尾張攻略戦

尾張攻略戦(おわりこうりゃくせん)とは永禄11年から姉小路家と武田家の間に起こった戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路軍

亀山城兵54797
(8月25日)
大和衆本隊:鉄砲隊9500 :松永久秀松倉重信簗田政綱
主力鉄砲隊:鉄砲隊14500:下間頼廉荒木村重乃美宗勝
遊撃騎馬隊:騎馬隊9500 :八意永琳北畠具教百地三太夫
支援鉄砲隊:鉄砲隊8500 :滝川一益蓬莱山輝夜岡吉正

稲葉山城兵146559

(9月5日)
先発隊:鉄砲隊9500:八雲紫中川清秀
本隊 :騎馬隊15000:竹中重治小野寺輝道斎藤龍興
先鋒隊:騎馬隊14500:斎藤義龍蜂須賀正勝河尻秀隆
火力弾幕隊:鉄砲隊9500:十六夜咲夜レミリア・スカーレット滝川益重
攻城部隊:足軽隊13500:武田信虎羽柴秀吉柳生宗厳

(9月25日)
援軍本隊:鉄砲隊15500:明智光秀細川藤孝羽柴秀長

(10月5日)
後詰本隊:鉄砲隊13500:姉小路頼綱霧雨魔理沙ルーミア

(10月10日)
後詰第三陣:鉄砲隊14000:博麗霊夢江馬輝盛江馬時盛
後詰第四陣:鉄砲隊8500:斎藤利三明智秀満紅美鈴

武田軍
尾張遊撃軍:55000
小牧山城:31177(9月30日時点で遊撃軍合流よって96000)
第一迎撃隊:騎馬隊13500:武田義信
第二迎撃隊:騎馬隊20000:諏訪勝頼飯尾連竜
第三迎撃隊:騎馬隊7000:小幡憲重
第四迎撃隊:足軽隊7500:上泉信綱
第五迎撃隊:足軽隊7000:正木時茂渡辺守綱
第六迎撃隊:兵科不明9000:原虎胤
第七迎撃隊:兵科不明9000:飯富昌景
第八迎撃隊:兵科不明8500大久保忠世
第九迎撃隊:兵科不明7500:田村隆顕
その他里見義弘が与力として参戦。

(10月15日)
第一奇襲部隊:足軽隊3000:馬場信房

(10月30日)
第二奇襲部隊:足軽隊3000:真田昌幸

清洲城:5086
守将:不明(小牧山城陥落後は武田義信が指揮)

岩村城:55156(9月15日)
第一部隊:弓隊14500:武田信繁
第二部隊:足軽隊8500:太田資正矢沢頼綱
第三部隊:弓隊8000:大関高増
第四部隊:兵科不明8500:馬場信房


三度に渡る美濃防衛戦とは攻守が替わり、姉小路側が攻撃側である。30万近い兵力を誇った武田軍は半減し、互いに約14万で兵力ではほぼ互角。
将は姉小路側に博麗霊夢、霧雨魔理沙、明智光秀が加わっているので第二次稲葉山会戦のときに比べればまだましか。
小牧山城・清洲城同時攻撃が如何なる状況を生むか。

合戦までの経緯

永禄9年の合戦以降、尾張国は武田の有に帰していたが、第二次稲葉山会戦で武田軍が大敗したことによってその実力は弱まった。
大和衆軍団長松永久秀は侵攻の好機と判断し、伊勢亀山より尾張へ侵攻した。
その数4万2千。亀山に守備を置いたのを除けば大和衆のほぼ全軍である。

その一方で、単独での制圧が困難であることから、姉小路良頼を通じて美濃へ援軍要請がなされた。
良頼は嫡子頼綱を派遣してこれを総大将とし、竹中重治に補佐せしめた。
その上で美濃国主斉藤義龍に出兵を促した。
斉藤義龍は各地の戦線に散らばっていた美濃衆を糾合、明智光秀およびその配下にも良頼を通じて参加を要請した。

美濃衆の全力と言ってよいその兵力を主力に、姉小路家直轄軍、武田信虎配下、旧幕臣衆、旧尾張衆を加えて
美濃の総兵力は稲葉山城の守備隊4万5千を除いても、12万5千という大軍であった。

