七尾城下の合戦

七尾城下の合戦(ななおじょうかのかっせん)は永禄2年に行われた姉小路家と能登畠山氏の間で起きた合戦。
姉小路家において本格的に鉄砲隊が運用された最初の戦いであり、謀略戦としても知られている。なお、ここでは永禄3年にこの合戦に続いて起こった輪島港の戦いも解説する。

参加兵力及び戦力評価(七尾城下の合戦)

姉小路富山城兵
第一部隊:騎馬隊5000:竹中重治リグル・ナイトバグ小島職鎮
第二部隊:鉄砲隊5000:明智光秀霧雨魔理沙明智秀満

畠山七尾城兵総勢20615
迎撃部隊:弓隊8500:畠山義綱
     足軽隊8000:金森長近

兵力では姉小路が劣るものの、将の質は明らかに優越している。野戦での状況が勝敗の鍵であろう。

畠山義総死後から七尾城下の合戦直前までの能登の情勢

畠山義総死後、能登畠山政権の動揺を利用して、加賀に亡命していた畠山氏一族の畠山駿河守が地元一向一揆勢力の支援を受けて能登に侵攻した。
義総の後を継いだ畠山義続は全軍で迎え撃つと共に、本願寺に一向一揆衆への合力禁止を求めた。
本願寺証如はもとより本意ではなかったため、一向衆の畠山駿河への合力停止を求めたが、
本願寺の直接的影響力の小さい地域であったため駿河守が約束した褒美につられて従わない者が多かった。
(当時の本願寺は本拠山科を追われて本拠を石山に移した約20年後で再建期を終えた直後であった。
本願寺が地方への確固たる影響力を持つのは顕如以降である。後の顕如の加賀下向はこの戦いが関係しているとされる。)
そして、これを機に義総時代からの統治の不満が噴出。畠山一族からも多数の離反者を出した。
これにより義続軍は機能不全に陥って軍を起こす事もできなくなった。

結局、温井総貞がほぼ独力で乱を鎮めたために事なきを得たが、義続は軍事的、外交的になんら有効な手を打つことができず、大名権力の衰えを露呈した。
ここにいたって、義総の代には危ういながら保たれていた能登国内のパワーバランスは崩れ去り、温井総貞の専横が始まったのである。
温井総貞は畠山重臣遊佐続光との土地争いを原因として合戦を起こした。
温井氏有利にすすんでいたが義続はこれ以上の温井総貞の勢力拡大を憂慮し、突如調停と称して温井総貞の居る館を軍をもって囲んだ。
この武力による脅迫に屈した温井総貞は領地の大半を取り上げられて能登国内の中堅勢力に転落することとなる。

義続は温井氏の領地の大半を手に入れたが、その領地には遊佐氏との係争地も含まれており、遊佐氏の反発をよんだ。
義続は遊佐氏を筆頭とする畠山七人衆を政治に参画させることで不満を抑えようとするも、義続が大名権力強化を目指す政策を近臣達だけで行ったことでさらなる不満を募らせていった。
結局、遊佐氏は長氏と語らってクーデターを起こして義続を出家させた挙句に加賀に追放し、義綱を擁立した。

これを永禄の政変という。
しかし義続は加賀より逃亡。姉小路家へ亡命を果たした。

七尾城下の合戦の概要

姉小路良頼(三木嗣頼)が能登国制圧を目的として竹中重治に騎馬隊、明智光秀に鉄砲隊をあずけて侵攻させた。
対して畠山義綱金森長近と共に大軍で羽咋郡にて迎え討った。

しかし義綱隊は明智の鉄砲隊の最初の一斉射を受けた時点で陣を乱し、2度目の一斉射で前線は大混乱。
竹中の騎兵隊の攻撃を受けた時点であっけなく七尾城へ潰走してしまった。
戦になれた金森隊はさすがに落ち着いていて陣を乱さなかったが、
慣れない銃撃と友軍の撤退に兵の動揺は避けられず、竹中騎馬隊の猛攻の前に脱走者もでる有様で、
戦線を支えきれなくなってさほど時間をおかずに壊滅した。

