☆このページでは、霧雨の野望における山本晴幸について詳細に解説しています。
史実での山本晴幸について詳しく知りたい方はwikipediaなどの山本晴幸を調べてください

山本晴幸(やまもとはるゆき)(明応2年(1493年)?-)

武田家家臣。晴幸は諱(本名)で、通称は勘助。
『甲陽軍鑑』に記載があるものの、それ以外の情報が極めて少ない。
にもかかわらず、江戸時代の浄瑠璃・講談から去年の大河ドラマに至るまで
信玄に仕え、多くの成果を挙げた名軍師として数多くの作品に登場している。
そのため、描かれる人物像は作者による創作の割合が強い。
革新、及び霧雨の野望も例外ではなく、
諏訪勝頼を厚く信頼し、美濃防衛戦の大敗で外様扱いにされた後も勝頼に仕えている。

なお、史実では第四次川中島合戦(1561年)で討死しているため、
異常な生命法則が働かないと姉小路家が朝倉攻めをしていた頃に武田信繁と共に亡くなってしまう。


☆出生・家族構成


☆官位・役職

☆参加合戦




革新能力
統率84 武勇74 知略97 政治72 義理40
足軽B 騎馬B 弓C 鉄砲C 計略S
兵器S 水軍D 築城S 内政D
戦法:槍衾、先駆け、斉射、早撃ち、罵声、威圧、混乱
(Act64現在)

うp主解説
勘助。甲陽軍鑑に記される名参謀。
兵法・築城に長け、信玄に「軍師」と呼ばれるほどの活躍をしたとされるがその実像は現在も謎に包まれている。
史実での姿がはっきりしないため数値はほぼ全て講談基準の模様。故に頭脳面の能力は超一流と呼べる。適正S3種は大名ですら滅多にいない

緑の人解説
ケロちゃん萌え武将その1。最近の勘助像は井上靖の「風林火山」の影響が強いか?ヤマカンは山本勘助の略だとかもいわれている。
最近の研究でそれらしき人物の名前が発見されたが、伝令将校であったらしい。さらに言えば実在を確認されているのは管助であって勘助ではない。

講談で名軍師とされるのは家康が信玄贔屓だったためか。
明治時代に入って「甲州流兵法はウソっぱち」となり勘助は否定され,そのあおりで勘助の存在自体も否定視されるようになった

東方風武将解説
「各地を流浪し様々な能力を身につけた程度の能力」



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最終更新:2008年09月17日 07:18