武田軍は第二次稲葉山会戦での敗戦以来、侵攻を警戒して尾張へ後方より次々に兵を送っており、
敗走した兵力も集まってその数は10万近い大軍となっていた。この方面の大将は武田信玄嫡男武田義信。
また、岩村城にも敗走した兵を中心に6万に近い兵力が詰めて掎角を成していた。岩村城城主は武田信玄弟武田信繁である。

概要

大和の姉小路家の侵攻を感知した武田義信は北条家に援軍を依頼、清洲に兵力を集中させた。
しかし、稲葉山城の発の軍が思わぬ大軍であることを知った義信は迎え討つべく尾張国の北限の城である小牧山城に兵を移した。
小牧山城に武田軍が集まる前に姉小路軍先鋒が到着、原虎胤隊、上泉信綱隊と交戦状態となった。
しかしながら9月30日には清洲城からの援軍が到着し、兵力は均衡している。

なお、先に出陣したはずの大和衆は何故かこの間清洲城に向かわず伊勢尾張国境付近に留まっている。
公的な説明としては、『北条家が大挙して亀山を突く恐れがあり、備えていた』というものであったが、
実際は美濃衆に武田軍と戦わせて互いにを消耗させ、その上で清洲を中心とした尾張国の大部分を自軍の兵を温存しつつ領有しようとしていたという見方が有力である。

さて、小牧山城の武田軍と姉小路軍はこの時点では均衡しているものの、
美濃には未だに余力があり、また、大和衆も不参加で、これらが参戦すれば尾張勢が不利となるのは必至であった。

しかし、9月15日、武田信繁の軍約4万が岩村城を出陣。中山道を避けて目立たぬよう山中の道を行軍した。
9月25日に稲葉山から出陣した明智援軍本隊は犬山に近づく武田信繁隊を察知した。
犬山は小牧山を攻める姉小路軍の背後にあたり、稲葉山城も指呼の間という戦略上の要地である。
姉小路頼綱はこれに対応するために後詰隊の出陣予定日を繰り上げて出陣させた。
しかし、予想以上の信繁隊の進軍の速さに間に合わず、信繁隊は犬山布陣に成功した。
ここにおいて、小牧山城を攻めている本隊も後方を扼された形となって、城攻めを一時して後方の信繁隊を排除せねばならなくなった。
その際、小牧山の武田軍から追撃を受ける危険が生じたが、殿軍の竹中隊が猛追撃してきた武田義信隊へ伏兵をしかけ、武田軍が一時混乱に陥ったために事なきを得ている。
小牧山攻城部隊は後詰の姉小路頼綱隊、博麗霊夢隊、斉藤利三隊と挟撃する形で殺到した。
一時の混乱を収めた武田義信隊、諏訪勝頼隊、飯富昌景隊が中心となって前線を押し上げ、主となる戦場は犬山へと移った。
これにより疲弊していた小牧山城は一時的に態勢を立て直すことに成功している。

しかし、竹中重治はこの状況を利用して策をしかけた。信繁隊を包囲し、これを囮に小牧山軍をおびき寄せたのである。
岩村城にいた兵はその多くが第二次稲葉山会戦の敗残兵であり、装備も貧弱で、特に馬の不足は深刻であった。
さらに包囲されたことで補給もままならず、戦況が煮詰まった頃には信繁隊は矢を射ち尽くして飛礫で反撃していたという。
これらの要素が重なって被害は甚大になった。
10月22日に太田資正の副将で武田家重臣真田幸隆の弟矢沢頼綱が乱戦の最中に八雲紫に討ち取られたことでもその状況はある程度伝わるであろう。
小牧山城から出陣した武田軍は信繁隊を救出するべく、幾度となく敵陣に切り込もうと試みたものの、待ち構える姉小路軍の前に被害を拡大させた。
結果としてこの救出作戦が全体の戦況を著しく悪化させたと言える。
飯富昌景隊は明智光秀隊に突撃を試みるものの、散開した明智隊に半包囲されて激しい銃撃を受け、
わずか一日の合戦で6千を越える死傷者をだして実質無力化した。
また、諏訪勝頼隊は信繁隊を包囲している実質的な要である竹中隊に切り込み、これに被害を与えるものの、
レミリア隊に側面より銃撃されて配下の将飯尾連竜を失った。
武田義信隊は斉藤義龍隊の足止めを受けているところで八雲隊に急襲され、混乱したところを八雲隊、さらには霧雨隊に追撃され、敗走に至った。

