石山御坊の戦い


石山御坊の戦い(いしやまごぼうのたたかい)とは永禄8年から9年にかけて姉小路家と本願寺との間で起こった戦いである。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・勝竜寺城兵
前衛部隊:足軽隊9000:蓬莱山輝夜八意永琳遊佐続光
本隊   :騎馬隊9000:朝倉宗滴アリス・マーガトロイドルーミア
後衛部隊:鉄砲隊7578:鈴木重秀(雑賀孫一)霧雨魔理沙鈴木重意

本願寺・石山御坊城兵総勢10643+傷兵
迎撃部隊:足軽隊6000:本願寺顕如

波多野・八上城兵
第一部隊:騎馬隊13000:波多野晴通
第二部隊:騎馬隊10000:波多野宗高
第三部隊:足軽隊5000:波多野秀治

石山御坊は三層天守を備えるなど堅固なことで知られる城である。加えて同盟者である波多野からの援軍もあり戦闘単位としてはなかなかのものである。士気の高さも折り紙付きである。
対する姉小路はの陣容は半年前の洛南会戦を戦い抜いた精鋭であり、こちらの士気も天を衝かんばかりである。
本願寺側としては籠城し続ければ撃退する芽はあるだろうが、野戦に持ち込まれれば敗北は必死であろう。

概要

相次ぐ敗戦によって本願寺勢の資金は底を尽き、領国も疲弊して既に姉小路家と対峙できるほどの力は失われていた。
そのような状況の本願寺勢を完全に併合すべく、姉小路軍は総勢石山御坊へ向かった。

総大将は朝倉宗滴鈴木重意蓬莱山輝夜も各々軍を引き連れて帯同した。
鈴木重意は武力で屈服させることに反対しており、朝倉宗滴の同意を得て本願寺との交渉を行った。
しかし、その交渉の途中で波多野晴通率いる兵が本願寺への援軍として着陣したことで波多野軍と姉小路軍の衝突が起こり、それにつられる形で本願寺勢も城下で迎撃せざるを得なくなった。
波多野軍には丹波鬼波多野宗高、赤鬼赤井直正、青鬼籾井教業と三人の勇将がおり、嫡子波多野秀治も優秀であったが肝心の総大将であった波多野晴通は戦下手と言われていた。
また、晴通と家臣の間に溝があると知っていた朝倉宗滴は、波多野氏本拠八上城で謀反が起こったと偽の情報を流した。
晴通はこの虚報を真に受けて即座に引き上げ命令を出したが、攻撃命令直後に急に出した撤退命令であったため、陣内は大混乱に陥った。
友軍の混乱に本願寺軍も巻き込まれてしまって動きが取れなくなってしまった。

その隙を姉小路軍が見逃すはずも無く、総攻撃を加えたので本願寺、波多野両軍は敗走した。
残った本願寺勢は石山御坊に篭るも既に抵抗する力は無く、前田玄以の降伏勧告に応じて開城し、降伏した。

波多野参戦の姉小路家の反応

姉小路側はこの戦いに波多野家が参戦してくることを期待していた説がある。
当時、波多野家と朝廷との関係は深かった。波多野宗高は即位式の洛内の警備をして帝の覚えもよく、赤井直正は関白近衛前久の妹を妻にしていた。
よって波多野家を姉小路家から攻めるとなると、朝廷との関係の悪化が心配される。
しかし、波多野から攻撃を仕掛け、その反撃として姉小路家が攻め入るということならば朝廷に与える印象がずいぶんと違う。

また、少なくとも姉小路家は波多野参戦を予想していたと思われる。
本願寺に篭っていた1万程度を攻めるのに姉小路家は2万5千余りも率いている。
俗に城攻めには3倍いるというが、この場合は装備差、士気の差、訓練の差から考えて2万5千は多すぎる。姉小路家が波多野参戦を予想していたことの証左であろう。


波多野参戦と波多野晴通について

波多野晴通が本願寺との盟を守って出撃を決定したとき、家臣達は八上城が守りきれないと猛反対したという。
しかし晴通は反対意見をまったく聞き入れず独断でほぼ全軍で出撃して敗れ、その上この行動を姉小路家に咎められて犬上城を攻撃されて結局城を落とされた。
晴通はその判断の誤りや戦場での采配の悪さ、後に八上城が落ちたときの無様な進退もあって多くの者から暗君であると評価されている。
ただ、近畿の大部分を制圧している姉小路家と敵対するにはこの戦いしか機会は無く、他には姉小路家に降伏する以外の道は無かった。
本願寺との盟約を頑なに守ってあくまで姉小路家と対決するという意思を持っていたとすれば、一応の弁護の余地はある。
しかし、それにしても家臣を省みず希望的観測から決定的に判断を誤り自身の家名すら守れなかったというのは大名として失格の部類になってしまうだろう。

