月山富田城の戦い

月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)は永禄10年に尼子家と姉小路家との間で起こった戦い。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・鳥取城兵43059+傷兵、此隈城兵
旗本隊   :足軽隊18500:姉小路頼綱遠藤直経ルーミア
第一鉄砲隊:鉄砲隊5000:斎藤利三明智秀満リグル・ナイトバグ
騎馬隊   :騎馬隊8289:磯野員昌海北綱親紅美鈴
第二鉄砲隊:鉄砲隊9000:明石全登稲富祐秀遊佐続光

八橋城兵14177(5月5日出撃)
後詰鉄砲隊:鉄砲隊7857:一色義道原長頼浦上宗景
後詰本隊 :足軽隊6320:三木顕綱江馬輝盛別所就治

尼子・月山富田城兵33860
第一迎撃部隊:足軽隊9000:尼子晴久
第二迎撃部隊:足軽隊9000:尼子義久山中幸盛
第三迎撃部隊:足軽隊6500:佐世清宗

姉小路軍は各軍団長が戦線を離れたものの、姉小路頼綱が陣頭に立ったため士気旺盛であった。
加えて、美濃・北近江衆の精鋭、播磨衆がいるため、戦力としてはなかなかのものである。
対する尼子軍はいくらか不本意な戦であるためか、士気はあまり高くない。
しかしその中でも山中幸盛配下は士気・練度共に高く侮れない存在である。

概要

姉小路頼綱は出雲侵攻の足がかりとして、別所就治に八橋城築城を命じた。
城は三月初頭完成し、これを受けて3月5日、鳥取城より頼綱は総勢4万余の軍で月山富田城へ進軍した。
この報を受けた尼子家は美保関港に最低限の守備兵を残し、ほぼ全軍を月山富田城に集結させた。
月山富田城はその城下が鉄砲櫓と弓櫓が複雑に配置されている難攻の城であり、姉小路軍も当初は城下の一部に火をかけたのみで積極的に城攻めを行わなかった。

3月30日、尼子軍はほぼ全軍をもって城下町の外まで迎撃している。
これは、尼子軍は一部を除いてな士気も低く、長期戦となれば諸将が分裂する恐れがあったので、
迎撃して勝てばよし、負けても余力を残して敵を城下に引き込み地の利を生かして篭城をするという策をたてていたと言われている。

4月10日交戦開始。尼子軍の先鋒は尼子晴久の嫡子義久を擁した山中幸盛隊9000であった。
姉小路軍磯野員昌隊は突出した山中幸盛隊と佐世清宗隊の間に割り込んで山中隊を孤立させようと試みたが、
鉄砲櫓の支援を受けた佐世隊と尼子晴久隊の連携の前に被害の拡大が予想されたため、断念せざるを得なくなった。
しかし、姉小路軍の鉄砲隊の実力は尼子方の予想以上であった。
山中隊は佐世隊、晴久隊の盾となる形でその集中砲火を受けつつ戦線を維持したが、瞬く間に撃ち減らされ、10日後敗走した。

晴久隊がこの敗走を助けたので山中隊は無事月山富田城までたどり着けたものの、
今度は晴久、佐世隊の退路を磯野隊及び姉小路頼綱本隊が断った。
尼子方は晴久が鉄砲隊の攻撃に耐えつつ、佐世隊が退路を塞いだ姉小路軍にしきりに攻撃を仕掛けていたが、
磯野、頼綱隊は鉄砲櫓の被害を受けつつも佐世隊の攻撃を受け止め、逆に反撃を加えた。

5月1日、晴久隊佐世隊共に壊滅し、晴久は僅かな近習を従えて月山富田城に敗走した。
5月10日攻城戦開始。姉小路軍は後詰も次々に着陣した。
城下の鉄砲櫓や弓櫓によって姉小路方は被害は相当な被害をうけたという。
しかし、月山富田城は攻城戦開始よりわずか1ヶ月で落城した。
これは姉小路軍が5万もの大軍だったこと、先の迎撃で尼子側の被害が尼子方の予想より遥かに大きかったので月山富田城ほどの巨城を守るほどの兵がいなかったこと、
月山富田城がやや古い城で鉄砲対策が完璧でなかった事等の理由が考えられる。

