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第二次越中防衛戦

第二次越中防衛戦(第二次越中防衛戦)とは永禄9年に上杉家と姉小路家の間で起こった合戦である。姉小路包囲網を名分としており、稲葉山会戦と同時進行で行われた。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・富山城兵52655
守将:朝倉宗滴
迎撃部隊:足軽隊12500:柴田勝家富田景政小島職鎮

蓮沼城兵13500
第一遊撃隊:鉄砲隊8500:アリス・マーガトロイド真柄直隆朝倉義景
第二遊撃隊:鉄砲隊5000:レティ・ホワイトロック鵜殿長持

上杉・春日山城兵62000
第一部隊:騎馬隊9500:柿崎景家四季映姫・ヤマザナドゥ
第二部隊:騎馬隊9500:斎藤朝信
第二部隊:騎馬隊8500:新発田重家
第三部隊:騎馬隊7000:氏家守棟
第四部隊:騎馬隊9000:本庄繁長
第五部隊:騎馬隊9500:村上義清
第六部隊:騎馬隊8500:小野塚小町
第七部隊:弓隊7000:石川数正

柏崎港兵16500
第一部隊:騎馬隊8500:延沢満延
第二部隊:騎馬隊8000:中条藤資

越中富山城を巡る戦いは永禄三年二月の第一次越中防衛戦に続き二度目である。
兵数は姉小路側に蓮沼城兵が加わったことによりほぼ同数となっている。
上杉はほとんどが騎馬隊で編成され、高い機動力を持つ。
ただし、姉小路側は街道沿いに鉄砲櫓が配備されており、上杉謙信の参戦がないのもあり、姉小路が優勢となっている。

概要

 上杉謙信は姉小路包囲網に参加した義務を果たすため8万近い大軍を越中に向かわせた。
総大将は柿崎景家。街道沿いの鉄砲櫓をすばやく潜り抜けるために軍の大部分は騎馬隊で編成された。

対する姉小路軍の総大将は朝倉宗滴。越中には上杉軍とほぼ同数の兵が詰めていたが、
彼はいかに鉄砲櫓の支援があろうとも精鋭上杉騎馬隊と全面的に野戦で戦えば相応の被害が避けられないことを悟り、敵を壊滅させるよりもまず味方の被害を減らすために篭城戦を選択した。

 4月5日に上杉軍が富山城に到着、城の包囲を試みた。
北門、東門、西門を押さえることに成功したが、南門門外で小島職鎮隊(実質的には柴田勝家隊)が包囲を防ぐために布陣しており、これに苦戦することとなった。
東門、西門は攻城戦を開始したが、守備に徹した朝倉宗滴の前に完全に攻めあぐねた。
北門は攻城戦にとりかかるも、蓮沼城から発したアリス隊、レティ隊の鉄砲隊に悩まされ、対策に4部隊、全軍の半数近くを割いてなお北門を封鎖するのがやっとであった。
こういった経緯から力攻めは不可能となり、この上は全門を封鎖しての兵糧攻めによる落城を目指すこととなった。

自然、最大の激戦は南門の封鎖を目指す柿崎、氏家両騎馬隊と飛騨からの兵糧搬入路を確保する小島隊の間で行われた。
柴田勝家に指揮された小島隊は鉄壁のような硬さを誇り、騎馬隊に対して不利なはずの足軽隊を率いて幾度も両隊を撃退した。
小島職鎮は隊の指揮を完全に柴田勝家に委ね、自身は篭城戦において最も脅威となる調略対策を担当した。

上杉方の参軍である四季映姫は姉小路軍の撹乱を目的としてかなりの工作を行っていたと言われるが、小島はその動きを察知して城内と連絡を取り未然に防いでいる。
結局鉄砲櫓や城内からの銃撃によって上杉全軍の受ける被害はますます増大していき、5月5日には上杉軍は撤退を開始。
アリス隊レティ隊は北門攻撃隊の引き際を叩いて相応の戦果をあげ、小島隊も氏家隊を追って戦果をあげた。
しかし、名将というべき村上義清が殿軍として控えており、また、足の速い上杉騎馬隊を追うのは難しいと判断、姉小路軍も追撃もそこそこに富山城に引き上げたことで戦いは終結した。

この戦いの影響

上杉軍は部隊こそ壊滅しなかったものの、全体の八割近い死傷者を出した。
これによって軍の再建にかなりの時間を要することとなった。
ただ、姉小路軍は最小限の被害で城を守りきったが春日山城に逆撃を加えるほどの力はなく、両軍の力関係に決定的な影響を与えるほどの勝利ではなかった。
しかしながら永禄3年の越中防衛戦、永禄8年の輪島港防衛戦に続いて強敵上杉の侵攻を防いだことで大いに姉小路軍を自信づけた。

逸話

この戦いがおこった年で主将の朝倉宗滴は齢90であったが、その指揮は老いをみせるどころかますます熟達してすでに余人の及ぶところではなかった。
「宗滴翁は古(いにしえ)の廉頗、馬援ですら及ばず。彼1人富山にあれば、いかにして越中を落とすべき。」とは当時の世評である。
「今の世に老練と評するに値する者は宗滴翁と長野信濃守(長野業正)のみ。」とは後にこの戦いの詳細を知った武田信虎の言葉である。

四季映姫は戦いに先だって道義をもって姉小路軍の説得を試みた。あまりの説得力に小島隊は聞き入ってしまい、戦場が静まり返ったという。
しかしながら、小島職鎮は「いかなる理屈であろうとも、兵をもって攻めてくる以上そこに道義はない。我らは我らが暮らす土地を兵火より防ぐのみ」と言い返し、全軍を士気の阻喪から救った。
奇をてらわないどうということのない言葉であったが、姉小路軍が越中を攻め取って以来十年、下支えではあったが姉小路軍を支え続け、越中を守り続けた彼の言葉は越中人の心に重く受け止められたという。

城の北で銃撃を行っていたアリス隊とレティ隊を攻撃するため、小野塚小町の騎馬遊撃隊が当てられた。兵科において不利である鉄砲隊であったので小町の騎馬隊の攻撃で相当な被害を受けた。一時はアリスや朝倉義景周辺にも被害がおよび、指揮することすら危ぶまれたが、真柄直隆が一騎打ちで小野塚小町と戦って勝敗はつかなかったがこれを追い返し、事なきを得ている。

なお、一騎打ちの際に両者が使った武器が五尺三寸の大太刀と大鎌という非常に珍しい戦いでもあった。どちらも間合いが異常に長いので、他の者が近づくこともできず、固唾を呑んで見守るしかなかったという。戦いは一向に勝負がつかず、最終的にはレティ隊の援護で小町騎馬隊が崩れ、小町が引き上げて戦いは終わった。真柄直隆は後に最もさばきにくい武器として大鎌を挙げている。