一方、清洲城ではようやく大和衆が攻城を始めていた。
しかし、北条軍が伊勢北部に侵攻したために松永久秀隊及び下間頼廉隊は伊勢亀山城にしりぞき、
八意永琳隊及び滝川一益隊のみで清洲城へ攻撃を仕掛けた。

清洲城に篭るのは兵は5千足らずに過ぎず、八意永琳隊と滝川一益隊だけでもこれの4倍近い兵力を保有していたものの、
真田丸によって強化された清洲城は堅く、鉄砲櫓の被害もあって易々と落とせる状況ではなかった。
途中、遊軍であった馬場信房3000が奇襲をしかけてくるものの、滝川一益の哨戒網にかかって逆に攻め立てるなどといったこともあっが、大和衆単独では攻め落とすのは困難であった。

さらに10月30日早朝、真田真幸は自身で育て上げた精鋭三千を率いて八意永琳隊へ奇襲をかけた。
折りしも兵が朝餉の支度をしている最中であったため各所から火の手が上がり、混乱を増大させた。
実は真田昌幸は奇襲の前日の10月29日に小牧山城で守城の指揮を執っている姿が目撃されており(影武者説もある)、八意永琳隊や滝川一益隊にも伝わっている。
小牧山から清洲までの距離を考えれば、その日のうちに人知れず城を脱出、闇夜に紛れて行軍し、息もつかせず八意永琳隊を急襲したことになる。

真田昌幸の奇襲が察知されなかった最大の要因はこの異常なまでの行軍の速さによるものと思われる。
この奇襲の被害を拡大させたのは松永久秀の命で滝川一益隊がその日の夜半に突如陣触れを出して後方へ引き上げたこと、さらにこの命令が八意永琳隊に伝わらなかったことによる。
これによって八意永琳隊は前線にあって孤立し、馬場隊と真田隊に挟まれて混乱を立て直すこともできずに命令系統を破壊されてしまったのである。
この事態に対する滝川隊の反応は鈍かった。
一益は松永久秀へ再度指示を仰ぎ、許可が下りてはじめて馬場隊へ攻撃を加えたほどである。この後、八意隊は成すすべもなく潰走している。

滝川隊、松永隊は北条軍を下間頼廉隊及び亀山城兵に任せて八意隊が敗走した後も清洲城下に残り、攻城を仕掛けた。
しかし少数ながら真田隊は清洲城に取り付こうとする姉小路軍に急襲と撤退を繰り返し、城攻めを妨げたことで容易に事は進まなかった。
真田隊に気をとられるあまり、滝川隊は太田資正隊から奇襲を受けて潰走寸前に陥っている。
その際に滝川隊陣地へ軍犬を使って放火するという奇策を用いている。

滝川隊が体制を建て直した後、今度は滝川隊と松永隊が真田隊へ夜襲を試みた。
しかし、この情報は武田軍に漏れていた。
真田真幸は陣地に油をかけた柴など可燃物を多く仕込んだ。もぬけの殻の真田隊陣地を襲撃した松永隊に真田隊は火を放ち、混乱に陥れた。
この混乱で松永隊は壊乱、真田隊の追撃を受け、近くを流れる庄内川で多数の溺死者をだした。
一方、滝川隊も友軍の潰走に動揺しているところを太田隊に襲われ、被害を出している。
この戦闘は松永久秀の首も危ういほどであったが、常に数倍の敵を相手に戦い続けていた真田隊は疲労し、かつ、消耗しており、決定的な打撃を与えることができなかった。

