姉小路包囲網
永禄9年3月に打倒姉小路家を目的として組まれた諸国連合の名称である。
足利義秋によって提唱され、武田、上杉両家が中心となって形成した。
経緯及び概要
当時、姉小路家が足利将軍家を滅ぼして日本全国へ力を伸ばしつつあった。
武田家は姉小路家を警戒し、美濃稲葉山城に大軍をおくってこれを征服しようとしたが
美濃防衛戦において大敗した。
上杉家もまた警戒して輪島港へ大軍をおくったがこれも
輪島港防衛戦において敗退した。
西国諸国は次々に姉小路家に制圧されておりこれに抗する術はなく、上杉、武田両家も単独で姉小路家と戦うことに困難を感じていた。
そのような情勢の中、三好家において保護されていた前の将軍足利義輝弟
義秋は武田家に奉戴され、
征夷大将軍を自称、各国に姉小路包囲網を築くよう提唱して諸大名宛に檄文を送った。
ここにおいて姉小路包囲網は成立し、以降、各国の大名は姉小路家の勢力伸張に対して連帯して敵対した。
足利義秋の檄文に応じて包囲網を築いたのは、武田家、上杉家、北条家、三好家、山名家、尼子家、毛利家など国もちの名だたる大名である。
足利義秋の檄文
足利義秋は各国に
姉小路良頼を討つよう要請する檄文を送った。
三好長慶に送られた檄文は以下である。
良頼、順逆も弁まへず主従の義に背き、大逆を成す候間、誅罰に及び候。良頼悪逆の条々別紙に相見え候。此旨尤と思ひて、
重代の御恩忘れられず候はば、此の節きつと誅罰すべきよし、長慶に対し申し遣はし候。なほ、眞木島玄蕃頭申すべく候なり。
(花押)
(意訳:姉小路良頼は順逆もわきまえずに主従の義に背いて大逆を成した故、誅罰することとにした。
良頼が行った悪逆の内容については別紙にある。このことをもっともと思い、また先祖からの将軍家に対する恩を忘れていないならば、
これを機に誅罰するように、長慶に申し遣わしておく。また、使者の槇島昭光からも申し伝えるであろう。)
このように、良頼を逆臣とよび、足利家の恩を忘れていないなら姉小路を討てという内容である。
これに加えて三好家には
武田信玄、
上杉謙信、使者の槇島昭光の添え状も送られている。
檄文の文中にある別紙には以下のような内容の良頼が行ったとされる悪逆が7か条で述べられている。
一、将軍家に対して軍を起こしたこと。
二、室町御所において略奪に及んだこと。
三、兄の足利義輝を幽閉し、退位を強制したこと。
四、朝廷において君側の奸を利用して専横を極めていること。
五、また、自身と部下で朝廷位をほしいままにしていること。
六、帝や公家、寺社の領地からの収益の殆どを横取りしていること。
七、婦女の甘言を喜んで重い租税をかけて私服を肥やし、虐民していること。
一と三についてはほぼ事実である。
二の略奪については、姉小路家が山城国の統治のために室町御所を占領して公的な資産をおさえたこと、
将軍家の個人資産については義輝に返却したが戦後の混乱もあって紛失した器物が多かったこと、こういった経緯を略奪とよんだと思われる。
四の君側の奸とは近衛前久を初めとする姉小路派の公家のことである。
戦後に佐幕派の公家の一部が罷免されていることをさしていると思われる。また、君側の奸を除くというのは檄文の常套文句である。
五は姉小路派の公家が奏上して、良頼が従五位下侍従の位を任ぜられ昇殿を許されたこと、部下達にも位を与えていることを指す。
基本的には各国の大名も同じことをしているのだが、従五位下叙任及び昇殿を許されるということは当時の武士としてはかなり異例の出世であったので、そういったことからの非難であろう。
六についてはほぼ事実無根であるが、本願寺と戦っている間その座における権益を差し止めていたことはあった。このことからの誤聞であろう。
七については姉小路家には多くの異能の者が属しており、その全員が女性であった。
