弓木城の戦い
弓木城の戦いは永禄9年10月下旬に姉小路家と山名家の間で起こった合戦である。
参加兵力及び戦力評価
兵力・将の質共に姉小路が優勢である。弓木城の備えがどこまで行われているかが鍵となろう。
概要
美濃において武田を撃退した姉小路は、西国制圧のため丹波・摂津に続き山名家が領する丹後へと侵攻を開始した。
美濃・近江衆の精鋭を主力とする軍であり、誰もが勝利を確信していた。
対する山名家は半年前に赤松家を滅ぼし姫路城を手にしていたが、そのために割いた兵力が姫路城に集中しており、弓木城の守りはいささか手薄であった。
しかし、鉄砲櫓を始め市場に罠を設置するなど防御態勢を取っていた。
これは降将である
黒田孝高の手配によるものと言われている。また、垣屋光成が18000の兵を輸送している最中でもあった。
優勢な状況に慢心したのか
斎藤義龍隊が罠にかかるという事態あったものの、
八雲藍の支援により体勢を立て直した。
迎撃に出た山名豊定の部隊を手際よく片づけ、11月が入るまでに攻城戦に移った。
兵力は半減したものの、弓木城には
レミリア・スカーレットが守備の指揮に当たっており、竹束隊の効率的な運用により
明智光秀、
明智秀満隊の射撃を防ぎきると言う奮闘を見せる。
しかし、寡兵であり、独力で赤松を滅ぼしたレミリアといえどこれを守りきることはできず、弓木城は姉小路家としては最短の一月で落城した。
なお、最短の戦闘は越中防衛戦であるがこれは野戦で元々姉小路側に有利であったことを考えれば、ここに至るまでに姉小路家の成長が伺える。
ちなみに支援部隊として八上城から出撃した八意永琳の部隊は罠にかかったため、攻城戦に加わることはなかった。
輸送部隊が姉小路の攻撃より早く到着していれば状況はまた変わったと考えられるが、山名家としてはかなりタイミングが悪かったとしか言いようがない。
この戦いの影響
丹後を押さえたことにより姉小路家は畿内を完全に手中に収めた。
また、山陽道の玄関口といわれる摂津と、山陰道の玄関口といわれる丹後を押さえたことで、中国地方併合の足がかりが出来た。
弓木城の防衛と姉小路軍の作戦
弓木城は対姉小路の前線として山名祐豊の指示で防御策がとられていた。備えとしては完成に至っていなかったとはいえ、その防衛設備は強力であった。
山名側としては輸送部隊の到着まで、あるいは後巻きの到着まで十分に耐えられるという計算であったが、わずか一ヶ月で落ちてしまった。
姉小路軍がこの作戦において速さを重視し、多少の被害は覚悟の上で、弓櫓を無視し、いつもであれば念入りに行う罠の探知もそこそこに切り上げ、とにかく早く城を落とすことを優先させたといわれている。
このような作戦を行った理由は弓木城と鳥取城、姫路城の位置にある思われる。
姫路城と弓木城の間には道がなく、また、姫路城自体も対姉小路家の前線であるので援軍を出すことが出来ない。
援軍を出すとすれば鳥取城からであるが、鳥取城と弓木城の間には但馬を挟んで相当な距離があるので、山名家が対応するのにはかなりの時間が必要である。
つまり姉小路軍は、山名家が姉小路軍侵攻の報を聞いてから鳥取城からの援軍が到着するまでのタイムラグを最大限利用するために一見拙速とも思える作戦を実行したのである。
この戦いで敗れたとはいえ、山名祐豊の戦術眼は悪くなく、弓木城の防衛策などむしろ今回の戦いに関しては優れていたといえるかもしれない。
しかし、弓木城は以下のように維持しがたい城であった。
- 鳥取城と弓木城の距離が開いていること。
- 姫路城と弓木城間で連絡がとりづらいこと。
- そもそも弓木城自体が低い山に築かれていて守備に向かないこと。
丹後の地は維持しにくいのにも関わらず維持に固執してしまったのは戦略的観点から言って多少の落ち度と言えるかもしれない。
だが、大名にとって領土を維持することは本質的な役割であり、放棄するといったことは通常考えられない発想である。ここは姉小路軍の神速の用兵を褒めるべきであろう。
逸話
斎藤義龍、八意永琳を罠に嵌めたのは赤松家から降った黒田孝高であった。
彼はかつての主である赤松晴政を見限っており、また山名家もそう長くないと考えていた。
黒田は山名にいくらかの恩を売ると同時に、姉小路家へ己を実力を見せる手段を講じたのであった。
月の頭脳と称される八意永琳への罠が成功したことにより、自身の知略を知らしめることとなった。
当然のことながら宣伝工作も怠らず、山名家における地位向上、姉小路に罠の存在を警戒させる、と言った効果をあげ、一石三鳥の成果を得ている。
最終更新:2011年07月17日 19:28