☆このページでは、霧雨の野望における真田昌幸について詳細に解説しています。
史実での真田昌幸について詳しく知りたい方はwikipediaなどの真田昌幸を調べてください

真田昌幸(さなだまさゆき)(天文16年(1547年- )

武田家家臣。
ACT56にて松平元康へのイヤミと藤原妹紅へのセクハラ発言で颯爽とデビュー。
知的な言い回しが小気味良いヒール役。父親譲りの軍略が家臣中でも有名な様子。
武田義信に稲葉山城攻略戦において勲功第一だった者に旧領の統治を信玄に掛け合ってもらえると約束されており、松平元康佐竹義重をライバル視している。

決戦2でえーりんに奇襲をかけるなど他の二人より目立っている。
ちなみに能力的には昌幸の方が高いのでさもありなん。(奇襲に影響する統率値は昌幸102、えーりん80)


☆出生・家族構成
父に真田幸隆、兄に真田信綱、昌輝、弟に信尹、高勝。
兄二人が討死したため家督がまわってきた。
子に真田信之真田幸村(信繁)。
ちなみに幸村が登場するのは1582年(立花宗茂や伊達政宗と同じ)。

☆官位・役職
下総守護

☆参加合戦




革新能力
統率97+5 武勇76 知略98 政治91+9 義理48
足軽S 騎馬B 弓B 鉄砲C 計略S
兵器B 水軍D 築城S 内政S

うp主解説
幸隆の子。表裏比興の者と伝わる知将。表では大勢力の間を渡り歩き家を保ち、
裏ではゲリラ戦を駆使し自領を堅守。家康をも恐れさせた男として名を残した。
息子幸村共々、家康という時代の流れに立ち向かった男として今も人気が高い。
信長の野望でも全作品で超高評価。戦争・謀略・内政どれをやらせても安心。
緑の人解説
知性と理論に親しみ、権威に盲従しない…長野県民の行き方の具現らしい。


東方風武将解説
「運命を変えたかもしれない程度の能力」
信玄から「わが眼」といわれるなど寵愛された人物。信玄の死後多くの大名家をたくみに渡り歩いたのは小勢力であったが故だろう。徳川との大きな戦いは上田にて2度行われていて事実上2度とも昌幸が勝っている。
第一次上田合戦は本能寺の変にて信濃における織田勢力が失われ、南信濃は徳川、北信濃は上杉がおさえた時に上杉側についていた昌幸に家康は兵7000を派遣。それを昌幸は2000の兵で散々に打ち破った。第二次上田合戦では秀忠の部隊38000に対して昌幸は僅か2000の兵で篭城して迎え撃ち、秀忠の部隊を関ヶ原に間に合わせなかった。
天下人家康に対して寡兵で見事に勝利を収めたのは名将といってよい。最期は九度山にて蟄居を命ぜられそのまま病没。武田家臣時代からの家康への復仇心を忘れなかったという。



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最終更新:2009年01月09日 16:22