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石見防衛戦

石見防衛戦(いわみぼうえいせん)は永禄10年に姉小路家と毛利家との間で起こった戦い。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・月山富田城兵50323+傷兵
迎撃部隊
旗本隊    :足軽隊18500:姉小路頼綱山中幸盛ルーミア
弾幕部隊  :鉄砲隊5000:明石全登原長頼鈴仙・U・イナバ
明智弾幕隊:鉄砲隊5000:斎藤利三明智秀満リグル・ナイトバグ
騎馬隊    :騎馬隊9000:磯野員昌海北綱親紅美鈴
遊撃鉄砲隊:鉄砲隊5000:別所就治稲富祐秀遊佐続光

毛利・吉田郡山城兵
第一部隊:弓隊12500:毛利元清
第二部隊:弓隊8500 :平岡房実
第三部隊:弓隊8000 :花房正幸
第四部隊:弓隊8000 :長船貞親

下関港守備兵
第一部隊:騎馬隊5500 :島清興
第二部隊:弓騎馬隊5000:福原貞俊

姉小路側は月山富田城の戦い直後であるため城の修復が終わっておらず、野戦によって毛利軍を撃破しなければならない。
対する毛利家は得意の弓隊を主力としているが、毛利元就や三矢は参加していない二級線部隊。
下関港からの部隊は騎馬で編成され足は速いものの、距離があるため合戦に間に合うかは微妙である。
姉小路家としては弓隊を主力とする大名とあたるのはこの戦いが初めてであり(足利将軍家は強力な弓隊を持っていたものの主力は足軽隊であった)、
新兵器である鉄砲と旧来からの飛び道具である弓との直接対決でもあるという興味深い合戦となっている。

概要

姉小路家による月山富田城陥落とほぼ同時に姉小路包囲網の一角・毛利家は動き出した。
元就の四男である元清を総大将に、37000の弓隊を主力に出撃。併せて長門の下関港からも福原貞俊らの騎馬隊10000を出撃させた。

姉小路家は先の戦いで崩壊した月山富田城の修復を急いだが、毛利軍の襲来には間に合わぬと判断。42000をもって迎撃した。
7月10日、両軍は城の北西にて交戦開始。7月20日には罠にかかった花房隊が早くも戦線を離脱した。
毛利軍は明智秀満、明石登全らの射撃を対鉄砲防御兵器である竹束で防ぎながら攻撃を続けたものの、側面にまわった磯野騎馬隊による攻撃や鉄砲の弾幕に押し切られてしまい、
8月5日元清隊が壊滅、10日には撤退を開始した。

殿についていた長船・平岡隊により突出していた明智隊大将・斎藤利三が負傷、その混乱により同隊は壊滅した。
しかし、毛利軍の抵抗はそこまでで数日後には殿の両隊は壊滅した。
姉小路軍は勢いに乗じて吉田郡山城へ向かおうとしたが、利三の負傷もあって体制の立て直しを図ることとなった。
下関から出撃した福原・島隊も途中、鉄砲櫓からの攻撃や罠により戦力を減耗、撤退した。
姉小路家は明智隊の壊滅と斎藤利三の負傷と、わずかな損耗でこれを切り抜けたのである。

この戦いの影響

毛利家は40000近い損害うけ、吉田郡山城に残る兵は約5000、全軍の兵力は15000程度にまで減耗した。

逸話

今回の戦いで毛利家が本気であったかどうかは怪しい。
まず当主である毛利元就、三矢と称される子息達が参加していない点。
四男である元清が総大将である点には疑問はないが、彼に同行した将はいずれも宇喜多・河野の降臣。
福原は毛利四人衆と称されるほどの人物であるからともかく、下関から月山富田城まではあまりにも距離があり彼の軍の意味はあまりない。
結果としては多くの兵を失うだけで、得たものは明智隊の壊滅だけ。毛利元就にしてはあまりにお粗末である。