堺港争奪戦

堺港争奪戦(さかいこうそうだつせん)は永禄7年に一向宗勢力と姉小路家との間で行われた戦いである。
大鳥郡深井における深井の戦いと境港における堺の戦いを合わせてこのように俗称されている。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・筒井城兵
前衛部隊:足軽隊10000:竹中重治真柄直隆ルーミア
後衛部隊:鉄砲隊9500 :浅井長政霧雨魔理沙アリス・マーガトロイド
後詰部隊:騎馬隊9500:朝倉宗滴紅美鈴小島職鎮(6月20日出撃)

本願寺・堺港守備兵総勢15817+傷兵
守将:本願寺顕如
迎撃部隊:足軽隊6000:本願寺顕如
第二部隊:足軽隊5000:服部友貞
増援:13000(本願寺教如、下間頼輝)
第三部隊:足軽隊5000:神保長職
第四部隊:鉄砲隊5000:下間頼輝
第五部隊:足軽隊6500:願証寺証恵

加賀以来の因縁の両家で、どちらも鉄砲に一家言ある勢力である。
港は防御には向かない故、本願寺は櫓で防備を固めているがこれがどこまで機能するかが鍵となろう。

概要

姉小路家は南蛮貿易の貿易港であり日本の物流の拠点であった堺港を奪取するために竹中重治浅井長政に各足軽隊と鉄砲隊を預けて攻撃させた。
対する一向宗本願寺側は堺港を死守するため、服部友貞顕如自身も兵を率いて和泉国大鳥郡深井にて迎え撃った。
戦いは既に名将と名高い竹中重治が浅井長政隊の鉄砲の支援もあって終始姉小路側の有利に進んでいた。
また、この頃になると姉小路家の兵は数多くの戦いを経験しており、本願寺勢は士気は高いといえど兵そのものの熟練度が明らかに劣っていたため一層の戦力差が生まれることとなった。
結局顕如隊は壊滅し服部友貞は潰走、顕如は捕虜になった(すぐに解放された)。

しかし、その直後に本願寺教如率いる兵が援軍として堺港に入り、再び兵力を盛り返した本願寺側はうってでた。
その際、七里頼周が敗走を装って後退、竹中隊の前衛である真柄直隆が深追いした為に後衛の竹中重治との間に僅かな隙が生じた。
竹中隊前衛が櫓の射程距離に入った瞬間に願証寺証恵率いる隊が側面から急襲、前衛と後衛の間に楔を打ち込んだ形となり、
さらに下間頼照隊が前進を食い止めるために立ちふさがり、竹中隊は半包囲された形となって身動きが取れない状況に追い込まれた。
この戦況の悪化を見た浅井長政は竹中隊の後退を妨げる願証寺証恵に集中砲火を浴びせた。

浅井隊によって証恵隊は壊滅、竹中隊自身の奮闘によって頼照隊も潰走させられたが、半包囲された挙句に矢櫓の集中攻撃をうけるなどで竹中隊の受けた損害も大きく半数が死傷してしまっている。
損害の大きさを考え堺港攻略は一時見合わせる形となるところであったが、竹中隊の苦戦を予感していた朝倉宗滴が騎兵をもって駆けつけた。
本願寺側としては竹中隊に大きな損害を与えたため本格的な堺港攻撃は遅れるであろうと予想していたため、この予想外の宗滴隊の出現に大いに驚かされたという。
結局、本願寺側は軍を立て直す暇もなく堺港は陥落した。

この戦いで本願寺側がとった竹中隊を半包囲して身動きできない形にし矢櫓によって損害をあたえるという作戦は越中防衛戦で竹中重治自身が指示した作戦に酷似している。
この戦いでの立案者は下間頼廉と言う説がある。
彼は加賀の本願寺勢力の重鎮であり、姉小路家との戦いを幾度も経験していたため、重治の戦術についてよく研究していたという。


堺商人

この戦いには今井宗久をはじめとした堺商人が暗躍していたと言われている。堺では商人達がある程度自治をしていた。
堺で起こる戦いについて普段の戦いであると彼らは統治者である本願寺側に協力的であるが、この戦いに関しては中立を保っている。
また、姉小路側は堺港の内部についての情報を彼らから得ていたといわれている。

