第二次姉小路包囲網

永禄11年9月に打倒姉小路家を目的として組まれた諸国連合の名称である。足利義昭によって提唱され、武田、上杉両家が中心となって形成した。

経緯及び概要

永禄九年の姉小路包囲網は目的を果たせぬまま永禄十一年に瓦解し、その直後の第二次稲葉山会戦は武田家にとって歴史的大敗となってしまった。
この状況を最も憂いたのは足利義昭である。

武田家がもはや単独で姉小路家と戦えない以上、今後武田が姉小路と結び、
上杉領に攻め入ってその功績をもって姉小路家に有利な条件で恭順することはありうる。
上杉家も姉小路家と同盟し、奥羽攻略の後に関東管領の大義名分をもって疲弊した関東へ姉小路家と共に攻め入ることは十分にありうる事態であった。
義昭はそのような状況を防ぐために先手を打つ形で第二次姉小路包囲網を提唱したのである。

武田家としては多くの兵を失った直後で、広大な領土を治める大義名分である将軍を失えば領内の動揺が避けられないことから参加を余儀なくされた。
その後の上杉家の快諾によって包囲網は再び形成されたのである。
足利義昭の檄文に応じて包囲網を築いたのは、武田家、上杉家、北条家、三好家、毛利家などである。

全体の状況

今や姉小路は、北陸・畿内・中国を中心に二十五ヶ国
(飛騨・美濃・越中・加賀・能登・越前・近江・伊賀・大和・山城・摂津・和泉・河内・紀伊・丹波・丹後・若狭・播磨・因幡・但馬・出雲・伯耆・石見・周防・安芸・備後)
を領する最大勢力であり、名実ともに最も天下に近い位置にいる。

これに対して包囲網側の最大勢力は十六ヶ国を領する武田家
(甲斐・信濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・下総・上総・安房・上野・下野・常陸・磐城)、
次いで六ヶ国(越後・岩代・羽前・羽後・陸前・陸中)の上杉家、
以下五ヶ国の三好家(讃岐・備前・備中・美作・阿波)、
四ヶ国の北条家(伊豆・遠江・伊勢・志摩)、
三ヶ国の毛利家(長門・土佐・伊予)と続き、合計三十二ヶ国(重複を除く)となる。

領国数の上だけならば反姉小路陣営が優勢に見えるが、奥州や四国の生産力は畿内ほど高くないことを勘案すると、
上杉の切り取り確実と見られる陸奥・蝦夷を加えたとしても決して圧倒的な優位とは言えないであろう。

また、技術面においても姉小路が誇る鉄砲戦術に確実に対抗しうると見られるのは、
伊達家を吸収することで石垣・三層天守といった優れた築城技術を取り込んだ上杉家くらいのものである。
かつて無敵を誇った武田騎馬隊の神通力も決して衰えたわけではないが、
過去数次に渡る合戦を通じて姉小路側も対抗手段を編み出しており、絶対的な優勢条件ではなくなっている。
このほか姉小路の鉄砲戦術に比肩するのは、竹束を装備した毛利弓隊と、
諜報によって新式鉄砲の自国生産に成功した三好鉄砲隊くらいのものだが、
両家とも生産力の点では姉小路には遠く及ばず、兵力差で押し切られる可能性が高い。


足利義昭の檄文

義昭が氏康に送った御内書(命令文)は以下である。

度ゝ申出候勢越甲和融事、対両国申遣之処、請之趣宜候、
然者雖有存分、此節閣是非令同心、妖婦、逆徒討伐之儀馳走之段、被頼思食候、
妖婦之事、別紙相見候、
御太刀一腰助長、御腹巻一領紫肩紅三物、遣之候、
猶晴信可申候也、
(花押)

相模守とのへ

意訳
度々申し上げていた伊勢北条、越後上杉、甲斐武田の和議の事を両国に下知したところ、
承諾する旨を返答して参りました。
ですので、思うところはあると思いますが、これを機に和議を同意していただき、
妖婦、逆徒を討伐するために奔走していただく事、お願いいたします。妖婦のことについては別紙にあります。
また、助長の太刀一腰、紫で肩紅三の腹巻鎧一領をそちらへ遣わしました。

