糸魚川の戦い

糸魚川の戦い(いといがわのたたかい)とは永禄11年から永禄12年の冬にかけて姉小路家と上杉家の間の起きた戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路家
(永禄11年11月10日)
富山城兵
第一弾幕隊:鉄砲隊12500:柴田勝家小島職鎮鈴木重兼
第二弾幕隊:鉄砲隊15500:伊吹萃香黒田孝高鵜殿長持
先陣本隊:騎馬隊13377:朝倉宗滴朝倉景紀朝倉義景
火力本隊:鉄砲隊9500:鈴木重秀アリス・マーガトロイド真柄直隆
第三弾幕隊:鉄砲隊9000:磯野員昌レティ・ホワイトロック鈴木重泰
第四弾幕隊:鉄砲隊4453:本願寺顕如鈴木重意原長頼

(11月15日)
築城隊:6500:海北綱親

(永禄12年1月15日)
援軍弾幕隊:鉄砲隊8500:佐々成政百々安信天野景貫

(1月20日)
後詰本隊:騎馬隊6000:浅井長政八雲藍紅美鈴
後詰弾幕隊:鉄砲隊9500:十六夜咲夜レミリア・スカーレット朝倉景鏡

最終投入兵力88327


上杉家
春日山城兵 留守居厄:最上義光(計略担当)
迎撃隊(12月10日)
上杉景勝四季映姫・ヤマザナドゥ富田氏実:騎馬隊14500
柿崎景家斎藤朝信:騎馬隊9500
村上義清:騎馬隊9500
本庄繁長:騎馬隊8000
水原親憲中条藤資:騎馬隊8000

(1月20日)
延沢満延:騎馬隊6500

2月10日
上杉景勝:騎馬隊6500
新発田重家四季映姫・ヤマザナドゥ:騎馬隊6500

最終投入兵力69000

姉小路家として初めての対上杉攻勢作戦である。第三次越中防衛戦の勝利により上杉方の兵力を損耗せしめた姉小路にとって待ちに待った好機の到来と言えよう。北陸の主立った将達が一同に会し、士気旺盛である。
越中富山城・越後春日山城の距離が長いため、野戦となることは必至。上杉の騎馬隊は武田騎馬軍と並び称されるほどの精兵揃いである。
数度に渡る防衛戦はなんなくこなしたものの、攻勢作戦は困難となることが予想される。

合戦までの経緯


 富山城を巡る合戦は、上杉家の一方的な敗北に終わった。
しかし、大被害ではあったものの素早い撤退により致命的打撃を免れ、春日山城にはそれなり以上の兵力を備えていた。
これまで越中の姉小路は越後の地に侵入してくることなかった為、上杉は東北を制圧した後に、完全編成で再び越中を狙えばいいと考えており、受けた傷を癒す時間は十分にあると考えていた。
 一方の姉小路は中国地方の制定をほぼ終え、その戦略的指針を東方へと向ける余裕が出来た。
上杉が未だ東北を制圧していない状況、春日山城の戦力低下と合わせて、攻勢に出る機と判断し、出撃を決定した。

概要

 春日山城は上杉にとって本拠であると同時に、何よりも重要な経済拠点であった。
頸城平野に広がる春日山の城下町は、元関東管領、上杉憲政が暮らす府中の町と合わせ戸数一万軒、人口七万を有しており、日本海側屈指の大都市であり、 隣接する直江津湊からは京へ名産の麻を送るなどし、貿易の拠点でもあり、佐渡島で産出される金の集積地点でもあった。
最も経済的に豊かであったのは春日山の東方、魚沼郡あたりであったが、西方からの侵略者に対して、春日山の重要性に変わりはなかった。
度重なる越中への進撃で、上杉軍はその戦力を大きくそぎ取られていたが、一連の越中戦に比べて、優位な点が数多く存在していた。
まず、春日山の地が上杉にとって本拠であったということ。そして多くの将が春日山の重要点を何よりも理解していたということだ。
その結果、上杉景勝という上杉家次代跡継ぎを中心とした、固い結束が生まれた。
揚北衆、本庄繁長も、春日山を失えば、自らの本拠である阿賀野川周辺の本拠が危機に陥ることを何よりも理解しており、反旗を翻すそぶりすらみせなかった。
特筆すべきは村上義清だろう。
経緯は省略するが、信玄によって奪われた国土の奪還を彼は何よりも重視していた。元本拠、北信濃の葛尾城への道は春日山と直結しており、春日山を失うことは彼にとって何よりも避けたいことであった。このことから村上の今回の戦にかける意気込みは凄まじいものであったという。