この頃、小牧山城は既に落城寸前であった。岩村城からの援軍は全滅し、小牧山から出陣した迎撃部隊は次々に敗退。
最後に残った諏訪勝頼隊が状況を打開しようと七本槍の一人滝川益重隊へ突撃をするも、弾幕の壁は厚く、逆にレミリア隊の銃撃を受けて壊滅した。
小牧山城にはもはや新たに迎撃部隊を組織する兵力もなく、11月15日、2ヶ月に渡って激しく抵抗した小牧山城はとうとう陥落した。武田の主だった将は清洲城に落ち延びている。

小牧山城を占領した姉小路軍はすぐさま軍を再編し、留守部隊を置いて清洲城へ向かった。
先鋒の竹中重治、斎藤義龍、武田信虎は未だ太田隊、真田隊に苦戦している大和衆を尻目に攻城戦を開始した。
滝川、松永両軍はこの後に真田隊、太田隊を排除したものの、今度は武田信玄の軍に襲われた。
消耗の極みにある松永隊は信玄の名を聞いただけで崩れたったという。
ちなみに、この信玄隊はあまりに少数かつ唐突な出現であったため、また、滝川隊にあっさりと壊滅させられたことからも影武者説が有力である。
その間にも次々に小牧山城を出陣した姉小路軍は着陣し、清洲城に攻撃を加えた。
清洲城がいかに技術を駆使して固められた城であっても、それを守る兵はわずかに五千足らずであり、守りに適さない平城である。
十倍もの兵力をいつまでも支えきれるものではなく、12月15日に落城した。




この戦いの影響

これまでの姉小路家の東国戦線での戦いは防衛一辺倒であり、尾張撤退戦以降は特にその色が顕著であった。
この戦いで10万を超える武田軍を破って尾張国を得たことは反撃の狼煙というのにふさわしいものであった。
また、この戦いで姉小路家が鹵獲した軍馬は20万にも及び、東国戦線を支えていく上で重要な物資となる。
武田軍が失った軍馬、鉄砲等の物資は武田の国力からすれば時間さえかければ補充できるものであったが、
それでもしばらくは物資不足に悩まされることとなった。
また、第二次稲葉山会戦での敗北とあわせて精鋭兵を多く失ったのは大きい。

姉小路領内のことを言えば、これまで防衛中心で恩賞に不満を持っていた美濃衆への十分な褒賞が行われ、美濃国の武士階層の不満が解消された。
また、姉小路家内でのさまざまな対立が表面化し、姉小路家が一枚岩でないことが明らかとなった戦いともなった。


姉小路家内での対立構造

竹中重治と松永久秀

竹中重治の息子、重門の記述によれば重治は常々久秀を『反覆定かならず』『逆心あり』と評していたという。
重門の出生は天正年間でかなり後のことであり、この久秀評がこの当時も当てはまるかどうかは定かではないが、
当時から北条家の扱いについて姉小路家内で重治と久秀が対立していたのは事実である。
北条家内でも竹中派と松永派に分かれて対立しており、北条家御由緒七家で家老であった松永派筆頭松田憲秀はこの政争で武田家に亡命している。
今回の合戦で北条家が大和衆を妨害したことは北条家において竹中派が勝利したことを意味する。
また、久秀の尾張領有を防いだことで、今回の件においては竹中重治の優勢と言えるであろう。

松永久秀と八意永琳

これは個人同士の対立というより、大和国内での歴史的な問題も関わっている。
大和国は元来寺社の勢力が強く、また、南朝の問題もあって、室町幕府の統制が行き届かない土地であった。
大和を支配していた筒井家が興福寺の僧兵から発展したものであったこと、大和守護が筒井家滅亡まで置かれたことがないことが証左であろう。

この状況がはじめて変わったのは織田信長が筒井家を滅ぼした時である。
信長は大名筒井氏の滅亡によって弱体化した大和国内の寺社領をさらに弱め、かつ、自身の勢力を強化しようと考えた。
この政策の実行を命ぜられたのが元筒井家重臣の松永久秀である。
彼は興福寺その他の寺社領を毟り取り、信長配下や大和国内の武家へ配分した。
このため、土地を与えられた信長家臣団や多くの大和国内の在地武士には人望を得たが、反面南都諸寺やそれを篤く信奉する者にとっては敵視されることとなった。