更に信玄が(書状にて)が申し上げるでしょう。

足利義昭

相模守(北条氏康)殿へ


この御内書本文だけでは妖婦が誰を指すのかが分からないが、これは別紙にて博麗・霧雨・八雲、八意の四人である事が分かっている。
さらにこの御内書以外にも信玄の添え状、飯河信堅及び槇島昭光連著の添え状があった。
また、使者の智光院が義昭の言葉として述べた事柄も記録されている。
(詳細は第一次包囲網との相違点の【3】檄文による姉小路家中の切り崩しと「異能狙い」 にて後述)

第一次包囲網との相違点

【1】西国方面の縦深の消失
前回の包囲網においては、毛利・山名・尼子といった西国の諸大名が、姉小路領を東西から挟撃して戦力の集中を阻む重要な役割を果たしてきた。
しかし、今回の包囲網形成までの間に山名と尼子は姉小路に降伏して姿を消し、
毛利もまた郡山、山口といった主要な拠点を喪失して、事実上四国に押し込まれる形となってしまっている。
そのため、反姉小路陣営が山陰~山陽に保持する主だった拠点は、三好領の岡山のみという状況である。
残る下関、能島、下津井の各拠点は、城砦というよりは水軍の策源地としての港湾拠点であり、陸上からの侵攻に対する防備はほとんど為されていない。

また、大友・島津といった九州の諸大名は包囲網には参加していないため、
この正面の反姉小路勢力は事実上四国のみを策源地として姉小路に対抗するほかなくなっている。
瀬戸内海の制海権については、建艦技術に一日の長がある毛利・三好方が辛うじて保持しているが、
四国の中央部を領する長宗我部家は姉小路と同盟を結んでおり、
両家にしてみれば西国有数の歩兵技術水準を誇る強国に後背を扼される格好となっている。

すなわち、姉小路の圧迫に対して反攻に転じるための戦力を涵養すべき後背地が、最前線となってしまったのだ。
この縦深の浅さは、反姉小路勢力にとっては致命的な戦略上の弱点となっている。

【2】東国方面の戦力消耗
今回もまた包囲網の中核を成している武田であるが
その主力兵団は直前の第三次稲葉山出兵における壊滅的な損害から回復していない。
これは、同じく包囲網の一翼を担う上杉家が奥州の仕置を完了しておらず
対姉小路戦線に全力を指向できないことを考えると、致命的な事態と言える。

実際、これに乗じて松永弾正率いる大和衆が伊勢亀山に兵力を集結させ、東海道沿いを関東方面へと打通する構えを見せている。
先年の根こそぎ動員の結果、この方面の武田軍に大和衆の進撃を阻止する力は残っていないと見られ、
勢い次第では東征軍は、松永の戦略目標と見られる駿遠三のみならず伊豆・相模までも切り取ってしまうだろう。

また、伊勢を領する北条家は第二次稲葉山出兵における国力の消耗から未だに立ち直ることができず、完全動員体制を取れる状況にはない。
大和衆の東征が始まれば、彼らの領国はその矢面に立たされることが確実な情勢であり、
緒戦の損害次第では北条家は単独で包囲網から脱落して姉小路に屈服する可能性もある。

【3】檄文による姉小路家中の切り崩しと「異能狙い」
上述の不利を挽回すべく今回足利義昭がとった方策は、姉小路にとっては「搦め手」とも呼べる方面からの揺さぶりである。
これまでの姉小路の隆盛は、いわゆる「異能」と呼ばれる女性達の助力によるところが大きいことがそれなりに知られているが、
義昭は檄文の中で一貫して彼女達を「妖しの者」「姦婦」と罵っており、
特に出雲守護の博麗、丹後守護の霧雨、かつて幕府侍所所司の地位にあった八雲、
そして一時期の姉小路良頼の側近であり、現在大和衆の軍監を務める八意の四人については、
完全に名指しで「国を専断し、人の世を滅ぼさんとする妖異の化生」として幕府の名の下に全国の武士に宛てて追討を命じており、
これらの者を討ち取らば、出自や仕える主君に関わらず(つまり現在姉小路家中に身を置く者でさえも、ということである)
幕府において重く用いると宣言し、その武功は後の世に至るまで称えられるべきものであると結んでいる。

