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尾張撤退戦

尾張撤退戦(おわりてったいせん)とは永禄9年に姉小路家と武田家の間で起こった戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・清洲城兵52154
足止めとして9154
守将:武田信虎
残物資
馬:18237
鉄砲:30500

撤退部隊(11月25日)
鉄砲隊9500:下間頼廉中川清秀斎藤龍興
騎馬隊9000:博麗霊夢霧雨魔理沙八意永琳
鉄砲隊9500:松永久秀鈴仙・U・イナバ六角義治
鉄砲隊5000:赤井直正八雲藍
鉄砲隊5000:蓬莱山輝夜小野寺輝道前田利益
鉄砲隊5000:籾井教業淡河定範松倉重信

(12月10日)
騎馬隊5000:武田信虎

稲葉山城兵(増援)(11月10日)
騎馬隊9500:羽柴秀吉滝川益重荒木氏綱
騎馬隊8500:丹羽長秀羽柴秀長宮部継潤

武田・岡崎城兵163500
武田信玄 :騎馬隊22000
武田勝頼 :騎馬隊20000
武田義信 :騎馬隊14000
高坂正信 :破城槌隊14500
武田信繁 :破城槌隊14000
太田資正 :破城槌隊9500
原虎胤   :破城槌隊9500
初鹿野昌次:騎馬隊9500
成田長泰 :破城槌隊9000
秋山信友 :騎馬隊8500
木曾義康 :騎馬隊7000
長野業盛 :足軽8500
内藤昌豊 :弓隊9000
大久保忠世:弓隊8500

清洲城を中心とする尾張の防備大勢は不十分であり、武田軍の戦力は圧倒的である。撤退を決断したのも無理はないだろう。

合戦概要

8月初旬に陥落した尾張清洲城の守りが手薄と見た武田軍は、尾張奪還の好機と捉え三河岡崎城から総勢16万を越す大軍を持って攻め込んだ。
これに対し姉小路軍は稲葉山城から後詰めを要請したものの、軍監である八意永琳により撤退を決断。
武田先鋒隊が尾張領内に進入した11月25日に撤退を開始した。殿には武田信虎と兵9000がこれを務めた。

12月10日、十分に時間を稼いだと判断した信虎が騎馬隊5000と共に撤退を開始しようとした矢先、武田軍は木曽川の堤防を決壊させ清洲城を水攻め。
その様子は城が湖の上に浮かんでいるようであった。

武田軍の重囲の中、霧雨魔理沙は堤防の一部を破壊することに成功。
水が引いたことで信虎は残る僅かな動ける兵を率いて辛うじて武田軍の包囲を突破した。
清洲城に残っていたのは元々北条方の傷兵達であったため、12月20日に降伏。
清洲城に二度武田の旗が翻った。

この戦いの影響

姉小路包囲網は各地で敗戦を繰り返していたが、この戦いの勝利で武田家は盟主としての面目を保つとともに、各国の士気をあげることに成功した。
また、富裕な尾張国は武田軍を経済面で大きく支えた。

逸話

この戦いについて、太田牛一は『騨侯記』の中で「まつながじぶ、謀りごと用いて武田と通ず、と京童噂しけり」との記事を残している。
謀の存在は、先の伊勢侵攻ともども明らかではないが、まつながじぶ、則ち松永治部大丞久秀が何らかの行動を行った可能性は決して低くないと、歴史家は一致見解を見せる。

当時畿内は一大商業・農業圏として、著しい発展を遂げ、姉小路領のみならず、日本全国から見ても圧倒的な生産量を見せていた。
そして畿内を抑えることは、姉小路家の財政を支え、姉小路強大化の元でもあった。
故に、姉小路の金庫ともいえる畿内を抑える大和衆は、極めて大きな権限を持つはずであった。

しかし実際は、要所を姉小路家直轄地や、姉小路主力・美濃衆に抑えられていた。
また美濃衆がより古参であることもあって、大和衆はそれほど大きな権力を持つことができなかった。
これは、大和衆が美濃衆に反感を持つ要因となる。

さらに、永禄九年(1566年)4月の稲葉山防衛成功・6月の尾張攻略は、美濃衆がより権力を得る結果をもたらしている。
特に、肥沃な尾張を美濃衆が得ることは大和衆が最も危惧すべきことであった。
畿内にも多数の所領を持つ美濃衆は、大和衆の急所を握っている同然であり、尾張の生産力を手に入れることで大和衆を滅ぼすことも容易となったからである。

その状況を鑑みれば、大和衆がその権力を維持するため、武田による尾張侵攻を誘発し、
美濃衆をあわよくば壊滅させようとすることも、決して不思議ではないのである。
結果的に美濃衆壊滅とはならなかったものの、尾張喪失による生産力の低下、敗戦による損害によって、美濃衆の影響力は戦の前から比べると低下している。

なお、ほぼ同時期に北条家家臣某が、松田憲秀に内通の嫌疑ありとの書状を残している。
この嫌疑については一度沙汰止みとなっているが、この時期の北条家内に対し謀をしかけるような人物は松永久秀しかおらず、内通相手が松永であることはほぼ間違いない
(松永・松田間の書状は現存していないが、松永ほどの謀略家が己の謀が露見するような物を残すはずがない)。
おそらくは伊勢・尾張を切り取り大和とともに姉小路家からの独立をもくろみ、
かつそれを維持するため武田家の同盟を画策していたとの推測がなされている(ただし、この説の蓋然性は低い)。

結局それは尾張侵攻とこの撤退戦により不発に終わっているが、
実際に独立するならば武田との同盟が、かつての徳川・織田同盟のように必要であるは想像に難くない。
また、伊勢・大和を武田に差し出す形での独立・同盟を目論んでいる可能性もある。

清洲城はわずか3年ほどの間に織田→武田→北条→姉小路→武田と持ち主を変えた。
持ち主を変える度に大きな戦いが行われたため、織田家が領有していた当時は繁栄を誇っていた城下町も、
姉小路家が領有する頃には軍事施設を除けば城兵のための臨時の市が月に数度立つ程度で、荒廃しきっていた。
住民の多くは津島、桑名等の伊勢方面や、交通の要衝で門前町もある熱田へ移住したという。
武田信玄が清洲水攻めを決断した背景に、元々荒廃している清洲を水攻めしても経済的にさして悪影響がないことがあったと考えられる。

清洲城は平城で標高が低く、水量の多い木曽川も近いため水攻めをする条件は揃っていた。数万の足軽に多額の金子を与え、突貫工事でまたたく間に堤防を完成させたという。
時、折りしも冬であったため、水量はさほど多くは無かったが、それでも城内の大部分を浸すには十分であった。
むしろ、冷水によって多くの兵が凍え、士気の低下が深刻となった。
姉小路軍は懸命に排水作業を行ったが、効果はあまり無く、むしろ作業をする者を凍えさせるのみであった。
この戦いでの死者には多くの凍死者が含まれていたという。