 姉小路軍にも不利な材料はあった。豪雪の中を急行軍で進撃しており、寒波による総合的な戦闘力の低下が考えられた。
豪雪と悪路の影響は、補給部隊にも多大な影響をもたらした。山口館の戦いで得た教訓も、わずか半年の準備期間では解決は不可能であった。
このように、姉小路側も大きな不安要素を抱えての戦であった。

 姉小路軍は不足が懸念される糧食に関して、越後国境に新規の城を築く一方、上杉家の砦や城塞の食料の回収に努めた。
越中攻防戦の際、上杉家は春日山西方の城、砦に食料をかなり備蓄しており、それらは残されたままであった。
この事実は上杉が、戦力の回復後、再び越中を狙っていたことを如実に物語っている。
これを油断と言ってしまえばその通りではあるが、裏を返せばそれだけ越後の冬が厳しく、その時期の侵略は常軌を逸しているのだといえるだろう。(皮肉にも謙信の父、長尾為信は1521年の12月に越中侵略を行っているが…)。
回収された物資は姉小路側の兵站事情を大いに助けることとなった。
しかし冬そのものの脅威が去ったわけではなく、多くの者は寒さに震える中での行軍となった。

 上杉景勝以下の強力な騎馬部隊が出撃したのは12月10日。この時期には珍しい晴れの日の出撃となった。
姉小路軍はそれを確認すると、かねてからの作戦通り、引きつけて撃滅する為、一時西への撤退を開始。上杉もこれを追撃する様子を見せた。
しかし積雪の為か、朝倉宗滴隊への敵発見の報告が大きく遅れ、取り残される形になってしまった。
報告が遅れただけでなく、鉄砲隊の指揮官が撤退時の手間をなくそうと総大将宗滴に(撤退するという)伝令を送ると同時に後退を始めたことも原因の1つである。部隊を預かる将が優秀だったという証明だが、今回はそれが裏目に出てしまった。
 結果、宗滴隊は孤立、上杉軍主力の矛は当然ながらこの隊に向いた。
宗滴は後退は困難、後続部隊の救援を頼りに耐え忍ぶよりほかないと判断し、防御戦を開始した。

 一方、後退していた弾幕隊は宗滴隊が後退した様子がないことをここにきて認識し、救援の為、各部隊長の判断ごとに動き出した。
柴田勝家や鈴木重秀、黒田孝高、本願寺顕如といった将達の判断力が優れていたことをここでも証明した。
しかし、姉小路鉄砲隊の中核をなしていた鈴木重秀隊は突如反転し、魚津へと向かった。後続部隊との合流を図った説。最上義光など上杉方の謀略説など様々な説があるが、いずれも現実的にありえないとされ未だ明らかにはなっていない。
鈴木重家隊が後退した結果、宗滴の救援に駆けつけられるのは柴田、黒田、そして顕如隊の三隊となった。しかしこれらはいずれも鉄砲を主体とした部隊であり、騎馬隊相手に正面から殴り合うには策が必要であった。
特に気候が氷点下に至る極寒状況では流石の明智筒も安定性が低下し、騎馬隊への打撃力が低下していた。

