筒井城防衛戦
筒井城防衛線(つついじょうぼうえいせん)とは永禄8年に北条家と姉小路家の間で起こった合戦である。
参加兵力及び戦力評価
北条・亀山城兵・霧山御所守備兵
第一部隊:足軽隊14500:
北条氏康
第二部隊:足軽隊7000:
北条綱成
第三部隊:足軽隊6000:
射命丸文
第四部隊:足軽隊6500:北条氏照
第五部隊:足軽隊11500:北条氏邦(戦闘には参加せず)
越中以来二度目の防衛戦である。前回と異なり、櫓は鉄砲櫓であり、かつ鉄砲技術も飛躍的に向上している。
北条家きっての猛将である北条綱成と当主である北条氏康など重厚な顔ぶれではあるが、結末はかつての長尾軍と同様であろう。
概要
永禄8年1月、
北条氏康率いる兵が姉小路家領の筒井に攻め込んだ。
当時、北条家は武田家と同盟関係にあり、武田家と敵対関係にあった姉小路家を攻撃することで同盟国としての義理を果たそうという意図であったと思われる。
対する姉小路家は姉小路頼綱の指揮の下、
武田信虎、
浅井長政が前線に立ち、
荒木村重、
滝川雄利、
乃美宗勝などが鉄砲隊を率いて後方から支援して防戦した。
この時、筒井城は周辺に数多くの鉄砲櫓を立てて高度に要塞化されていたため、四方から鉄砲を撃たれることとなって北条軍は非常に苦戦することとなった。
だが、名将と謳われている北条氏康や
北条綱成の激しい攻撃の前に武田信虎隊の損害も激しく、浅井長政隊に至っては一時は壊滅寸前まで追い込まれたという。
そのときは辛うじて浅井長政隊所属の蜂須賀正勝が陣を固めて北条綱成隊の突撃を未然に防いだので長政隊は戦闘を継続できたほどであった。
しかし、さすがの北条軍も四方からの銃撃に残り少なに討ち減らされ、観音寺城からの援軍である朝倉宗滴が北条軍の退路を断ったところで壊滅した。
敗れた将兵は後詰で出陣していた北条氏邦隊に拾われて3月5日、亀山城に帰城した。
この戦いの戦術は基本的には
越中防衛戦で行った戦術と同じである。
ただ、その規模は遥かに大きくなり、今回は大和国の東半国が要塞化された。
このような広域にわたる鉄砲櫓による要塞化と多数の鉄砲隊での防衛法は「弾幕結界」と名付けられ、姉小路家の強国に対する基本的な防衛法になった。
この戦いの影響
この戦いで敗れた北条氏康であるが、実際のところ北条家の規模から言えばさほど大きな痛手ではなかったと言われる。
主だった将が戦死や捕虜にならなかったのもやはり義理出兵であり、最後の最後まで戦う必要が無かったからであろう。
この戦いで北条家は武田家に対する一応の義理は果たしたこととなる。
一方、姉小路家は追撃するに十分な兵力を持ちながら追撃を控えている。
たとえ、北条家を攻めて伊勢を手に入れても武田軍とまともにぶつかり合うこととなる為、維持できないとの判断であろう。
逸話
この戦いが起こったのは
雑賀城の戦いの最中である。北条氏康は
竹中重治の出陣中を狙って攻撃したと言われている。この話を聞いたとき、武田信虎は愚かしい事と大笑したと言う。
武田信虎隊の
前田利益が派手な格好で皆朱の槍を手に名馬松風に乗り回している様は戦場で大いに目を引いた。
多くの者が彼に挑んだが皆一撃で弾き飛ばされたという。あまりの派手さに天狗も驚き、彼の周りで戯れるように飛び回っていたという。
筒井城の堅固さは近隣諸国にも知れ渡っていたが、名将北条氏康が3万4千も率いて城壁にすらたどり着けないと、この戦いで一層有名になった。
最終更新:2011年07月17日 19:08