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*美濃防衛戦 美濃防衛戦(みのぼうえいせん)は永禄9年に美濃稲葉山城で起こった武田家と姉小路家間の戦いである。 武田軍が日本史上で屈指の大敗を喫したことで知られる。ここでは美濃防衛戦の直後に行われた小牧山の戦いも解説する。 俗に第二次稲葉山城決戦とも呼ばれる。 **経緯 姉小路家は西へ勢力を広げつつも、武田家への備えとして美濃国そのものを鉄砲櫓によって要塞化して堅く守っていた。対する武田家は近畿への足がかりとすべく小牧山に出城を築いて姉小路家の隙をうかがっていた。 そのような情勢下、姉小路家の客将にして武田家当主[[武田信玄]]の父である[[武田信虎]]は寡兵5000で小牧山城に攻め寄せ、武田軍を挑発した。 この事態を放置すれば武田家の家名に関わる、と事態を重く見た小牧山城城主で西方方面一切を任されていた[[武田勝頼]]は信玄の信頼厚い参謀の[[高坂昌信]]と[[内藤昌豊]]に諮った。 内藤昌豊は信玄の判断で動くべきと意見したが勝頼は信玄の北上を妨げるわけにはいかないと退けた。 高坂昌信は信濃深志城にいる[[武田義信]]と連携をとって稲葉山城を攻めれば或いは落せるかもしれないと意見し、勝頼はこの博打的ともいえる策を採用した。 小牧山城と深志城の軍を合わせて武田家の保有する兵力の三分の一以上をつぎこむ大規模な出兵となった。対する姉小路家は62300が城に詰め武田軍に備えていた。 **参加兵力及び戦力評価 姉小路・稲葉山城兵総勢62300 迎撃部隊:足軽隊9500:[[武田信虎]]、[[蜂須賀正勝]]、[[羽柴秀長]](6月20日-7月5日) 弾幕部隊:鉄砲隊5000:[[霧雨魔理沙]]、斎藤龍興        鉄砲隊1000x2:[[滝川益重]]・[[小野寺輝道]]、[[中川清秀]]        弓隊3000x2:河尻秀隆、[[六角義治]]・関盛信、吉田重政(6月30日) 計略部隊:足軽隊5000:[[博麗霊夢]]、山崎片家、後藤高治(7月5日) 弾幕追加:鉄砲隊5000x2:[[羽柴秀吉]]、鵜殿氏長 ・武田信虎、羽柴秀長(7月25日) 姉小路家の騎馬隊や足軽隊は旧態依然とした装備であり、正面から戦えば勝負にならない。 ただし姉小路家は質量ともに日本一の鉄砲隊を組織しており、対武田のため整備が続けられてきた稲葉山城城塞もそれを最大限に利用できるよう作られた要塞である。 武田・尾張小牧山城兵総勢85156 [[武田勝頼]]:騎馬隊14000 [[高坂昌信]]:騎馬隊14500 [[内藤昌豊]]:弓隊9000 [[原虎胤]] :足軽隊9000 [[秋山信友]]:破城槌隊8500 [[上泉信綱]]:足軽隊8000 [[真田信綱]]:破城槌隊7000 [[榊原康政]]:破城槌隊7000 信濃深志城兵 [[武田義信]]:騎馬隊14000 [[真田昌幸]]:破城槌隊12500 [[木曽義在]]:破城槌隊6000 [[佐竹義重]]:破城槌隊6500 当然だが部隊編成の主力は武田の大騎馬軍団。装備が充実しており非常に装甲も厚く、馬ですら鎧を装備している。 また、多数の破城槌を備えており城壁を紙の如く打ち破ることも可能である。 //よく見ると破城槌が多い。騎馬隊は壁役の足軽隊突破が目的と推測。 **決戦 稲葉山城にたどり着く遥か前から武田軍は苦戦を強いられた。城下町へ至る街道沿いに鉄砲櫓が立ち並び、街道を通るだけで兵が削られた。 本来であれば一つ一つ鉄砲櫓を破壊していくべきであったが、鉄砲櫓と鉄砲櫓が各々連携するように作られており、一つを破壊するだけで相当な被害が予想された。 そこでやむなく鉄砲櫓を無視して城まで一気に駆け抜ける策に出たが、稲葉山城下にたどり着くまでに万を超える兵が脱落した。 城下も鉄砲櫓が乱立しており、その上[[武田信虎]]率いる足軽隊が足止めをした。