尼子晴久、義久共に捕らえられ、落城後も孤軍奮闘していた幸盛も奮戦の末に紅美鈴によって捕縛された。



この戦いの影響

尼子家は主力を完全に喪失、降伏を受け入れる他なくなる。
姉小路家は毛利との本格的な交戦状態に入る。


戦後処理について

この戦いの後、立原久綱は頼綱に面会して銀の供出と兵役を条件に尼子家の存続と領土の安堵を求め、頼綱はこれを許している。
詳細は不明だが、通説によれば塩屋秋貞との間で以下のように取り決められたと言われる。

一、尼子家が出雲国内に所有する領土はこれを安堵する。家臣についても同様である。

二、石見国についても同様に安堵するが、石見国の内五万石に関してはこれを銀山経営に充てるよう命ず。

三、石見銀山の所有権は姉小路家で召し上げる。ただし、採掘権は尼子家に永久貸与する。

四、尼子家は銀の採掘量の四割を姉小路家に納める義務を負う。

五、尼子家及びその家臣は貫高に応じた兵役の義務を負う。

姉小路家に降った大名家の待遇はさまざまであり、美濃斉藤家、近江浅井家、越前朝倉家などのように大名として存続を許された家もあれば、
近江六角家、能登畠山家、越中神保家などのように大名としては取り潰された家もある。
その中でも尼子家の条件は美濃、近江、越前に次ぐかなりの好条件といえよう。

これは月山富田城が落城し、当主尼子晴久、嫡子義久親子が捕虜となってなお尼子方が激しく抵抗したことから、
単に当主及び嫡子の生命の保証のみでは抵抗がおさまらないことが明らかとなったためであろう。
尼子家残党勢力と毛利家が結ぶ危険を考えれば、いち早く尼子領を平定する必要があったため、このような好条件での降伏を認めたと推察される。


逸話

この戦いは三木顕綱の初陣である。
三好家へ人質に出されていた事もあって当時としてはかなり遅い23歳での初陣となった。
これを補佐したのは江馬輝盛、別所就治両名である。

庶子とはいえ、主君姉小路良頼の子の初陣を補佐するという大役に、一度主家を裏切った輝盛を充てる人事には疑問の声が上がったという。
結果としては三木顕綱隊が戦場に到着した頃には大勢は決まっていた事もあって、さほど大きな過ちもなく勝利に貢献している。
補佐の二人は立派に大役を務めることができたと言えるであろう。

戦後、多くの傷兵を抱える姉小路軍は温泉で傷を癒した。
月山富田城の至近には鷺ノ湯温泉が存在するが、この温泉だけでは数多くの傷兵を収容するのには不十分であったので出雲、石見の各地に温泉を求めた。
元々、玉造の湯をはじめとして出雲風土記の時代から著名な温泉が多い土地であったが、姉小路軍によってより大人数が宿泊、逗留できるように設備が整えられた。
このことがきっかけとなって後にこの地方は日本有数の温泉地として栄えるようになった。

紅美鈴は山中幸盛との戦いで重傷を負ったが、湯の川温泉につかるとみるみる回復し、傷跡も残らなかったという。
この伝説から湯の川温泉は美肌、美人の湯として知られるようになった。
海潮温泉は元々水の美しい赤川を一望できる温泉であったが、リグルが逗留してから源氏蛍の数がにわかに増えたことにより、通称「蛍の温泉」として知られるようになった。
毎年5月、6月には『光の洪水』と比喩されたその光景を一目見ようとする温泉客で賑わったという。

この戦いの直前に石見銀山において釜屋間歩(かまやまぶ)という新たな鉱脈が発見された。この発見によって石見銀山は最盛期を迎える事となった。
姉小路家への運上銀は時に数千貫にものぼり、その莫大な銀は石見銀山-温泉津-敦賀-長浜-観音寺と海路や湖路を使ってへ観音寺城へ運ばれた。

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最終更新:2011年07月17日 19:42