山口館の戦い

山口館の戦い(よしだやかたのたたかい)は永禄11年に毛利家と姉小路家との間で起こった戦い。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・浜田城兵
旗本隊:足軽隊18500:姉小路頼綱山中幸盛ルーミア
博麗隊:鉄砲隊5000 :博麗霊夢江馬輝盛江馬時盛
霧雨隊:鉄砲隊5000 :霧雨魔理沙原長頼鈴仙・U・イナバ
近江隊:騎馬隊9000 :磯野員昌海北綱親紅美鈴
西国隊:鉄砲隊5000 :明石全登稲富祐秀遊佐続光
明智隊:鉄砲隊5000 :斎藤利三明智秀満遠藤直経

後詰隊:騎馬隊8247 :三木顕綱磯野員昌紅美鈴

毛利・山口館守備兵31226
守将:小早川隆景
第一迎撃隊:足軽隊7500:島清興
第二迎撃隊:弓隊7500:因幡てゐ
第三迎撃隊:弓隊8000:長船貞親

第一奇襲部隊:足軽隊3000:毛利元就(6月20日)
第二奇襲部隊:足軽隊3000:吉川元春(6月25日)
第三奇襲部隊:足軽隊3000:陶晴賢

当初、兵力数は2:1で姉小路側で優勢であったがルナサ・プリズムリバーが9000を輸送している。
毛利側としては本州最後の城であり、これを死守すべく毛利元就を始め主力武将がそろっている。

概要

姉小路軍は毛利軍を本州より排除すべく、いまや本州毛利領最後の防御施設である
山口館を攻めとるために対三好防衛隊を除く西国攻略隊全軍を浜田城に集結させた。
対する毛利方は四国防衛の兵を最小限にし、その他の全軍を山口館に集結させた。その陣容は毛利主力軍といってよい。

しかしながらその兵数の差は懸絶しており、山口館が平地に建っている分吉田郡山城などと比べて
格段に防衛施設として劣っていることから、毛利方の苦戦は避けられないものと見られた。

五月五日、姉小路軍は周防山口館に向けて出陣した。
しかし周防長門国境付近で兵糧、物資不足に陥る危険が生じた。
姉小路軍は通常、前もって侵攻地の豪族や惣村などの有力者を調略し、
兵糧を供出させたり、運搬させるなど、兵站の大部分を担わせていた。

しかし、毛利方が姉小路方に通じた豪族や惣村を焼き払うなどの見せしめを行った事で、調略の甲斐なく協力が得られなくなった。
これまではこのようなことがあっても、後方領から物資を運搬させることで対応ができた。
だが、今回の場合は浜田城と山口館との距離と難路の多さ、下関港が毛利方であるため制海権を持たないことから物資の運搬は困難であった。

隘路で長蛇の列を作っている姉小路方の荷駄隊に幾度となく毛利方の小隊が襲い掛かった。
如何に姉小路方が荷駄の護衛に人数を割いても地の利を得た毛利方を短時間で撃退することは難しく、幾度となく兵糧物資が焼き払われることとなった。
これは、今回の合戦の最初から最後まで影響を及ぼす事となる。

明石隊や終盤の後詰隊は兵糧が尽きて一時撤退したし、明智隊も弾薬不足で二度までも戦線離脱を余儀なくされた。

六月五日、交戦開始。明石隊と合戦直前に突如行方不明となった霧雨隊が不在であったが、それでも姉小路方の兵数は圧倒的であった。
毛利方は島清興の第一迎撃隊が近江騎馬隊を押さえ、第二、第三迎撃隊が旗本隊、近江隊に矢風を浴びせたが、旗本隊はそれらの攻撃をすり抜けて城壁にたどり着いた。
旗本隊はその勢いのまま館を攻撃、城壁を越えることに成功した。
しかし、歓声が上がったまさにその時、元就の遊撃隊による奇襲が行われた。
隊が城内と城外に二分されて連絡がとりづらかったことも手伝って山口館内に侵入した兵は
痛手を負って完全に撃退され、城外の隊も混乱して寡勢の元就隊に押し込まれた。

ただ、やはり寡兵で長期間大部隊である旗本隊を押し続けることはできず、
近江隊が一時援護し、各鉄砲隊が元就隊を攻撃したことで余裕が生まれ、旗本隊は立ち直った。
この後に吉川元春と陶晴賢の奇襲も行われたが、旗本隊は動揺することなく逆に敵を押し返した。

しかし、これすらも元就にとっては布石に過ぎなかったと言える。
元就は旗本隊から発せられる数多くの伝令達を密かに討ち取ったり生け捕りにすることに成功した。
旗本隊内部に送り込んでいた間者によって伝令の動きをつぶさに知る事ができたし、旗本隊は陶隊、元春隊、元就隊によって三方を囲まれており、
伝令がどの道を通って各部隊へ指示を届けるかは地理に詳しい毛利方にとってわかりやすいものとなっていたからである。

