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☆このページでは、霧雨の野望における朝倉宗滴について詳細に解説しています。
史実での朝倉宗滴について詳しく知りたい方はwikipediaなどの朝倉宗滴を調べてください

朝倉宗滴(あさくらそうてき)(文明9年(1477年- )

宗滴は法名であり、本来の名は教景である。
ただ、朝倉家はわずか100年の間に五人もの教景が存在するという、大変カオスな家であるため、
区別のために宗滴となっている。
戦に興味のない当主・朝倉義景に代わり、朝倉家をまとめた老将。
怪しげな術で義景をたぶらかすアリスとは度々衝突したが、価値観の違いからいつも物別れに終わった。
しかし、後に援軍を率いて戦場に出たアリスには、ためらいなく背中を預ける。

仇敵・加賀一向宗をあと一歩のところまで追い詰めるも、能登を制した姉小路家にとどめを持っていかれた。
その後対姉小路において奮戦するも、大聖寺城・一乗谷城を失い、朝倉の滅亡を確信した宗滴は自害しようとする。
しかし、(文字通り「飛んできた」)頼綱の説得で、姉小路の軍門に下ることを決意した。

以後、姉小路の将として獅子奮迅の活躍を見せる。最前線のみならず、後詰めや挟撃といった援護もこなす智将。
また、足利攻めを控えた大馬揃えにおいては、朝廷との縁を買われ、公家の饗応役を任された。

足利将軍家攻略後は、越前衆の長として、摂津本願寺攻略、越中での対上杉防備にあたる。

ちなみに、史実では動画で活躍している武将の一代二代前の世代にからみのある人物が多い。
実如や証如(九頭竜川の合戦、後に加賀半国を切り取る)、浅井亮政(六角氏と結んで牽制、後に従属させたといわれる)、斎藤道三(稲葉山城下を焼き払う、後同盟を結ぶ)、織田信秀(美濃に援軍、侵攻してきた信秀を共に退ける)十二代将軍足利義晴(将軍が京を奪還する際に功多く、感状をもらう)、などなどである。
動画の活躍を含めるとAct.91で他者に厳しく自分により厳しい毛利元就から高評価されるのも当然であろうと思われる。

なお、彼の寿命は1555年で寿命ありだと開始早々没してしまうので注意が必要。年齢ネタは何度も出されているが本当に化け物じみている。彼の生まれた時にはまだ応仁の乱は終結しておらず、享徳の乱まっさかりであり、北条早雲もようやく駿河に下向する頃で、加賀に一向宗が本格的に伝えられ始めた頃でもある。要するに戦国時代がまだ始まっていない。一般に戦国時代が始まったとされる明応の政変時にはもはや元服していると思われるから、彼は戦国時代の始まりから終わりまでを現役として過ごすことになりそうだ。ちなみに決戦1の時点で登録勢を除いて霧雨の野望(シナリオ1)で最長老なのは志道広良の102歳である。彼は毛利家所属なのでそのうち登場すると思われる。
余談だが、朝倉家は寿命延長家宝があるため3年ぐらいは生存している場合がある。

☆出生・家族構成
文明9年(1477年)、7代当主・英林孝景の末子として生まれる。
当主であった朝倉義景は曾姪孫(そうてっそん、兄弟の曾孫)にあたる。
養子に朝倉景紀がいる。

史実では、1555年に病没している。

☆官位・役職
左衛門少尉(Act29:1562年3月~)
加賀守護(Act45:1564年7月~)
民部大丞(Act51:1564年12月~)
越前守護(Act54:1565年5月~)
侍従(決戦1・1568年9月~)

☆参加合戦



革新能力
統率96 武勇90 知略92 政治77+10 義理86
足軽A 騎馬A 弓B 鉄砲D 計略A
兵器A 水軍C 築城D 内政B
戦法:槍衾、先駆け、突進、斉射、罵声、鼓舞、威圧、混乱、籠絡、同士討
(Act93現在)

うp主解説
朝倉家一門。7代孝景の末子。一門でも随一の実戦派として、朝倉家を半世紀も支えた続けた
百戦錬磨の老将。その合戦観は「朝倉宗滴話記」に残る。シリーズ通して、朝倉家の看板。
今作では数値のインフレ傾向も手伝って、統率武勇知略全て90台という怪物に。
日本版スーパーG。

緑の人解説
曾祖父の五代教景の名を継いだ実質の朝倉家当主級の人物。猛将にして文人とも知られる教養人。
陣中で病に倒れ、臨終を迎えるときには「今死んでも悔いはないがあと3年は
生きたい。織田信長の行く末を見たい」・・・と予言を遺し死去。
戦術書「朝倉宗滴話記」にて彼はこう語ったと言われている。
「大将(略)聊かも弱々しき体を見せず言葉にも出すべからず気遣い、油断あるまじき事」
「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」

東方風武将解説
「三十倍相手に勝つ程度の能力」