第二次稲葉山会戦

第二次稲葉山会戦(だいにじいなばやまかいせん)とは永禄11年に姉小路家と武田家の間で起こった戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路
稲葉山城兵142914
守将:蜂須賀正勝
八雲結界部隊:鉄砲隊9500:八雲紫鵜殿氏長
七本槍筆頭隊:鉄砲隊4000:羽柴秀吉宮部継潤山崎片家
紅魔弾幕隊 :鉄砲隊5000:十六夜咲夜レミリア・スカーレット斎藤龍興
丹波衆弾幕隊:鉄砲隊4000:赤井直正
第二七本槍隊:弓隊4000 :小野寺輝道六角義治
結界補佐隊 :鉄砲隊4000:細川藤孝後藤高治
第三七本槍隊:鉄砲隊4000:籾井教業中川清秀
第四七本槍隊:鉄砲隊4000:羽柴秀長
支援弾幕隊 :鉄砲隊4000:丹羽長秀上白沢慧音
第五七本槍隊:鉄砲隊4000:滝川益重
弓弾幕隊   :弓隊4000  :荒木氏綱吉田重政関一政
第二支援弾幕隊:鉄砲隊4000:淡河定範松本氏輔

武田
小牧山城兵
諏訪勝頼:20232
武田義信:騎馬隊14000
武田信繁:14000
高坂昌信:騎馬隊14500
太田資正:足軽隊9500
藤原妹紅:弓隊9000
小幡憲重:破城槌隊9000
原虎胤 :破城槌隊9000
小幡信貞:騎馬隊8500
長野業盛:破城槌隊8500
鳥居元忠:弓隊8500
大関高増:騎馬隊8000
芳賀高定:弓隊8000
服部正成:騎馬隊7500

岩村城兵
矢沢頼綱:騎馬隊8500
長野業正:15000
本田忠勝:15000
飯富昌景:騎馬隊9000
馬場信房:9000
正木時茂:足軽隊8500
沼田祐光:破城槌隊8000
多田満頼:破城槌隊8000
渡辺守綱:足軽隊8000

深志城兵
武田信玄:騎馬隊16000
佐竹義重:騎馬隊8000
松平元康:8000
この他、西行寺幽々子を始め武田主力武将が多数参加。

永禄九年の稲葉山会戦と比較すると、姉小路軍は博麗霊夢霧雨魔理沙と入れ替わりに
斎藤義龍レミリア・スカーレット十六夜咲夜が参加、兵力は一万の増加、騎馬技術の向上が見られる。
対する武田軍は姉小路軍に倍する27万を投入。

合戦前の経緯

永禄九年三月から姉小路包囲網による武田上杉間の停戦協定は機能していたが、
山名、尼子、と次々に西方諸国が姉小路に飲まれていくのに加えて武田上杉両国の不和から生ずる不信感が原因となって軋轢が絶えなかった。
そしてとうとう、永禄十一年に上杉謙信から武田信玄へ正式に停戦協定の破棄が通達されたため、姉小路包囲網は完全に瓦解した。

武田としては今後戦力を上杉、姉小路両方面へ向けなければならなくなるため、戦力の一極集中をする最後の機会ととらえ、
上杉の対武田への対応がなされる前に、武田信玄は小牧山、深志、岩村に27万もの兵を召集した。

これは常、野、上、武、上総、下総、房、相、甲、豆、駿、遠、三、信、尾の15カ国及び
陸奥岩代地方つまり武田領下の軍役衆のほぼ全員に加えて、百姓衆にも召集をかけなければ集められない数である。
輜重には女性まで加わっていたと言われるからまさに武田家の総動員令といってよい。
対する姉小路軍は美濃に駐留する全軍14万を稲葉山城に集結、戦いに備えた。
両軍あわせて41万もの大軍というのは日本書紀以来の記録に例がなく、未曾有の大戦といえる。
一説には当時の全国の人口は1200万人程度と言われていることから、その説を信じるならば日本の全人口の三十人に一人がこの合戦で戦った事となる。