 まず、本願寺隊が上杉の暴風のような攻撃によって崩壊。顕如が捕らえられるほどの大敗北を喫した。
救援を急ぐあまり、乱戦に向かない銃兵で騎兵中心の編成に立ち向かったのがその敗因であった。
同様の攻撃に曝された柴田隊も瞬く間にその戦力をすり減らし、壊滅の危機に瀕したが、この部隊は奇跡的に後退に成功する。
機動力に劣る鉄砲隊、それも多数の負傷者を抱えた状況にも関わらず撤退が成功したのには、柴田勝家と参謀、小島職鎮の巧みな戦術判断によるところが大きかった。
しかし、その代償は大きかった。左翼を占めていた柴田隊の後退は隣で陣を敷いていた黒田隊が丸々孤立することを意味するからだ。
もちろん撤退することを柴田は黒田に連絡したが、乱戦の最中、伝令が届くことはなかった。
左翼の空白に突撃したのは柿崎景家であった。間髪入れず姉小路の前線部隊と後方支援部隊の狭間に滑り込み、前線部隊を背後から襲撃した。
黒田隊にとり、これは非常に驚異となった。ただでさえ柴田隊が後退したことによって前面の担当すべき防御範囲が広がっており、火力の集中が不可能になっていたのに加え、本来安全なはずの背後からも攻撃を受けることになったのだ。
黒田も独自に柴田隊の後退を察知していたが、対策を打つには時間と兵があまりに不足していた。
これを機と見計らったのか、斉藤隊、村上隊などの上杉の将が一気に黒田隊を押しつぶそうと果敢に攻め寄せた。
黒田はこれを雪壕による仮設陣と限定的な火力集中、そして伊吹萃香を中心とした一部の精鋭隊によって逆襲を駆使、退路が確保されるまでの時間稼ぎを図った。
しかし、上杉方がその時間稼ぎに感づき、損害を顧みず黒田隊への攻撃の手を緩めなかったのが災いした。
 後方の磯野隊、そして再配置をすませた柴田隊は懸命に柿崎隊の排除を試みたが、その排除を待たずして、黒田隊は崩壊。
黒田は負傷した伊吹萃香と共にわずかな護衛を引き連れ富山へと退いた。
「もし和泉守(柿崎景家)に分別さえあれば、越後七郡に敵無し」と謙信にいわれた柿崎であったが、今回はその分別のなさが黒田隊を壊滅させたのだから、皮肉としかいいようがないだろう。
それとほぼ同時に柿崎隊も壊滅。これによって柿崎隊がそのまま朝倉隊の背面を襲撃し、前線が完全崩壊することだけは免れた。
これは黒田と伊吹と鵜殿の戦線離脱を大いに助けた。何よりも黒田隊を崩壊させた斉藤、柿崎、村上隊が宗滴隊に殺到したのが3人の命を救った。

 姉小路の後詰め部隊は既に戦場に加入したのはこの前後になる。上杉景勝も一時城へ退き戦力を立て直した後再度出撃。負傷しながらも四季映姫も新発田隊の与力として戦場へと舞い戻った。
宗滴隊はこのとき、上杉景勝隊、中条藤資隊と連戦し、さらに側面から水原隊からの攻撃を受けつつも粘り強く抗戦を続けており、上杉方に損害を与え続けていた。
それどころか逆に宗滴は策を弄し、上杉部隊を攪乱し水原隊を崩壊させるほどの打撃を与えた。
村上、本庄もまた黒田隊を壊滅させる際に受けた損害が大きく、撤退。
再度出撃した新発田、景勝隊も疲弊しきった馬では状況を打破することができず、撤退した。

戦闘は姉小路の勝利だったが、受けた損害はあまりに大きく、春日山城の制圧は困難と判断し、新規に築かれた魚津へと撤退した。
多数の負傷兵を抱えた状況下の撤退は困難を極めたが、勝ち戦と各将の鼓舞も手伝い、最小限の被害での撤退に成功した。
 部隊が帰還したとき、魚津城では海北綱親の指揮のもとに作られた、温かい味噌汁と白米が待っていたという。

この戦いの影響

 姉小路の目的が春日山城の制圧であったのならば、戦術的辛勝、戦略的敗北といえる戦であったといえる。
しかし、春日山城の戦力をすり減らすという目的ならば姉小路側の勝利といえるだろう。
 上杉家は越中再侵攻はおろか、春日山の防御にも不安が残る程の損害を被った。再度姉小路が越後に侵入した際は城を盾に戦う策をとるしかなく、作戦の自由度を大きく失うことになった。