竹中及び明智両隊は七尾城まで追撃し、そのまま攻城戦に突入。
すでに兵士たちの士気は衰えて脱走者が後を絶たなかったとは言え、七尾城は戦国屈指の堅城だけあって守りは堅かった。
特に慣れない鉄砲を扱っていた明智隊の損耗は激しく、弾の装填に手間取っている間に敵の礫で負傷する者が後を絶たなかった。
城攻めにかかる前は5000を数えた明智隊も最終的に動ける者は1000を大きく割り込み、
竹中隊にしても敵からの投降兵を戦陣に加えてやっと戦線を維持しているという状況であった。

ただ、当然ではあるが七尾城側の疲労も極に達しており、戦線離脱する者、投降する者はますます増えていった。
結局、七尾城を守れるだけの兵士を失って畠山の主だった将は再起を期して輪島港に脱出、
姉小路軍はこの攻城戦特有の我慢比べとも言うべき状況を制した。


参加兵力及び戦力評価(輪島港の戦い)

輪島港攻略先鋒:足軽隊4000:小島職鎮原長頼
輪島港攻略本隊:足軽隊4000:稲葉良通

畠山・輪島港守備兵2050:守将 畠山義続
先の戦いでほぼ全領土と全軍を失い、残党といっても良い。独力での輪島港の防衛など論外である。

輪島港の戦いの概要

先の戦いでの勝利で輪島港を落とすこと自体はすでにたやすかった。ただ、時間をおけば畠山家が上杉家に降伏する可能性がでてくる。
もしそうなれば、上杉家との全面対決が予想される。それだけは避けなければならないので速やかに輪島港を落とすことが求められた。
そこで、七尾城下の合戦の翌年永禄3年5月初日、御山御坊の戦いと平行して輪島港攻略部隊を送ることとなった。

本隊率いる稲葉良通は経験豊富で、副将としても一軍の将としても優れていた人物であった。
先鋒の原長頼は若いが美濃衆の中では勇に優れた見所のある人物で知られていたが、経験不足が心配されたので畠山氏の情勢に詳しく計略に熟練した越中衆小島職鎮が副将につくこととなった。
戦いが始まっても畠山軍はすでに野戦をするだけの戦力もなく港に篭っていたが、輪島港の防備は薄く大軍の強襲に耐えられるものではなく、特に良通の槍隊による被害は大きかった。
結局同年7月5日に輪島港陥落。予定をはるかに上回る早さであった。

影響

姉小路軍はこの戦いで能登国全土を手に入れた。能登国は海を隔てて上杉領と繋がっており、防衛の上で重要な拠点のひとつであった。
また、美濃、越中は要塞化が予定されており、兵糧増産と技術開発を行うための機能を能登国に移転させることとなった。

七尾城下の合戦における調略、外交面についての説

この戦いにおいて畠山側から戦いの最中にもかかわらず多くの兵士が竹中隊に降伏した。
畠山軍は鉄砲による大規模な合戦を経験しておらず、明智隊の激しい銃撃に少なからぬ動揺がみられた。

そこを竹中重治が偽情報によってさらに動揺をさそい、多くの兵を篭絡したとされる。
ちなみに当時の鉄砲隊は鉄砲を撃つ個々人が狙いを定めて自分のタイミングで撃つのが基本であり、鉄砲隊での斉射という概念はなかった。
一般的にこの戦いで光秀が心理的効果を狙って行ったのが最初といわれている。

また、畠山側も越後の上杉謙信(長尾景虎)に働きかけて姉小路領の越中国を攻めさせ、
一方で姉小路家に停戦交渉の使者を送るなど、外交戦を繰り広げたといわれている。
このことは事実であるかどうかは分からないが、上杉軍が侵攻してきた報が届いた
まさにその時に遊佐続光が金40000をもって停戦交渉の使者として訪れるなど
あまりにも都合のよいタイミングであるため、そのように考えるのは自然であろう。

結果的には落城寸前であったこともあり姉小路家はこの停戦の申し出を受けなかった。
上杉軍も本気で越中を攻め取る気はなかったようである。

しかし、遊佐続光は登用後、他の畠山家出身者と違って内政だけでなく前線でも起用されていること、
また、長続連が外交官として長宗我部元親との同盟を結ぶ重要な場面で起用されていることから考えて、
この外交を立案、実行したのは遊佐続光と長続連であり二人の能力を姉小路良頼が高く評価したのではないかといわれている。