足止めを受けている間も鉄砲櫓による銃撃を受け、また城内から多くの鉄砲隊や弓隊が出撃して信虎隊を援護したので、ここでも数万もの兵を失っている。 武田信虎の隊の被害がやや大きくなったので、信虎は一度稲葉山城に引き上げ篭城戦に移行した。 姉小路軍は少数の鉄砲隊弓隊を多数展開し、鉄砲櫓や城からの攻撃によって怯んだり足を止めた部隊を狙い撃ちすることで大きな戦果をあげた。 この頃に武田義信の軍も稲葉山城に駆けつけていたが、武田軍は既に兵の半数以上を失っていた。 武田義信隊所属で参謀である[[真田幸隆]]は劣勢を打破すべく奇策にうってでた。 彼は鉱山で働く金山衆に命じて稲葉山城内に通じる穴を掘らせた。 彼らは夜を徹して掘り進め、わずか10日で城内に通じる穴を掘りきったという。 その穴から侵入した武田軍は城内に火をかけ、城壁を壊すなど破壊工作を行った。 7月20日、城を守っていた[[蜂須賀正勝]]は混乱を鎮めて即座に穴を爆破するなど迅速に対応したが城が受けた傷は深く、もはや城とはいえないほどの惨状であった。 しかし、正勝は粘り強く守りを固め、出撃している弓、鉄砲隊や鉄砲櫓との連携で次々に武田軍の部隊を撃破していった。 この戦いでの弓、鉄砲隊の活躍は素晴らしかった。特に、大きく武田軍の部隊を削った[[霧雨魔理沙]]や[[滝川益重]]、そして剣聖[[上泉信綱]]を狙撃し重傷を負わせて後退させた[[中川清秀]]の功績は大きい。 結局、足の遅い破城槌隊が城に到着する前に武田勝頼率いる小牧山からの全軍と武田義信隊が全滅、8月5日に勝敗は決した。 **小牧山の戦い 破城槌隊は戦場に向かっていたが破城槌隊以外の全軍が全滅した報を受け急遽小牧山城に退却することとなった。 しかし、姉小路軍27000がこれを捕捉して全滅させてしまった。 8月25日、その余勢をかって小牧山城を攻撃した。小牧山城には7858の兵しか残っておらず、これを武田勝頼が指揮をしたが多勢に無勢かつ先の敗戦で士気も低く、1ヶ月ももたずに落城した。 姉小路・逆襲部隊28000 鉄砲隊9500:羽柴秀吉、霧雨魔理沙、斎藤龍興 鉄砲隊9000:博麗霊夢、羽柴秀長、中川清秀 鉄砲隊9500:武田信虎、小野寺輝道、滝川益重 **この戦いの結果 武田軍はこの歴史的大敗より全軍の三分の一、十万以上の兵力を失うなど非常に大きな損害を受け、歴史的敗北を喫した。 武田信玄率いる本軍は健在とはいえ、西方が手薄になり、北条家による尾張失陥を招くこととなった。 対する姉小路家は武田の脅威を退け、今後東方戦線に割いていた兵の多くを西国攻略にまわすことができるようになった。また、武田家を破ったことで姉小路家の武名は天下に轟く所となった。 だが、この勝利は結果として[[姉小路包囲網]]形成の原因となった。この包囲網の形成は武田軍の美濃へのさらなる大規模な侵略である[[稲葉山会戦]]を誘発することとなった。 //ゲーム仕様的に4家以上の非同盟国に接してないと包囲網は起こらないようです。 //兵力ってのはちょっとゲームの仕様的に思われたので改変。すでに起こったことへの予測についてはなるべく決定事項として直していきたいですね。 **逸話 この戦いで鉄砲隊や弓隊を率いていたのはいずれも姉小路家家中で腕に覚えのある上手ばかりであった。 よって互いの部隊をライバル視しており、競争が生まれ、さらによい結果に結びついたと言われる。 ちなみに彼らは一番功績をあげた者には全員から金一封という賭けを行ったらしいが、各々が自分の功を譲らずに勝負なしになったという。 敗戦の責を負って武田勝頼は武田姓を名乗ることを禁止され、諏訪勝頼と名乗ることとなり勘当同然の扱いとなった。 しかし、その後に勝頼に会った者は勝頼が以前よりも快活になって武技も軍の指揮もいっそう上達したことに驚いたという。いろいろなしがらみに囚われていたのだろうと考える者も多かったらしい。
