岩村城の戦い
☆このページでは、霧雨の野望における岩村城の戦いについて詳細に解説しています。
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岩村城の戦いとは永禄11年11月に武田と姉小路の間で起こった戦い。
参加兵力及び戦力評価
武田家
岩村城守城
山上照久→
真田幸隆→
武田義信
岩村城所属総兵力57000+援軍26000(12月5日前後)+援軍6500(12月20日)
背景
美濃岩村城は武田家の美濃攻略及び信濃防衛のための最も重要な出城の一つであった。美濃での数度にわたる合戦の結果武田家は多くの兵を失って次第に劣勢になったが、なおも武田家東山道方面軍の大将である
武田義信が八万もの兵力を率いて岩村城を守っていた。この時点で姉小路家の美濃に駐在していた兵力はおよそ9万ほどであり、兵力が均衡していたために双方手が出せなかった。ところが
永禄十二年八月の戦いで姉小路家は北信濃の海津城を得たことから状況は変化した。
武田義信は姉小路家の海津城領有を良しとせず、奪回のために岩村城から2万6千を率いて出陣した。これによって美濃方面の武田家と姉小路家の兵力の均衡は破られたのである。
概要
竹中重治は武田義信出陣の報を得ると即座に軍の編成を命じた。急編成であり、率いる武将は半月以内に出陣できる者に限ったため参加武将は美濃駐在諸将及び尾張駐在の将のごく一部であった。
総兵力はおよそ8万。先陣は竹中重治本隊が勤めた。
対する武田家は岩村城の外堀というべき岩村川の東岸に布陣した。岩村に残る兵力は5万7千以上で決して少ない兵力ではなかったが、率いるべき将が不足しており武田の迎撃部隊は上泉隊、小幡隊の2部隊わずか1万6千と寡兵であったため、渡河点全てを守りきる事ができなかった。
竹中隊と羽柴秀吉隊が上泉隊、小幡隊両隊を引きつけたため、姉小路の他の部隊は容易に岩村川を越えて城攻めを開始することができた。
一方の武田義信は海津城へ進軍していたが、守将の黒田孝高が海津城を破却して越後へと撤退したため何も得るところ無く岩村城へ退却することとなった。この部隊が岩村城へと帰ってきたのが12月5日前後だが、その頃には岩村城の城門は焼け落ちていた。
しかし、武田方も主力の武将が揃ったため合戦は激しくなった。中でも姉小路家の鉄砲隊へと攻撃を加えようとする武田の諸部隊と、それを防ごうとする羽柴秀吉隊の戦いは熾烈を極めた。
秀吉隊は武田騎馬隊の波状攻撃を受けてなお硬く陣を守っていたが、守るばかりではなく12月5日のように陣から突出し逆襲。秀吉隊が武田諸隊に与えた打撃自体は軽微であったが、常に武田の攻撃を引きつけて他の姉小路諸部隊の被害を軽減した。
その後の戦況は姉小路勢に有利に推移した。紅魔弾幕隊の集中砲火で精鋭の義信隊を退却させることに成功すると、八雲隊も乱戦の中、保科隊の将の保科正俊を包囲することに成功、保科正俊は自らの武勇でなんとか脱出できたものの保科隊は大混乱に陥った。
前線の一角を担っていた保科隊の急な崩壊に武田勢が対応できず、全出撃部隊をも一時混乱に陥らせた。
だが、何よりも姉小路勢を有利にしていたのは竹中重治配下の優秀な薬師による傷兵の治療である。姉小路勢は常に兵力の補給を受け続けているも同然であった。
損害の殆どは秀吉隊で押さえ込んだために秀吉隊は大きな被害を出し、終結まで最前線での戦闘を続ける事はできなかったが、
秀吉が前線から後退した頃には勝敗は決していた。翌永禄13年1月2日、岩村城は陥落した。
この戦いの影響
永禄8年
美濃防衛戦以来の美濃の中心部を巡る武田と姉小路の戦いはこの戦いで武田が岩村城を失った事で幕を下ろした。
姉小路家は信濃攻略を企図していたが、信濃深志城への道は大変な難路続きで通行には街道周辺の住民の慰撫と協力が必要であったため拙速を避けた。
以降、この地方では岩村城代の羽柴秀吉によって住民への調略が行われ、将来の信濃攻略への準備が行われていく。
武田義信は多くの兵を失い、深志城へと退却。東海道方面からの将兵の補給を受けてこれを守備する事となった。
逸話
この合戦の功によって羽柴秀吉は岩村城の城代に任命された。
この岩村城代は武田家の部隊はもちろん、
美濃国内の撹乱や諜報を行う間者を防ぐ任務を帯びており、いわば美濃の大田園地帯を守る楯であった。
それと同時に甲斐に次ぐ最重要拠点である信濃を攻略する為の諜報と調略を行う任務も帯びており、いわば武田領に突き出した矛でもあった。
戦略担当の竹中重治が、軍議中に「蜂須賀殿が二人欲しい」と嘆いた逸話があるほどの重職である。
この職に武将としてが中堅程度の地位であった秀吉を抜擢するのは異例中の異例であった。
岩村城駐在の武将には赤井直正のような守護や守護格の上級武将も含まれているため、
中堅武将の秀吉ではまとめられない恐れから本来であれば通らない人事であったが、
この合戦での秀吉の活躍は諸将を納得させるのに十分な功績であったし、
岩村城駐在の中では最大級の実力を持つ八雲紫率いる旧幕臣衆という強力な推薦者がいたため、この異例の抜擢となったのである。
この戦いで秀吉隊は山上道及隊、相馬義胤隊、原虎胤隊などの敵部隊から集中的に攻撃された。
これは姉小路家の中では足軽隊が技術的に最弱であることが大きな要因である。
にもかかわらず、同部隊は合戦の最初からほぼ最後まで敵部隊を食い止め、友軍の被害を抑えた。
ただし、その勇戦ゆえに羽柴隊の被害は大きく、全軍の戦死及び行方不明率だけで実に3割を超え、部隊死傷率はおよそ99%。
しかも、一度負傷して竹中隊の治療によって戦闘に復帰した者が多く居り、延べ死傷率では150%を超えるという説もある。
この被害状況でこれほど戦えたのは羽柴秀吉の部隊統率力が優れていた点が大きい。
ちなみに、死傷率の高さによって当合戦で秀吉隊は一度の合戦における最多の感状獲得記録を更新した。
(これまでの最高記録は
山口館の戦いにおける博麗霊夢隊。秀吉隊同様に非常に高い死傷率で知られている。)
最終更新:2011年07月17日 20:30