浜田城の戦い
浜田城の戦い(はまだじょうのたたかい)は永禄10年に毛利家と姉小路家との間で起こった戦い。
参加兵力及び戦力評価
姉小路側の圧倒的優勢である。毛利側は援軍を出せる余裕はなく、浜田城陥落は時間の問題であろう。
概要
姉小路頼綱は毛利家を山陽山陰道より駆逐する最後の布石として浜田城の攻略を弟三木顕綱に命じた。
浜田城は石見、長門国境の石見側に位置し、毛利領の山陰における最後の拠点であった。
しかし、
石見、
安芸における連戦連敗によって周防、長門からの援軍は望めない状況であり、守るのは難しい状況であった。
島清興は篭城の不利を悟り、12月25日、城下の浅井川河畔に布陣した姉小路軍本隊に島清興隊が攻撃を仕掛けたことで戦いの火蓋は切られた。
島隊は顕綱本隊と磯野騎馬隊の攻城を妨げることに成功したが、
明石明智隊が島隊の南へ回り込んで浜田川から渡河し、城を攻撃したためやむなく島隊は城へ引き上げた。
この後も堅い守りを見せる毛利方であったが、
地理に詳しい立原久綱、武人でありながら諜報活動に優れる遠藤直経の両参軍の助けによって
的確に軍を指揮する顕綱によってじわじわと追い詰められていった。
野戦にあっては奇襲による状況の打開を目論んだ毛利元清三千の軍を一鼓して全滅させた近江騎馬隊の目覚しい活躍があった。
二月二十日、本曲輪を制圧された毛利軍は城の放棄を決定。主だった将は西門より脱出した。
この戦いの影響
毛利家は以前もっていた石見における影響力を全て失った。
その上、姉小路軍により周防長門に匕首を突きつけられる形となった。また、尼子領は完全な後方となり、安定した銀山経営をすることができるようになった。
逸話
姉小路軍の西部戦線では一月程度で落ちる城が多い中、支城にすぎない浜田城が2ヶ月も抵抗する事ができたのは恐るべき事である。
浜田城は戦う以前から既に落ちざるをえない状況にあった。とはいえ、浜田城を放棄して周防、長門を守るのも焼け石に水といってよいほどの兵力の格差であった。
あるいは島清興の意図は時間稼ぎであり、浜田城で耐えている間に四国の本隊に何らかの策をこうじてもらう所にあったのではないかと推測する研究者もいる。
BGM
- 不可視隠月 ~ Pupil of Frenzy 「夢幻夜想曲 Eternal Nocturne」どぶウサギより
最終更新:2011年07月17日 19:48