*美濃防衛戦 美濃防衛戦(みのぼうえいせん)は永禄9年に美濃稲葉山城で起こった武田家と姉小路家間の戦いである。 武田軍が日本史上で屈指の大敗を喫したことで知られる。ここでは美濃防衛戦の直後に行われた小牧山の戦いも解説する。 俗に第二次稲葉山城決戦とも呼ばれる。 **経緯 姉小路家は西へ勢力を広げつつも、武田家への備えとして美濃国そのものを鉄砲櫓によって要塞化して堅く守っていた。 対する武田家は近畿への足がかりとすべく小牧山に出城を築いて姉小路家の隙をうかがっていた。 そのような情勢下、姉小路家の客将にして武田家当主[[武田信玄]]の父である[[武田信虎]]は寡兵5000で小牧山城に攻め寄せ、武田軍を挑発した。 この事態を放置すれば武田家の家名に関わる、と事態を重く見た小牧山城城主で西方方面一切を任されていた[[武田勝頼]]は信玄の信頼厚い参謀の[[高坂昌信]]と[[内藤昌豊]]に諮った。 内藤昌豊は信玄の判断で動くべきと意見したが勝頼は信玄の北上を妨げるわけにはいかないと退けた。 高坂昌信は信濃深志城にいる[[武田義信]]と連携をとって稲葉山城を攻めれば或いは落せるかもしれないと意見し、勝頼はこの博打的ともいえる策を採用した。 小牧山城と深志城の軍を合わせて武田家の保有する兵力の三分の一以上をつぎこむ大規模な出兵となった。対する姉小路家は62300が城に詰め武田軍に備えていた。 **参加兵力及び戦力評価 姉小路・稲葉山城兵総勢62300 迎撃部隊:足軽隊9500:[[武田信虎]]、[[蜂須賀正勝]]、[[羽柴秀長]](6月20日-7月5日) 弾幕部隊:鉄砲隊5000:[[霧雨魔理沙]]、斎藤龍興        鉄砲隊1000x2:[[滝川益重]]・[[小野寺輝道]]、[[中川清秀]]        弓隊3000x2:河尻秀隆、[[六角義治]]・関盛信、吉田重政(6月30日) 計略部隊:足軽隊5000:[[博麗霊夢]]、山崎片家、後藤高治(7月5日) 弾幕追加:鉄砲隊5000x2:[[羽柴秀吉]]、鵜殿氏長 ・武田信虎、羽柴秀長(7月25日) 姉小路家の騎馬隊や足軽隊は旧態依然とした装備であり、正面から戦えば勝負にならない。 ただし姉小路家は質量ともに日本一の鉄砲隊を組織しており、対武田のため整備が続けられてきた稲葉山城城塞もそれを最大限に利用できるよう作られた要塞である。 武田・尾張小牧山城兵総勢85156 [[武田勝頼]]:騎馬隊14000 [[高坂昌信]]:騎馬隊14500 [[内藤昌豊]]:弓隊9000 [[原虎胤]] :足軽隊9000 [[秋山信友]]:破城槌隊8500 [[上泉信綱]]:足軽隊8000 [[真田信綱]]:破城槌隊7000 [[榊原康政]]:破城槌隊7000 信濃深志城兵 [[武田義信]]:騎馬隊14000 [[真田昌幸]]:破城槌隊12500 [[木曽義在]]:破城槌隊6000 [[佐竹義重]]:破城槌隊6500 当然だが部隊編成の主力は武田の大騎馬軍団。装備が充実しており非常に装甲も厚く、馬ですら鎧を装備している。 また、多数の破城槌を備えており城壁を紙の如く打ち破ることも可能である。 //よく見ると破城槌が多い。騎馬隊は壁役の足軽隊突破が目的と推測。 **決戦 稲葉山城にたどり着く遥か前から武田軍は苦戦を強いられた。 城下町へ至る街道沿いに鉄砲櫓が立ち並び、街道を通るだけで兵が削られた。 本来であれば一つ一つ鉄砲櫓を破壊していくべきであったが、鉄砲櫓と鉄砲櫓が各々連携するように作られており、一つを破壊するだけで相当な被害が予想された。 そこでやむなく鉄砲櫓を無視して城まで一気に駆け抜ける策に出たが、稲葉山城下にたどり着くまでに万を超える兵が脱落した。 城下も鉄砲櫓が乱立しており、その上[[武田信虎]]率いる足軽隊が足止めをした。 足止めを受けている間も鉄砲櫓による銃撃を受け、また城内から多くの鉄砲隊や弓隊が出撃して信虎隊を援護したので、ここでも数万もの兵を失っている。 