降伏後の本願寺勢のついて

この戦いで降伏した一向宗教主の本願寺顕如や家老の下間頼廉など、優秀な能力を持った僧侶達は武将として姉小路家に仕えることとなった。
姉小路良頼は廃れかけていた一向宗を建て直し一大勢力にまで押し上げた彼らの手腕を高く評価していた。
かなり厚遇されていた様子で顕如などは良頼が直々に朝廷に奏して朝廷位を授けてもらったほどである。
しかし、良頼は自身の政権があまりに宗教的になりすぎることを好まず、彼らをあくまで武将として扱っている。
領国経営で一向宗の者達を抑えるために交渉させるなどは命じたようだが、敵国で一向一揆を扇動させることは禁止した。

この戦いの影響

この戦いに敗れて本願寺は降伏した。
姉小路家は本願寺顕如や下間頼廉など優秀な武将達が傘下に入れ、さらに家臣団が強力になった。
なによりも大きかったのは、姉小路家の領内に大勢いた一向宗の門徒達の統治がしやすくなったことである。
これ以降、姉小路家は一向一揆に悩まされることも無く、領国経営がさらに安定した。
また、波多野家は姉小路家に開戦の口実を与えた上に多くの兵を失い、八上城での戦いで実力を発揮することができなくなった。

逸話

この戦いの前に鈴木重意は本願寺勢に対して説得を試みている。総大将の朝倉宗滴は対一向宗鷹派であり、これを機に一気に攻め潰してしまうことを考えていた。
鈴木重意は自身が一向宗門徒でもあり対一向宗鳩派であったので戦わず穏便に事を済ませたいと考えていた。
朝倉宗滴はこのことを快く思わず、説得できなかった時は鈴木重意の責任問題にするつもりであった。
一説には説得できなかった場合、鈴木重意が一向宗に通じて時間稼ぎを行ったと判断し、総大将の権限で更迭する意思があったという。
軍内に亀裂を生みそうな処置であるのでそこまですることは考えにくいとはいえ、朝倉宗滴の一向宗に対する厳しい態度から言ってありえないことではない。
一方、本願寺側は鈴木重意の説得に一切耳を傾けなかった。説得のために許された約束の刻限まであとわずかな時間しか残っていない、そのタイミングで本願寺勢に援軍が到着し、姉小路軍と交戦になった。
これにより本願寺側も強制的に戦闘を行わざるを得ない状況となったので、鈴木重意が説得できなかったのはやむをえないこととして責任をとらずにすんだ。

この戦いの最中、顕如は戦場の真ん中でいきなり説法を始めた。
その声は合戦中にも関わらず遠くまで響いて戦場の多くの兵士達に届いたという。
その説法は毎日続けられ、将兵達は彼を幾度も討とうとしたが、その豪胆さと朗々たる声に圧倒されて触れることすら出来なかったという。
また、彼の迫力は凄まじさから頭痛を訴える者が続出した。戦後にこの戦いに参加した多くの兵士が一向宗に改宗している。
一説によると改宗した兵士は万を超えたという。異能の者たちや将の中にも心が動かされそうになった者もいたらしい。

この戦いで降伏の使者となった前田玄以は元延暦寺の僧侶であった。彼は美濃斉藤家に仕えていた当時は一向宗を嫌い、一時は弾圧まで考えていたほどであったという。
ただ、後方支援などで領民と交渉したり、領国経営などで対一向宗のために施策の必要性から教義を学ぶうちに、一向宗門徒に理解を示すようになった。
そういった経緯から家中で第一に一向宗に詳しい者となり、一向宗の盛んな加賀の民政改革の立案を任されたりしている。
各地で後方支援を担当しているうちにさらに多くの民とふれあって、この戦いが起こった頃には一向宗門徒よりも一向宗門徒に詳しいほどになっていたという。
前田玄以は使者となることを自ら志願した。顕如や高僧達は玄以が説得する前はなおも強硬であったが、
玄以に一向宗門徒達が戦いを望んでいないことを諄々に説かれていく内に、自分達があまりに足元を見なさすぎたことを悟り、降伏することに同意したという。

姉小路家の主力は鉄砲であり、火薬の原料である硝石は生命線であったがその多くを南蛮からの輸入に頼っていた。
雑賀は硝石の生産をわずかながら行っていたがその方法は古土法といって古い家屋の下の土を利用したもので一度採取すれば数十年採取できなくなるので大量生産には向かなかった。
一方、本願寺は4~5年で硝石を採取できる培養法による硝石生成に成功していた。
戦後、硝石生成の研究チームに八意永琳を加えたことでさらなる大量生産が見込めるようになり、越中国五箇山に生産拠点をおいて大量生産を開始した。
この結果戦後5年後には自国消費の五割を超えるの硝石を生産できるようになり、硝石を今まで以上に安定して手に入れることが出来るようになった。

BGM

プレインエイジア Cradle -東方幻樂祀典-

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最終更新:2011年07月17日 19:20