合戦概要

武田軍は鉄砲櫓で構成された城塞群である稲葉山城を落すために、最も稚拙だが最も確実な戦術をとった。
すなわち数で押しつぶすことである。

小牧山、岩村からの大軍は八雲紫が守る東門を除いて包囲、数に任せてほぼ全方位から城へ攻撃を仕掛けた。
稲葉山城は街道沿いの鉄砲櫓を含めた城塞群としては非常に優秀な堅城であったが、稲葉山城そのものは旧来の城とさほどかわりがない。
あっという間に武田軍は空堀を埋め、破城槌や足軽の活躍で城壁を崩した。

もちろん鉄砲櫓や弾幕結界の威力は小さくなかった。
六角義治及び吉田重政の活躍は、鉄砲の補助としての弓の効果の高さが再確認されたほどであったし、他の七本槍の面々の活躍も常に勝るほどであった。
特筆すべきは小牧山軍大将の武田義信隊への攻撃であろう。
武田信虎隊の騎馬隊の突撃によって陣を乱し、レミリア隊の天も翳らすといわれたほどの銃撃で陣を崩した。
この連携で大きな被害を受けた義信隊は果敢に城に突撃して城門へ損害を与えるものの、早々に敗走することとなった。

先陣の大将を失った武田軍は全軍の連携を失うところであったが、全軍の副将武田信繁が急遽指揮を執ったので事なきを得た。
その後、激しい戦いをしつつ両軍は主導権を握ろうとさまざまな画策を行った。
武田軍は急遽の大軍の召集であったことから戦闘経験のない兵が多いという弱点があった。
しかし、それ以上に稲葉山軍は度重なる防衛戦であまり褒賞が与えられない合戦が続いていたことや、
軍事優先の国政によって田畑が荒れ気味であったことなどによる厭戦気分が高まっていたので調略の隙が大きかった。

山本勘助が稲葉山城の反乱分子の協力を得て忍を使って城の火薬庫の一つを爆破し、火が城に延焼したことで城内に混乱が起こった。
武田方はこの機会を見逃さず、諏訪勝頼隊と飯富昌景隊が連携して城に強攻したため、傷口は広がった。
混乱は紫や細川藤孝によって鎮圧されたものの、その後の姉小路軍の対応は後手後手に回っていった。

ここで武田信玄本隊が本格的に戦線に加わった事で、流れは一気に武田側に傾いた。
信玄が甲斐出身者の多い信虎隊に離反を呼びかけた。戦前より既に調略は済んでいたと見え、離反者は二千人に及んだ。
離反者には信虎の馬廻も多く含まれており、その者達が信虎の馬印を奪いって近隣部隊を攻撃して回ったため周辺部隊及び城に多大な損害と動揺が走った。
信虎は状況を鑑みて、すぐさま稲葉山城に引き返し動揺を鎮めようと試みたが、
兵に信虎離反の疑惑を持たれ、各部隊長の努力にも関わらず信虎は信用を得ることができなかった。
さらにこの点を佐竹義重隊に盛んに喧伝され、さもまことしやかに信虎離反のうわさが流されたため動揺が全軍に広がり、
士気は低下して軍の存続の危機にすらつながりかねない状況となった。

このとき、前線近くにいた竹中重治はこの報を聞くや、巨額の金をもって急ぎ稲葉山へ向かい、部下と共に各隊を回った。
重治ですら入城は困難な状況であり、また、武田の調略のいきとどいた兵に信虎の潔白を信じさせるには今しばらくの時間の経過を必要としていると感じ、
褒賞金をばら撒いて士気を高揚させると共に、これまでの武田信虎や稲葉山城を中心とした部隊編成でなく、
城外で騎兵を率いている斉藤義龍を中心とした連携をとらせるよう、軍を短時間の間に再編成した。
これによって各部隊の連携も再びとれるようになって各隊の機能は回復していった。
義龍隊は押し寄せる義重隊の侵攻を阻止して、守備の要である紫隊を守りきるという活躍を見せた。

この間も稲葉山城兵は相変わらず動揺しており、武田各隊の猛攻を受けて瞬く間に万に及ぶ深刻な被害を出していた。
小笠原貞慶隊や藤原妹紅隊の矢雨、勝頼隊の強力な騎馬突撃、本多忠勝正木時茂の波状攻撃などいずれも強力であったが、
特に西行寺幽々子隊の攻撃で4千人もの原因不明の死者や昏睡者が出たのは痛恨であったろう。

