清洲城の戦い

清洲城の戦い(きよすじょうのたたかい)とは永禄9年に姉小路家と北条家の間で起こった戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・稲葉山城兵36500
本隊:騎馬隊13500:武田信虎八雲藍前田利益
第二部隊:騎馬隊9000:霧雨魔理沙博麗霊夢淡河定範
第三部隊:騎馬隊14000:赤井直正籾井教業

亀山城兵19000
本隊:足軽隊9500:松永久秀八意永琳松倉重信
支隊:鉄砲隊9500:下間頼廉蓬莱山輝夜鈴仙・U・イナバ

北条・清洲城兵7081+傷兵
守将:北条氏康

美濃軍は機動力を重視し、騎馬隊での侵攻であるがここ数年で整備が進められてきたもののいまだ未熟であり、多少の損害は免れない。
一方、大和軍は姉小路得意の鉄砲隊で編成されており、この戦いの長期化を避けるならば彼らの到着如何によるだろう。
先の稲葉山会戦で北条軍が壊滅しているため、兵力差は懸絶している。
しかし、清洲城は当主である北条氏康を始め北条家歴戦の将が守っている。
また、領内には鉄砲櫓を始め防御態勢がしかれており山椒の如き軍と言えよう。

概要

稲葉山会戦で勝利した姉小路軍は余勢をかって北条軍の領土である尾張清洲城の攻略に乗り出した。
総大将は武田信虎。清洲城下の美濃側は小規模ながら鉄砲櫓による要塞化がなされており、攻撃隊は鉄砲櫓地帯をすばやく潜り抜けるために騎馬隊で編成された。
対する北条家はこの時点で亀山城が攻撃されており伊勢方面からの援軍は望めず、同盟国の武田家も三河方面が手薄となっていて援軍は望めないという状況で清洲城はほぼ完全な孤城であった。

この不利を補うべく北条氏康は情報と地の利を生かした戦術をもって対抗した。
北条軍は姉小路軍が鉄砲櫓地帯を抜けた時点で稲葉山との連絡を遮断、清洲城周辺は情報の孤島と化した。
そして、武田軍が再び大挙して襲来してきたとの嘘の情報を流した。
この偽情報以前に「武田軍、再侵攻の兆しあり」という本物の情報を得ていた信虎隊首脳部はこの情報を重視し、一時尾張国境付近まで後退することに決定した。
6月19日、殿軍の霧雨隊は襲撃に備えて待機、信虎隊は一足先に引き上げ、赤井隊は翌日の引き上げに備えて準備を行っている。
当然ながら清洲城へは常に物見を走らせていたという。

そして、6月20日未明、北条氏康隊3000はなんの前触れもなく赤井軍に夜襲をかけた。
実は氏康隊は姉小路軍が尾張国境を越えたという報告を受ける以前からでひそかに兵3000を近隣にちりぢりに伏せていた。
これを悟られないために城の旗指物を増やしたり、炊事の煙を多くあげさせるなどの工作を行っていたという。
突如予期せぬ方向からの襲撃を受け、赤井隊は陣を乱した。
奇襲の際、氏康は赤井隊の馬を重点的に狙うよう指示し、馬が暴れまわったことでさらに混乱に拍車がかかった。
将の尽力でかろうじて潰走せず、その場に踏みとどまったものの、列の足並みもそろわず、鉄砲櫓の射程にまで追い込まれ、被害はかなり大きいものとなりつつあった。

殿軍のために備えていた霧雨隊は事態に気づくや、すぐさま氏康隊に攻撃をしかけた。
霧雨隊によって赤井隊への攻撃は弱まったものの、氏康隊は赤井隊への攻撃を継続しており、混乱は収まらなかった。
この頃、連絡が途絶えたことに不審を覚えた蜂須賀正勝が自ら清洲の戦陣に向かう途中、引き返してくる信虎隊と出会い、事情を話したことで信虎隊が戦線に復帰した。
正勝は信虎隊が戦場に到着するよりも一足早く赤井隊へも報を伝え、ようやく赤井隊も落ち着きを取り戻した。
その後、三隊に取り囲まれた氏康隊は潰走、本格的な攻城戦に移った。

この頃には既に亀山城は落城し、松永久秀隊、下間頼廉隊が清洲へ援軍に向かっていた。
清洲城は東側への防備は厚いが、西への防備はないため何の支障もなく着陣。
全軍による総攻撃が行われた。この後も北条軍の抵抗は激しかった。
相変わらず情報工作も激しく行われたが、部隊間、稲葉山城間で将を使っての定期的な交信が行われたため、損害はおさえられた。結局8月5日に開城。戦闘は終結した。

この戦いにおける北条軍の情報工作について

この戦いで稲葉山城軍が北条軍にここまで翻弄されてしまったのはその当時の情勢とそれを見事に利用した情報工作があったからである。
情勢とは、武田軍が稲葉山会戦において余力を残して退却したこと、常に稲葉山城への侵攻のそぶりを見せ続けていたことである。
実際に深志から信濃国境付近に築城部隊を送った際には、大軍での侵攻であるかのように見せかけるために必要以上の多くの旗を立てていたという話がある。
これは築城妨害を防ぐための牽制であるとともに、清洲攻撃隊への牽制の意味も持っていたと思われる。
このような不安定な情勢下での情報工作は非常に効果的であったといえる。
ただ、このような情勢下であっても情報を扱うに長けた将が多い姉小路首脳部を誤らせるのは困難であると思われた。
これを可能ならしめたのは風魔小太郎率いる風魔の存在であると言われている。諜報、偽報、後方撹乱等はまさに彼らの得意分野である。

この戦いの影響

この戦いに勝った姉小路家は肥沃な尾洲一国を手に入れた。敗れた北条家は領土をさらに縮小させ、伊勢、志摩、及び遠江浜松港を残すのみとなった。

逸話

この戦いは度々川越夜戦と比べられる。夜襲にいたる経緯は違うものの、敵に誤った認識をさせて隙を作って夜襲をかける手口は似ている。
しかし寄せ集めに近かった上杉軍と、結束力が非常に高い姉小路軍の違いが最後の結果に違いを生じさせた。

俗説では武田信虎隊が偽報にかかったのは主将たる信虎が武田家を強く意識していたからであると言われている。
稲葉山会戦においても、撤退する武田軍を必要以上に深追いしたという逸話が残っている事などから広く信じられてきた。
実際には先述のような北条軍の情報工作に加えて、武田家の情報統制で内情が分かりにくかった事
(武田家にその時点での美濃への侵攻能力がないことが判明するのは清洲落城後である)
が主とした原因であったが、信虎の過度の意識が一因であることは否定できない。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2011年07月17日 19:36