明智兵部暗殺未遂事件

明智兵部暗殺未遂事件(あけちひょうぶあんさつみすいじけん)は永禄十年一月に起こった明智光秀が因幡国鳥取城の地で重傷を負った事件のこと。
文献によれば宇喜多直家配下長船貞親が放った刺客による犯行と言われる。なお、この事件は一般的な名称が無いので本項では便宜上、上記の名称で表記する。

概要

姉小路家の西進に危機感を覚えた毛利家は姉小路軍の重鎮である明智光秀を暗殺しようと画策し、これに刺客を放った。
当時、明智光秀は山名家の降伏の後、鳥取城に入城して戦後処理にあたっていた。毛利家の刺客は明智家の下男として潜り込み、明智家家臣の一人を買収。
これを利用して明智秀満を土倉に誘い込み、土倉内に一時的に押し込めることに成功した。その間に明智秀満に成りすまし、明智光秀に近づいて殺害を試みたのである。
結果として、光秀は重傷を負うも一命をとりとめた。
刺客はとどめを刺そうとしたが周囲の者に取り押さえられ、服毒による自決をはかるもこれもまた周囲の者に阻まれた。日夜繰り返された尋問と拷問の末、事件の全貌が明らかとなった。

この事件の影響

この事件による姉小路軍将兵の動揺は大きく、特に明智家を中心とする鉄砲隊においては顕著であった。
また、領国の慰撫等で西国勢の中心となる諸将が一挙に一時戦線を離脱し抜けたことでこれ以上の西進は危ぶまれた。
しかし姉小路頼綱が陣頭指揮を執ることで一応の事態の収拾を見、西進は続行されることとなった。

明智光秀が狙われた理由について

この当時の姉小路軍の西部戦線の最重要人物は斉藤義龍浅井長政、姉小路頼綱、そして明智光秀の四人である。
その中で明智光秀は元々美濃斉藤家の一家臣であり、それがわずか十年もの間に河内守護にまで出世したため、急激に家臣団を膨張させる事になった。
よって、家臣各々の身元調査を徹底することは困難であり、隙が大きかったと言える。
対して義龍、長政、頼綱は先代からの大名家であり、身の回りも古参の者によって固められており、その隙を突くのは難しかった。
この差が光秀を狙わせたのではないか、という説が有力である。

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最終更新:2011年07月17日 19:40