新発田城の戦い
新発田城の戦い(しばたじょうのたたかい)とは永禄12年に行われた姉小路家が揚北地方の新発田城を攻略した戦いである。
参加兵力及び戦力評価
概要
姉小路家は
南越後攻略戦以降の一連の合戦の結果ほぼ越後全土を掌握しつつあり、残っているのは阿賀野川以北の揚北地方のみであった。
姉小路軍は大宝寺義氏を案内役に3万6千をこれの制圧へと向けた。
対する新発田城に篭る上杉家は僅か6千5百余り。新発田城は春日山城のような石垣などの近世的改修を一切受けていなかった。
攻撃開始は11月15日の未明であったが、わずか半月の11月30日に落城してしまった。
上杉謙信自身が僅かな手勢を率いて援軍に向っていたものの、12月2日、越後と出羽国境付近の小国村にて落城の報が届いたため、一部の旗本を偵察に残して山形城へと帰城した。
この戦いの影響
一連の戦いで姉小路家は越後を統一した。
しかし、その間に上杉家は十三年に及んだ奥羽及び蝦夷征伐にけりをつけた。
そのため、姉小路家は後顧の憂いを除いた上杉謙信と直接対峙することとなり、
南越後攻略戦以来の快進撃はこの合戦にていったん終息した。
逸話
この戦いの直前に蠣崎家は上杉家に降伏した。
嫡男
蠣崎舜広の毒殺、及び当主
蠣崎季広の突然の危篤によって内乱が発生したためである。
この内乱は蝦夷諸勢力の介入を招き、上杉家によって鎮圧された時には、
主な一族郎党で生き残れたのは意識不明の重態のまま菩提寺で看病されていた蠣崎季広、
箱館港にいた
蠣崎慶広、商家に保護された幼少の蠣崎守広の三名だけであった。
記録類は焼失し、主だった家臣の大部分が討死、
唯一の生き証人である季広も生涯沈黙をし通したので、この内乱の経緯について信頼できる記録はほとんど存在しない。
ただ、
南条広継夫婦と蘭姫の悲話が民話として語り伝えられているだけである。
揚北地方に領地を持つ揚北衆は謙信が家督を継いだ当初は、
上杉家の純然たる家臣というよりは上杉傘下の半独立大名のような扱いを受けていた。
時が経つにつれて色部氏や中条氏のように譜代同然の忠誠を誓う者もいたが、
新発田氏や本庄氏のように依然として自立を志向している家も存在した。
姉小路家はこの本庄氏の自立志向を利用して捕虜にした本庄繁長を寝返らせようとしていた。
繁長は嫡男、次男を上杉家に人質に取られていた為に最初は応じる気配も見せなかったが、
揚北地方全土という条件を提示されて徐々に姉小路家に心が傾いていった。
しかし、外交僧の快川紹喜の交渉によって繁長は開放、姉小路家に下る事はなかった。
最終更新:2011年07月17日 20:29