鉄砲隊について

七尾城下の合戦では姉小路家が本格的に鉄砲隊を運用したとされているが、実のところこの時点では精強と呼ぶにはほど遠い、狙うことすらままならない状態であったと考えられる。
鉄砲を入手するには主生産地である和泉の堺、近江の日野・国友、紀伊の根来などとは距離があり、
自前の生産が可能になる永禄2年7月末まで銃そのものは手に入っても十分な訓練が行えるだけの実包を揃えられていたとは考えにくい。

鉄砲隊の訓練には、鉄砲の名人であり家中にも上手が多くいたと言われていた明智光秀が行っていたが徴兵されたばかりの兵に一から教えることになるため、大規模に運用できるまでには時間がかかるとみれていた。
この戦いでの活躍は難しいと思われていたが、鉄砲になれていない畠山軍に与えた心理的衝撃はすさまじく、敵軍を壊乱させるには十分な効果が認められた。

永禄8年夏までには、肥沃な美濃・近江、貿易拠点となる敦賀の獲得による安定した火薬の確保が可能になり、
かつ元込銃を始めとする技術革新、鉄砲運用に詳しい織田・鈴木家家臣を取り込んだことにより質、量ともに日本一と謳われた鉄砲部隊が完成したと考えられる。

姉小路家が鉄砲隊し重点的に運用することとなったきっかけは「弾幕はパワー」とことあるごとに口にしていた霧雨魔理沙が思いつきで言ったことを、
同じ家中で人一倍の情熱と生真面目さを持つ姉小路頼綱と日本有数の鉄砲名人の光秀が真に受けたためであった。

この一見馬鹿馬鹿しいとすら思えるきっかけで始まった計画が、後に歴史を変えることになるとは誰が思っただろうか?

七尾城について

七尾城は先代畠山義総によって増築整備され、俗に五大山城と呼ばれるほどの名城であった。
城下町は「千門万戸」が立ち並び、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたという。
ただ、この戦いでは野戦に敗れて多くの兵を失った畠山軍ではこのような巨大な城を守るのは難しく、その性能が最大限生かされることはなかった。
この戦いは、いかなる堅城でも優れた将と勇敢な兵士の両方がいなければ守りきることはできない、という風に「城を守るのは結局のところ人である」ことを教える好例として語られることなった。
戦後、良頼は能登国を農地や各種技術開発研究の拠点として発展させるためか、しばらく七尾城を居城にしている。


逸話

七尾城下の合戦は美濃衆と竹中重治の姉小路家家臣として始めての戦いである。
鉄砲隊の明智光秀などは美濃斉藤家時代にも副将として軍を率いた経験があり、明智秀満も光秀の配下として戦場に立った事があった。
ただ、騎馬隊の竹中重治は戦場経験はあったが主将として采配を振るうのは初めてであり、リグル・ナイトバグなどは初陣でいきなり副将に任ぜられるなど経験不足が心配された。
しかし、結果としては二人は経験不足を補って余りある将才によって大活躍をした。

七尾城下の合戦の最中、明智光秀隊と竹中重治隊との間では密に連絡をとりあっている。
騎馬隊と鉄砲隊では足が違うため、連携するために高度に情報交換を行わなければならない。その点光秀と重治は情報を扱う事に長けていた。
二人が今回の戦いの主将に選ばれたのはこのためであったと言われている。そのときのやり取りの頻度や内容が記録され、マニュアル化された。
後に騎馬隊+鉄砲隊が姉小路軍の基本ユニットとなったとき、マニュアルは大いに活用された。

この情報交換のための伝令のやり取りを利用してリグルと光秀も頻繁に手紙のやり取りを行っていたようである。
特に問題となるようなことはなかったが、後にリグルと光秀を常に同じ部署に配置することとなったのは、手紙の頻繁なやり取りに気づいた良頼が気を利かせたのではないかと言われている。
手紙の内容については一切分かっていない。光秀とリグルは公的にも私的にも信頼関係にあり、光秀はリグルを信頼して仕事を任せる事が多かった事を考えると初陣のリグルが光秀に何らかの相談をしていたのではないか、と考える者もいたが根拠はない。
ただただ、結果としてリグルが騎兵の突破力を生かして突進して多くの戦果をあげたこと、この戦いの後二人は常に一緒に行動したということが分かっているだけである。

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最終更新:2011年07月17日 18:50