この構造は姉小路家が織田家を滅ぼしたあとも変化しなかった。
松永久秀は大和の過半の支持を得ていたが、反対する勢力も厳然として存在していたのである。
しかし、反対勢力には一つにまとまる拠り所がなかった。
旧筒井家大名の筒井順慶はそれなりに人望はあるが、若年であるし、完全に松永の組下に置かれているために相応しくなかった。

そこに現れたのが八意永琳である。
彼女は筒井家において崇拝されており、さらには竹中重治の師である、という話が当時流布していた。
さらに、立場的にも姉小路頼綱直任の軍監であり、竹中重治の後見を受けている。
人望厚く、松永久秀に左右されない地位にあれば、彼女が反対勢力の旗頭となるのは必然であったろう。
彼女と竹中重治は親しい関係にあることからも、彼女らの狙いはそこにあったものと考えられる。
八意永琳隊を構成していた者には、こういった僧兵や、寺社の支配する座から徴集された者が多く含まれていた。
今回の戦いで八意永琳隊が支援も受けられずに敗退したのは、
松永久秀が彼女とその与党を敵の手を借りて排除しようともくろんだのではないかと言われている。
そして八意永琳隊は壊滅、その勢力は削がれた。

大和と美濃

近年、尾張領有は単なる松永久秀個人の野望ではなく、大和衆、ひいては大和国流通業者の総意であったという説が有力である。
尾張→北伊勢→大和と東海道から伊勢路へ抜けるルートは古来人や物の往来が多く、多額の金銭が落ちる。
これまでは尾張国で武田が関所を作って関税をかけていたために旨みが少なかったが、
久秀は尾張領有後に大和国の馬借などの流通業者へ尾張国での関税非課税特権を約束している。
また、この時代から、伊勢参りが徐々に盛んになっており京→大和→伊勢もドル箱となってきているため、このルートの安定のためにも尾張領有による安定化は必要であった。

大和衆にとっても、津料や関税など現金収入が大きく、石高も大きい尾張国は旨みのある土地であった。
また、尾張、大和両国をおさえてしまえば、姉小路家は海軍を持たないので、北条領である伊勢南部への道を実質全ておさえることとなる。
対北条家政策も大和衆の意向に大きく影響されるようになるのは必至であった。

一方、美濃衆及び美濃国流通業者にとっても尾張国領有は必要であった。
当時、美濃は鉄砲櫓解体後の復興で、莫大な米の収穫が予想された。
米を収穫した後は現金化しなければならないが、その米の流通ルートは美濃国大垣から川を下って尾張を通り、
伊勢尾張国境の桑名湊まで運ばれ、そこから海路で大阪へ向かうというものだった。
斎藤義龍も姉小路良頼に許可をとり、美濃の者へ尾張国での関税非課税特権を約束している。

また、尾張国の旨みは先に説明したとおりだが、
美濃衆はこれまでの防衛戦で経済的に困窮し始めているという喫緊した問題もあった。
以上の点から、両者は対立していたと言える。


付記・伊勢亀山の戦い

北条軍の援軍を姉小路軍が伊勢亀山にて迎え撃った戦いである。

参加兵力及び戦力評価

北条軍
霧山御所
先鋒隊:足軽隊:7500:北条綱成
鳥羽港
後詰隊:足軽隊:10500:太原雪斎魂魄妖夢安藤良整
射命丸文も与力として参加。


尾張の戦後処理について

清洲には城代として蜂須賀正勝が入り、戦後の復興や撫民にあたった。
蜂須賀家は元々尾張蜂須賀郷に所領100貫を持つ川並衆と呼ばれる土豪であった。
その地縁は深く、織田信長の側室の出身家である生駒家とも縁戚である。美濃復興時の実績と併せてこれ以上の人選はないであろう。
ただ、美濃の国人は正勝への同輩意識が抜けず、その点では苦労している。これは正勝の肩書きが清洲城代程度で他に官職もなく、権威に欠けていたことも関係しているだろう。
彼が清洲城代の名で発行した文書や書状の数は多く、きめ細かい心配りをしていることが伺える。