毛利方は生け捕った伝令を買収したり、代わりの偽伝令を数多く放つ事で各隊に次々と疑心暗鬼を植えつけていった。

七月五日朝、毛利方は狼煙を合図に行動を開始した。
元就は偽伝令の数を一気に増やし、各隊に偽報が一気にあふれた。これによって各隊の指揮系統は脆くも崩れ去った。
さらに、各隊に潜んでいた間者達は厩や陣、物資に火をかけ、或いは公然と鉄砲で他の隊を銃撃した。
これらの異変を味方部隊からの攻撃と判断した隊もおり、実際に同士討ちとなったケースも存在した。

その上で元就隊は姉小路方を急襲したので被害は拡大し、姉小路軍はこのまま崩壊していくかに見えた。

姉小路軍を全軍の崩壊から救ったのは姉小路頼綱の機転と山中鹿介の勇気であった。
頼綱は自部隊の上空にルーミアを飛ばせ、点滅させたのだ。
これによって各隊は旗本隊の位置と頼綱の無事を知る事ができた。
また、一度全将兵が空を見上げる事で一種の気分転換となり冷静さを取り戻す一助になったと言われている。

鹿介は各隊を攻撃し終わって、引き際の元就隊に単騎で飛び込んだ。
誰が敵か味方か分からない混乱状態の自軍の兵を率いるのは危険と判断したから単騎で突撃したと言われるが、真実は分からない。
しかし、この蛮勇というべき突撃は思わぬ効果を生み出した。頼綱は鹿介が出撃したとしるや、すぐさま自身の馬廻を差し向けた。
引き際の元就隊は思わぬ足止めを食った形となった。
そこへ、遅れて戦場に到着した霧雨隊が駆けつけた。
この隊は元就の情報操作を殆ど受けておらず、全軍の統制を保ったままの部隊であり、他の部隊に目もくれず真っ直ぐに元就隊に襲い掛かったのである。
寡兵で戦い続けて疲労が溜まっていたところに、山中鹿介及び頼綱の馬廻の一撃を立て続けにもらい
大損害を被った所に霧雨隊の銃撃を受けた為、流石の元就隊も壊滅した。
情報操作を行っていた大本が崩れた後、各隊が再び統制を取り戻すのに殆ど時間は必要ではなかった。

混乱が収まった後も姉小路方にとっては有利な状況ではなかった。既に姉小路方と毛利方の兵数の差は逆転していた。
合戦の最初から最前線で戦場の一角を支配し続けていた近江隊は損耗率90%を越え、撤退を余儀なくされた。
旗本隊も死傷者が多く、撤退は時間の問題であり、このままでは全軍撤退は避けられないと思われた。

姉小路方が再逆転を果たすきっかけは霧雨隊が作った。彼女らの銃撃(砲撃?)はこれまでの損害の蓄積もあって一撃で城壁を打ち崩した。
城壁はすぐさま臨時修復されたものの、城兵は大いに動揺した。
その動揺した城兵の十数人を今度は博麗隊が調略、館に火をかけさせた。
おりしも日照り続きで空気は乾燥しており、火は短時間で派手に燃え広がった。
下手人たちは逮捕されたものの、混乱は収まらずにむしろ全軍に広がっていった。

混乱が収まる頃には、毛利方は迎撃隊、遊撃隊が長船隊を残して全て壊滅していた。
一方、姉小路方も最大兵力であった旗本隊が撤退するなど、櫛の歯が欠けるように数を減らしていった。
ただこの時点で戦場での兵数は五分であるとはいえ、姉小路方は8000以上の後詰騎馬隊が出陣しており、ほぼ勝負は決まったと言ってよい。
長船迎撃隊が壊滅して後、守将小早川隆景が山口館にて孤軍奮闘していたが、
元々大した防備ではない上に城壁が破られ、次々に鉄砲隊によって撃ち減らされていった。

九月一日、粘りに粘った末に落城。戦いは集結した。
当初5万を大きく上回っていた姉小路方が1万8千を割り込んでしまう、非常な激戦であった。

合戦の影響

毛利方は本州のほぼ全てを失い、西国一の大大名から四国の一大名に転落した。
姉小路方の西国攻略軍の受けた損害も大きいもので九州攻略にはすぐに取り掛かれないが、対三好の部隊が健在であるから本州制圧には影響はなかった。
しかしながら毛利・三好同盟は瀬戸内海を押さえる拠点を維持しており、
対三好として拘置していある播磨軍も備州攻略において発生するであろう問題からしてその兵力の全てを維持しきれるとは断定できない。
本州制圧以後の四国・九州征伐の遅延は免れないと思われる。

