1567年1月現在の状況

本項では1567年1月(Act77)における姉小路家・姉小路包囲網参加勢力の状況を示す。

姉小路家

参加勢力の一つである山名家を降した矢先、宇喜多直家配下長船貞親が放った刺客により明智光秀が重傷を負い、前線を離脱。(明智兵部暗殺未遂事件
時同じくして美濃での情勢不安定化に伴い、美濃防備を担当していた蜂須賀正勝はかつての国主・斎藤義龍の召還を要請。義龍もまた西国から離れる。(美濃の抱える諸問題
また、近江衆軍団長である浅井長政も、山名家の客将であったレミリア・スカーレットが毛利以外との戦いを望んだため、それに付きそう形で離脱。
これにより、西国勢の三軍団長が一気に抜けたが、姉小路頼綱 が陣頭指揮を執ることで結束した。

武田家

稲葉山会戦では参加兵力の半数を失ったものの、尾張撤退戦ではそれを上回る兵力を投入し尾張を奪取している。
また、美濃への扇動を始め妨害工作も引き続き実施している。

上杉家

第二次越中防衛戦での敗北後目立った動きを見せてはいない。次に姉小路領に攻め込むことがあれば、ついに上杉謙信が動く可能性もある。
今までの敗北は軍神たる彼の参加がなかったからと考えられる。

北条家

稲葉山会戦亀山城の戦い清洲城の戦いで兵力の大部分を失い、領土も伊勢・霧山御所と東海道のいくつのか港を残すのみとなっている。ただし、霧山御所は最新の築城技術が注ぎ込まれ、難攻不落となっている。

三好家

播磨防衛戦後、目立った動きはない。

山名

生野の戦いにおいて主力を喪失し、1567年1月に姉小路家に降伏。山名祐豊を始め、家臣団は助命され姉小路家配下となる。

毛利

正面から戦うのは不利と判断。宇喜多直家による明智光秀暗殺計画を始めとする妨害工作を実施。

尼子

山名家が降伏したことによって地上で姉小路に接する。

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最終更新:2008年05月12日 06:16