討てない敵はほとんどない。
☆出生・家族構成
☆官位・役職
☆参加合戦
革新能力 |
統率62 |
武勇105 |
知略35 |
政治20 |
義理85 |
足軽S |
騎馬D |
弓D |
鉄砲D |
計略D |
兵器D |
水軍D |
築城D |
内政C |
|
石舟斎。元は大和の豪族だったが太閤検地により改易。
上泉信綱から印可を受けた新陰流の剣豪として再起、後に家康から剣術指南を乞われた。
若い頃に磨きに磨き抜いた一芸が、いざという時に身を助ける最たる例か。
知名度の高い剣豪だけに評価も高く、その武勇は素で100を超える。
号は石舟斎。上泉信綱の弟子。疋田豊五郎の剣術勝負に敗れ、信綱に弟子入りをした。
1565年に免許を皆伝し、新陰流の嫡流として「柳生新陰流」を創設した。
なお、豊五郎は傍流の「疋田陰流」を創設したとされる。
史実でも筒井家に仕え、その後信長の大和入りの案内役も務めたが、太閤検地で
柳生の里の隠し田が摘発されて所領を失う。
晩年は家康の剣術指南役を請われたが、これを宗矩に譲った。
ちなみに十兵衛は彼の孫に当たる。
新陰流継承者。
67歳の時に徳川家康と対決し無刀取りで破り剣術指南役として請われたが辞退し息子を推挙する。
「新陰流を継ぐ程度の能力」
「未熟さを悟り再修行した程度の剣豪」
最終更新:2009年01月05日 00:48