稲葉山会戦

稲葉山会戦(稲葉山会戦)とは永禄9年に姉小路家と武田家、北条家の間で起こった戦いである。
この時代の合戦において屈指の激戦であったことで知られる。

合戦以前の情勢

前将軍弟足利義秋は足利幕府滅亡後西国諸侯を渡り歩き、次いで武田信玄に保護された。
義秋は武田信玄に姉小路家を討って幕府を再興することを要請し、信玄はこれを承諾した。信玄は上杉謙信及び北条氏康と和解し、西国諸侯も含めた足利義秋を中心とする姉小路包囲網を形成。
参加各国は対姉小路家の前線に軍を集合させた。特に武田家は信濃深志に続々と兵を集め、先の美濃防衛戦を上回る13万もの大軍となった。

合戦までの経過

3月10日に武田信玄は深志の筑摩神社に全軍を集結。上洛を宣言し、稲葉山城へ出陣した。上杉、北条もこれに呼応して出陣。
どの軍も同日に姉小路軍と交戦を開始していることから前もって申し合わせていたものと思われる。
加えて北条軍は美濃攻略軍以外にも北条幻庵率いる2万の兵を筒井城へ出陣させている。牽制のためであったらしく、この軍はすぐに敗走している。
対する姉小路軍は西国戦線にいた異能の者数名を対武田、上杉のために美濃、越中に呼び戻している。また、観音寺城で全軍の統括を行っていた竹中重治もこの戦いに参加するため美濃へ向かった。
なお、松永久秀は稲葉山城の防衛のために筒井城の守備兵から1万5千を割いてこれを大垣城に配した。竹中重治、霧雨魔理沙、博麗霊夢はこの軍を率いて稲葉山城救援に赴いている。

参加兵力及び戦力評価

姉小路:稲葉山城兵116719
守将:赤井直正蜂須賀正勝柳生宗厳
結界部隊  :鉄砲隊9500:八雲紫山崎片家
駆逐部隊  :騎馬隊13500:武田信虎前田利益八雲藍
第一弾幕隊:鉄砲隊5000:小野寺輝道中川清秀
第二弾幕隊:鉄砲隊5000:羽柴秀吉宮部継潤後藤高治
第三弾幕隊:鉄砲隊5000:細川藤孝鵜殿氏長
第四弾幕隊:鉄砲隊5000:羽柴秀長
第五弾幕隊:鉄砲隊5000:丹羽長秀六角義治
第六弾幕隊:鉄砲隊5000:籾井教業滝川益重

大垣城兵14500
遊撃隊(紅):鉄砲隊4500:博麗霊夢寺島職定
遊撃隊(黒):鉄砲隊5000:霧雨魔理沙淡河定範斎藤龍興
遊撃隊本隊:鉄砲隊5000:竹中重治荒木氏綱長野藤定

武田:深志城兵132000
第一部隊:騎馬隊22000:武田信玄
第二部隊:騎馬隊11000:高坂昌信
第三部隊:騎馬隊5500:太田資正
第四部隊:騎馬隊20000:諏訪勝頼
第五部隊:騎馬隊8000:北畠晴具
第六部隊:足軽隊6000原虎胤
第七部隊:足軽隊9000真田昌幸
第八部隊:弓隊9000真田幸隆
第九部隊:破城槌14000:武田信繁
第十部隊:破城槌15500:松平元康

北条尾張清洲城兵62000
第一部隊:足軽隊17000:北条氏康
第二部隊:足軽隊9000:北条氏照
第三部隊:足軽隊8500:北条氏邦
第四部隊:足軽隊7500:魂魄妖夢

合戦概要

先の戦いのように街道沿いに巧妙に設置された鉄砲櫓で多くの兵を失いながらも北条武田両軍は稲葉山城周辺に到着した。
北条軍は概ね東門から南門付近、武田軍は西門から南門付近に布陣した。対する姉小路軍は後述のような防御体制をとり、八雲紫隊を東門門外で守備を固め、多数の弾幕部隊を配備した。
特に西門を攻撃していた武田信玄隊には魔理沙隊、霊夢隊、竹中隊あわせて一万五千もの弾幕隊が当てられた。