なお、上記の四人のうち博麗・霧雨・八雲の三人が槍玉に挙げられている理由については、
彼女達は過去または現在において幕府の職を与えられており、
異能の者がそのような地位を占めることには以前より各方面から反発があったことに乗じたものと見られる。
残る八意が名指しされているのは、
彼女こそが目下包囲網勢力にとって最大の脅威となっている大和衆の要であると義昭が見抜いていたことによるものであろう
(もっとも、義昭が身を寄せていた武田家中や上杉家中においても異能の者が武将として加わっていたのだが、
彼女達はあくまで客分として扱われており、姉小路のように家中で要職に上るようなことは少なかった)。

そして興味深いのは、前回の包囲網が形成された際には逆賊の首魁として第一の追討対象とされていた姉小路良頼本人については、
家中の異能の者を追放した上で、畿内において切り取った領土(これは山城・摂津・和泉・河内・大和・紀伊・近江・伊賀・丹波・丹後・若狭の十一ヶ国であろう)と
不正に朝廷より任じられた官位を返上すると共に将軍家に対して謝罪と臣下の礼を取って隠居すれば、
嫡男の頼綱ともども罪を赦免すると述べていることである。

既に姉小路が北陸および中国において強大な勢力圏を獲得していることを考慮すると、
これはある意味で姉小路の覇権を一部追認するものとも言え、
この時点で義昭は、ここまで強大化した姉小路を武力によって完全に取り潰すことは困難であると認識していたとも取れる。

一方で義昭は、姉小路家中の有力な将帥に対しても個別に決起・離反および異能追討を呼びかける檄文や密書を送っており、
朝倉(宗滴)・細川・明智・松永といった重臣宛に発行された文書の一部が後世に伝わっている。
とはいえ、朝倉は「武士は勝つことこそ本分。公方様は勝っておられぬではないか」と取りつくしまもなく、
細川は書面に目を通しもせずに火鉢で焼き捨て、病床にて面会謝絶の明智に宛てた書状は腹心の斎藤に握りつぶされ、
松永にいたっては密書を届けに向かった間者がそのまま消息を絶ってしまったという。

このように、今回の義昭の戦術は、姉小路の力の源泉となっている異能の者と、
それ以外の覇業の原動力とを分断して各個に切り崩す謀略戦の形をとっている。

これを裏付けるかのように、三好・毛利両家の手の者を通じて、異能本人に対する直接の調略が行われた形跡がある。
これが成功した場合、姉小路家中における異能に対する反感が(特に新参の外様衆の間で)
大きな高まりを見せることは確実であり、それが異能排斥の動きへと発展する可能性は極めて高い。

また、義昭は近年九州や畿内を中心として急速に信徒を増やしつつある伴天連に対しても檄文を発している。
この中で義昭は天主教の教義を引き合いに出し、異能の者達が揮うとされている不可思議な力は、彼らの忌み嫌う「悪魔の業」に当たると述べている。
さらに義昭は、今回の包囲網形成に賛同して決起し異能討伐に参加することこそが、彼らの奉ずる天主様の教えに沿う行いであろうと続けている。

これは反姉小路陣営が伴天連に好意的であることを意味するものではない(むしろ、包囲網側にこそ天主教に敵対的な考えの持ち主は多いとさえ言える)。
あくまでも敵の敵となりうる勢力を味方に引き入れんが為の方便と見るべきだろう。
今のところ、伴天連は開明的な穏健派として知られる指導者のトーレス師によってよく統率されており、表立って檄文に反応する動きは見られていない。
しかし、今後伴天連の指導者が彼らの教義に厳格な人物に交代するようなことがあれば、
姉小路は一向一揆などよりも遥かに始末の悪い対宗教戦争に踏み込むことを強いられるかもしれない。
最悪の場合、南蛮勢力を糾合した宗教的討伐軍(すなわち三百年ぶりの十字軍)が日域に送り込まれる可能性すら考えられる。

もっとも、これは杞憂であろう。親伴天連的な大名である大友家が島津に押されている上、
トーレス自身の働きかけと硝石の確保のための貿易関係から姉小路は比較的伴天連には寛容である(一向宗との兼ね合いから多少の制限はあるが)。
彼らの本国であるイスパニアの経済状況からして討伐軍の派遣は博打に近く、実現は極めて怪しい。
加えて姉小路家という事実上の権力者と元将軍家の一門にすぎない義昭とを天秤にかければどちらを重視するかは明らかである。

