御山御坊の戦い

御山御坊の戦い(おやまごぼうのたたかい)とは永禄3年に越前朝倉家、姉小路家、加賀一向一揆の3つの勢力の
間で行われた戦いである。
また、畠山家の拠る輪島港攻略を併せて行われた二面作戦でもある。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・富山城兵、七尾城兵
加賀攻略先鋒:騎馬隊7000:斎藤義龍博麗霊夢
加賀攻略本隊:足軽隊7000:竹中重治蜂須賀正勝


本願寺・御山御坊城兵5015
守将:本願寺顕如

朝倉・大聖寺城兵
第一部隊:朝倉宗滴
第二部隊:紅美鈴


御山御坊攻略部隊は姉小路家の看板武将と呼ぶべき二人が率いており、朝倉家の攻撃により消耗した城を落とすことはそう難しくないだろう。
ナイスハイエナ。

概要

この戦いは大聖寺城に侵攻した下間頼廉率いる一向一揆勢を朝倉家の実質的な当主であった朝倉宗滴が打ち破ったことをきっかけに始まる。
この敗北で一向一揆勢の兵力が大いにそがれたので、宗滴はこれを機に加賀一向一揆を完全に鎮圧しようと御山御坊に侵攻した。
一向一揆勢は野戦を挑んだが破れ、城に押し込まれた。
当時、当代の名将と謳われた朝倉宗滴の攻撃は苛烈を極めたが、本願寺門主顕如を中心に固く結束した一向一揆の前に攻めあぐねていた。
結局、朝倉勢が多くの死傷者を出したため一度後方にて軍を再編することとなった。

そこに突如として斉藤義龍を先方とした姉小路軍が介入。
紅美鈴隊は辛くも逃れたが、殿軍を務めて多くの負傷兵を抱え、疲労困憊していた朝倉宗滴隊は壊滅。
先の戦いで疲弊しきっていた御山御坊もすぐに落城するかに見えた。
しかし、その守りは依然として堅く、矢玉が尽きてもなおつぶてで攻撃し姉小路勢も損害をこうむった。
だが、斉藤義龍、竹中重治両将率いる倍以上の軍を支え続けることはできず、多勢に無勢の形で御山御坊は落城した。

この戦いで敗れはしたものの、一向宗門徒の結束の固さと戦闘能力の高さは大いに知られるようになった。

この戦いにおける影響

姉小路家は加賀国の大部分を手に入れた。また、以前から小競り合いの多かった本願寺の影響力がなくなることで、北陸における姉小路勢力が確固たるものとなった。
一方、本願寺側は北陸における勢力基盤を失ってしまい、今後は近畿における勢力拡大を目指すこととなった。
朝倉家もまた多くの兵を失ったが朝倉宗滴が健在であり大聖寺城の守りを固めたため姉小路としても攻める隙がなかったといわれる。

加賀における民政改革

この戦いによって姉小路家は大きな損害もなく加賀国を手に入れたが、問題はこの土地の治めにくさであった。

そこで、門徒の指導者として各地域を取り仕切ってきた豪農達を懐柔した。
武士に代わって徴税などを行わせるかわりに役料を徴収することを認めることで徴税を円滑に行うことが出来るようになり、
農民達にとっても直接の支配者が変わらないことから動揺が少ないなど、加賀の国勢は大いに安定したと言われている。
また懐柔の際、戦に負けて捕虜となった顕如を交渉の材料として使ったとされ、実際に顕如は無事に解放されている。
これらの施策を立案したのは前田玄以と言われており、後の加賀の民政にも大いに参考にされたという。

戦後の朝倉家

この戦いに朝倉家は敗れて、大聖寺城はの兵力の多くを失って非常に危険な状況であった。
しかしながら、朝倉宗滴は敗れた後に迅速に兵をかき集めて守りを固め、姉小路家に攻め入る隙を与えなかったという。
また、その際にアリス・マーガトロイド朝倉義景を動かして一乗谷から非常に迅速に支援を行ったという説がある。
御山御坊の戦いに敗れる直前から既に支援する準備に入っていたという。

姉小路家の二正面作戦について

輪島港の戦いでも述べたが、この作戦は輪島港攻略と御山御坊攻略を同時に行う必要があった。
姉小路家は大国になりつつあり、二正面作戦を行うだけの戦力と人材が備わっていたが、万が一敗れることとなっては姉小路家の領する越中能登両国が危険にさらされることとなり、その作戦は慎重に立てられた。
朝倉勢と一向一揆勢の双方の疲弊が最大限に達したその瞬間を狙って攻撃を仕掛けるというのは情報を扱うのに長け、かつ機を見るのに敏でないとならない。
その点、姉小路家の将達の戦術眼は確かなものであったといえよう。主将副将4人全員がまさに今と判断して攻め入ったといわれている。

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最終更新:2011年07月17日 18:52