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☆このページでは、霧雨の野望に関する名所・名跡を紹介します。

稲葉山城

後の岐阜城。築城は鎌倉時代に遡るが一度は廃城となり15世紀頃に再建。
戦国時代に入り道三以下斎藤氏三代がその居城とすると歴史の表舞台に登場。
「岐阜」は信長が大陸の故事にちなみ天下への大望を込めてつけた名とされる。
後の天下人・徳川家康はその名を嫌い関ヶ原戦後の1601年に岐阜城を廃城。
各種創作では難攻不落の名城として語られる事が多いが、史実ではなんと竹中半兵衛による電撃占拠も含めて6回も落城が記録されていたりする。
今の模擬天守は標高329mの位置にあり観光客は麓からロープウェイを使う。
資料館や展望台等が完備されており、史跡と言うより観光名所の性格が強い。

ちなみに最近の研究では『斎藤道三』は父子二人いた、とする説が有力になっていたり。
つまり、この説が正しい場合は稲葉山を支配した斎藤(長井)家は四代続いたという事に。
この血筋は長井道利の位置づけも未だはっきりしなかったり、まだまだ謎が多いらしい。

なお、最後の落城は関が原の合戦の時。城主は織田信長の孫、かつて三法師と呼ばれた秀信だった。
城兵二千五百は池田・福島らかつての織田系武将を先鋒とする東軍の攻撃によく防戦したが、衆寡敵せず敗退。
戦後、岐阜十三万石は没収されて秀信は高野山に送られ、織田宗家はここに断絶した。

清洲城

清洲は清須とも表記。築城は1405年。
室町時代には尾張の首府として栄えたが後に徳川家康によって廃城とされ中部地方の中心の座は名古屋に移る。
戦国時代には尾張守護代織田宗家の当主である織田信友が入城していたが、信長が奪い大改修を加えて本拠とした。信長死後の清洲会議の舞台でもある。
現在の清洲城は再建された模擬天守。しかし、櫓・門など当時の建築物は多くが移築再利用され愛知県内各地に残る。跡地・清洲公園は桜の名所として有名。
なお、尾張領内には太郎太刀の現存でも有名な熱田神宮がある。革新の全国一枚マップにはこう言った各地の名所が配置されていたりします。

いわずと知れた尾張守護代家、織田家の本城。ただし、信長の織田家は清洲織田家(=宗家)の家老を努める分家筋だったりする。そんな訳で結構有名な割に、信長の居城としては八年のみ利用されただけ。おのれ稲葉山。

吉田郡山城

安芸毛利氏の居城。築城は南北朝期。
元就の代には現在の郡山全域に及ぶ広大にして難攻不落の城郭が築かれ、尼子晴久率いる三万の大軍をも撃退。
やがて毛利氏が中国地方の覇者として繁栄を迎えると城郭もそれに伴い発展。
輝元の代には石垣や櫓なども築かれ毛利氏の本拠に相応しい偉容を誇った。
しかし戦国乱世が終息に向かうにつれて難攻不落ゆえの交通の不便が表面化。
以後、毛利氏の本拠としての役目は1591年完成の広島城に譲る事となった。

鎌倉幕府が後醍醐帝のクーデターで崩壊した直後、建武三年の築城とされる。
初代城主は毛利時親で、源頼朝の側近であった大江広元のひ孫にあたり、安芸へは地頭職としての赴任であった。
なお、毛利家は本来東国の豪族だが、北条時頼と三浦氏とが権力を争った宝治合戦で毛利氏が三浦氏方に付いた為、お家滅亡に近い状態になっていた所からの再起だった(NHKの大河『北条時宗』を覚えてる人もいるだろうか?)
どうも、明治維新までは天下分け目の合戦で負け組につくのが毛利氏のパターンだったらしい。

春日山城

越後上杉氏~長尾上杉氏の居城。築城は鎌倉期とも南北朝期とも。
謙信の父・長尾為景が入場すると長尾氏の本拠として大改修を施した。
乱世にいち早く対応したその城郭は、鉢ヶ峰の頂に構えた本丸を中心に山裾まで
曲輪や屋敷などをずらりとならべ山ひとつを丸ごと要塞化した物。
山城としては国内有数の規模を誇り難攻不落の堅城として名を残すが、
やはり天険ゆえに交通の便が悪く泰平の世にその偉容は残らなかった。
「天地人」の影響もあり人気の史跡だが本丸跡へと至る道はちょっとした登山。
歩き慣れていない人が観光気分で臨むと間違いなくバテバテになるのでご注意。

岩村城

築城時期は不明。岩村遠山氏の居城。城主・岩村景任が病没すると、
養子が幼少のため景任の妻であるおつやが事実上の城主となる。
武田方の将、秋山信友は岩村城の攻略にあたり懐柔、篭絡策を選択。
美貌でも知られたおつやの方を妻に迎えることで岩村城を開城せしめた。
おつやの方は信長の叔母でもあったため、この行為は信長の逆鱗に触れる事に。
後に信長が岩村城を奪還すると、秋山夫婦は逆さ磔の極刑に処された。
策謀だったのか、本当の恋愛だったのか、今となっては知る術は無い。
現在は日本三大山城に列され、立派な石垣が当時の面影を伝えている。

創建時期は不明だが、鎌倉時代には既に行政を行うための館程度の物はあったと思われる。
代々の城主は遠山氏であった。典型的な中世山城であったのだが、
後に川尻秀隆や森氏の家老の各務元正によって石垣造りに大改修された。
そのため、山城であるにも関わらず江戸時代にも藩庁として利用された珍しい城である。
遺構の多くは織豊時代のものだが、城の基本設計である縄張自体は戦国時代のものもかなり残っている。
本丸から眺めは戦国時代を感じさせる。
六段壁や本丸周辺の石垣など見所の多い城であるが、注目して欲しいのは石垣の積み方である。
野面積み、打ち込みハギ積み、切り込みハギ積みという三種類の技法が使われている。
これは、石垣が作られた年代が違うからである。
戦国好きで名古屋圏にお住まいの方は一度行ってみてはどうだろうか。
城好きならば半日を潰してでも行く価値はあるだろう。麓からでも25分ほどで登れてしまう。
虫の少ない秋の紅葉の季節にでも是非。