元々、姉小路家は鉄砲に関して多くの堺商人と良好な関係を結んでいた。
また、近畿の大部分を統治しつつあった姉小路家の傘下に入ることは堺が戦火に晒される危険が少なくなるため好都合であったと思われる。
しかし、一方で姉小路側に積極的に協力したわけでもない。
一向宗勢力は日本各地の座において強力な影響力をもっていたため、多くの商人にとって本願寺と敵対することは死活問題となるからである。

戦後、姉小路家は堺の統治についてある程度の自治を許すかわりに年々上納金を納めることを要求している。
ただし、堺が自衛のための戦力を持つことは認めず、それまでにいた堺の自衛軍は自家の軍隊に編入している。

姉小路家の本願寺捕虜の扱いについて

この戦いで顕如は2度も捕虜となっているがすぐに解放されている。
また、他の捕虜についても比較的良い扱いをされている。これは、自領土に多くの一向宗門徒を抱えている姉小路家ならではの配慮である。
一向宗の勢力は各地に及んでいて、特に北陸では強かった。
商売のおける座については本願寺の影響力が非常に強く、本願寺の重要な収入源の一つであった。
本願寺の直接の影響力が連年の敗戦によって失われつつあったとこともあって、奉行衆の努力によってかろうじて治まっていたが、
もし顕如が殺害されたり長期間幽閉されるようなことがあると各地の門徒達が強く反感をもつのは必至であり、悪くすると各地で一斉に一向一揆が起こる可能性もあった。
これらを避けるために顕如を即座に解放し、捕虜についても虐待を強く禁止する命令が出されている。
後に本願寺勢力を吸収するときのことまで考えての措置であるとも言われている。

この戦いの影響

この戦いで本願寺は和泉国を失った。また、瀬戸内海の物流の影響力の大部分を失い大きな収入減となった。
対して姉小路家が受けた恩恵は鉄砲に関することだけでもその恩恵は巨大であった。
鉄砲本体、火薬共に以前よりも遥かに容易に手に入れることが出来るようになり、製造技術についても多くのことが知られるようになって後の元込式銃への改造へとつながったなどである。
貿易の利益、瀬戸内海の諸勢力への影響力、その他恩恵は計り知れない。

逸話

真柄直隆はこの戦いで敵の計にかかり、一時は三方を敵に包囲され一方は矢櫓によって塞がれるという絶体絶命にあった。
しかし、直隆は奮戦し寡兵であったのにも関わらず下間頼照隊を逆に撃退した。
世間では「罠にかかってなお罠を食い破った」とその果敢ぶりが評価され、当時の多くの武士が彼を目標としたという。

下間頼照隊の敗走した兵士の中には錯乱していた者が多かったという。その多くが、味方の兵が闇に呑まれたと証言したと言われている。
このことは信心深い一向宗門徒たちを大いに動揺させた。竹中重治が行ったイメージ戦略の一つであるといわれている。

竹中隊の苦戦を知り浅井長政は朝倉宗滴に援軍を要請する早馬を飛ばしているが、その早馬が到着する頃には既に朝倉宗滴は出陣していた。
宗滴は戦況有利の報を聞いただけで状況を察知し、出陣に向けて行動を始めたという
。このように宗滴の経験豊かさは若い将の多い姉小路軍にとって非常に貴重であった。
この戦いの後に良頼は宗滴を激賞し感状を送っている。

宗滴は姉小路家臣下になる前にも名将で名高かったが、姉小路家の下で戦うようになった後にはよりいっそう名が知られるようになった。
他国の武士の間でも今回の戦いの話は特に好んで語られることが多かったという。
こういった逸話から各地を旅している武芸者は彼に会いたがったというし、他家の使者、果ては朝廷の使者までが姉小路家を訪れる度に彼に面会を求めている。

竹中重治は味方の損害を大きくした件で戦後に真柄直隆と共に良頼に処分を請うているが良頼は重治の罪を不問にしている。
重治はこの戦いでも味方よりも遥かに多い敵の軍勢を打ち破るなど多くの功績を残しており、この程度の瑕疵では処分に値しないと判断したのは当然であろう。

ただし、直隆については一ヶ月の謹慎を申し付けている。
これは、前もって深追いに気をつけるよう重治から注意を受けたのみもかかわらず誤った判断をしたということに対して反省を促す意味での命令であったという。
実際は良頼も直隆を高く評価したらしく、謹慎が解かれるとすぐに直隆にも恩賞と感状が送られている。

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最終更新:2011年07月17日 19:05