清洲での彼の撫民の基本な政策は織田信長になぞることであった。
彼は法や税制をできる限り信長の頃に近づけた。また、城下町の整備もできるかぎり織田家時代の遺構にそって行われた。
信長を慕っていた尾張の民衆は大いに安堵したという。
戦火で社殿の大部分が焼け落ちた熱田神社の再建時には多額の寄付をしている。

一方で尾張国は伊勢の北条、三河の武田を臨む軍事的に重要な地域であり、防備を調えなければならなかった。
清洲城の修復、鉄砲櫓の整備、街道の整備や河川などの防衛上の要地の確認、尾張国人達への戦時の兵糧拠出の契約や軍役の確認等等である。
彼の公式の任務はこのように多種多様であった。
さらには彼は非公式に北条家や大和衆に探りをいれていた節がある。
彼は対北条についてはっきりと竹中派についており、北条氏康と非公式な会談を持ったことすらある重要人物である。
当然、松永久秀とは対立関係にあった。彼が両者に程近い清洲城代に任じられた背景にこのことも関係していることは容易に推測することができる。

彼の公式の任務を助けるために観音寺城から6人の奉行が派遣された。
二木重吉、寺島職定、水越勝重、林秀貞、三村親成、沼田顕泰の面々である。
寺島職定、水越勝重は神保家を併合した折に臣従した家臣である。二木重吉もほぼ同時期に召抱えられている。

彼らは俗に越中以来と呼ばれる古参であり、実績もあって姉小路良頼の信頼も厚かった。
林秀貞は放逐されたとは言え元織田信長の筆頭家老であり、その政権の中枢に座っていた。
尾張の代官職を経験している彼は当時の姉小路家中でもっとも織田時代の尾張の内情に詳しいといえる。
三村親成は兄三村家親を補佐して三村家の屋台骨と呼ばれたほどの内政手腕を持ち、
沼田顕泰は上州沼田城を築いた実績から城の縄張りには一家言を持っていた。
また、大和衆との探りのために鈴仙・U・イナバを使っていたといわれるが、詳細は不明である。
これらの有為の人材を部下に加えても清洲城代という任務はまだまだ激務であったといえよう。
多忙を極めた彼は十日に一度しか清洲城下に与えられた居館に帰ることができなかった。

二期作について

当時、武田家や北条家の領地では税収の増加を目的として盛んに土壌改良や米の品種改良、
二期作や二毛作の研究が行われ、普及したことで確かな成果を得ていた。
元々、畿内は農業の先進地域であったが、永禄年間には水田の土地面積あたりの生産性は武田北条領とは倍近い差があった。

姉小路領内でも鎌倉時代以来広い地域で二期作が行われていた。
しかし、大きな収穫量の増加に繋がらなかったのは二期作に適した米の品種改良が進んでいなかったためである。

当時の姉小路領の二期作用の早稲種は北条領や武田領で栽培されている早稲種に比べて寒さに弱かった。
よって寒冷な地方では育成が難しい、冷害に弱いために収穫量が安定しない、などの問題を抱えていた。

姉小路家は北条家や武田家の早稲種を毎年少量ずつ輸入していたが、
一度に種籾として領内全域に行き渡るほどの量を手に入れるのは難しかったため、領内全体の普及にはあと三年は必要であると言われていた。

そのような時に、清洲城や小牧山城の食糧庫から大量の武田領産早稲種の籾が発見された。
また、尾張国内でも栽培している者がおり、ここでも大量に籾を確保することができた。

諜報活動でその情報を得ていた後藤賢豊は清洲落城後に食料庫の米を差し押さえ、清洲城下で栽培していた米も買い上げた。
大久保長安はこれまでの研究結果を元に地方、地方にあった栽培法を確立しマニュアルを作成、
農政担当の増田長盛が各地に種籾を分配し、栽培法を指導した。

これをきっかけとして二期作が可能であった地域では大幅な収穫が増え、
栽培不可能であった美濃の南部や近江南部、山城南部などの地域でも栽培可能となった。
また、栽培が不可能な北陸や山陰地方でも麦や大豆などとの二毛作が可能となった。

