八上城の戦い

八上城の戦い(やかみじょう)は丹波の大名波多野晴通と姉小路家との間で起こった戦いである。
姉小路家としては二度目の二面作戦でもある。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・二条御所城兵
本隊:鉄砲隊5000:明智光秀リグル・ナイトバグ博麗霊夢
前衛部隊:足軽隊6692:浅井長政富田景政八雲藍

波多野・八上城兵総勢10852
迎撃部隊:足軽隊5500:荒木氏綱
迎撃部隊:足軽隊9000:波多野宗高(2月10日)

兵数はほぼ同数であるが、波多野側は本願寺への援軍で主力が出払っており、荒木氏綱一人では明智・浅井両将の相手をするには荷が重い。また、援軍に出ていた軍も壊滅状態であり、絶望的である。

概要

波多野晴通は本願寺と姉小路家との戦に介入して28500と主だった将を引き連れて本願寺の援軍に赴いた。
波多野軍と本願寺討伐軍との交戦の報告が早馬にて二条城にもたらされると、この方面を任されていた明智光秀浅井長政はこの機を逃さず手薄となった八上城に攻めかかった。
留守を任されていたのは豪勇で名高い荒木氏綱であり、篭城の不利を悟ってうってでたが、兵の質と将の質が圧倒的に劣っていたためさほど時間もかからず敗走させられた。

姉小路軍は城に取り付いて攻城戦を開始、激しい攻撃によって八上城の防衛施設は徐々に破壊されていき、風前の灯となっていた。
その頃には本願寺方面に向かっていた波多野軍は敗走しており、敗残兵をまとめていた諸将よりも一歩先んじて波多野宗高が八上城に入城した。
彼は入城後すぐに迎撃隊を組織して出撃し、姉小路軍に激しく抵抗した。

しかし、いかに波多野宗高隊が奮戦しても城が落城寸前であることに変わりはなく、鉄砲隊の前に兵数が削られていくことはいかんともしがたかった。
この状況を打破するには、敵軍の大将である明智光秀を討ち取る以外の方法は残されていなかった。
宗高隊は姉小路軍の陣の薄いところを突いて決死の突撃、激戦の末多くの兵を失ったが、宗高は辛うじて明智光秀本陣にたどり着いた。

しかし本陣の守りは堅く、宗高が討ち取られ隊は全滅した(3月5日)。
赤井直正籾井教業波多野秀治、荒木氏綱などの諸将は未だ落城寸前の八上城を守って奮戦していたが、この時点で波多野家側の敗北は決定的であった。
博麗霊夢の交渉で姉小路側に走る者もいたが、多くの者は最後まで抵抗した。
結局同年4月30日八上城落城、当主の波多野晴通は落城のはるか以前に既に逐電していた。
波多野秀治は落城を確認後、諸将に降伏するように指示を出した上で、父を追って西国に逃れた。
残った家臣を纏めていた赤井直正が姉小路軍に降伏して、この戦いは終結した。

この戦いの結果

大名としての波多野家は滅亡し、姉小路は京へのいわば裏門であり、京洛を安定させるには不可欠な地である丹波を手に入れた。
波多野晴通と秀治は西国に逃れた。
丹波の地を治めるにあたって波多野家当主とその嫡子が妻子と共にいなくなり、宗高の子も幼少であったので、
波多野家には治める者として相応しい者がおらず、結局は赤井直正を中心とした旧波多野家家臣団が合議で治めることとなったと思われる。

逸話

宗高を討ち取った明智光秀は首実検の後、首を遺体と共に波多野家に返還した。
その際、彼がいかに勇敢に戦って散っていったかの経緯を詳細に書いた直筆の手紙を添えたという。

宗高の葬儀は波多野家本家が不在であり、その上波多野家一族に成人している者がいなかったが、他の丹波の豪族の助けもあって立派に執り行うことができた。
姉小路家からは三木顕綱が父の名代として出席している。帝の即位式で洛中警備を行った縁から朝廷の使者も参列した。
後に従三位が贈位される。墓は宗高の居城がある霧山の山頂に建てられた。
いささか不便な場所であるが、墓参りをする者は少なくない。また、遺族には霧山城及び氷上郡の一部が安堵された。

赤井直正をはじめとする家臣団は浅井長政に降伏し捕虜になったが、長政は粗略にはせず歓待した。
圧倒的不利な状況にあってなお奮戦する丹波の将士にかつての自身の状況を思い出し、敬意を表したという。
また、丹波の地は朝廷や旧幕府とつながりが深く、元幕臣や朝廷高官から波多野家家臣団の助命嘆願が多かったという。

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最終更新:2011年07月17日 19:21