緒戦において武田北条連合軍は城壁への破壊工作が行なった。また山本晴幸や高坂昌信などが調略を試みている。
しかし、ことごとく蜂須賀正勝によって未然に防がれている。その間にも姉小路軍の弾幕部隊も次々に武田、北条軍を打ち減らしていき、いくつかの部隊を壊滅に追い込んでいる。
武田軍が得意とする土竜攻めが封じられ、このままでは武田北条連合軍が稲葉山城壁を越えるには今しばらくの時間が必要となると思われた。しかし、信玄が行った策は土竜攻めよりもさらに効果的であった。

信玄は以前武田軍に属して美濃防衛戦で敗れた際に姉小路軍についた多数の元武田兵に働きかけ、内応を起こさせたのである。姉小路軍は全軍が混乱状態に陥り、一部では同士討ちを行うなど多大な損害を受けた。
特に魔理沙隊の混乱は酷く、この会戦が終結するまでほぼ無力化されてしまった。稲葉山城西門においても内応がおき、内応した兵士と城門を守る兵が争っている間に信玄隊が城門に攻撃、これを破壊して城内に突入した。
指揮系統が破壊された姉小路軍ではこれを止めるすべはなく、信玄隊は本曲輪にまで乱入し、そこで指揮を執っていた蜂須賀正勝も危険にさらされた。
しかし、あわやと言うところで八雲紫が救出、次いで全軍に呼びかけてこれを鼓舞し、指揮系統を建て直した。その後に銃身が真っ赤に焼け付くまで弾丸を撃ち込んで信玄隊を本曲輪の外にまで押し返した。
その活躍の一部始終を見た正勝は、彼女をある古代中国の将になぞらえて評し、「八雲紫は一身之胆なり」と絶賛したという。

この騒ぎで南門も破壊され、武田の諏訪勝頼隊や北条の北条氏康隊を初めとする南門攻撃隊も激しく攻撃を加えた。
これらの攻撃に対して蜂須賀正勝及び彼を補佐していた赤井直正、柳生宗厳は後に獅子奮迅と評される活躍を見せた。一方、その間も東門外で守備していた八雲紫隊への激しい攻撃は続いていた。
しかし、巧みに陣を動かして弾丸を浴びせる彼女の軍の前に北条軍は次々に壊滅、敗走していった。結局、他の弾幕部隊や信虎騎馬隊の援護もあって、八雲紫隊は完璧に東門を守りきったのである。
北条軍が退き、武田軍の損害も大きくなってきた頃になっても、稲葉山城には4万もの兵が詰めていた。いかに城壁が破壊されていてもこれを落とすのは不可能と見たか、突如武田軍は退却を開始した。
殿軍の高坂昌信隊が踏みとどまり、わずかのうちに高坂隊は壊滅したが、武田全軍が退却するための時間かせぎはそれで十分であった。
一部の姉小路軍は退却の動きを察知して退路をふさぎに回っていたが、武田軍はあっさりとすり抜けた。武田信虎隊は追いすがったが、足の遅い足軽隊や破城槌隊すら捕捉することが出来ず、木曽川河畔に至って引き返し、この戦いは終結した。