【4】反姉小路勢力の海上における優位性の揺らぎ
前述したように、瀬戸内海の制海権は三好、毛利が今もなお維持している。
だが、姉小路家の西進によって本州の出撃拠点を次々と失っている現在、その優位性は大きな揺らぎを見せている。
出撃拠点を喪失した部隊は四国東部沿岸、下関、瀬戸内海の島々に拠点を移したが、
補給面と人材面の問題、また人間自体の限界などから、活動不可能地域、いわゆるシースポットが急速な広まりを見せている。

瀬戸内海で最大の勢力を誇る三好はその海上戦力の大半を岡山城を中心とした備前、
備中の本州と阿波、讃岐の四国間への輸送へ振り分けている為、その保有戦力に反して大規模な作戦行動が不可能になっている。
毛利も姉小路の侵攻を受け、陸上兵力の不足を補う為に練達した船乗りを始めとした水軍所属者をも陸上戦闘に投入し、結果的に著しい水軍力の低下をもたらした。

戦力低下と同時に本州の産業基盤と造船設備を失った為、その再建には多大な労力と時間が必要になってしまった。
水軍力の低下は既に表面化しており、それまでは毛利水軍が海上の物見櫓とまで呼んでいた水軍による豊後水道での検閲、監視活動が鈍化しつつある。

毛利は往来する船舶量、時には舟艇による九州、土佐への小規模な威力偵察によって敵国の情報を探り、攻勢の時期を予測し作戦計画を立てていたが、
水軍力の低下は同時にこういった諜報力の低下をも意味している。

陸、海両軍が更なる打撃を被った場合、毛利の命運は決すると言っても過言ではない。
姉小路家が渡洋侵攻への関心、技術を持たず、更には東方での攻勢にでようとしている現在、
毛利は戦力の回復をはかる時間はあるだろうが、かつての栄華を誇った毛利水軍の復興が可能かと問われれば、首を傾けざるを得ないのが実情である。

中部以東の勢力、武田、上杉といった部隊も陸上戦力を中心とした勢力であることからその保有する海上戦力は極めて脆弱である。
上杉家はかつて弾幕要塞回避のため、あえて海上侵攻での能登上陸を試みたが、
上陸前に姉小路の火煎に絡めとられ、全く勝負にならなかった経験から、水軍そのものに懐疑的な考えを見せていた。

武田家も状況は似たようなもので、吸収した里見家の人材を中心とした小規模な部隊を維持するにすぎなく、
壊滅的打撃を被った陸上部隊の再建の為、そのわずかな部隊すら抽出する有様であった。

例外的に北条家はその低下した国力に見合わない水軍力を保有していた。
増強はもちろんのこと、維持するのさえも多額の資金が必要な水軍を北条家が維持している目的は、栄養源の確保にあった。
実質上、北条家唯一の支配下である伊勢は、比較的経済力の豊かな北部は武田と姉小路の板挟みの関係から、
常に謀略戦、あるいは一部の悪質な兵による田狩り、誘拐騒ぎが起こっており、額面通りの生産を上げることは困難になっていた。

伊勢中部から南部にかけての石高は、かつての武蔵、相模、伊豆の合計に比べ、生産力で大きく劣っており、
また、元々北条家の治めていた地域とは異なり、反北条を掲げる諸勢力も少なくなく、その国力を制限する一翼を担っていた。

北条家が選んだ道は海で魚介類などを捕ることによる、タンパク源の確保(この時代にタンパク質の概念自体は存在しなかったが)にあった。
限られた土地で可能な限りの兵を養うための苦肉の策であり、唯一の道であった。
従ってその戦力はほとんどが漁船、あるいは小型の護衛船であり、その実情は貧弱な物でしかなかった。

このように反姉小路勢力の最後の優位ともいえる海上戦力も、実情は非常に危ういものだった。
ただ一つの幸いは姉小路家に水軍知識の豊富なものがおらず、他国の水軍の状況を正確に理解できなかったことである。
実際、輪島港防衛戦を見るように、陸上から鉄砲を撃ちかけるという形をとっており、一部の者が水上に出たことでその部隊が壊滅させられている。

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最終更新:2011年07月17日 20:06