また、今回の戦で顕在化した兵站問題についても改善が図られることとなった。
戦となれば数万単位の兵を常時運用するうになった現在、現地調達ではまかないきれぬ程の糧秣が必要な事は以前よりはっきりしていたが、
今回の経験を機に、より近代的な対処が取られることとなった。

これまでの戦では、姉小路家の前線兵士と後方支援兵士の割合はおおむね10:1の割合であったが、
以後は大幅に改められ、状況によっては10:4程度にまで引き上げられることとなった。

兵站の要となる馬も、狭隘な地や険しい山間部でも十分な行動が可能な御崎馬や対馬馬といった品種の馬が使われるようになった。
これらの馬は山岳部の急斜面で育った種で、生まれながらに山坂の登りが巧みであり、山間部での輸送に大きな効果を発揮した。
護衛にも余剰の砲筒を渡すことで自衛能力を増加させたほか、専門の護衛部隊が新設されることとなった。

この当時は、『輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち』と呼ばれる程に各大名の兵站、輜重、補給全体に対する関心は低かった。
特に半農半兵の兵士にとっては、首級を上げる機会に恵まれぬ後方支援任務は敬遠される場合が多く、姉小路家もそれの例外ではなかった。

だが、いざ実際に部隊が物資不足に見舞われたことで、その偏見は払拭されていくこととなる。
改善されたのはは部隊だけに止まらず、街道にもその影響が及んだ。
食料はまだしも、銃、弾薬の策源地が遙か東となった現在、迅速な輸送手段の確立は姉小路家にとって不可欠であることから、
長期使用計画に基づいたな街道の整備までもが行われることとなった。

結果、姉小路家の兵站状況は著しく改善され、栄養不足による疫病の蔓延を押さえた他、略奪などの問題が大幅に減少する副次的な効果までもたらした。
弾薬の使用量の増加も、堺、紀州、琵琶湖沿岸の産地の優秀な人材を丸ごと抱え上げ、生産量を引き上げることで補えるよう、対処が施された。
この時代、気づいたものはほとんど皆無だったが、既に時代は短期戦を主眼とした旧来の戦争から脱皮し、
前線の兵士はもとより、後方支援、引いては糧秣を生み出す農民、火薬や弾丸を生成する職人までもを含めた大規模な消耗戦、あるいは総力戦への移行の気配を見せつつあった。

なお、兵站問題の顕在化の理由としては西国における電撃的な侵攻によるものである。
山城制圧後の西国征伐はこの周防・長門にいたるまでわずか4年足らずであり、東国・北国のような後方整備が為されぬまま突き進んでいる。
兵力も投降兵・現地での志願兵であり、今回の辛勝はこの電撃戦の限界点であったと言えよう。


逸話

山口館は元々大内氏の居館であった。毛利氏が防長経略によって手に入れた後は毛利元就の居館となった。
西国の京と謳われる山口の美しい街に相応しく白壁に金の瓦が映える壮麗な作りであった。
武士の居館らしく土塁なども備えており防御力もあった。

山口の街は毛利氏が大内氏と違って博多の権益を持っていないこと、
家風が質実であることもあって、往時ほどの賑わいはなかったが、それでも西の京といわれるだけ繁栄していた。

この戦いで館のかなりの部分が焼けてしまったが、主な建物は修復可能な程度の損害であり、高名な枯山水庭園は無事であった。
街にも損害はでたが、あくまで館周辺の一部であった。
西の京山口はこれほどの戦火にも関わらず奇跡的に後世のために保存された。

この戦いでは毛利方の部隊は全て壊滅したが、姉小路方の損害は勝利者であるのにも関わらず多大なものであった。
特に損害が大きかったのは博麗隊である。
この隊は常に戦場にあって旗本隊が健在のときは副将、退却の後は主将となって一貫して指揮を行っていた。
特に旗本隊が退いた後は指揮権を委譲するべき後詰隊が遅れたり、
兵糧不足に陥るなどの理由から壊滅寸前になっても引き上げる事ができなかった。
幸い、部隊が壊滅する前に戦闘を終結させることができたが、
当初5000人いた隊が、傷兵除いてたったの89人にまで討ち減らされたという悲惨な状況であったという。

頼綱は後に、生涯で最も危うかった一戦にこの戦いをあげている。
同士討ちによる混乱が長引けば、毛利勢に各個撃破されて全滅の可能性すらあったからだ。
それを回避した頼綱の機転は大したものだが、敗れたとはいえそこまで追い込んだ元就は流石である。
戦の中で元就は「姉小路に将多かれど、真に強き戦の出来うるものは竹中重治・朝倉教景の両名のみ」と語ったとされる。

BGM

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最終更新:2011年07月17日 20:11