これを受けて姉小路家は春季の増税を決定。税収を大きく増やすこととなった。


逸話

今回の戦いでの大和衆の戦いは首脳部からも問題視されて大和衆の軍は清洲城入城を許されず、伊勢亀山城まで退却を命ぜられた。
このことは松永久秀自身が後に姉小路頼綱に謝罪したことで大事とはならなかったが姉小路家内で武名を損なったのは確かであろう。

この戦いに参加した大和衆の松永以外の部隊長は滝川一益、下間頼廉、八意永琳であるが、彼らもそれぞれ賞罰を受けた。
滝川一益は部隊間の連絡の不備が問題となったがその後の奮戦で大和軍の崩壊を救ったため功罪あわせてお咎めなし。
終始北条軍との戦いを有利に進め、撃退に成功した下間頼廉は褒賞にあずかった。

一方、八意永琳は部隊を失った上に目付けの任を放棄して単身尾張を脱出して伊勢亀山に逃げ帰ったことは大問題であった。
合戦に敗れて部隊を潰走させることは大きな罪とはならない。
しかし、任務の放棄、さらに敗残兵を見捨てて単身で逃げ帰ることは、最悪追放や切腹もありうる大罪である。
竹中重治の擁護で追放には至らなかったが、頼綱直属の目付の任を解かれて竹中重治付の平参謀に任じられた事は実質降格と見てよいであろう。


矢沢頼綱は真田家においては真田幸隆の実弟の一門衆であり、武田家においては信州先方衆の将の一人である。
守城、攻城に優れた将で真田家が主導する攻城戦では必ず頼綱が武功を揚げているし、前線の城の城代を歴任した人物でもある。
幸隆からも絶大な信頼を得ていたという。

この合戦当時、幸隆は真田家の家督を嫡子真田信綱に譲るために武田信玄に届を出していた。
信玄の謀将としての役割に専念するためであったという。
しかし、頼綱戦死の報を受けた時にこの届を取り下げ、信綱の家督相続も一旦流れている。
これは頼綱に信綱を後見させようとしていたという意思の表れと言え、頼綱が真田家中で重きを成していた根拠とされる。
矢沢家の家督は矢沢頼康が継いでいる。

八雲紫によって討ち取られた矢沢頼綱の遺体は首を切られる前に信繁隊によって確保された。
死後しばらくして武田信繁の配下によって小牧山を守っている将、真田昌幸に遺体が届けられている。
このとき、武田信繁隊は総崩れで潰走しており、信繁は自身を守る貴重な手勢を割いて遺体を届けたということになる。
信繁の篤実さと、真田氏への気配りが分かる逸話である。

真田昌幸は後に自身の次男に信繁という名をつける。
これは、この件を含む信繁への敬意を示すものに他ならない。

飯尾連竜は旧今川家家臣で、桶狭間後、早い段階から武田家に通じていたことから厚遇されていた。
しかし、それ故に妬む者、その財産を狙うも多かった。連竜の死後、連竜の遺児は幼かったことから縁者は次々に家督相続を主張し、お家騒動が発生しようとしていた。
その上、飯尾家の領地周辺の豪族達も飯尾家の領地の領有権を主張して訴訟を起こしていた。
まさに飯尾家の危機と言える。

この危機を救ったのが連竜の妻のお田鶴の方である。
彼女は家臣団を纏めあげ、他の家督相続候補者を退けた。
その上で甲府に赴き、領地訴訟の場に赴いて堂々たる申し開きをしたという。
これによって飯尾家の全面的な勝訴が認められた。
彼女の態度に感動した信玄は、彼女に飯尾家の家督を相続させたという。戦国期でも珍しい異能の者でない家督相続者となった。

清洲城での合戦では、太田資正の軍犬が情報、隠密行動の点で大きな役割を果たしていた。
姉小路内部に潜入していた武田方の忍者は犬に文を持たせて外部に情報を伝えていた。
人間であれば捕獲することもできるが、訓練された軍犬を捕獲するのは困難である。
また、かがり火を倒して明かりを消したり、放火したりできるように訓練された犬も存在した。
これが日本最初の軍用犬の記録であると言われている。
犬の訓練方法は秘伝として太田家以外に知られることは無かったという。

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最終更新:2011年07月17日 20:22