武田信虎の隊の被害がやや大きくなったので、信虎は一度稲葉山城に引き上げ篭城戦に移行した。 姉小路軍は少数の鉄砲隊弓隊を多数展開し、鉄砲櫓や城からの攻撃によって怯んだり足を止めた部隊を狙い撃ちすることで大きな戦果をあげた。 この頃に武田義信の軍も稲葉山城に駆けつけていたが、武田軍は既に兵の半数以上を失っていた。 武田義信隊所属で参謀である[[真田幸隆]]は劣勢を打破すべく奇策にうってでた。 彼は鉱山で働く金山衆に命じて稲葉山城内に通じる穴を掘らせた。 彼らは夜を徹して掘り進め、わずか10日で城内に通じる穴を掘りきったという。 その穴から侵入した武田軍は城内に火をかけ、城壁を壊すなど破壊工作を行った。 7月20日、城を守っていた[[蜂須賀正勝]]は混乱を鎮めて即座に穴を爆破するなど迅速に対応したが城が受けた傷は深く、もはや城とはいえないほどの惨状であった。 しかし、正勝は粘り強く守りを固め、出撃している弓、鉄砲隊や鉄砲櫓との連携で次々に武田軍の部隊を撃破していった。 この戦いでの弓、鉄砲隊の活躍は素晴らしかった。 特に、大きく武田軍の部隊を削った[[霧雨魔理沙]]や[[滝川益重]]、そして剣聖[[上泉信綱]]を狙撃し重傷を負わせて後退させた[[中川清秀]]の功績は大きい。 結局、足の遅い破城槌隊が城に到着する前に武田勝頼率いる小牧山からの全軍と武田義信隊が全滅、8月5日に勝敗は決した。 **小牧山の戦い 破城槌隊は戦場に向かっていたが破城槌隊以外の全軍が全滅した報を受け急遽小牧山城に退却することとなった。 しかし、姉小路軍27000がこれを捕捉して全滅させてしまった。 8月25日、その余勢をかって小牧山城を攻撃した。 小牧山城には7858の兵しか残っておらず、これを武田勝頼が指揮をしたが多勢に無勢かつ先の敗戦で士気も低く、1ヶ月ももたずに落城した。 姉小路・逆襲部隊28000 鉄砲隊9500:羽柴秀吉、霧雨魔理沙、斎藤龍興 鉄砲隊9000:博麗霊夢、羽柴秀長、中川清秀 鉄砲隊9500:武田信虎、小野寺輝道、滝川益重 **この戦いの結果 武田軍はこの歴史的大敗より全軍の三分の一、十万以上の兵力を失うなど非常に大きな損害を受け、歴史的敗北を喫した。 武田信玄率いる本軍は健在とはいえ、西方が手薄になり、北条家による尾張失陥を招くこととなった。 対する姉小路家は武田の脅威を退け、今後東方戦線に割いていた兵の多くを西国攻略にまわすことができるようになった。また、武田家を破ったことで姉小路家の武名は天下に轟く所となった。 だが、この勝利は結果として[[姉小路包囲網]]形成の原因となった。 この包囲網の形成は武田軍の美濃へのさらなる大規模な侵略である[[稲葉山会戦]]を誘発することとなった。 //ゲーム仕様的に4家以上の非同盟国に接してないと包囲網は起こらないようです。 //兵力ってのはちょっとゲームの仕様的に思われたので改変。すでに起こったことへの予測についてはなるべく決定事項として直していきたいですね。 **逸話 この戦いで鉄砲隊や弓隊を率いていたのはいずれも姉小路家家中で腕に覚えのある上手ばかりであった。 よって互いの部隊をライバル視しており、競争が生まれ、さらによい結果に結びついたと言われる。 ちなみに彼らは一番功績をあげた者には全員から金一封という賭けを行ったらしいが、各々が自分の功を譲らずに勝負なしになったという。 敗戦の責を負って武田勝頼は武田姓を名乗ることを禁止され、諏訪勝頼と名乗ることとなり勘当同然の扱いとなった。 しかし、その後に勝頼に会った者は勝頼が以前よりも快活になって武技も軍の指揮もいっそう上達したことに驚いたという。 いろいろなしがらみに囚われていたのだろうと考える者も多かったらしい。

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