美濃の防備体制

前回の美濃防衛戦にて勝利を収める事ができたものの、真田幸隆が使った金山衆による城への破壊工作の対策を図る事が急務となった。
ただ当時の姉小路家は建築に秀でた将は羽柴秀吉、松永久秀、明智光秀らと揃っていたものの、姉小路首脳部は武田騎馬軍団と野戦を行えるだけの足軽部隊、騎馬部隊の装備の更新や配備を優先していた為に築城技術を発展させるだけの余裕が存在していなかった。
また武田の次の侵攻は騎馬軍団を前回以上の規模で動員する事などが予想出来る等の点から、現場での工夫でもって損害を削減する必要が生まれ、羽柴秀吉や、羽柴秀長ら建築術に優れた諸将が前回よりも発展させた防備計画を構築した。
その発展させた防備計画とは、城の虎口の前を中心に土塁や柵を作ると共に鉄砲隊を守備隊として予め城外に配置しておく事により、城の死角となる所からの敵の侵入を防ぎ、敵の接近を遅らせるというものであった。
この策は上記のように守備隊を配置する事によって金山衆らの死角からの侵入を防げるものの、塀の外側に居る為に、城内に比べてたやすく騎馬部隊の接近を許してしまうという弊害が発生する事が予想された。
その為、弾幕部隊及び八雲紫東門守備隊を守るために、武田信虎は稲葉山城が有する騎馬部隊を率いて予め城外に待機し、守備部隊らと連携する事により守備隊の損害を抑えた。

補足:
この防御方法と似た方法は同時期に発生した第二次越中防衛戦でも実施された為、現地での工夫ではあったが、姉小路領国内では既に伝えられていたものと思われる。
当時の中国明王朝においてはオイラート等の遊牧騎馬民族に悩まされており、予め城門の外に防壁を作り騎馬射撃や騎馬突撃を防ぎ、その間に城壁から守備兵が射撃を行い相手を寄せ付けないという築城技術が存在していた(甕城等と言われている城外に建てられた防御設備である)。
そのような例を知った秀吉らは城外に本格的な設備を作ろうとしたものの、作る余裕の無かった為、代用として兵士たちに急造で柵や塁を作らせ、保険として騎馬部隊と連携させたものと思われる。
この戦での城の塀や堀の外に防御区画を作る事の有効性に気づいた各国は、城の設営の際に馬出、出丸等と言われる設備を作るようになったといわれ、築城技術革新が進んだ原因となっていると言われている。

この守備隊は姉小路側では、虎口を守る結界のような部隊であるという事から、結界部隊と呼ばれ、またその結界部隊を見事に扱う様から八雲紫を「結界の操り手」と呼ぶ者まで現れたという。

北条軍について

北条氏康は北条家の存続をかけた乾坤一擲の覚悟をもってこの戦いに臨んだと言われる。美濃の鉄砲櫓は西側に多く配置されており、戦いに負けて敗走する部隊を容赦なく全滅するよう設計されている。
勝たねば全滅以外の選択肢はなかった。
北条軍は鉄砲櫓の射撃を潜り抜け、稲葉山城に布陣した。北条軍は四方八方からの銃撃に耐えて善戦した。幾度も城壁によじ登り、門の破壊工作を繰り返している。
また、城門を信玄が破った際には南門から城内へ攻め込んで激しく攻め立てた。その際に北条綱成が城兵の混乱に乗じて調略を試みている。
しかしながら、蜂須賀正勝の防戦は巧みであり、北条軍に対して最後まで隙をみせなかった。
決死の覚悟で臨んだ北条軍は最後まで戦い抜いたが、火の出るような勢いで弾丸を打ち込まれた各部隊は次々に壊滅。東門攻撃隊の北条氏邦隊を最後に完全に敗れた。
死者、負傷者は数え切れないほどの大敗であった。北条軍の陣地跡はまさに死屍累々であったという。主だった将は少数の近習に守られて尾張清洲城に敗走している。

武田軍に対して北条軍の被害が大きかったのは美濃の鉄砲櫓の配置もあったが、なによりも兵科の問題もあったと思われる。
武田軍は半数が騎馬隊であり、鉄砲櫓地帯をすばやく潜り抜けることである程度被害を抑えることができた。
しかし、北条軍は馬の生産に向かない地を根拠地としているため、足軽を主力としていた。足軽ではいかに行軍しようとも、馬の機動力には劣る。
また、個人個人では足軽の方が的が小さいが、大勢が固まって行軍するとなると騎馬隊も足軽隊も大して変わりはない。このあたりの差が如実にでたものと思われる。