しかし、激しい攻撃によって追い詰められた事でかえって城兵は落ち着いた。
他の姉小路軍の部隊の活躍に勇気付けられたことによって城は活気を取り戻した。
武田信虎が再出撃した時点で状況は再び互角に戻ったといえる。

この互角に戻った流れを姉小路軍に引き寄せたのは、新参者であるレミリア・スカーレットであった。
彼女の放ったたった一本の槍は、稲葉山城南門付近の信玄本隊に着弾。
その威力は地形をも変えるほどであり、信玄隊は5千もの兵を失ってその上指揮系統まで完全に破壊された。
義龍隊は多田満頼隊を駆逐し、間髪いれず紫隊が信玄隊にとどめをさして壊滅させ、
中川清秀隊、羽柴秀長隊が集中砲火を浴びせて長野業盛隊を敗走させたため、南門付近の脅威はほぼ消滅した。


北門付近の武田軍は依然健在であり、幽々子隊の攻撃で再び4千もの被害をだし、
また、次々に突撃してくる勝頼、昌景両隊の前に5千もの被害を出すなど、まだまだ姉小路軍にとって十分な脅威になりうるものであった。

ただ、既に数においても流れにおいても完璧に逆転していた。
北門付近は鉄砲櫓が設置されていないが、弾幕結界隊の実力を発揮するのに十分な広さを持っており、徐々に各隊を削り取っていった。
義龍騎馬隊が妹紅隊を圧迫しはじめた時点で各隊はジリ貧となり、レミリアが勝頼隊に向けて二度目の槍の投擲を終えた時点でほぼ勝負は決した。

武田各隊は敗走を始めるも紫隊に退路を絶たれ、包囲殲滅された。
信虎隊が最後に残った武田信繁隊を壊滅させて戦争は終結。三ヶ月もの死闘が終わった。

合戦の影響

武田軍はこの後に行われた尾張での合戦でも大軍を動員しているように、兵の数自体の損害は許容範囲といる。
しかし、この戦いでの武田軍の死者には騎乗を巧みとする精鋭が多く含まれており、また、馬自体もその多くを失ったことは痛恨事であった。このことが、後の尾張失陥につながる。

逸話

この戦いの兵数については多分に誇張が含まれているのではないか?という異論がある。
確かに、両軍共に国の規模に比べてあまりにも多すぎる。
しかし、今のところ当時の軍令状や制札、稲葉山城の兵舎跡の調査の結果として正確な数字であるという説が有力である。

この戦いの武田側の戦死者数は不明である。
姉小路側の記録には斬首捕虜25万という数字があるが恐らくは誇張であろう。
武田軍がほぼ全軍失ったのは事実であるが、それが全て戦死であるとは思えず、逃亡兵が多分に含まれていると思われる。
実際、数ヵ月後に行われた尾張攻略戦でも大軍を動員している。ただし、史上例を見ない戦死者数であるのは間違いない。
「領内に未亡人と未婚の女がみちあふれた。」、「この深刻な人口問題の影響は十年二十年では済まないであろう。」、「精兵殆ど尽く。」とは甲陽軍鑑の記述である。

当時を知る者の述懐で「両軍の攻撃跡と両軍の死体で稲葉山と城下の地形が一変した。」というのがある。
実際、当時の地図と戦後に作られた地図には大きな違いがある。
信玄隊が本陣を構えていた地点は本来小高い丘であったのだが、レミリアの攻撃によって丘が消失して大穴が開いてしまった。
ただし、その大穴は現存しない。戦死者をまとめてその大穴に埋葬したためである。
戦後には平坦な地となっており、慰霊碑が建っている以外に元が丘であったことが分かるものはない。

概要中において『西行寺幽々子の攻撃』と書いたが、これは異能の者の証言ではじめてわかったことである。
死者に外傷がなく死因は不明であり、ただ、呼吸と心の臓が停止しているとしか言えない。
数少ない目撃者の証言では、突然目の前の人々が糸が切れたようにその場でばたばたと倒れていったとのことである。

ちなみにその目撃者は攻撃の五日後に眠るように息を引き取ったため、何らかの関連があると見られている。
お、攻撃を受けた者全てが死亡したわけではなく、戦後に昏睡から目覚めた者もいた。
彼らは突然意識を失ったので何があったのか理解できなかったと証言している。

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最終更新:2011年07月17日 19:54