逸話

この合戦は姉小路良頼にすら事後報告しか行われていない。現場の判断で行われた合戦である。
北方軍の軍団長にはそれだけ大きな権限が与えられていた。
これは、姉小路家の領地が広大であることもさることながら、
冬季の越中の交通の便が悪いことからの配慮である。
そのような電撃戦であるにも関わらず、各地から越中への物資の補給は円滑であった。
これは姉小路家の奉行衆が量的質的共に優秀である事の証左であろう。
姉小路家が各地で電撃作戦を行う事ができたのは、
前線基地への円滑な物資の補給があってこそである。

この合戦は現場の独断ではあるが、一部の将には予想の範囲内であったようだ。
第三次越中防衛戦が終了した折、姉小路領内の御用商人や諸将から越中に戦勝祝いの品が届けられた。
多くは宗滴が文化人であることから、茶器などの美術品や名刀古刀であった。
姉小路良頼からは褒賞の石見銀や生野銀、飛騨金などが送られたようである。
そんな中、竹中重治は2000着もの木綿の陣羽織を送った。これは越後侵攻が近いことを察した
竹中重治が寒さの厳しい遠征になることを予想して防寒具を送ったのだと言われている。
明智家からは500帖もの油紙が贈られている。これは、河川や海の付近を移動する際、
水に弱い鉄砲弾薬を保護するための必需品である。この合戦の行われた糸魚川では雪が多く、
移動の際も海や川が多かったので重宝したといわれている。
その他、羽柴秀吉の提案で材美濃の諸将からは寒冷地で暖をとるための良質の飛騨木炭、
それとは別に美濃衆を代表して斉藤義龍から防寒対策の美濃和紙が贈られた。

魚津城築城は後世の魚津の発展の要因の一つである。
この戦いまでは魚津城周辺は名目上姉小路領であったといえ、
実質は上杉氏と姉小路氏の両方に属していた。
魚津は上杉家の侵攻に度々晒されていたが姉小路氏はこの地域の防衛をするのが困難と判断。
また、上杉氏も魚津が陸の孤島であり、富山城を落とさない限り維持が困難であると判断していた。
このために両家領の緩衝地帯となっていたのである。
しかし、今回の合戦に勝利して魚津城が築城されたため、名実ともに完全な姉小路領となった。
これまで姉小路家にとって危険な土地であったため、姉小路領の松倉金山から産出される金は、
魚津港を避けて移送されるなど、長年交通の要所で恵まれた地形のわりに不遇であった魚津も、
城下町としていよいよ発展していくこととなる。

この合戦では携行食糧についてさまざまな試みがなされた。
中でも、たったの四粒で一日に必要な栄養をほぼ摂取できる兵糧丸は既存の糒(ほしいい)などと比べて
携行性や栄養価が上回っていたために、兵糧事情改善に大いに期待されていた。
実際にも大きな効果があったのだが、蜂蜜や鰹節など一部材料が高価であること、満腹感に欠けること、
味が良くないことなど将兵の不満が高まり、その後は既存の兵糧との併用という形で収まった。
この後の合戦では、間食、非常時の栄養補給用として利用されていたようである。

兵糧丸はその後も改良を加えられた。生産初期に比べて安価になり、
特に味については飛躍的な進歩がみられた。
なぜ味の改善が重点的に行われたかと言うと、
姉小路の兵糧丸がまずいことで有名になってしまったからである。
よほど印象深かったのであろうか、この合戦の参加者の苦労話には強敵上杉、越後の冬の寒さに続いて
大抵この兵糧丸が登場していた。この話が各地に伝播したようである。
兵糧がまずいというのは不名誉であることのみならず、募兵や士気にも差し障る恐れがあった。
そこですぐに味の改善が図られたという次第である。
幸いなことに募兵や士気には影響は見られなかった。
ただし、その努力に関わらず、この後も兵糧についての冗談話のオチとして扱われる事となったのである。

他には味付き糒といって糒自体に味噌を染み込ませて味噌を携帯する手間を省く物があったが、
この合戦の後の採用は見送られた。表向きは保存性にやや問題があるという理由であった。
しかし本当のところは、当時の兵士は配給された糒の一部を酒に加工するということをしていたのだが、
味付きだと酒にも味がついてしまって不味くなるからであったという。
なお、戦後にこの味付きの糒は味噌味や甘みをつけて御菓子として売られるようになった。
後の雷おこしの原型である。

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最終更新:2009年08月16日 19:07