この戦いの影響

この戦いは結果としては姉小路軍の辛勝である。
北条軍はその実働部隊の殆どを失い、大和からの尾張を目標とした攻撃に対する抵抗力はもはや存在しない。この敗戦を以て事実上北条は包囲網から脱落したと言っていい。
武田軍に関しても、多数の将が負傷し、約半数の兵を失ってその損害は小さいとはいえなかった。ただ、余力を残して退却したことでかなりの戦力は温存されており、また、高い生産力を持っている国であるので決定的な打撃を与えたとはいえなかった。軍の再編、近隣国からの増援を含めれば、7、8万規模の再攻撃が可能であると予測される。
姉小路軍にとっては勝利ではあったが、勝って勝ち切れなかったと言える。しかし、武田北条の両軍の猛攻を凌いだことで全軍の意気があがったのは間違いないであろう。

逸話

この戦いにおいて、竹中重治は異能の者と約一万五千の鉄砲隊を率いて、大垣方面から武田軍本隊を遊撃した。しかし、武田信玄の計略によって部隊は混乱状態に陥り、遊撃隊としての機能を無力化された。
その間隙を縫って、信玄は旗本騎馬隊による突撃を敢行、自ら城内奥深くに進入した。姉小路側の増援によって撤退を余儀なくされたものの、その勢いと威風は、一時、蜂須賀正勝に最期を覚悟させたほどだったという。
結局、稲葉山城陥落は成らなかったが、奇才・竹中重治の軍略を躱し、総大将自ら敵陣深くに切り込んだ信玄の勇名は、田楽狭間の織田信長に匹敵する武名として鳴り響いた。
戦略的には姉小路軍の勝利であったが、この一戦は「日の本に甲斐の虎あり」と、改めて天下に知らしめることとなった。

稲葉山七本槍

この戦いの後、美濃防衛戦・稲葉山会戦の戦功を讃え、姉小路家本拠である近江観音寺城で当主・姉小路良頼自ら「稲葉山七本槍」の感状を与えた。
羽柴秀吉を筆頭とし、次席に羽柴秀長小野寺輝道。次いで滝川益重中川清秀六角義治斎藤龍興
ただし、武田信虎が言うには、この手のものは武名に乏しい者に対して与えられるもので、名のある猛将に加えさらなる強者ありと示すことができる。それを狙い新たな強者と見込んだ者に名誉を与えて天下に喧伝する目的がある、とのこと。
羽柴秀吉は元織田家の重臣で、織田家時代でも名の知られていたから、今回彼が筆頭とされたのはそれまでの経歴を上書きさせる意味もあったと思われる。その弟である秀長も同様。

小野寺輝道は近江・越前攻略の時期から姉小路家に加わった古参武将であり、今までの功も含めた選出である。
滝川益重は元六角家家臣で中堅の武将。その鉄砲の腕を買われての選出。
中川清秀は織田滅亡後の仕官と比較的新参ではあるが、美濃防衛戦において剣聖・上泉信綱を狙撃・負傷させるという武功を上げているので彼が加わったのは当然と言える。
六角義治は大馬揃えでの武芸披露で弓術の腕を見せているが、同じく大馬揃え・防衛戦に参加していた吉田重政の方が適当ではとの憶測があるが、吉田は既に武名が広く知られているため、義治が選出されたと思われる。
斎藤龍興は重臣・斎藤義龍の嫡男であるという点が配慮されたと思われる。特に宣伝が目的であることを考えれば、龍興が武名高い武将となれば「斎藤は三代続いて傑物也」との風聞を得るができる。ついでに言えば、猛将・義龍の嫡男が武名がないと後に家を継ぐとき支障が出かねないためとも考えられる。

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最終更新:2010年08月28日 19:36