播磨防衛戦
播磨防衛戦(はりまぼうえいせん)とは永禄9年に姉小路家と三好家の間で起こった戦いである。
参加兵力及び戦力評価
姫路城に詰めていた武将達は斎藤・明石を残し鳥取城攻めのために弓木城に移動している。
兵数は姉小路側が優勢であり、斎藤・明石の二将がいれば落城の危険は少ないだろう。
なお、この戦いの前に山名8000が攻め入っているが手もなく壊滅させられている。
概要
三好家は包囲網参加勢力の一翼として姉小路が山名より奪った播磨へ約3万の軍を持って攻め入った。
このとき播磨姫路城には姉小路西国勢の内、主立った者は因幡侵攻のため弓木城に終結、または美濃への援軍へ向かっており、斎藤義龍、明石全登ら5名の将しか残っていなかった。
しかし、歴戦の猛将である義龍率いる騎馬隊と明石全登の猛烈な反撃を受け、安宅冬康隊の半数が討たれ三好軍は早々に撤退。それを追撃した姉小路軍は備前にまで侵入し、十河一存隊を壊滅させた後姫路城に帰還した。
この戦いの影響
双方とも大きな消耗はなく、小競り合い程度の戦いであったため大勢への影響は少ない。
逸話
三好の播磨侵攻の報を受けた姉小路頼綱は至極冷静に「義龍殿に任せよ」とだけ言い、あとは放置している。
最終更新:2008年03月18日 03:44