彼女らはそれなりに重く用いられており、これは雌鶏が時を告げてはならないという古来からの考え方に反している。
この考え方から良頼を、女性の言に従って国を滅ぼした古代の悪王になぞらえて過大に表現したものと見られる。
これら7か条を挙げた後「幕府をも転覆せしめ 京の都を牛耳る姉小路の無道 今こそ、ただすべし」という言葉で結んでいる。
このように姉小路家の行動が過大かつ悪意的に表現されているが、これは当時の檄文の形式にのっとったものだからである。
各国の反応
上杉謙信は将軍家への義理を優先させ、仇敵であり数年来幾度となく戦ってきた武田信玄と講和を結び真っ先に包囲網への参加を表明した。
各国の大名は文の内容を完全に信じたというわけではないが、将軍の権威に加えて武田上杉の実力、
さらに自身の国が姉小路家の脅威にさらされていることに鑑み、包囲網への参加が得策と考える者が多かった。
姉小路家と国境を接している家は全てが参加、国境を接していない家も興味を示す者もいた。
軍備状況を見ると、武田・上杉は前年の姉小路領の侵攻により多くの兵力を損耗したもののいずれも広大な領地を持ち、
かつ互いの領地を侵される危険がなくなったため、姉小路領に接する信濃・南越後への兵力動員が可能となっている。
それはいずれも前回の侵攻と同規模の兵力であることで証明されている。
※前回の侵攻では武田・約12万、上杉7万3千である。武田が失った兵力は事実上尾張軍のみである。
北条は尾張を武田から奪ったものの、駿河・相模を失い勢力を後退させている。
包囲網参加により背後をつかれることだけは無くなったため、武田が美濃へ侵攻し双方が損耗したところ漁夫の利を得る算段であろう。
ただし、以上の勢力は殆どの兵力を出撃させているため、敗北した場合再侵攻は困難、逆襲によって領地を失う可能性もある。
山名は三好からの後詰めを期待しての参加ではあるが、既に姫路城落城は落城寸前であり、これに寄与する部分は無い。
三好は落城後の姫路城、もしくは堺港を標的とすると思われる。特に宇多津港には鉄鋼船が配備されており、畿内への復権を狙っている。
ただし、阿波は姉小路の同盟である長宗我部が狙っているため、大規模出撃には至らない可能性がある。
尼子は若狭敦賀港を標的としているが、山名との同盟による義理参加であるため大規模出撃の可能性は低い。
毛利は三好との同盟による義理参加である。三好領が侵された場合のみ出撃すると思われる。
東北勢は武田・上杉が姉小路に意識を集中させているため、しばらくは安全だろう。
しかし、両勢力がさらに拡大しようとする可能性は大であるため、彼らが飲み込まれるのは結局時間の問題であろう。
九州に関しては今回の包囲網との関わりが薄く、大友は島津と対しつつ龍造寺に続き有馬攻略へ。島津は大友と戦いながら、四国を窺う可能性が高い。
各国の動員兵力
各勢力とも城にわずかな兵のみを残すという全力出撃である。
姉小路家領国民の反応
多くの領民は無関心であり古くからの支配地である飛騨、美濃、越中では特に動乱は起きないものと予想されていた。
しかし、越中富山城周辺において一部の農民が蜂起。城に向かって火を放とうと動き出した模様である。
これは謙信による扇動があったとの見方が強まっている。
その他の国では国衆が団結しており、加賀、摂津及び各領内の一向宗門徒にも本願寺からの門徒に対する檄文がでていたので問題はなかった。
丹後に関しては戦後の余燼が残っており多少の不安はあるが、姉小路軍が駐屯しているので蜂起するにも出来ない状況である。
今後、越中の農民の様に姉小路家の統治に不満を持つ小勢力が包囲網側にそそのかされて蜂起する可能性はあるが、大規模な反乱にはいたらないであろう。
ただ、万が一姉小路家が敗れた場合にはその支配体制が緩むことは十分に考えられるので油断できない状況に変わりはない。
最終更新:2011年07月17日 19:26